第13話「陰謀の影、支えの灯」
東の港町に広がっていた疫病は、ようやく小康を迎えつつあった。
鍋の補水液を飲み続けていた患者の多くは熱を下げ、咳も和らぎ、ゆっくりと歩けるようになっている。
港を覆っていた恐怖は、まだ完全に去ったわけではない。だが人々の目には光が戻り、互いに手を取り合う姿が増え始めていた。
その様子を見守りながら、わたくしは深く息を吐いた。
「……これで最悪の波は越えましたわね」
隣に立つレオンが頷く。
「そうだな。お前の指示がなければ、この町は死の静寂に沈んでいたはずだ」
「皆が動いたからですわ。草も鍋も、人の手があって初めて効力を発揮するのです」
そう言いながらも、心の奥にはかすかな疲労が広がっていた。
連日の徹夜、鍋の火の調整、煎じ薬の配合、患者の記録。辺境で培った経験がなければ、とうに倒れていたに違いない。
だが、今は倒れるわけにはいかない。
――王都に戻れば、さらなる試練が待っているのだから。
その夜。港の広場で、民衆が焚き火を囲んでいた。
快復した者たちが歌を口ずさみ、子どもたちはまだ細い足で踊るように走り回っている。
その光景に、わたくしは胸の奥が熱くなった。
辺境で泥にまみれた日々、わたくしを嘲笑した貴族たちの冷たい視線。
すべては、この瞬間のためにあったのかもしれない。
「リリアーナ様!」
呼びかけられて振り向くと、かつて嘲笑したことのある商人の娘が駆け寄ってきた。
頬に紅が差し、手には布包み。
「これ、お礼です。母が作った干し果物で……薬草と一緒に食べると元気が出るって」
「ありがとう。あなたのお母様も、元気になられたのですね?」
「はい! 熱も下がって、今は台所に立っています」
娘は涙を浮かべ、深く頭を下げた。
「私、あの時リリアーナ様のことを“草娘”って笑ったんです。でも今は心から尊敬しています」
わたくしは包みを受け取り、柔らかく微笑んだ。
「笑われても構いません。けれど、救われた命があるのなら……その笑いは、いずれ感謝に変わりますわ」
娘の頬を涙が伝い、焚き火の光にきらめいた。
しかし、平穏の裏で影は動いていた。
王都。王太子の私室では、重苦しい空気が漂っていた。
机の上には地図と文書、そして封蝋された書簡が散らばっている。
「……リリアーナを、これ以上のさばらせるわけにはいかぬ」
王太子アレクシスは低く呟いた。
彼の周囲には忠実な側近たちが数名控えている。
「殿下。すでに王弟殿下の支持は薬草師に傾いております。民衆もまた、彼女を“救いの象徴”と仰ぎ見ております」
「わかっている! だからこそ……だからこそ、潰さねばならぬのだ!」
アレクシスの瞳は焦燥に濁り、狂気を帯びていた。
「辺境で拾われた草娘が、王都で名を馳せるなど、あってはならぬ! 王弟を救ったのも、偶然だ! あの女がいなければ……!」
彼は机を拳で叩き割らんばかりに打ちつける。
封蝋された一通の書簡を側近に投げ与えた。
「これを港へ送れ。――“薬草師は偽りを広めている”と」
その声は、冷たい刃のように鋭かった。
翌朝。
わたくしは港の仮設小屋で、患者の記録をつけていた。
症状は日ごとに軽くなり、快復者の名が増えていく。
「……よし。今日の鍋は蜂蜜を多めにしましょう。子どもたちの力になるはずです」
紙に筆を走らせていると、扉が荒々しく開かれた。
兵のひとりが駆け込んできたのだ。
「リリアーナ様! 王都からの文が届きました!」
羊皮紙を受け取り、封を切る。
そこに記されていたのは――
『薬草師リリアーナ、虚偽の噂を広め、王都を惑わす。
民衆の支持を不当に集め、王家を危うくしている。
直ちに裁きを行うため、王城へ召喚す――』
文面を読み終えた瞬間、周囲の空気が凍りついた。
患者の家族も、兵も、町人も、一斉にわたくしを見つめている。
「……虚偽、ですって?」
思わず呟いた声が、やけに乾いて響いた。
その時、王弟殿下が杖を突きながら現れた。
「虚偽だと? 笑わせる。私の命を救った者を、虚言で陥れようというのか」
殿下はわたくしの肩に手を置き、周囲に告げる。
「皆、見たであろう。リリアーナがどのように動き、どれほどの命を救ったか。これは王都の策謀だ。彼女を守るのは我らの務めだ」
その声に、兵や町人が頷き、口々に叫んだ。
「リリアーナ様を守れ!」
「嘘を言っているのは王都の方だ!」
群衆の声が波となり、広場を揺らした。
その夜。わたくしは仮設小屋の片隅で、殿下とレオンに向かって言った。
「……再び裁きの場に立つのですね」
殿下は静かに頷く。
「そうだ。だが前とは違う。今度は民衆も証人となる。君を見た目はずかしめるための舞台が、逆に兄上を追い詰めることになる」
レオンは剣の鞘に手を置き、低く言った。
「王都は必ず仕掛けてくる。暗殺でも、偽証でも……。だが、俺が必ず守る」
わたくしは二人を見て、深く息を吸った。
「ありがとうございます。……ならば、恐れるものはありませんわ。草は踏まれても芽吹きます。――そして、必ず花を咲かせる」
窓の外、夜空には雲間から星が瞬いていた。
嵐の前の静けさに過ぎないと知りながらも、その光は確かに未来を照らしていた。




