95.『転』
「!?」
あえて速度差を設けて向かわせていた氷鳥の群れ。その後続組の中でも最もライオットから距離のあった二体を残して他の鳥が全滅した。と、シスが告げるまでもなくライネも異変を感じ取っていた。
何せ途轍もなく激しい振動が空気を叩いたのだ。ライオットがいる場所から発せられたそれがまさか彼となんの関係もないわけがなく、肌で受けたその余波、衝撃の余韻だけでもライネが喉を鳴らすには充分過ぎる脅威が伝わってきた。
斥以上の何か……おそらくはライオットの手札の中でも切り札の類いに相当するもの。それが使われても氷霧は無事に滞留し続けてくれているが、維持を担当しているシスの所感としては「危うかった」らしい。そう聞いてはライネもうかうかとしていられない──氷霧が払われてしまえば形勢不利に陥るのは考えるまでもないことだ──がしかし、そもそもライオットは呑気に考えを巡らせるだけの時間を与えてはくれなかった。
残った二体も即座に破壊された。そして先にも増して俊敏な動きで接近してくる。この事態に警報めいたシスの注意が告げられる。ライオットの戦い方が、変わった。戦法自体は肉弾戦を主体として引や斥でそれを補助する、というものから変更されていないが、けれど明確にその出力が増している。
そうでなければ氷鱗を纏った氷鳥をこれだけの速度で処理できるわけもない。氷霧下で生み出した氷鳥は対引と対斥を想定して最低でも一打は耐えるようにと設計されたものだ。その目論見通りに先ほどはライオットの重い拳を受けてもなんとか破壊されずに済んでいた……なのに、保証されたはずの耐久性が一瞬にして無に帰した。となれば即ち、ライオットの拳の威力が増したのだとしか考えられない。
──向こうも「何か」をしている。そう結論付けるのに思考はいらなかった。ライネとシスが分担による効率化で魔力残量と出力の低下を補っているように、ライオットもまた何かしらの手段によって消費を最低限に、しかし術の威力は最大限に発揮しているのだ。そしてライネには、ライネ以上の観察眼を持つシスにも、ライオットがいったいどういった手法を用いてそれを叶えているのかがわからない。
それならそれでいい。とライネは思う。歴戦にして天賦の才を持つ術師なのだ。こういった唯術とはまた別の面での奥の手くらい当然に持っているだろう。予想できていたことだし、まずもってライオットの消耗が思ったよりも大きかったこと自体が慮外の幸運なのだ。それが覆されたとしても条件はイーブン。元々の想定に戻っただけなのだから今更になって慌てる必要もない。
幾度か軌道を曲げつつもライオットは正面から来ようとしている。シスからの「報告」を下にライネは屋上の床を踏み締めた。氷筍。氷霧によって強化されたそれはもはや氷の柱というよりも壁に近かった。が、ライネは手応えからして氷筍がライオットに命中していないと──つまりは発生させるタイミングが僅かに早かったことを瞬時に悟りつつも、焦りはない。元よりこの氷筍は敵の進路を変えさせるために発動したもの。攻撃の意図はなかった。
最短距離で駆け抜けられるのを阻止したのだ。それによって応対の間に合わない速度で守りをぶち抜かれる危険性を排除しつつ、次に備える。ライオットは壁を迂回してくるだろう。左右のどちらから回り込んでくるのか、あるいは上からくるか。いずれであっても対応できるようにと身構え──凄まじい衝撃音によってライネは気付く。
(進路の変更無し! あくまで正面から突っ切ってくるつもりか)
氷筍という壁に対し、ライオットも出力を上げた斥の壁をぶつけることで粉砕させながら進んでくる。そんな真似をしながらほぼ速度を落としていないのだから空恐ろしい男である。だが思わぬ展開でこそあれ、それでもライネに焦りはなく。
「一極氷鱗──」
ピシリ、と氷筍の表面に走った罅。瞬きの間もなくそれが大きく広がってライオットが飛び出してきた、そこへライネは魔力と氷鱗を集中させた右拳を叩き込んだ。
「ッ……!」
ライオットの頬を穿った、打角もタイミングも完璧な一打。シスの細やかな位置捕捉があってこそライネはこれを打てた。
岡目八目とでも言うべきか、それともそれがシスという存在の特性なのか。ライネ以上にライネの肉体の感覚に敏感である彼女は日頃から敵の存在や術の感知・発見が早かった。それはライネと役割を分担させている今でも変わらず、また術の維持権限を掌握していることも相まって現状はその感覚がより先鋭化されてもいた。
つまりは氷霧や氷筍を介して敵の位置や体勢をシームレスに把握できるようになっており、その情報は逐次ライネへと伝達されてもいる。そしてどちらかが交代することなく二心で完全に同居している現在、伝達にかかる速度はほぼゼロ。
それ即ちライネ自身が完璧にライオットの一挙一動を把握できているに等しく。
(霧の中でシスの探知から逃れる術はない……!)
ライオットがどれだけ自身の気配や魔力を消すのに長けていようとも関係なく、氷霧内部にいる以上は常に捕捉され続ける。斥のバリアによって呼吸や重心といった細やかな情報までは露呈していないが、本来ならシスはそれらも読み取ることが可能だということ。高性能に過ぎるレーダー。その助けがあればこそ通常ならリスクの大きい攻撃部位への魔力の全集中という技術も各段に使いやすくなる。
魔力に加えて氷鱗まで最大稼働させて振り抜いた打撃は、その進行を阻む斥壁を突破してライオット本体にまで威力を届けた。真横へと吹っ飛ばされた彼は自らに引をかけて停止。そして不敵な目付きでライネを一瞥すると──消えた。
「!」
引×引。ライオット最高速の移動。拡充術を用いたとは思えない発動の早さに歯噛みしつつも、しかし目で見失うほどの素早さであろうともシスの捕捉からは逃れられない。どこへ行ったのか、そしてどこから来るのか。氷鱗をニュートラルの全身装備の状態へと戻しながら再び構えを取ったライネだったが、シスが届けた報告はまたしても彼の意表を突くものだった。
「真上──霧を抜けた、だって?」
霧によって視界が遮られているのはライネも同じ。己が術で凍傷を負ったりはしないがこういった副次作用までは防げない──ただしやはり術者であるが故か他者よりは濃霧の中でも見える範囲が広くはある。あるのだが、屋上全域を縁取って氷霧を割合に広く展開している今はその外部にまで目が届くことはない。それでもつい見上げてライオットを探そうとしてしまったのは、おそらく彼の急な離脱の動きにそこはかとなく嫌な予感を覚えさせられたから。
逃げたわけじゃない。体勢を整えるために下がったわけでもない。まず間違いなくライオットはそんな消極的な案を選んだりはしない……彼はあくまでも、どこまでも攻めてくるはずだ。正面から堂々と、力押しで。
「【離合】拡充──」
霧に覆われていない空。横になった体勢で白く染まったエリアを見下ろす彼は、そこへ真っ直ぐに手を伸ばした。練った魔力を術へと流し込む。【離合】の奥義と呼べる『発』でも氷霧を蹴散らすには至らなかったが、ライオットには確信があった。斥と『発』の感触の違い。そこから算するにこれならば足りる。
それは拡充を行なった【離合】の真なる奥義。
「重引×重斥」
引×引と斥×斥の混合。その発動にかかる負荷は『発』の比ではなく、拡充同士の掛け合わせはライオットをしても──大方の敵に対して過剰な破壊力を有する点も含めて──そうそうに使用には踏み切れない、まさに最終兵器。そんなものをライネが使わせてくれた。という事実にライオットの表情には慈しみすら浮かんでいた。
菩薩のような佇まいで、しかしてその手には甚大無比な力を携えて。
「……!」
彼から発せられる強大な魔力のうねりに対し、直接は見えずともこれから何が起ころうとしているかを察したライネは反射的に行動を開始。傍にそびえ立つ氷筍の壁を蹴るように踏み付け、それを一歩として追加の氷筍を発動。横から生やす形で頭の上を新たな氷筍で覆いつつ、氷鱗を全て両腕部へと稼働させて頭の上でクロス。厳重なまでの防御態勢を取った──と同時にそれは来た。
「『転』」
矛盾する力の衝突、拮抗、そして解放。それが原理であるために『発』の射程は恐ろしく短い。精々がライオットの手の届く範囲、そこが一瞬で発散される力が存在できる限界。しかして原理では同一ながら『転』は掛け合わせる力の量も質も著しく高まっているからだろう、『発』よりも僅かな距離ではあるが──腕を伸ばした直線上のみに限られはするが、発射が可能となる。
射程目一杯。だがライネには間違いなく届く。そう計算して放った奥義はライオットの読みの正しさを証明した。
「ッぐぅ……ッ!!」
氷霧に風穴を空けながら。氷筍すらも砂糖菓子の如くに容易く砕きながら落ちてきた途方もない力の塊。目には見えない、されど見ようとせずとも感じ取れる圧倒的な存在感と圧を持っている未知なるそれとの衝突に、ライネは折れんばかりに歯を喰いしばった──だが。
「……ああ、すっきりした。邪魔な霧もなくなってよく見えるようになった。ライネ、君の苦しそうな姿もさ」
見下ろすライオットの視線の先。霧を失くし、壁を失くし、鎧を失くし、ボロボロの身ひとつでそこに立つ少年がいる。『転』の威力は刹那に消える。だがその刹那で全ては破壊され尽くす……はずだったのだが、何重もの防御によってギリギリ、ライネは耐えてみせたようだ。
「凄いじゃないか。俺の『転』を受けて立っていられたのは君が初めてだぜ──と言っても本当に立っているってだけの、もう死に体のようだけど」
とん、と軽やかに見渡しのよくなった屋上へ降り立ったライオットの言葉に、肩で息をしながらも。体中のあちこちから血をだくだくと流しながらも、ライネはこう返した。
「瘦せ我慢はお互い様、だろ? お前だって息切れが隠しきれてないぞ」
「はは、バレたか」
先ほどもらった一極氷鱗の一発。それで零した口の端の血。傍から見てわかるライオットのダメージはそれくらいで、見た目だけなら血だらけのライネよりも随分と軽傷にも思えるが。しかし『発』に加えて『転』まで使ったのだ、いくら魔力の効率的な運用に徹していようともいよいよ瀬戸際。あと少しで魔力を練ることができなくなるというレッドラインの間際にまで彼は来ていた。
通常、それだけの消耗をすれば魔術師は強い眩暈や吐き気に襲われて会話もままならないような状態になる。なのに同じ状態にあるはずのライオットが平左な顔をして涼しい笑みまで見せているのは──やはり彼が天才であり並の術師とは一線も二線も画す者であるからか。
あるいはライネという、本気で自身が目にかけた有望な術者に対して情けない姿を見せられない。その意志と意地が成せるものか。それはライオット本人にすらもわからない。
いずれにしろ。
「お互い崖っぷちってことだ。その体でも使えるような奥の手でもあれば別だけど……どう? まだ他にも俺用の策はあるかい」
「いや……やってみたいことはあったけど、もう試せない。そんな余裕はなくなったよ。あとは、地味に。地道にやるだけだ」
「地味に、地道にか。そうだな、もう派手なことはできない。だから後は地力の勝負になる──そしてその土俵で君は俺に勝てやしない」
「どうかな」
ライネが最低限の魔力だけを纏って構えを取る。それに合わせてライオットも残り少ない魔力をかき集めて全身を強化する。まるで勝負開始時に戻ったような光景。体勢も向き合う距離もまったく一緒。異なっているのは互いに負った傷と、互いにいくつもの手札を失っているという事実だけ。
まさしく地力の比べ合いが始まろうとしている。ライオットの言葉通り、もはや魔術的な反則が活かせない以上は。そして戦闘経験において一日どころか百日の長がある彼に対して、ライネが勝てる道理などない。
そのことはライネ自身にもよくわかっているはず──嫌というほどに理解できているはずだというのに、彼の眼差しにまだ力がある。まったく諦めの色が見えない。そのことにライオットは。
訝しむよりも、喜んだ。
心から純粋に。
「行くよ」
「来い」
踏み込む。引も斥も使わずに脚力のみを頼りに、それでもなんらかの術を行使しているかのように俊敏な動きでライオットはライネの懐に入り込んだ。そうして握った拳を、思い切り、力の限りに。
想いの限りに打ち込んだ。