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記憶の水脈  作者: Patching a Poet
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水面の彼方

 雨粒が頬を濡らすとき、心の奥底で微かに震えが走るのを覚える。

 冷たい水の渦中に漂う無数の短編。誰かの残した笑顔ひそやかな嘆き静かな涙の音。それは波紋となって広がり、時空の壁を薄く裂き、過去と現在の間に私を誘った。その暖かさと冷たさの合間で、私は水の記憶の一片でありたいと願った。


彼女の一日

 朝六時。アラームの音に押し出されるように目を覚ます。昨夜遅くまでパソコンに向かっていたせいで体は重い。冷えた床に足を下ろすと、一瞬、自分の体がきちんとそこにあるのかどうか不確かになる。

 台所で電気ケトルを沸かし、ヨーグルトをスプーンで口に運ぶ。味はあるのに、舌がそれを受け止めていない気がする。スマートフォンの画面を流し見しながら、今日という日が昨日とどこまで違うのかを考えるが、考えはすぐに曖昧に溶けていく。

 通勤電車は混んでいる。肩や背中が他人の体温に触れているのに、そこに人間がいる気配は薄い。窓に映る自分の顔は眠たげだが、その表情が果たして自分自身のものか、確信が持てない。

 会社に着けば、仕事は待ち構えている。メールを返し、会議に出席し、資料を直し、電話に答える。繰り返すうちに、自分が機械の一部のように思えてくる。昼食のコンビニのサンドイッチは、もはや咀嚼の対象でしかない。

 午後、会議室の窓から外を見たとき、雲の切れ間に光が差していた。その一瞬の眩しさが、胸の奥をざらりと撫でた。だが誰にもその感覚を話すことはできない。忙しさに紛れて、光はすぐに過去になる。

 退社の頃には、街は暗い。駅までの道を歩く人々の顔が、すべて同じ型で鋳造されたもののように見える。

 夜九時過ぎに帰宅し、コンビニの惣菜を袋から出す。容器を開けると漂う油の匂いが、心を遠ざける。味を確かめる前に、口だけが勝手に咀嚼している。

 食後にスマートフォンを手に取る。SNSには楽しげな写真や誰かの幸福の断片が並んでいる。指先で画面を滑らせながら、ふと「自分が画面の外にいるのではなく、むしろ画面の内側に閉じ込められているのではないか」と思う。

 浴室の照明は白く、壁のタイルを均一に照らしていた。光は反射し、微細な水滴を際立たせる。彼女は扉を閉め、静かに衣服を脱いだ。布は畳まれて棚に重ねられる。その仕草は控えめで、しかし整えられた秩序があった。

 蛇口をひねると、金属音ののちに水流が落ちる。掌を差し出し、熱を確かめ、納得したように全身を浴びせる。水は一気に髪を濡らし、首筋から背中へ、さらに腰を伝い落ちた。温度は一定で、肌に広がり、筋肉の上を滑る。滴は足元で散り、音を立てながら流れ去った。

 シャンプーを掌に取り、泡を立てる。指を髪へ差し入れると、頭皮を押し広げるように感覚が伝わる。泡は髪に絡み、白い膜のように広がった。すすぐと、水と混じり、柔らかな抵抗を残して消える。流れ落ちる泡が肌をかすめ、その一瞬ごとに細い冷たさが残った。

 石けんを馴染ませ、肩から腕へ、胸、腹部、脚へと順序を保ちながら洗い進める。泡立ちは滑らかで、指先に触れる自らの肌の感触が確かに伝わった。水を浴びるたびに泡は薄れ、溶け、わずかな粘りを残して去っていく。その一連の感覚の連なりが、彼女の意識を占めていた。

 浴室の空気は温かく、呼吸のたびに胸の奥まで湿度が届く。鏡は曇り、輪郭も姿も失われていた。彼女は最後にもう一度、両腕に水を流し、表面をなぞるように確かめてから蛇口を閉じた。

 水音が途絶え、換気扇の低い唸りと、滴の間断ない音だけが残る。タオルで首筋を押さえ、腕や脚へと進め、濡れた髪も掌で絞り取ってから布に包んだ。布地の繊維はしっかりと水を吸い取り、彼女の肌に柔らかい抵抗を与えた。

 扉を開けると、外気が一気に触れ、濡れた肌はわずかに収縮した。彼女は小さく息をつき、足跡を残さぬよう注意深く歩を進めた。その仕草には静けさがありながら、身体の輪郭がかえって鮮やかに浮かび上がっていた。

鏡の前で髪を乾かす。

ベッドに横たわると、外から車の音が絶え間なく聞こえる。その音がまるで同じ場所をぐるぐると回っているように聞こえ、眠りに入る直前、今日一日が終わったのか、それともまだ続いているのか、確かではなくなる。


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