地獄(=管理教育)からの生還
【ガラスの国】
四月の風はまだ頬を刺すほど冷たかったが、美香の胸の奥には、微かな熱が灯りはじめていた。
それは、ほんの数週間前までは想像すらしなかった“外”の世界から届いた、一通の手紙によるものだった。
封を切った瞬間、最初に目に飛び込んできた「Dear Mika」の文字に、美香の手はぴたりと止まった。
差出人は、ニューヨークに暮らす叔母だった。
幼い頃を最後に会っていなかったが、美香の記憶の中では、華やかで、遠く、あまりにも眩しく、自分とは無縁の別世界の住人のように思えていた人。
その叔母が、手紙の最後にこう綴っていた。
——卒業後、もしよければ、アメリカの大学に行ってみる気はない?
美香は思わず吹き出した。
笑いというより、あまりにかけ離れた現実に対する、呆然とした反応だった。
底辺高校に通う自分。
中学では、ブルマ姿で変態教師の前で恥辱のポーズを取らされ、
高校では不良たちに目をつけられ、復讐を果たした代償として、クラスで孤立。
六年間、恥と屈辱を身体に刻み込みながら、ただひたすらに耐えてきた。
そんな自分が──アメリカの大学?
夢というより、冗談。笑ってしまうほど現実味がなかった。
けれど、手紙の続きを読んで、彼女は目を止めた。そこには、自分の知らない世界の言葉が並んでいた。
最初は語学学校からでも大丈夫。アメリカには、日本のようなセンター試験はない。必要なのはTOEFLという英語試験と、自分自身を語るエッセイ。それだけで出願できる。
トップ大学じゃなくていい。努力すれば途中で編入もできる。アメリカは、努力する人を見捨てない文化。
その言葉たちは、美香の中でじわじわと沁み込んでいった。静かに、しかし確かに、根を張るように。
日本で与えられた偏差値、内申点、制服、校則、家の価値観──それらすべてが「できなかった」という烙印だった。でも、それを無効にする場所があるというのなら。もし、別の世界に、自分という存在を“初期化”できる空間があるのなら──。
放課後の校舎のベンチに座りながら、美香は目の前のグラウンドを見つめていた。
見慣れたアスファルトの景色。その灰色が、ふと、まだ見ぬニューヨークの街路に重なった。
(行きたい……アメリカに)
心の奥底で、誰にも聞かれない声が、小さく呟いた。
自分の身体も、過去も、すべてを否定せず、それでも前へ進むために。
そして彼女は、新しい地図を手に取った。
そこにはもう、「美香はこういう子」と決めつける赤線は引かれていない。
これからは、自分で描ける。描いていいのだ。
NY──そのたった二文字が、まるで別の名前のように、彼女を呼んでいた。
【地獄からの卒業】
待ちに待った高校の卒業式の朝、曇天の空は、六年間に積もった鬱屈をそのまま飲み込んだように、どこまでも重く、沈んでいた。
美果は、その空を睨みつけるようにヘルメットをかぶった。エンジンをかけたバイクが、濁った空気を突き破るように咆哮する。
――セーラー服でバイクに乗る。
それは、美果にとって「儀式」だった。規律、服従、沈黙……そんな無言の強制に染められた日々への、最後の――そして、唯一の反抗。思えばあまりにも長すぎた。
あの中学の教室、美術室の準備室、ヤンキー女子に囲まれた廊下、無表情な教師たちの背中。六年分の傷が、今日この日に幕を引こうとしていた。
「この支配からの卒業」なんて、きれいな言葉じゃ足りない。
私にとっては――『この地獄(=管理教育)からの生還』だ。
これは敗者の誇りでも、勝者の勝利でもない。ただひとつの、“生還者の証明”だった。
卒業証書を受け取る瞬間、美果は初めて心の底から息をついた。
ああ、これでもう、あの檻(管理教育)には戻らなくていい。
春風が彼女のスカートの裾を軽く撫でた。その風に、自由の匂いが確かに混じっていた。