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底辺高校

【底辺への扉】


諏訪男による「補修授業」を終えた美香の胸には、まだかすかに希望の灯が残っていた。


「モデル」という名目の補習に違和感を覚えながらも、内申点を少しでも取り戻し、高校進学の道を諦めたくはなかった。


美術だけは――そう信じていた。


他のすべてが崩れかけても、この教科だけは確実に「5」が取れる。そこだけは、自分の手で掴みとれる場所だと、最後の砦のように思っていた。


けれど、学期末の夕暮れ、机の上にひっそり置かれた成績表は、まるで冬の石のように冷たく、彼女を裏切った。


そこに刻まれていたのは、信じがたい数字――「2」。


目を疑った。指先がかすかに震え、血の気が胸元からすうっと引いていく。


これまで美術だけは、つねに「5」だった。評価というかたちで、唯一彼女が自己の輪郭を保てた場所だったのに。


「2」──その一文字は、彼女の願いと未来を、音もなく、粉々に打ち砕いた。


紙面に滲みそうな涙はこぼれなかった。ただ、美香の中で、何かが静かに、取り返しのつかないかたちで崩れていった。


「これで、平均を美術で稼ぐ目論見も終わりだ……」


心の中で呟いたその言葉は、だれにも聞かれることなく、夜の闇へと消えていった。


彼女に進学先として用意されたのは、底辺の女子校だった。


「ここしかない」——諏訪男の声は冷たく、無慈悲だった。


「本来なら、こんなところで十分だ。お前を進学させるなんて、よくよく考えればありがたい話だと思え。」


その言葉は、厚い氷の層を割るように鋭く、美香の胸に冷たく突き刺さった。まるで恩を着せるかのようなその態度が、彼の真意の冷酷さをひときわ際立たせていた。


美香はその言葉に絶望した。しかし、「高校に行けるだけ、まだましだ」と自分に言い聞かせるしかなかった。


両親の顔には、失望の色が濃く刻まれていた。お嬢様育ちの母の上品な瞳が一瞬だけ曇り、父親の骨太な手が無言で拳を握りしめる。


美香はただ、言葉にならない屈辱を胸に抱きしめるしかなかった。


希望の灯が消えかけ、彼女の世界は静かに、しかし確実に暗転していった。


【孤島の教室】


美香の高校生活が、ついに始まった。


私立の女子校──その白塗りの外壁は、まるで嘘だった。中に満ちる空気は淀み、腐臭すら感じさせるほどだった。足を踏み入れた瞬間、美香は直感した。ここでは、自分は“異物”だ。


教室にいたのは、奇抜な髪を揺らし、顔を厚化粧で塗り固め、耳に金属をぶら下げた少女たち。制服は原形を留めず、舞台衣装のように着崩され、彼女たちは一斉に美香を見て、薄く笑った。


その笑みは嘲りでもなく、確認でもない。ただ──「餌を見つけた」という、動物の目だった。牙を研ぎ、いつでも噛みつける準備を整えた捕食者の視線。


教室に教師の目など届いていなかった。ただ生徒たちの嗤い声と、無言の支配だけが支配していた。

静かな者は、目立たない者などではない。「手を出しやすい者」だった。壊しても誰も咎めない──そういう対象だった。


初日から、美香は標的にされた。


授業中、不良の少女たちが教師の目を盗み、背後から、あるいは真横から小突き、髪を引っ張った。


無抵抗の美香は、涙を溜めながらも、じっと耐えた。俯き、唇を噛み締めながら、何も言い返さなかった。


だが放課後、美香は一番に教員室の扉を叩いた。


声を震わせ、こみ上げる涙を抑えきれず、それでもはっきりと「いじめを受けた」と報告した。


教師はその姿に憐れみの目を向け、「入学早々、可哀想に」と静かに漏らした。


教師たちは女子校特有の陰湿さを知っていた。ましてここは底辺校──対応が遅れれば、生徒が壊れることもわかっていた。


翌日、美香を囲っていた数人の少女たちはすぐに呼び出され、その日のうちに停学処分、そして後日、退学が下された。


学校の動きは迅速だった。美香はそのことに対して、心から感謝した。


【卒業まで、あと……】


美香へのいじめ騒動は、表面的には一応の解決を見た。


しかし、それ以降、教室の空気は明らかに変わっていた。


あの日、美香が複数の「捕食者」に嬲られるのを、見て見ぬふりをしていたクラスメイトたち。彼女たちの態度は、どこかよそよそしく、妙な違和感に満ちていた。


美香に対しては、まるで腫れ物に触れるような接し方をし、目を合わせれば怯えたように逸らす。


(美香に手を出したら、きっと告げ口される)──そんな打算が透けて見えた。美香は、その空気を一瞬で嗅ぎ取った。


そして彼女は、そんな弱者たちを軽蔑した。


黙っていたくせに、いざとなれば保身しか考えない卑怯者たち。常に群れて、誰かの顔色を窺い、強いものには媚びを売り、弱いものを見捨てる──そんな「弱者連合」とは、関わらないと美香は決めた。


正しさは、いつだって孤立を生む。


それでも、美香はその正しさを手放さなかった。


それから卒業まで、美香は一人だった。


自ら孤立を選んだ。周囲が固まって動く中、美香はいつも一人、孤高の獣のように教室の隅にいた。群れの保護に甘えることなく、自分の足で立ち続けた。


だが、またしても標的になった。今度は、別の不良が美香に目をつけた。孤立している人間は、いつだって狙われる。


だが美香は、もう怯えなかった。**こんなクズに屈するくらいなら、いっそ死んだほうがマシ。**そう思った。死ぬ覚悟で、刺し違えるつもりで立ち向かった。


その目には怯えも逃げもなかった。真正面から不良を睨みつけ、拳を握りしめていた。


──不良は、何も言わずに引いた。


中学時代の自分では、決してできなかったことだった。戦わずに耐え、ただ泣いていた自分とはもう違っていた。


その夜、美香は自室のカレンダーを見つめた。赤ペンを握り、無言で日付をなぞった。


「卒業まで、あと二年と十ヶ月──」


かすれた声で、数を数えるように呟く。


彼女は信じていた。爪を立てて乗り越えた日々の数だけが、未来を切り拓く鋭い刃になる。


鋏のように、すべての過去を切り裂き、新しい自分の輪郭を、いつかはっきりと描いてくれるはずだと──。


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