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<84> 転ばぬ先の杖(つえ)

 今の時代、人生を歩む上で欠かせないのが転ばぬ先の(つえ)だ。その杖は身体を支える使い方ではなく、盲目の人になったように安全を確かめながら一歩一歩と使用する杖なのだ。ただし、座頭市さんのような修羅的な仕込み杖ではない。^^ 今の世の中は、人生を危険に(さら)すことが、それだけ多いのです。

 医学部の准教授、日下部(くさかべ)は過去に一度被った苦い経験を踏まえ、転ばぬ先の杖で人生を慎重に生きる男に変貌していた。

「日下部先生、コーヒー淹れましたよ…」

 同じ医学研究所の女性助手、月丘が柔らかな猫撫で声で日下部に言った。

「ああ、有難う…」

 声は申し分ないが、見てくれが今一な…といつものように思いながら、日下部はデスクに置かれたマグカップをひと口、啜ろうとした。だが一瞬、その手が止まった。

「いや、待てよ…。まさか、この中に睡眠薬…それならいいが、青酸カリってことは…」

 と、日下部は転ばぬ先の杖で考えたが、すぐに、そなんことがある筈ないよな…と気づき、二口ほどグビグビっと喉に流し込んだ。美味だった。よくよく考えれば日下部が月丘に殺される動機は皆無だった。日下部が研究所から消えたところで月丘が所長に昇格出来る訳でもなかった。

「この黴は新生物だね…」

「はい、新種の黴のようです…」

「だね…」

 この黴がその後の人類に貢献する黴になろうとは、この初期段階で二人が気づくはずもなかった。日下部はそう返しながら、今晩の惣菜は何にしよう…と考えていた。昨日は鮭の塩焼き、一昨日(おととい)は鮎の甘酢焼き、一昨昨日(さきおととい)は鰻重だったから、今日はステーキにしよう…とは思った、転ばぬ先の杖的発想に戻り、油濃いからキュウリの酢の物にしよう…という結論に到達した。そんなことを日下部が考えていようとは月丘助手は夢にも思わなかった。

 これが、人生です。^^


                  完

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