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記憶の水脈  作者: Patching a Poet
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川辺の声

 夢の中で、川辺に立っていた。水は漆黒の鏡となり、月光を吸い込み、怪しく揺らめいていた。水面の奥底から無数の瞳が開き、私を捉えようとうごめく。そして低く重く冷徹な声が響いた。「戻れ。戻れ」

 私は立ち尽くし、ただその無数の瞳を見下ろしていた。


彼女の一日

 朝六時。アラームに押し出されるように目を覚ます。布団の中の温もりを断ち切るのは容易ではないが、時間は待ってはくれない。冷えた床に足を下ろすと、台所へ向かう。

 電気ケトルで湯を沸かし、ヨーグルトをスプーンですくう。味は確かにあるのに、頭に残らない。ニュースアプリを指で流しながら、今日は昨日と違うのかを考えるが、答えは曖昧なまま消えていく。

 通勤電車は混み合っている。吊り革につかまりながら窓に映る自分の顔を見つめる。そこにある表情は確かに自分のはずなのに、今の気分と微妙に噛み合わない気がした。周囲の人々もまた、どこか似た顔に見えてくる。

 オフィスに着くと、仕事は容赦なく押し寄せる。メール、会議、資料、電話。どれも日常の連なりだが、繰り返すうちに自分の声や文字が少しずつ擦り減っていくように思える。昼はコンビニのサンドイッチで済ませる。噛みしめる感触だけが確かで、味はすぐにぼやけた。

 午後、窓の外を見ると、濃い青の空に雲がひとつ浮かんでいる。何度も見たはずの空なのに、そのときだけ異様に鮮やかで、目を離せなかった。だが背後の声に呼ばれ、すぐに現実へ引き戻される。

 退社の頃、街は暗い。駅へ向かう群衆に紛れながら、思考停止で歩く。

 帰宅は九時を過ぎる。玄関の灯りをつけると、部屋の空気が少し遅れて動くような感覚がある。夕食はコンビニの惣菜。容器のふたを開けると、油の匂いが一瞬強く立ち上り、すぐに消えた。

 食後、スマートフォンを手に取る。SNSには他人の幸福の断片が流れていく。指先を止めたとき、画面の光に照らされた自分の指が、まるで別の誰かの手に見えた。

 浴室の照明は白く、影をほとんど作らなかった。光は均一に広がり、タイルの目地や水滴のひとつひとつを細かく浮かび上がらせている。彼女は扉を閉めると、静かに衣服を脱いだ。布地を乱雑に投げることはなく、きちんと折り畳み、袖と裾をそろえて棚に置く。その所作には急ぎも緩みもなく、ただ繰り返される習慣の一部としての確かさがあった。

 蛇口をひねると、短い金属音が響き、やがて一定の水流へと落ち着く。彼女は掌を差し出し、温度を確かめた。納得がいくとシャワーヘッドを元に戻し、全身に水を受ける。髪はすぐに濡れ、肩から背へと水が滑り落ちる。滴は足元で跳ね、床を伝って排水口へ吸い込まれていった。

 彼女は髪をかき上げ、シャンプーを掌に取る。分量はいつも変わらない。泡立てて髪に馴染ませ、指を頭皮に差し入れる。耳の後ろ、襟足、頭頂へ──順序は決まっており、欠かすことはない。泡が十分に広がったと判断すると、再びシャワーを手に取り、流し残しがないように丁寧にすすいだ。白い泡は、流れ落ちる途中で細くちぎれ、床に散り、やがて排水口へと消えた。

 石けんを手に取り、掌に馴染ませる。肩から腕、胸、腹部、脚へと、順序を守って洗い進める。泡は滑らかに広がり、やがて水に溶けて消えた。彼女の動作には余計な揺らぎがなく、一つひとつの仕草が定められた型のように整っていた。

 浴室の空気は熱を帯び、鏡は完全に曇っていた。そこに映るはずの姿は見えず、ただ白い膜が広がるばかりだった。彼女は最後にもう一度、両腕に水をあて、温度を確かめるようにしてから蛇口を閉じた。

 水音が途絶え、換気扇の低い唸りと、滴の落ちる音だけが残った。彼女はタオルを手に取り、首筋から押さえるように拭いた。腕、脚へと進み、水滴を残さぬように丹念に。濡れた髪も無造作には扱わず、掌で水を絞り、滴が落ちにくくなってから布で包んだ。

 扉を開けると、冷たい空気が肌に触れた。彼女は小さく息をつき、足跡を残さぬよう注意深く歩を進めた。その仕草は静かで、どこまでも整っていた。

鏡の前で髪を乾かす。鏡の中の自分は確かに同じ動きをしているが、目の奥だけがわずかに遅れている気がした。気のせいだと笑い飛ばそうとするが、その笑いは続かない。

ベッドに横たわると、外から車の音がかすかに響く。その音はただ遠ざかるのではなく、一定の場所を何度も往復しているように聞こえる。瞼を閉じながら、今日が終わったのか、それともまだ続いているのか、わずかに曖昧になる。


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