罠
【管理された週末】
美香は、まだ無力な中学生だった。
そして彼女の受難は、まるでドミノ倒しのように次々と重なっていく。それは、彼女の家庭環境にあった。
重度の知的障害を抱える弟を持つ美香の両親は、「いつかきっと治るもの」と信じて疑わなかった。あの時代には、そうした希望的観測が当たり前のように語られていたのだ。
だが、その誤った認識が、いくつもの悲劇を引き起こしていく。
ストレスが限界に達した両親は、些細な意見の違いで何度も衝突した。
「あの病院を変えるべきだ」
「おまえの接し方が悪い」
──そんな言葉が、毎晩のように飛び交っていた。
美香はその言葉の応酬の合間に、ただ息をひそめていた。割り込む隙間もなければ、存在の証明もない。弟の障害が家族の全てを占め、美香はまるで“誰でもない誰か”になっていた。
土曜日の午後、空は濁った白に曇っていた。美香はひとり、栄の通りを歩いていた。ビルのガラスに映る自分の姿を見て、まるで借り物の人間のように感じた。自動販売機の前で立ち止まり、空き缶を見ていたその時だった。
「君、中学生だろ。何してるんだ」
見覚えのない教師に声をかけられた。巡回担当の教師。理由はただひとつ、「中学生が繁華街にいる」――それだけだった。
確かに、制服姿で街にいる生徒を注意することは理解できるかもしれない。
だが、美香は制服ではなく私服を着ていた。
にもかかわらず、その私服で街にいることまでが“問題”とされたのだ。
あの時代の名古屋、管理教育が厳しかった時代では、それが普通の出来事だった。
生徒は徹底的に管理され、規律の枠を超えることは許されなかった。
服装も行動も、すべてがチェックされ、統制される世界だった。
美香はただ、家の騒音と孤独から逃げたかった。
それだけなのに、社会は彼女をさらに追い詰めた。
【反省文という名の抑圧】
補導の翌週の月曜日。予感は、裏切られることなく現実となった。
案の定、美香は職員室に呼び出された。
(ああ……やっぱり、来たか)
その思いには、驚きも怒りもなかった。ただ、予定された儀式が静かに幕を開けただけのこと。ため息にすらなりきれぬ、無味乾燥な確認の声だった。
放課後の職員室は、まるで消し忘れた火事現場のようだった。煙が低く垂れこめ、光の筋が白濁している。昭和という時代の名残が、天井の蛍光灯をくぐもらせ、タバコの臭気とともに漂っていた。
諏訪男は、書類の山の奥に沈むように座っていた。だがその目だけが、煙の帳をかき分けるように、ゆっくりと美香をとらえた。
そして、乾いた声で告げた。
「反省文を書け。千字以上だ」
命令というより、判決に近い声だった。諏訪男の眼差しは、彼女の内側にある“書かれるべきもの”をすでに見通しているかのようだった。
【ただ歩いていただけ】
美香は自室の机に向かい、ペンを握ったまま、しばらく指先だけが宙を彷徨っていた。原稿用紙の罫線は冷たく、無言のままこちらを見返してくる。
——私は、何を反省すればいいのだろうか。
繁華街にいた。ただそれだけのことだった。何かを盗んだわけでも、誰かを傷つけたわけでもない。ただ、家に居場所がなかった。だから歩いていた。しかも制服ではなく、私服だった。
それを――教師たちは「校則違反」と呼び、諏訪男は「反省文」を命じた。
罪の自覚もないまま、裁かれることの理不尽。それを千字で語れと?ペン先が止まったまま、美香はふと、クラスメイトの真理の顔を思い出した。
彼女は最近、女子グループに目をつけられ、からかいや暴力にさらされていた。髪を引っ張られ、教科書を隠され、時には机に押し倒されるほどの仕打ちもあった。
真理は、助けを求めて諏訪男に声をかけた。だが、彼は言った。
「子ども同士のことに、教師が関わるのはよくない」
——何も変わらなかった。何も守られなかった。加害者たちは今日も笑い声を響かせ、真理は机の陰で目を伏せたままだ。
なぜ、暴力をふるう者たちは咎められず、ただ歩いていただけの自分が、こうして“犯罪者”のように裁かれているのか。
怒りではない。悲しみでもない。
美香の中にあったのは、言葉にすらならないほどの詰まりだった。
喉の奥に、小石のような沈黙がこびりついている。深く、どこにも行き場のない不条理が、熱も音もなく、心の内に居座っていた。
それでも美香は、どうにかして原稿用紙を埋めた。
見せかけの後悔と、空っぽな誠意をつづりながら。彼女は最後の句点を打ち、用紙を伏せた。
そして、ぽつりと心の中でつぶやいた。
(こんなんじゃ、却下されるかも....)
【内申という名の首輪】
教室の窓の外では、三月の風が薄桃のつぼみを揺らしていた。だが、その柔らかな揺れも、美香の胸に届くことはなかった。
諏訪男の机の上に置かれた、一枚の反省文。書き終えた夜、美香は指の震えを抑えきれず、何度も紙を破りかけては、言葉をひねり出して書いた。
「反省の心がこもっていない」
諏訪男の反応は予想通りだった。彼女はそれを覚悟していた
。
けれども、それが彼女にできる、精一杯の「叫び」だったのだ。
諏訪男の口元に浮かんだ微かな笑み。冷たく抉るような声が、彼女の首筋を這った。
「お前はもう内申、下がるからな。高校進学は……厳しいぞ」
その一言が、彼女の視界を真っ暗に染めた。
名古屋の冬が、教室の隅で膨らんでいく。内申点という名の影が、生徒たちの未来を静かに押し潰していた。教師の気まぐれなペン先が、生徒の人生を塗り潰す。
評価ではなく、服従の証として書かれる数字。
諏訪男は、それを知っていた。いや、それを楽しんでいた。
反省文の余白は、もはや紙ではない。それは、美香の心の余白だった。諏訪男が、好きに塗りつぶすための――。
美香は椅子に座ったまま、指先をぎゅっと握り締めた。自分が今、どこにいるのかさえも分からない。空気が重く、湿り、腐りかけた季節のようだった。
八方塞がりだった。
それこそが、諏訪男の望み。彼女の選択肢を奪い、彼女の「居場所」を自分の掌の中にだけ用意すること。
【補習という名の罠】
反省文が提出できないまま、数日が過ぎた。
月曜の夕方、またしても呼び出された職員室の空気は、前よりも幾分やわらいでいた。タバコの煙はうすく、諏訪男の声も妙に落ち着いていた。まるで、すべては最初から予定されていたかのような、ぬめりとした穏やかさで。
「……書けないのなら、無理に書かなくてもいい」
不意に諏訪男がそう告げたとき、その声はまるで埃をかぶった楽器が久しぶりに鳴らされたような、乾いた柔らかさを帯びていた。
「その代わり、美術の補習を受けろ。池本には……ちゃんとした“教え”の場が必要だ」
“教え”という響きが、妙に湿って耳の奥に染みた。まるでそれが彼の本音ではなく、何か別の意図を包んだ薄皮のように感じられて、美香は思わず視線をそらした。
諏訪男は机の引き出しを静かに開け、美香が一学期に提出した鉛筆のデッサンを取り出した。黄ばんだ紙の上に、陰影を纏ったクロッキーが一枚、そっと広げられた。窓から差す午後の光に、描かれた主題の闇が反射しているようにさえ思えた。
「これは、いい作品だ。陰影の付け方に、きみの眼が出ている。……お前の感性かもしれん」
賞賛の言葉は、ぬめりとした静けさを持って胸に落ちた。声色には、どこか媚びるような甘さと、触れれば噛みついてくる毒とが同居していた。
あの諏訪男が、自分を「認めた」。
その事実だけが、美香の中の何かを揺らした。母の冷たい沈黙、父の不在、教室での気配のなさ、すべてが透明になっていく。認められたい──ただその一心が、体の芯にひっそりと巣食っていた飢えを目覚めさせていく。
「放課後……補習を行う。通常の授業と同じように体操着で来い。美術準備室にだ」
言われた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。なぜ補習に体操服なのかという疑念は、確かに浮かんだ。だが、彼の言う「通常通りの授業」という言葉に、その声は押し黙った。
本当は知っていた。彼の言葉の端にある、説明しきれない湿気のようなものに、心のどこかで警鐘が鳴っていた。それでも──彼女はうなずいた。
それは、小さな救いの仮面をかぶった、底の見えない罠だった。