94.二心
次に何をするのか。氷の鳥を展開してくるか、それとも氷の鱗を頼りにもう一度格闘戦に挑むか。あるいはこれらとはまた別の新術を披露するか。多分な期待を寄せて動向を見守っていたが、しかしライネが予想のどれとも違ってまさかの行動──「氷霧の発動」を選んだことにライオットの片眉が上がった。
以前よりも展開速度は見違えるほどに上がっている。冷気の息はあっという間に周辺に立ち込め、空間を包み込み、屋上の全体を埋め尽くした。きっちりと屋上の形に合わせて区切ることができているあたり、速度だけでなく操作性も以前の比ではないようだ。ライオットが知る限り氷霧とはライネを中心に半球状に広がっていくものだった。そうではなくなった、ならばこれもアップデートされたと見て間違いない。
氷礫が氷鳥となったように、練度の向上もしくは制約の設定によって術としての完成度を上げた。それは確かだろう。だが、だとしても氷霧はライオットにとってなんら恐ろしい術ではない。
(自分にはバフを、敵にはデバフを。それこそが氷霧の真骨頂……でもたとえどれだけバフやデバフの幅が上がってようが俺には関係ないんだよね)
何故ならば、そもそも彼には氷霧を取り払う絶好の手段の持ち合わせがある。
「悪いけどこんなもの斥を使えば一発で──は?」
前にもやってみせて忠告までしたはずだが、忘れてしまったのだろうか。そう訝しみつつも斥を自分中心に発動、拡散。したものの、その狙い通りに氷霧が晴れることはなかった。
確かに斥は周辺の全てを弾いた。空気中の微細な塵や埃までも。なのに肝心の氷霧には影響がない……そのことに呆気に取られて声を漏らしたライオットだったが、しかし理解は進んでいる。
(──身に纏っている斥の壁は突破されていないな。それに今の手応えは……そうかライネ、氷霧のアップデートは術の効果にじゃなく術自体の強度へ施したのか。『その場に留まる』! ただそれだけに増えたキャパシティの全てを費やしたってわけだ)
斥が影響しなかった、というより、影響してなお氷霧が散らなかった。そういう感触だった。なるほど自己強化や敵への弱化といった性能面ではなく、それらの性能を発揮するための前段階を洗練させる。その選択は氷霧という術をより実戦的に仕立てる良い着眼点だと言えるだろう。
と認めつつ。けれどだからこそ、別の部分で余計にライオットには疑問が立った。
(割に合ってないだろ、これ)
この場合の「割に合わない」は称賛の意だ。コストやリスクに対してリターンが見合っていない、のではなく、リターンの大きさに対して払うコストや負うリスクが極端に少ない。そういう意味での割が合っていない、という評価。
氷礫が氷鳥となり、氷筍が下準備無しで繰り出せたり。それらが以前よりも強力な術に仕上がっているのはその分だけ対価を払っているからだ。
対して氷霧はどうだろう? 口から冷気を吐くという特定行動はそのままに、霧の広まる速度は増して、なおかつ敵の術やおそらく地形や強風といった環境要因によってもその霧が晴れてしまわないように「術の維持」にまで改善が成されている──それも取り立てて追加の制約など無しで、だ。
少なくともライオットの観察眼でもそういったものは見つけられなかった。だから始め彼はこの氷霧に『場に留まる力』が付与されているなどとは露とも思いもしなかったのだ。いくらライネ自身の術師としてのレベルが著しく上がっていると言っても、それを加味したとしてもこれはおかしなことだ。
術の改良はそう簡単なものじゃない。ライオットですらも【離合】の発展や調整はその他のどんな魔術的技術と比べても遥かに難解なものだと断言する。それくらいに一朝一夕でいくものではない。あるいは「歯車が噛み合えば」それも絶対にないとは言えないが、しかし鳥や柱を繰り出すのにそれなりの制約を抱えている様を見れば氷霧だけがそういった枷を無視して大きく進化したとは考えにくい。
(てことは、だ。他に何かをしているって考えるべきだな)
エイデンの【雷撃】にできること・できないことを戦闘を通して正確に見抜いていったように、ライオットには人並み外れた観察眼と洞察力がある。自身が頭抜けて優秀な術師であるからこそ他者の技量がよく見えることもその一助となっている。数学を履修していれば算数を駆使する子供の工夫を誰だって理解できる、極端な喩えではあるがライオットと他の術師との関係性は概ねそういったものである。
どういった足し引き、掛け合わせ方、リスクの分割をしているのか。魔術のどの理論をどう用いているのか。そういった式を推察することで術の効力や範囲という答えを読み解く。言うまでもなく読み解かれてしまう側にとってこれは一大事である。魔術戦で情報とは勝敗に、そして生死に直結する重大なものだ。それを一方的に抜き取られるのは極度の理不尽と言って差し支えない。
つまるところこれもまたライオットの戦闘者としての強味。敵の手の内の理解が極端なまでに早く、その対処も早い。──なのにそんな彼が氷霧の設定を読めない、となればそれが逆説的に「事実」を教えてもくれる。即ちカラクリは術そのものではなく、それを操っている術者の方にあるのだということを。
「どんなズルしてるんだ? 俺の斥はそこらの魔術師の術や自然風とはモノが違う。言うほど簡単じゃあないはずだぜ、この現状を作り上げるのは。種明かしを期待してもいいかな」
薄く視界を遮る霧の向こうに佇む少年へ、そう問いかけてみると。
返ってきたのは言葉ではなく行動だった。
◇◇◇
《私は術の制御と纏っている常時魔力の維持、そしてそれ以外の細やかな補整のみを担当します》
OK。僕の担当は肉体の主導操作。それから術の選択と魔力の移動、だね。
《例外として動作に適宜合わせる必要のある氷鱗だけはご自分で操縦をお願いしますよ。あとは全て私にお任せを》
うん、任せた。
──どちらかが主導権を完全に握るのではなく、分担する。それがつい先ほど閃いたばかりの秘策。
これまで一度だって試したこともない、それどころか思い付きすらもしなかったそんな真似が、どうしてか「できない気がしなかった」。今の僕になら……いや僕たちにならできる。本来なら一人でやらなくてはいけないこと、そして一人だからこそ皆ができていることを、二人がかりで臨む。
負担を半分に、効率を二倍に。それが理想。だが別々の意識同士を同居させて連携するなんてこと、どう考えたって難しい。下手をすれば一人で全てをやるよりも酷い有り様になりかねない。だというのに僕もシスも、恐れはなかった。そんなことにはならないという予感があった。僕はシスを信頼しているし、シスも僕を信頼してくれている。そして互いにそれを感じ取っている。そういう特別な繋がりがあるのだから、上手くいかないわけがない。自然にそう思えていた。
ライオットは想定通りに想定を超えた強者であったけれども、この確信ばかりは揺らがなかった。つまり。
シスとの完全なる二人三脚。彼女と本当の意味で一緒に戦えるのならば、たとえ相手がライオットだろうと──倒せる。勝利を手にすることができると、それも僕は強く信じている。
契印を組み、手で翼の形を作る。僕の動きに反応してライオットも動くのではないかと警戒したがその気配はない。お手並み拝見、といったところだろうか。こうやって本気の殺し合いをしていても余裕の上から目線……腹は立つけれど好都合だ。待ってくれるというのならこちらも余裕を持って準備ができる。
氷鳥を生み出す。氷霧という僕の魔力から作られた水分で満たされている今、発動する術は全て一段階強化される。先ほどまでは五体が限界だった氷鳥もその倍、十体も生成できた。これは氷鳥への指示をシスに一任するから届いた数でもある。そして氷霧内で生まれた鳥たちは通常よりも一回りは体格が良く堅牢になっており、だからといって機動力が落ちているわけでもない。純粋に強くなって数を増した。これにはライオットも今までのような片手間での対処が難しくなるだろう。
しかも強化はこれだけに留まらない。僕は生成の度に一緒に氷鱗も展開して纏わせた。これもたった今思い付いたばかりの組み合わせだが、やはり上手くいった。術の感触からしてそれがわかる──氷の鱗で武装した氷の鳥。その群れが出来上がった。
《この氷鱗の維持は私が行いましょう。ですが》
わかっている。僕がやっているみたいに攻撃や防御に合わせて鱗を移動させる、なんてことはしなくていい。他の術の制御もあるのにそんな複雑なことをさせようとは思っていないよ。ただ鳥たちが一定だけ硬くなってくれればそれで充分だ。
《そうですか。ならば結構、始めましょうか》
ああ。──ここからが本当の戦いだ。
二心同居の心強さで、僕は一歩を踏み出した。
◇◇◇
「!」
氷霧の向こう側で再び氷鳥が作られているのには気付いていたし、それは想定内の選択でもあったが、しかし見える鳥影の数が明らかに先よりも多いこと。そして勢いよく飛び込んできた最初の一体を確かめて、その姿のあまりの変貌ぶりにライオットは驚かされた。
(でかっ。それも鱗付きとは、やるね)
下がりながら数えれば、十体か。これだけの数に加えて見るからに質までも向上させているとは──やはりおかしい。氷霧による下駄があったとしても上がり幅が尋常ではない。氷霧のアップデートには強化幅の上昇も含まれていたのか? ……もしもそうなのだとすればそれはそれでおかしいので、やはりライネが何かしら、ライオットにすらも判然としない反則をしているのは間違いない。
(考えてもわからないってのは気持ちが悪いな。魔術戦でこんなことは初めてだ──けど、まあ。楽しくもあり、ってね)
引で一体だけを引き寄せて、そのままカウンターの要領で殴る。芯のブレていない良い一撃。拳に込めた魔力も充分。ライオットの意識としてはそうだったが、しかし氷鳥は無事だった。殴られた部分の鱗が剥がれ、剥き出しになったそこに深々と亀裂も生じているが、飛ぶことに支障はないようだった。そのことにライオットは目を剥きつつも体は素早く対応。氷鳥が距離を取る前にすかさず同じ場所へ同じ威力の打撃を叩き込み、今度こそその身を粉砕させた。
ぱらりと装備対象を失った氷鱗が剥がれ落ちて霧と同化するように消えていく。そこを突っ切って殺到する九体の氷鳥。その間隔と、そして思わぬ鳥の頑丈さにライオットは少々考え込みながら位置を変える。
(氷霧下の影響があるなら鱗の方にも強化はある。それ込みで一撃で壊すつもりだったんだけど……まさか引を絡めた一発でも耐えてくるとは予想外。それにこの飛び方。咄嗟の時以外は自動操縦丸出しだったのが様変わりしたな。ちゃんと嫌な距離感で必ず数体は俺の死角へ入ろうとしてくる……ああ、面倒だ)
うんざりと吐き捨てた思考とは裏腹にライオットの笑みはますます深くなっていく。
(面倒の元凶はこの霧だ。氷霧の外に出てライネを狙い撃つか? いや、氷鳥は氷霧外まで追っかけてくるだろうしそもそも霧越しじゃ引も斥も正確性に欠ける。氷霧を解かせるのは多分ムリ)
斥を纏うことによって氷霧の最も恐ろしい効力である体内への氷の侵入は防げているが、だとしても氷霧内で戦うのはあまりに向こう有利が過ぎる。なのでこの案も魔力残量が潤沢でさえあれば物は試しにとやってみたかもしれないが、ライオットからしても魔力消費が馬鹿にならない空中戦で鳥たちに追いかけ回されながら引や斥でライネ本体を狙う、というのは少々現実的ではない。そこまでやっても高確率で空撃ちに終わるとなれば尚更だ。
だったらやることはひとつ。
(捏ね繰り回すよりもシンプルな力業。それで捻じ伏せるのが一番理に適ってるね)
足を止める。途端に氷鳥の編隊に反応が見られ、前から四体。左右から一体ずつ。背後に回った三体が迫ってくる。その陰に隠れるようにしてライネ自身も近づいてきていることをライオットはしかと捕捉している。
どうやら追加の一体はまだ生成されていないようだが、言うまでもなく氷鳥一体よりもライネの方が遥かに厄介だ。この包囲網の突破は容易ではない──包囲されているのがライオット以外の者であれば。
「いいぜ、ライネ。ここからは俺も遊び無しだ」
引と斥を混合発動。併用ではなく同座標へ同時に発生させたふたつの矛盾する力同士を、強引にひとつの術として成立させる。【離合】という唯術の奥義。拡充を含めなければ間違いなく最大にして最高の威力を誇るその技の名を。
「『発』」
ライオットはそう名付けていた。
──力が迸る。




