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虚の機繰  作者: 浮海海月
金星のセレナーデ
30/40

30.環の上のロンド

 魔力は盛り、剥き出しの刀を覆う。曝け出した敵意に布は着せず、本心から殺りにいく。

 それに対抗するのは煌々とした冷刃。

 真っ直ぐにオッドの下へは走らず、本棚に手を突っ込んで幾らか掻っ攫っては投げ飛ばす。

「思いの外冷静…か」

 舞った本はオッドの視界を塞ぎ紅葉の影を隠す。

 右か、左。選択に迫られる。

 しかし、足元に見えた影は。


 背表紙を貫いた刀身が露わとなり、額の高さで直進。数々の本は落ちて刀のそれだけが未だ宙にいる。

(真正面から来たか!)

 身体を仰け反らせれば刀は誰を貫くこともない。

 伸びた腕は追撃とばかりにオッドを追う。白刃、心臓に届くことなく、赤いネクタイの前で小刻みに震えながら制止される。

「死んどけよ、そこは」

 目の前に映る三日月が嫌に腹立たしい。こいつの柄さえなければ心臓に手が届いたのに。

「君がそう思わせてくれたなら、殺されてあげようか」

 グリンと半身を捻って繰り出した蹴りは紅葉の脇を刺して飛ばしていく。本棚を一列二列、三列と突き破ったところで勢いは減退、落ちて来た本を被る。

 空いた穴を触腕が塞ぐ。

「大人しく見ていろよ」

 触腕は何も語らぬままに蠢いて投擲物を飛ばす。物は少し厚めで魔力を纏った本。それと自身の腕の数々。

 文字通り、手数ではサカズキの方が上。先手を取り、有利を取る。

 オッドの仮面が嘲りから呆れに変わったように見えた。

 大鎌は風切り音を奏でながら回転し、投擲物を切り裂く。触腕の攻撃の数々も全くといって彼の身体に触れることはなく弾かれていく。

「そう言うわけにはいかないでしょ。仮にも目の前で子供が怪我してるんだから」

 八本の足が先っぽを緩く巻いて引き絞られる。足足言ってるが扱いは完全に腕、いや言うほど足とは言ってないか。

 対に控える男も静かに大鎌を構える。姿勢は高く胸を張って、油断も隙も見せない。いつでも両の手で握れる位置に左手を控えている。

「非道いな。自らを正当化するために怪我するまで見て見ぬ振りをするなんて」

 二人の距離がジリジリと近づく。

 そして、止まる。

 丁度ここが二人の間合い。ここから先に踏み込めば一触即発、打ち込み合いだ。

 触腕、再度引き絞られ狙いを定かに。獲物を狙えばバクリと喰らいつけ。それが捕食者たる所以。

 三日月、微動だにせずただそこにあるのみ。捕食者の睨みになぞ意に介さず、独り妖しく照らすまで。

 いざ、いざ、いざ尋常に…

 勝「ブーーーッ!」

 振り抜かれた鎌が捉えたものは、強いて言うなら黒い霧。少なくとも手応えはなく、宙を斬った感覚しか残らない。

「墨か!」

 普段から真っ黒な服を着ているからあまり目立たないがネクタイやら金糸はしっかりと黒ずんでいる。

 そして、イカだかタコだか知らないがあの触手だ。墨で違いないだろう。存外に目眩しになる。

 魔力を散らし降りかかった墨を散らす。

 眼前に迫るのは魔力を帯びた本。目視出来るだけでも二十はある。

 イカ足を巧みに使って本棚に吸いついて敵の頭上に移動。手数をふんだんに利用して本を投げ飛ばす。

 厚さのせいか紙が集まっただけにしては思いの外手応えがある。

 回転する大鎌が叫んでいる。身体を翻して斬り損ねたものを躱して、鎌を回して散り散りに。

 鎌は回転を続け、本は飛翔を続ける。

 ただし、回す手は片手。もう片方といえば胸元に。


 彼の胸元にはアレがある。

 53枚ワンセットのアレが。

 薄ら笑いの仮面が歪んで見える。

「スペードの…」

 カードを投げようとした手が不自然に止まる。いや、正確にいえば不自然にカードを手放した。

(これは…?)

 投擲物、本なら全て斬り裂いて近づかせなかったはずだが、手首の辺りに鈍痛が走っている。

 上を見ても影は一つ。

 一つは本を投げるイカ足男。

「不可視の弾か!」

 彼の魔力探知に引っ掛かったのは紅葉のそれが象った弾丸。『虚無』によって創られた人の目に映らぬ弾丸。

 それが本の影に潜んでいたのだ。

「『柱』」

 不可視の柱は生える場所を問わない。例え歪んでいようと、本棚の中であろうと。

 先ほどのとは異なり、魔力を負わないものが落下する。

 視界の端々が塞がれる。


 落下する影に一つ大きなもの。殺意を隠しきれないそれは大鎌により堰き止められる。衝突し互いの魔力が散るのも束の間、刀からするりと手が離れ深く潜る。

 背後から忍び寄るイカ足の乱打が気を引いている。

 両の手は床につけて繰り出すのは、低姿勢から繰り出す人の知らぬ角度からの躰道の捻体半月当て。

 鎌を振るった後のオッドには効果絶大だった。事実、イカ足の相手をしていたのもあるがそれでも防御体勢に入るのがいつもよりほんの少し遅れた。だが、ほんの少しが致命的。蹴りは彼の脇に深く突き刺さる。

(硬い…距離離したけど大したダメージにはなってない。それでも体勢崩した今がチャンス)

 追撃とばかりに距離を詰める。刀はどこかに行ったまま、丸腰で。

「ッバカ!」

 サカズキに焦りが見える。いや、それよりも紅葉に正気が見えないのか。瞳孔が開き切ってるこいつを丸腰で戦わせれば文字通り、必死。

 イカ足が制止に入るよりも前にオッドが動く。

「スペードのQ(クイーン)

 鎌が捉えたのは紅葉の体。

 床に落ちたカードが光れば刃を隠さない女王がサカズキの前に。目が包帯に巻かれているが緩く巻かれたゴールドの髪や顔立ちからその美貌が伺える。首を抱えてさえいなければ。

断頭台(女王の死地)

 気づいた時には首が断頭台に提げられていた。首を抱えた女王が広く拡がったスカートを引き摺りながら接近してくる。

 踠く。どうにか外せないか、どうにかして逃げれないか。

 一歩、また一歩。サカズキの前に来て立ち止まる。

 踠く、踠く。

 女王の片手がギロチンに添えられる。

「あーもうッ!」

 イカ足を巧みに使い枷を破壊し脱出した直後に刃が落とされる。落とされるというより叩き落とされるの方が近いか。

 はぁ、と一つ大きな溜め息を吐く。そして再度自分が相手をしないといけない人を確認すれば、片や落ち着きを忘れた暴走列車、片や首無し首斬り女王様。メンドウと言わざるを得ない。

「はぁ、まったく…」

 姿勢低く、拳を握りしめてイカ足を張り詰めて的を絞る。足に込めた力はいつでも放てる、いつでも出れる。

 目線の先に彼女を捕らえる。

 何を隠そう、彼は捕食者なんだから。

「お転婆が過ぎますよ、女王様」

 眼光は鈍く光る。




 視界の中で本が沈んでいく。沈んで、沈んで、沈んで…

 沈まない。

 それはあまりにも遅くて、羽なんじゃないかと思える程に。

 身に余る全能感。全身で絶え間なく沸き立つ魔力がそうさせるのか、この極限の視界の中だからこそそう思えるのかは知らないが、今ならなんでも出来る気がするしなんにでもなれる気がする。

(右上からの大振り、左からの薙、そのまま柄、蹴り、右の切上げ…)


 嗚呼、やけに遅いな。


 あんなに速かったのに、軌道までしっかり視える。



 意識しなきゃ視えなかったものも、しても視えなかったのも全部が。




 一つ一つ、全部処理できる。





 斬撃は掌やら手の甲やら、脚を使って巧みに流す。明確な隙には正拳を打ち込んだり、蹴りを放ったりとしてやる。

(速い…!だが、技術が乏しいのに変わりはないか)

 ぐいんとオッドの速度が上がる。

 今の紅葉と対等に張り合える速度までボルテージが上がる。

 金属音が唸って火花を散らす。何度も何度も衝突しては離れてを繰り返す。次第に衝突の頻度が上がっていき、その度魔力が飛散しては照り輝く。

 鍔迫り合いから流れるようにオッドの左脇の方へと抜けて脇腹へと斬撃を放つも、勢いを利用した後ろ回し蹴りによって姿勢が崩されたせいで掠りもしない。

「『弾丸』」

 なんとか持ち直した紅葉の背後からオッドへと幾百の不可視の弾丸が放たれる。

 それも魔力探知さえ出来れば別に怖くないのだから、一つ残さず叩き落とされることになるが、弾丸を撃ち込みながらの斬撃を受け切るのは紙一重にはいかない。否、いかせない。

 右薙の鎌を不可視の柱が止めて、反対方向から右切上げを打つ。瞬間、左脇から血が噴き出す。

「集中しすぎ。もっと視野は広く持たないと」

 ピアノ線に繋がったジャックナイフが胸骨をも貫いていた。紅葉の意識に刹那、逡巡の間が開く。時間にして一秒にも満たないそれは現在の二人にとっては致命的で―――


 胸元から右の脇腹にかけて大きく切傷が開く。身体は未だ斬られたことに気付いてもないのか血が流れない。視界に映らない柱ごと蹴り飛ばされて本棚と衝突して倒れ込む。ようやく血が流れ出した。

 胸元からチラつくのはトランプカード。

「ハー…との…」

 言うよりも早く、カードは不運なことに捲られる。

「良い線は行ってたよ。ハートの9だ」

 九連の爆発が紅葉を巻き込む。



 煙から姿を現したのはイカ足。爆発から紅葉を守ったのか少しくすんで見えるそれがオッドを捕らえようとして弾かれる。

(潰してきたか!)

 少し奥を見やれば消失が始まり、塵となりつつある首の無い女王の姿。真正面には何度枷に嵌められたのかわからない程に首に跡のついたサカズキ。

 触腕のうち六本は何かを抱き抱えるようにして動かさないが四本、その中でも特別長い二本が蠢いてオッドに向かう。

 身体を反らして躱して、三日月に沿わせて流して、ジャックナイフで切り付けて、三日月で傷を付けて。

 吸盤が吸い付いて放さずに、鉤爪を持ったそれが傷つけて、鞭打って、物を投げて。

「ほんっと全然当たってくれないね。どんな腕してるんだか」

 本を巻き込みながら足を薙ぎ払った一撃は片手で軽々しく受け止められる。ここまで来るとショックを通り越して言葉も出てこない。

「その言葉そっくりそのままお返しするよ、四半獣人」

 鎌を宙に放り投げたかと思えば、手をを足に沿わせサカズキへと走り来る。それを残った三本の足で迎撃するが刹那にも満たない遅れを作ることしか出来なかった。

 ほんの一瞬の隙。

 極限の視界の中にいた彼らだからこそこれは大きな命取りとなるのであって、サカズキにとってこれはただの誤差の範疇に過ぎない。つまりは、意味がない。


 ―サカズキにとってはね


 オッドの上から何かが落下する。咄嗟の判断で受け止め、放り投げることに成功したが問題はそこじゃない。

(不可視の物質!これは…!)

 背後にある未熟さが見える魔力の塊。

 本棚の一部が切り崩されそこからまた何かが突出してくる。おそらくは柱と弾丸、それらが容赦なく襲いかかる。無差別に容赦無く、だ。サカズキに当たる心配はしてないのだろう。何せまたイカ墨吐いて姿を眩ましたのだから。

(あそこから一歩として動く気配がなかったのはこの為か!私が開けた穴を神河紅葉を守る為のスペースとして扱ったと思わせるための(ブラフ)!)

 何処かで優しい顔が妖しく笑う。

「悪党同士、化かし合ってなんぼでしょ」

 本棚が切り崩され、人一人が裕に通り抜けられる程の穴が開き飛び出てくるのは無論、流麗銀髪が朱の瞳を宿した少年。

 技術こそは甘いとこばかりが目立つが、速度でなら他を圧倒出来る。さっき同等の動きをしてたって?知ったことか。今なんとかなってるんだ、どうでもいい。

 超至近距離での戦闘。鎌を手放した相手が手に持つジャックナイフ、これで刀を相手取るかと思えば最早ナイフを扱うことはなく、寧ろ組み手のようにしていなすのだ。

(刃が折れている。それもそのはずだが、コイツ…やはり気が狂っているんじゃないか?)

 折れた刀でこれだけの大立ち回り、これを異能戦に触れて早三ヶ月の子供がやってのけたことが何よりも彼の気を引いた。

 いつしか放り投げた赤く染まった三日月が奇術師の手の内に帰還する。仮面の内で誰かが嗤う。

「面白くなってきたね」

 悍ましい魔力を帯びた鎌が車輪の如く回転する。折れた刀やら手やら足やらとぶつかる度に回転の方向を変えながら着実に紅葉を削る。

「勝手に盛り上がってんなよ」

 紅葉の左切上げ、間合いの変わってしまったこの刀では一歩引けば問題無し。これが紅葉でなかったらな。


 届かぬはずの刃はしかとオッドの身体を捉えていた。

「虚無の刀か…!」

 網膜に像を結ばないそれが確かに敵を斬り裂く。



 人は外界の情報のおよそ八割を視覚に頼っている。それはどんな達人であろうと同じ事であり、どれだけ第六感に近しい物を鍛えようと視界の中に捉えたものであればそれ以上の情報処理が行われることは限りなくあり得ない。


 魔力探知はあくまで大雑把な方向を探るもの、魔力はどこまで行こうと視覚的なものにはなり得ないもの。

 そして紅葉は『虚無』を独立した何かを創ることにしか使ったことはない。



 これらの全てがオッドの脳内から『虚無による付け焼き刃』という選択肢を排除していた。

 繰り出す斬撃に一切の躊躇いなし、守りを捨て攻めの一点を貫く。これでもまだ受け切られるのだから意味が分からないな。

「う、おおおお!!」

 サカズキの叫び声と同時に本棚が大きく音を立てながら倒れ始め、影は二人の方へと伸びていく。

 この最中でも二人の視線は交錯し刃を交える。激しく散る火花は刀のないところでも、生傷が増えるのは幼い方。

 影がより暗く、大きく迫る。

「クラブの4」

「残念、スペードの2だ」

 取り出されたカードは剣を紅葉へと放ち、ペナルティとして四回槌が振るわれる。

 それらを全て捌いてオッドへ刺突を穿つもひらりと躱されそうになって、イカ足がそれを妨害する。刀は狙いより若干逸れたが奇術師の右肩を貫いた。

「いい加減、ダメージがないのは見飽きたでしょ」

 離れた光の中に立つ男が二人を見つめる。その顔はものの数秒もしないうちに険しい物のに移り、傷つけられた触腕を引く。

 影は今やシャンデリアの光を防ぎ、ガラガラと音を立て二人の頭上、そのすぐそこまで迫っていた。



 迫る壁に二つの穴が開く。一つは床近く、二人のいた丁度真横付近。もう一つは二人のいた丁度真上に位置する場所。

 そこからそれぞれ一つの影が飛び出す。少年は下から壁を走り奇術師へと、対して彼は上から子供へと走る。

 紅葉が上げた叫び声がだだっ広い図書室を満たす。

 極大の二つの魔力がぶつかって、混ざって部屋を不気味に充満する。

「二度も同じ手が通用すると思うな!」

 折れた刀を弾き飛ばして、見えない刀を繋いだ鎖を掴んで目一杯に引き寄せる。

 鎌と蹴りがぶつかって衝撃波。シャンデリアを彩る硝子一つ一つが揺れて、本が浮いて弾けて。魔力の燃え滓が部屋の隅で黒く暗く佇む。

 あの仮面だけがこの部屋で唯一嗤っていた。



「オマエが!オマエさえいなければ!俺ワ゛ッ゛!」

 本棚二列分煙立てながらぶっ飛んでぬめり気のある例のあれに抱えられて偉そうに踏ん反り返る。実態は尻もちついてるだけだけど。

 サカズキもちょっと前まであった止めるべきなんて迷いももう消えていて―

「もう一回!行ってらっしゃい!」

 十本の腕で背中を押す。

 さっき通った穴をもう一度通り抜けてあの男へと。手に持つのは見えない三又槍。このまま刺し殺してやる。

「ハートのA」

 頭上で爆発が起きて部屋が暗闇に包まれる。

 硝子の雨が降り注ぎ、図書室の太陽が堕ちる。

 人の身体は急な環境の変化に弱く、目も当然のように制限を受け、暗順応に時間を奪われる。

 要するに、極限の視覚を持つ紅葉の視界でさえも一時間程度の暗闇に変わり果てた。

 対してオッドは精巧な魔力探知を持ち、紅葉の位置を把握しているどころか、物質が持つ微量な魔力をも知覚している。

(なんだ?何が落ちてきた?ガラスと…そうかシャンデリアか!ああ、クソ!紐が絡まって動きづらい!)

 下敷きになることはなかったものの飾りの紐が絡まって拘束する。取ろうと踠いている間に隣に白黒ツートンの仮面、赤い三日月。

 シャンデリアごと吹き飛ぶかと思えばそんなことは無く、ぶつかったのは寧ろ柔らかい何かで、斬られたのもその何かで。

「十二分の四でやっとこれかあ。気が遠くなって来ちゃうな」

 イカは水棲生物内でもトップクラスの視覚を持ち、色の識別こそ出来ないものの光の強弱―明暗―、そして偏光―反射―を正確に検知することが可能である。イカの特徴を持つ獣人であるサカズキにとって暗所での活動に何の問題も無し。

「モミジくん。僕の攻撃じゃ彼にまともに通じないから、君のサポートに全力で行くよ」

 言うが早いか残った六本の触腕を上下左右に蠢かせて敵を狙い、紅葉は倒れ行く本棚の上を疾走する。サカズキも出し惜しみは無しだ、縦横無尽に動き回る。問題は紅葉が敵を認識出来ていないこと。ならばそれをどうにかしてしまえばそれで御役御免。

 ここに来ての超至近距離。オッドの速さに文字通りの手数で相対するも、それもジリ貧。いずれは押し負ける。

 手足を捕縛、側頭への蹴りを膂力だけで振り払った右手で防がれる。

「小賢しい!」

 顔面を掴まれて叩きつけられる。それでも触腕は放さなかった。放してたまるものか。宙吊りになりながらでも全力で掴んでやる。


 ()()は誰にも見せたことがなかった。別に最終手段は教えない主義でもないし恥ずかしかったわけでもないけど、特別使うような場面もなかったし使えるようなものでもなかったから。みんなにも、猿川くんにも教えたことはない。

 小賢しい上等。それが小悪党ってもんでしょ


 触腕が一斉に発光し、仄かな冷光(ひやかし)が彼はここだと伝える。

「僕は主人公(ヒーロー)がやられっぱなしの場面に納得いかなくってさあ」

 分銅鎖がオッドの右腕を捉える。またさっきと同じ様に引き寄せる。

 引き寄せた先に人影はなく、人型の重しが付いてるだけ。

 ここは何処だ?倒れる本棚か?

 足場ごと敵影に向かって抜刀。ガン開きの瞳孔で仄かな光に包まれた奇術師を捕捉。

(サカズキさん、ありがとうございます。オレにそんな資格はないけど)

 過ごした時間は長くないし、言うこともあまり聴かなかったし、挙げ句にはこの始末。それでも主人公(ヒーロー)と呼んでくれた。

「ウアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 勢いそのまま回転してもう一度。今度はその首に狙いを定めて。穿て。

「惜しいね」

 回転斬りは確かに命中したはずだった。それでも手応えは全くと言って感じられない。

 はらりとカードが落ちる音。宙吊りだったはずのサカズキが落下を始める。

 それと同時に彼の全身が血を噴き出す。最初は触腕から、そして本体に深い切り傷を伴って。

「は?」

 理解できない内に紅葉の全身も同じ姿になっていた。脳内で警告(アラート)が限界まで鳴っている。

 背後には血色月が鈍く輝く。

「死なれると困るのでね、このくらいにしておこうか。君には期待しているよ」

 そう言い残されて紅葉は意識を手放した。




―――――――――――――――――――――――――




 “助けて”

 誰かから誰かに向けた短文でいて明確なSOS。どんな脳が足りない受け取り手でも何かがあったと分かるそれが誰かの手に収まる端末に向かって届けられる。

 “何があった?”

 様々な想定を胸裡に抱いて愛する誰かに向けてシグナル。状況推定が不可能に近い情報から推定が可能に出来る限りの情報を引き出す為のシグナル。

 “私の部屋の前に”

 “誰かいる”




 ―と言うのが十分程前。

 今はこうして見知った顔―いや顔は見たことないんだけど―と相対する。

「で、ここに何の用だよ」

 不気味な魔力を帯びた彼のすぐ隣に控える禍々しいまでのそれが煌めく。

 世間一般じゃ悪ーいお貴族サマたちにお灸を据え、市民達の希望の光だとの呼び声が高い彼が目の前にいると言うのに、名実共に学生最強と謳われる彼は敵意を隠さない。

「オッドマウス…!」


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