97.イオ
致命だった。ライネに切り裂かれた首の傷。自己治癒を行なうだけの魔力が残されていないライオットにとってはそれだけでも充分に、己が死を受け入れるだけの。己が敗北を認めるだけの致命傷だったというのに──まるでその死を待ち切れないと言わんばかりに。否、自らの手で死なせることに意味があるとでも言うように、その少女の手は殺意に。真っ赤な鮮血に彩られていた。
「イ、オ……」
擦れた声で彼女の呼んだのは、背中から心臓を奪われたライオット当人か。それともその様を正面からまざまざと見せつけられたライネか。どちらにしても同じこと。どちらであろうが構わぬことだと彼女は嗤った。それは確かに、全てが自分の掌の上にあることを悦ぶ笑みだった。
「そうとも俺さ。イオだぜ。お前たちの愛しい愛しい宿敵だよ」
言いながらイオは腕を引き抜いた。手に掴んだ心臓はそのままに、実に無造作に。背中から胸にかけて空いた穴。空っぽになったそこからぼどりと血が塊として漏れた。それに連動するように口と首の傷からもこぽこぽと。一人の人間には、人体にはこれだけの血液が詰まっているのかと驚かされるくらいに。もうどうしようもないくらいに、ライオットの命は零れ出てしまっていた。
「は、……やっぱ、り」
「やっぱり? そうか、やっぱりか。この状況で出る感想がそれってのはなんともまあ。つくづく気が合うねえ俺たちは」
考えていることは同じだった。もしも死にかけているのがイオの側であればライオットも同じことをしただろう……いや、この男ならその機会を率先的に自ら作ったかもしれないが。とにもかくにも今日どちらかが「こうなること」は予想できていたのだ。始末をつける、そのつもりでいた。そして、あえなく始末をつけられる側に回ってしまったことにも後悔はないのだろう。
非常に奇妙な感覚だが、イオにはそれがよくわかった。悔しさはあっても後悔はない。一から十まで自分の好きなように、自分にできることを精一杯にやってきた者だけが抱ける清々しさ。そうやって生きてきたからには結末に不満などあろうはずもない。──イオにはそれが、よくわかる。
羨望的な理解。
「とまれ心残りはあるだろ? いやいや社会の価値観を引っ繰り返すっていうお前の目標の話じゃあない。ましてやその前段階の協会潰しのことでもないぜ。お仲間だよ。メグティナとギドウス。同好の士の中でもいっそう大事にしていたあの二人のことだ。気になるよな? 自分亡き後にあいつらの行く末がどうなるかってのは」
「…………、」
予感を抱くまでもなく、イオの口振りからその続きを察してしまったのだろう。苦しげに身じろぎをしたライオットは、しかし耳を塞ぐこともできずに既に起きてしまった事実を告げられる。
「安心しとけ、何も思い残さず逝けるよう事前に手を打っといた。あいつらは一足先にあの世へ行ったよ。お前が来るのを今か今かと待ってくれているだろうぜ」
これにてフロントラインは完全壊滅だな、と。まるでめでたいことのようにイオはそう言って、彼女の横に人影がふたつ。また新たに現れた。
「……!」
ライネに戦慄が走る。敵がイオだけではないこと。加えて新顔二人のどちらもが、相当に強いこと。それらが一度に判明したからだ。壁をひとつもふたつも超えた今のライネにはより正確に強者の度合いを測ることができるようになっており、それが余計に絶望感を与えた。
──どう見繕っても勝てない。どころか生存の目がない。
今の自分はライオットとの戦いに全てを出し尽くし、絞り尽くした後だ。何も残されていない。魔力切れ寸前の、意識を保っていられているのすら偶然でしかない状態。仮にここから時間を稼ぎいくらか魔力を取り戻せたとしても──それで逃走が叶うのは敵が一人しかいなくてやっとだ。それが三人もいてはそもそも可能性すら見出せない。
しかも悪いことに、イオの同族と思しき青肌の男と黄肌の男は、どちらも一切油断をしていない。自分たち以外には死にかけの者しかいない状況でもまったく気を緩めてくれていない──ライオットにも自分にも警戒を向けている。そうして「イオを守っている」ことがひしひしと伝わってきて、それが尚更にライネを八方塞がりとしていた。
「んでもって……ライネよ。俺とお前はちぃっとも気が合わねえみたいだな。にひひ、それもまた良しだ。この男と違ってまったく反対。その方がきっと相応しいってもんだ。──しかしまあ、流石と言うべきか。しぶといねぇライオット。お前ホントに人間か?」
大量出血に心臓の喪失、魔力の枯渇。これだけ生命の維持に必要なものを揃いも揃って失っていながら、ライオットは膝をついたままの姿勢でまだ倒れない。まだ死んでいない。そのことに心底から愉快そうにして、手に乗せた心臓を転がすように弄んだイオは。
がぶり、とそれに食らい付いた。
「っ!」
「んう……おっと失敬、見苦しいのは勘弁してくれよ。鮮度のある内にやっちまわねえとだからな。もっとお行儀のいい方法だって勿論あるが、こいつにそんな気を遣うつもりはねえ。むしろこのやり方じゃなきゃならねえ。なあライネ。お前だって勘弁だろう? 【離合】がこの世にふたつもあっちゃあな」
「な、にを……言って」
「いやなに、簡単な話。そいつが俺の唯術ってこったよ」
一口で充分だったのだろう。ライネには未だイオの言っていることが──その何から何までが──理解に苦しくあったが、とにかく彼女からすればもう用済みであるらしい。
心臓を放り捨て、持ち主を背中から蹴り倒し、湿った音を立てて彼と彼の中身は床へと落ちた。ライオットは、ぴくりともしない。とうとう息絶えたのだろうか? それともまだ朧げにも意識はあるのか……、なんにせよだ。もはや彼にできることは何もなく、仮に生きていたとしてもそれはただ消えゆくほんの小さな風前の灯火。終わりが今か数瞬後かの違いしかない。
同様の見解なのだろう。イオはもうライオットに注意を払っておらず、ライネだけを見つめて言葉を続けた。
「打ち明けておこうか。俺の唯術は【模倣】。字面通りに他人の唯術をコピーできるってわけだ。ストックは三つ……注意しなきゃいけねえのは三つを超えてコピろうとすると古い方から勝手に消えてくって点だな。今で言えばトリータから貰った【吉兆】が消えちまった。だがまぁ、元の持ち主さえいれば再コピーに制限はねえし何よりライオットの【離合】は何かと便利な【吉兆】を差し置いても手に入れておく価値のある唯術だ。今んとこのベストだと思ってるぜ? この三種のストックはよ」
ティチャナの【同調】。ダルムの【好調】。そしてライオットの【離合】。これはイオが長らく思い描いていた『理想のストック』である。
どれだけ【模倣】の精度や練度を上げようがストック数が増えないことを思えば、この数字が術としての限界なのだろう。四つ五つといくらでも唯術を手に入れるような真似は、できない。その上で、コピー元の術者が死んでいれば再コピーも不可能。
もしもあとふたつ新たにコピーを行なえば【好調】は消え、その本来の主であるダルムの死亡がティチャナにより確認されている以上、再度の入手は叶わない。これは【離合】にも同じことが言える。ティチャナとていつどこで命を落としてしまうかは知れたものではないために、これらの術に高い価値をつけるのであれば新手のコピーは慎重に判断して行わなければならない。
古い順の一番に【吉兆】を置いていたのは正解だったと言えるだろう──もっともそれは偶然の幸いなどではなくもちろん、持ち主であるトリータの生死にかかわらず「仮に失うとした時に優先順位が高くない順番」でコピーしていたイオの用意の良さがあったが故の幸運であったが。
「はっきり言って最強の組み合わせだ。つってもコピーしたての内は十全に使いこなせるとは言えねえ。本当に最強と言えるようになるのは【離合】に慣れてから、になるがな」
「……【離合】に、慣れる」
ライネは【好調】の力を知らず、【同調】についても僅かな理解しかない。だが【離合】の恐ろしさはよく知っている。そんな彼からすればその武器ひとつだけでも再度の戦慄を覚えるに充分であった。
まるで【離合】と同格ないしはそれに近しい扱いを受けている他のふたつにも怖さを感じないわけではなかったが、しかし身に染みた実感として。ライオットという男の強さの半分以上を担っていた「術の強さ」がそっくりそのままイオに引き継がれた。そう考えれば現状がどれだけマズい事態であるかは否が応でもわかるというもので。
──イオの目的は、初めから。
ライネがそう察したことを顔付きから察し返したのだろう、イオは頷いて是を示す。
「協会の転覆なんざついでさ、ついで。や、必ずやるべきことのリストには入ってるんだからそこまで軽いものじゃあねえけどさ。でもフロントラインが──この男が目の色変えてまでやり遂げようとしてたほど俺も情熱を持っていたかっていうと、それはノーだ。むしろサクッと壊れちまうようじゃつまらねえって思いもあったもんだからよ」
お察しの通りに俺の本命は、と足元の汚れを指差すようにして。
「【離合】。このバグみてえにやたらめったら強い男の術を掻っ攫うことだった。流石に俺も正攻法じゃあこいつからコピる気になんてなれなくてね。無理かどうかはともかく支払うもんがデカすぎる。チャレンジ精神は大事だが賭けっつーのは時と場合を選ばなくっちゃあな。幸いにして然るべきタイミングが【吉兆】でぼんやりとではあるが読めもする。おかげで悪だくみはドンピシャだったぜ。ライオットはS級を二人も片付けた上に死にかけてた。協会の頭もきっちりと潰せた。何もかも上手く行き過ぎててめーでも怖いくらいだ……っと、ああいや」
気持ちよさそうに語っていたイオが、そこでとあることを思い出して軽く首を振った。
「何もかもってのは嘘だったな。俺は俺で仲間を失った。死してなお奴は俺の力になってくれちゃいるが、損失は損失だ。たった三人しかいかない貰いもんの貴重な部下、ここが本当に使い時だったのかは【吉兆】の導きがあってなお疑問が残る……つって、本人が楽しそうに逝ったってんなら俺も大して不満はねーがな」
貰い物の部下。貰った。それは、誰から? 明らかに同族と思われる、人のそれではない目や肌を持つ彼らが、何者かによってイオへ贈られたものだとすれば。そんなものをプレゼントの如くに彼女へ与えられる者とはつまり。
自分にとってのシスが、イオを支える三人の部下。今は一角を失って二人になったようだが、とにかく彼らこそが『神のような何か』から下賜された特典。この異世界を生きるための道具なのではないか──そこまで思考を巡らせたところで、イオが横たわっているライオットを越えて近づき、すぐ目の前でしゃがんでいることにライネは気が付いた。
その彼女と目線が合っていることで、いつの間にか自分は膝をついていたのだと。それだけ疲れ切っているのだとようやく自覚した。
「ライネもご苦労さん。そうなるんじゃないかって予感はしてたが、まさか本当にお前がその手でライオットを倒しちまうとはな。弱ってても強かったろ、こいつは。てことはライネもそれに負けないくらいに強くなったってこったな。くっく、『同郷』のよしみとして俺も鼻が高いぜ」
真っ白な瞳孔がライネを見つめる。その何も映さない瞳には、本当に心からの労いがあった。
定められた「敵」であるはずの自分の健闘と飛躍を称える喜びが確かに垣間見えた。それ故にライネは訊ねずにはいられなかった。
「協会を潰して……ライオットを退かして……【離合】を奪って。盤上は全部、君の思い通りか」
「そうとも」
「じゃあ……次はどうする。フロントラインは、協会さえなくなればどうとでもなると考えていた。でもそれは……人として、社会ありきの変革を目指していたからだ。……君はそうじゃないんだろ」
「クク──ああ、そうだとも。見ての通りに俺は人じゃねえ。ライネ、お前だってそこんとこは怪しいもんだ。違う意味でライオットも人間かどうか疑わしかったがな……だがお前たちのような『人並み外れた』って表現がぴったしの人外らしさとは違って、俺やこの二人はガチの人外。人間とは明確に別種族として作られているもんだから仰る通りに人の社会なんぞどーでもいい」
あくまで人の世を変えるつもりだったライオットと、人の世を終わらせるつもりだったイオ。見据えるものが、協会へのスタンスが異なるのも当然で。そして自分はもっと長期的かつ決定的なプランで事を進めているのだとイオは言った。
「人外の世だ。俺たちは人と魔物の混種、ハイブリッドである言うなれば『魔人』! 魔人が人に取って代わる。この世界を俺たちだけの物にする、それがこちら側の最終目標さ。ご理解いただけたかな?」