新入生
【新入生】
そんな抑圧の季節に――池本美香は入学してきた。
彼女の母は九州の比較的裕福な家庭の出で、いわゆる「お嬢様」として育った。
父は名古屋に支社を持つ大企業のエンジニアで、几帳面で厳格、無駄を嫌う性格だった。娘にも礼儀と沈黙を厳しく教え込んだ。
美香は、母譲りの女性らしい顔立ちと、父から受け継いだ骨太な体幹を持っていた。広く豊かな肩幅、しなやかに伸びた背筋、ふくらはぎにはわずかに筋肉の陰影が浮かんでいた。少女らしい外見の奥に、言葉にできない“完成された何か”が潜んでいた。
瞳はアーモンド型で、目尻がすこし下がっていた。その形のせいか、いつも穏やかに微笑んでいるように見えた。
けれどその微笑は仮面だった。感情の起伏を表に出すことを、幼い頃から厳しく戒められていた美香は、笑みを“盾”として使う術をすでに心得ていた。
制服のスカートから覗く張り詰めた膝。呼吸に合わせて膨らむ、少女と女人の狭間に佇む胸元。その身体は、無自覚のうちに「視線」を引き寄せる磁力を帯びていた。
そして運命は嗤った――彼女の担任が、あの長野諏訪男であることを。
初めての授業で教壇から美香を視認した時、彼の瞳孔はすでに微かに収縮していた。分度器で計ったように正確な角度で、彼女の身体の各所に視線を走らせるその眼差し。
美香がその視線の真意に気付くのは、まだ少し先の話である。
【不器用な才能─誰にも見えない肖像】
美香は器用な子ではなかった。勉強も運動も人づきあいも、どれも上手くこなせず、教室のざわめきの中で、どこか常に浮いていた。周囲との距離感をうまく測れずに戸惑いながら、それでも人一倍、空気の震えや視線の湿度に敏感だった。
繊細で、感受性が強く、感情の起伏は天気のように激しかった。些細な言葉に傷つき、誰かの仕草ひとつに胸をかき乱される。そんな日々の中で、ただひとつ彼女を支えていたもの――それは絵だった。
鉛筆を握ると、世界が静かになった。キャンバスの上では、言葉にできない感情も、誰にも伝わらない想いも、すべてがかたちを持って息づきはじめる。線と色彩だけが、彼女に「生きていていい」と囁いてくれた。絵を描く時間だけが、美香にとって自分を肯定できる唯一の場所だった。
けれど、その才能の陰には、決して誰にも言えぬ家庭の暗がりがあった。
美香には弟がいた。重度の知的障害を抱え、生まれながらにして他人との境界を持たず、世界と交わる術を持たぬまま、日々をただ喚き、暴れ、泣いて過ごしていた。
1980年代の空気の中で、その障害は「心の病気」と呼ばれ、親の愛情や育て方に原因があるとされた。そんな世間の視線に追い詰められた両親は、弟の世話に奔走し、沈黙と疲労の中で、もう一人の子ども――美香の存在を、忘れていった。
美香は両親に放置されながらも、心の底では何かを強く求めていたのだ。理解されること。認められること。ほんの少しの愛情でも。
気が弱くて、人前で声を張ることもできなかった。けれどその奥には、火のような何かがあった。押し黙った中にも、彼女は不思議と物怖じしなかった。目をそらさずに見つめ返す強さ。理不尽に頷かない反骨の光。それはきっと、誰にも守ってもらえなかった少女が、自分で身につけた武器だった。
そして――その武器こそが、やがて彼女を試練へと導くことになる。
【あの日の一歩が、すべてを狂わせた】
それは、乾いた春風が校舎を揺らした、ある午後のことだった。
美術の時間が始まってまもなく、美香は、ふと血の気が引くような感覚に襲われた。
――道具箱を、忘れてきた。
あの教室に必要不可欠な、唯一の持ち物。そして、それを忘れた者に科される「罰」は、誰もが知っていた。
椅子の上での正座。皆の前での晒し者。
諏訪男の課すその「公開処刑」は、単なる指導ではなかった。
それは、羞恥と屈辱の見世物であり、クラスの秩序を支える支配の儀式だった。
美香の胸に、激しい動悸が走る。頭の中で警報が鳴り響く。このままでは、晒される――。
その一心で、美香は、机をそっと離れた。 教室の奥、美術準備室の重い鉄扉の前に立ちすくみ、
震える指先でノックした。
「……先生、あの……道具箱、家に忘れてしまって…… 取りに帰らせていただけませんか」
それは今思えば、あまりにも無謀な願いだった。だが、当時の美香には、それ以外に道が見えなかった。
「だめだ。」
諏訪男の返答は、冷たく、即答だった。今思えば、それは当然の応答だったのかもしれない。
だが、そのときの美香には、その言葉がまるで冷水のように全身を打ちつけた。息を呑む間もなく、諏訪男の口元が、わずかに歪んだ。
それは“笑み”だった――だが、その表情に慈悲や寛容のかけらはなかった。
あれは、獲物の愚かな足取りを見下ろす捕食者の笑み。
美香はまだ知らなかった。この瞬間こそが、人生の転落の第一歩だったことを。
【切り裂かれた自信】
(この小娘、晒し者から逃れようとしたか……)
(忘れ物を取りに帰らせてください?.....この俺の“裁き”から逃げようなどとは恐れ多い.....)
諏訪男の内なる声には、怒りではなく、嘲りと優越がにじんでいた。
その日を境に、彼が美香を見る目は明らかに変わった。それは執拗な監視の視線だった。狩りの標的を定める捕食者のまなざし。
ある日、彼は美香の提出した作品を無言で取り上げると、じっと睨みつけた。教室にざわめきが走る前に、その乾いた声が響いた。
「……これは、夢遊病者の落書きだな。構成も、技術も、ゼロ。こんなものを“良い”と思うなら、一度、自分の目を疑ってみろ。」
教室は、一瞬で凍りついた。
級友たちの反応は様々だった。
人の不幸に快感を覚える者、理由もわからず怯える者。
だが、小学校時代から美香を知る数人は、彼女の絵がうまいことを知っていた。
――なぜ、美香が?
困惑と疑念は教室の空気を微かに揺らしたが、それ以上に強かったのは沈黙だった。
諏訪男を怒らせた「理由」に気づく者はなく、誰一人として、美香が“標的”に選ばれたことを察する者はいなかった。
美香は呆然としていた。自分が信じていた唯一の居場所。幼い頃から、何よりも好きだった絵。
自分の“本当”を描ける手段――それが、言葉ひとつで破壊された。
胸の奥で、何かが崩れる音がした。それは自尊心か、信頼か、それとも自己そのものだったのか。彼女には、もうわからなかった。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。諏訪男は、狙っていた。彼女の心の灯をひとつずつ潰していくことを、静かに、確実に、愉しんでいた。
あのとき――
あの日、あの一言。「忘れ物を取りに帰らせてください」と言わなければ、諏訪男の目に、自分は映らなかったかもしれない。
それは、美香の中学時代における最大の過ちだった。
そして――長く続く悪夢の、始まりでもあった。