狂気の授業
【体操着という「制度的羞恥」——教育現場に潜む倒錯の系譜】
諏訪男の目的は明確だった。生徒を服従させること。異常な“儀式”は、すべてそのために用意されたものだった。
彼の授業には、ひとつの奇妙な“掟”があった。それは、美術室に足を踏み入れた瞬間、生徒全員が体操着に着替えなければならないというものである。
男子も女子も、例外なく――。
その理由として諏訪男が掲げたのは、「人体の構造を理解するため」「造形美の基礎を学ぶため」という、もっともらしい美術教師らしい理屈だった。
だが、そこに漂う微かな違和感――、それに気づけるほど、生徒たちはまだ大人ではなかった。
かつて日本の公立学校では、体育の時間が来ると、男子は当たり前のように短パンを、そして女子はブルマを身につけるのが常であった。
今では姿を消したそのブルマは、深い紺色の生地が極端なまでに少なく、動くたびに女生徒たちの太腿や臀部の輪郭をあらわにするような造りであった。
それは、教育委員会が定めた**「標準規格」**という名のもとに隠された、巧妙な暴力だったと言えよう。そして、諏訪男のような、教育的指導と個人的な愉悦の境界が崩壊した教師にとっては、格好の「指導対象」となるものであったのだ。
【教育という名の陵辱】
諏訪男の美術授業は、異様な儀式のようでもあった。
彼は美術の説明と称し、女子生徒を**「モデル」として指名した。
選ばれるのは決まって、発育の良い女子生徒たちであった。
そして、選ばれた体操着姿の女生徒は教室の中央に立たされる。その身体を包むのは、あのブルマ。諏訪男は指示棒を手に、まるで彫刻を鑑定するかのように、女生徒の周りをゆっくりと旋回するのだ。
「見よ、この偉大なおケツを……」
「このふくらみこそが……」
彼の声は熱を帯び、その指示棒の先は、女生徒のブルマに張り付いた臀部をねっとりと這い、下乳腺の微かな窪みを探り、太腿の柔らかな稜線を辿った。
時折、彼は躊躇することなく自らの指先で「補足説明」を加える。女生徒の顔が恥辱に歪みながら硬直するのも、彼にとっては単なる授業の一環でしかなかったのだ。
教室は重い沈黙に覆われ、この異常な「美術鑑賞」の時間を記録しているかのようだった。
諏訪男は、人体の鼠径部を指して「コマネチ」と呼んだ。
それは彼独自の表現であり、ビートたけしのあの有名なギャグ――両手の人差し指で股間をなぞり、外側へと鋭く切り裂くように広げる、あのポーズから拝借したものであった。
しかしその言葉は、彼の口に乗ると、もはや笑いの産物ではなかった。
「このコマネチが……」
諏訪男の囁きは、熱を帯びた湿気のように、生徒たちの肌をじっとりと這った。
その手の側面が、ブルマに包まれた「モデル」の女生徒の鼠径部に押し当てられる。あたかも美術の指導を装うかのように、その手は女生徒の股間を、まるで鋸で引き裂くようにねっとりと前後させた。
女生徒はびくりと身を震わせ、もつれた息が漏れる。その顔には、隠しようのない恥辱が歪んで浮かんでいた。
彼女らの中には、授業中に涙をこらえきれなくなる者もいた。
現代なら即座に「事件」として扱われるような行為が、当時は「個性的な授業」として黙認されていたのだ。
全校生徒が諏訪男の異常性を認知していながら、他の教師たちは目を背け続けた。この集団的沈黙が、さらに彼の行為を助長していた。
【「とらわれのアクション」の黙示】
諏訪男の授業で繰り返し引用されたのは、アリスティド・マイヨールの『とらわれのアクション』——縄に縛られ、もだえ、抗う女性の肉体を彫り込んだ、あの大理石の彫刻だった。
筋肉は緊張し、腰はくねり、縛られた四肢は逆説的な躍動感を湛えている。
苦悶と快楽の境界が溶解し、冷たい石の肌にさえ、触れれば熱を放っているかのような官能が刻まれていた。無機質であるがゆえに、かえってその生々しさが増幅される——それがマイヨールの魔術だった。
しかし、諏訪男はこの傑作を、己れの抑えがたい欲望の隠喩として転用した。
「芸術の鑑賞」と称し、女生徒たちを『とらわれのアクション』の生けるレプリカへと仕立て上げる。教室という密室で、名作は歪んだ幻想の装置となり、美術教師の指先は「美的考察」を装った侵犯へと変質した。
大理石の冷たさと、少女たちの肌の温もり。
芸術の崇高さと、教師たちの卑小さ。
それらが同じ空気の中で混ざり合い、不気味な調和を奏でていた——美術室の窓から差し込む陽射しは、その醜悪な共犯関係を、あまりに鮮やかに照らし出していた。