93.試行
全身に纏うつもりで作り出した氷鱗。その展開を頭部から始めていたのは単なる偶然ではあったが、それは大変に意義のあるものとなった。
引と斥を組み合わせたライオットの高速駆動にライネの防御は間に合っておらず、彼を追う氷鳥たちも当然に引き離されていた。つまり氷鱗がなければ、攻撃前から先んじてその発動に踏み切っていなければ……あるいは腕や脚といったより氷鱗を強く使える部位から展開を始めていれば、なす術もなくやられていた。
恐るべき威力を秘めたライオットの天空踵落としを頭頂部という急所に食らって、即死。
そうでなくとも致命的な傷を負っていたことは想像に難くなく。
しかしライネは幸運を喜ばない。氷鳥の成功と同じだ。今の自分にならこれくらいのことはできる。偶然であって偶然でない。己は己の勘の冴えによって助かったのだと、そう信じて疑わない。そう感じて迷わない。
正しい、と彼の中で彼女の声がその肯定感を肯定する。
それは魔術戦における、そして対格上戦における何よりも重大な要素のひとつだと。
「おっとと」
蹴り脚の停止、と共にライオットの落下も止まり、そこへ残る三羽の氷鳥が突っ込んできた。その内の一体を打ち落としつつ離脱。それでも鳥たちは追いかけてきたが、真っ直ぐ最短を走ってくるのは想定通り。それじゃあ機動力を持たせた意味がない、とライオットは進路上に罠として置いておいたふたつの斥で弾いて壊した。けれど。
「!」
何やら氷を身に纏ったライネの周囲に、氷鳥が追加で生成されている。どうやら本当に氷鳥はリソース確保の面で抜群に優れた術であるようだ……無論のこと新術と新術の同時使用。それが叶うのはライネ自体の術的容量が以前より各段に増しているからこそであろうが。
(術の完了までの時間稼ぎ。そのためにあえて落としやすいように飛ばしたってことか。あの速度で新しく鳥を作れるならそうするか)
しかし作成は五体分が同時進行ではなく、一体ずつ追加していく形式のようだ。つまりそれは、一度に全滅させればほんの僅かな間でもライネの周りに護衛がいなくなることを意味している。引と斥を併用すればどこをどう飛んでいようとまとめて墜とすのはそう難しくない。
ならば今すぐ実行すべきか?
答えは否。
(あの妙な氷の衣装はかなり匂う……物を凍らせる部分でライネの唯術は『触れること』を重視している。直接拳を当てるのはちょっと避けたい)
氷の服はともすれば接触凍結の新たな起点として生み出したものかもしれない。組手の経験から瞬間的な接触であれば表皮のごく一部しか凍らない、とは知っていても、その明確な欠点を知っているだけに現在のライネがそこを埋めていないとはとても考えられなかった。
ライオットの魔術センスが──斥の反動を利用した蹴りが容易く受け止められたという事実も合わさって──ライネの身を覆う氷術が彼の目から見ても実に高度なものであると教えている。
そうなると……。
「ライオット」
思考を巡らせているところに聞こえてきた、呼びかけ。ライネは落ち着いた顔付きで、けれど戦意という熱を持った瞳でこちらを見据えながら言った。
「今度は僕がお前を試す番だ」
「……はっ」
試すと来たか。その言葉をライオットはジョークとして軽く笑い飛ばす。だが笑みの質は少しだけ変わっていた。
ライネの足元。屋上の床と足裏の設置面という極小の一点にのみ斥を置き、炸裂させる。一流以上の技量が成せるほぼほぼ外に漏れない完璧な魔力操作。その僅かな流動の気配をライネはしかと見逃さなかったが、しかし己が足の下にそれが置かれるというのはこの状況においてまったくの思慮外にあった。
結果として反応は遅れ、マズいと思考が警告を発した時にはもう体勢が大きく崩れていた。
「引」
「氷鳥!」
ライネの隙へ嬉々として飛び込んでこようとするライオットの術に合わせて、再度鳥たちへ指示を出す。半自動──基本はライネの周囲を旋回、敵が接近すればその都度に直線的ではない軌道で襲いかかるという──プログラムが直接の命令に書き換えられてやにわに氷鳥が機敏に動き、ライオットの進行先。つまりはライネとの間に入り自らの体を壁としてその接近を阻害せんとする。
が、ライオットは止まらない。引×引の最高速ではないからこそ引き寄せによる移動中にも途上にあるものへの攻撃を可能としたライオットは、その猶予を活かして全ての氷鳥へと丁寧に打撃をプレゼントして払拭。自身の進路を確保しつつ目論見通りの接近を果たした。
これにライネの表情が歪む。隙を作り出せたのだからそこを突くべく最短距離を詰めてくるだろう、と予想したからこそ五体まとめて壁に使った。その予想自体は当たっていたが、しかし最短ではあっても最速でなかったことで計算が狂った。
繰り返された組手の最中、どこかでぽろりとライオットが漏らした情報。引の移動は速いというよりも早く、そしてその掛け合わせである引×引──自身と移動地点の双方に引を発生させて互いに引き合わせる拡充術──は早いというよりも速い。その速度は単体の引と比較して倍するどころか乗するほどであると。
代償として、というよりは拡充で獲得した術に付き物である調整の結果として、単体の引よりも発動までが(ライオットの時間感覚で)遅く、魔力消費もそれなりで、そして一度発動してしまえばそのあまりの速度故にライオット自身の行動が大きく制限される。傍目からはよく似ているようでいて、けれどもそういった負担がない単独の引とはこれらの点から「使いどころ」が異なってくる。
という前提を知り得ているライネは、隙を攻めるならば最速で来るだろうと。こちらの体勢を崩した斥の発動時点から並行して引×引の準備も進めているはずだと想定し、自分でも制御の利かない速度で真っ直ぐに突っ込んでくるライオットに氷鳥を衝突させてやる腹積もりでいたのだ。
ところがライオットの選択は最速ではなく最適だった。まるでライネの咄嗟の策を読んだかのように──否、ようにではない。
読んでみせたのだ、この男は。
そして刹那の間に正しい行動を取った。
ただし。
ライオットが接近するよりも早く下した氷鳥への指示。ライネが用意した壁はそれだけではなく。
「氷筍!」
「!」
鳥を叩き落としてライネの目前にまで迫ったライオットが、手を出すよりも僅かに先んじて。ライネが崩れた姿勢を正すために踏み出した一歩。その足元が凍り付き、そして瞬間的に膨張。地面より生える氷の柱となって──槍となってライオットを襲った。氷鳥に続く第二の壁、兼、攻めの一手。
決まった。そう信じた。
だが。
「!?」
今度はライネが瞠目する番だった。完璧なタイミング。攻撃を仕掛けようとしているその瞬間にカウンターで迫った氷槍の切っ先にライオットは対応などできない……というライネの予想はまたしても的中し、実際に彼は何もしなかった。けれどその理由までは彼の想定通りとはいかず。
ライオットはできなかったのではなく、あくまでも「しなかった」だけ。対応の必要がなかっただけなのだ。殺到した氷筍が、ライオットに命中したかに思えた途端にその先端から砕け散っていく様を見て、ライネはそれを理解した。
(斥を纏っての全身バリア! いったいいつ張った!?)
ライネからすれば厄介極まりない攻防一体の手段である斥の鎧。初手の格闘時には確実に使っていなかったそれを、どのタイミングで発動させたのかがわからずライネは焦燥に苛まれる。
ライオットの極めて静かな魔力操作が目で、肌で感じ読み取れるようになった。これは彼との戦闘における甚だ大きな要素であり、ライネの自信と助けになるものだった。気が付けば術中に嵌っており何がなんだかわからない内に敗北する。という、以前のようなことにはこれで少なくともならない──その確信が、たったいま揺らがされた。
ライオットの笑みが深まる。と同時に蹴りを一閃。彼にぶつからなかったことで無事である残りの氷筍を粉砕しながら迫るそれをライネは飛び退いて躱す。氷鱗の恩恵は防御力だけでなく、攻撃部位に纏っていれば攻撃力が、脚部に纏っていれば移動力が増す。そのおかげで間一髪の回避を間に合わせたライネ。
それを受けてライオットは初見の術のカラクリを概ね看破しつつ、言った。
「うん、その術もいい。ただし浮かれちゃいけないぜライネ。どれだけ機能的な術を開発したって役に立つかどうかは君の手腕次第。術者が間抜けじゃどんな力も持ち腐れってやつだ」
「……言ってくれる」
だが、確かに間が抜けていたと認める。
発動時の防御と、今の移動。たったこれだけを見て氷鱗がどういった術なのかを察したらしいライオットの眼力に比べて自身のそれは、発展したとはいえまだまだ甘い。そこは身に着けたての弱さと認める他ないが、しかし今の今まで「その可能性」に行き当たらなかったのは考えが足りなかったと自戒しなければならないだろう。
ライオットの魔力操作は、面と向かって集中していても気付けないほどに滑らかで静か。一切の淀みも荒れもなくいつの間にか完了している術の起動とその干渉によって、彼の敵は反撃の機会もなくやられてしまう。
言うまでもなくこれは圧倒的な強味だ。が、ライオットはこの強味を殊更に努力して引き出しているわけではないのだ。彼にとってはこれが「普通」。他の術師がやっているように自分にできることを当たり前にやっているだけ。それが常人の理解も理屈も及ばない結果を生んでいるという、それだけのことなのだ。
つまり。
(今まではそもそも隠そうともしていなかったんだ。本気になってライオットは初めて、強めて魔力の起こりや流れを隠す……! 僕はそれをまんまと見逃した!)
読み取れるようになったのはあくまでもライオットの普通。それよりも上のステージへ移った彼についていくためには今のままでは足りない。もっと集中しなくては。より鋭敏に観応じ、より機敏に反応し、より俊敏に対応しなくては──そうでなくては、これまでライオットに敗北してきた誰も彼もと同じく何もできずにやられてしまう。
冗談ではない。
「試されているのは変わらずそっちだってこと。わかったかい?」
顔付きを強張らせているライネとは対照的に、余裕綽々の表情でこれ見よがしに全身の魔力を立ち昇らせるライオット。出力を上げた。それは彼の打撃が更に重みを増し、魔力防御が高まることを意味する。だけでなく、術の行使における魔力操作の流れを隠しやすくもする。
殊更に魔力で威力を追求せずともライオットは引と斥の活用で既に十二分な攻防を行なえている。なのに、残量の不安を抱える中で何故こうも贅沢な魔力の使い方をしているかと言えば……ライネを追い詰めたいからだ。
追い詰めて追い詰めて、その先にあるだろう「何か」を見たいからだ。
(術のそれとは違って身体強化は魔力の長期運用に優れている。出力を上げれば消費も早まるが俺は回復速度だって人よりずっと早い。問題はなし……それよりも)
問題なのはライネの方だろう。勝負開始時の魔力残量で言えば彼が勝っていた。しかし自分との戦いに向けて新開発してきたらしい術はどれもこれも魔力の消費が少なくない。氷の鳥に氷の鱗、そして氷の柱。ライオットの目から見たところこの中でコストパフォーマンスが良いと言えるのは鱗くらいのもので、あとのふたつは──ライネの精神状態が作用して必要量より多く消費している可能性もあるが──決して安価な術ではない。
ライオットと違い元より身体強化を全開にしていたこともあって、今や両者の魔力残量は互角……否、ともすれば逆転し始めている。ライネに残された魔力はそれくらいの水域にまで来ていた。
ライネの魔力回復の速度は決して遅くない。それどころかその面においても人並外れているライオットと与する程度には彼も優れている。だが身体強化でも術でも、魔力消費の機会の一個一個で効率性が劣っている。先行けば不利のレースでライネが前に出てしまっている要因はそこにある。
これはライネの技量が低いのではなくライオットが巧者に過ぎるのだと評すべきではあるが、なんにせよこのままでは勝負が終わる前にガス欠で決着がついてしまう。──故に。
やりますか、とライネの裡で少女の声がする。直通エレベーターで屋上へ上がる間に思い付いた、対ライオット用のとある秘策。それを行なうため。ここまで出番のなかった彼女に頼る時が、今。
ライネは内心だけで頷きを返す。
勝負所はここだ。「ライオットの本気を引き出せるくらいにはなれた」。今まで一度だって叶わなかったそれが素の状態でも成し遂げられたのだから、後は思い切りぶつかっていくだけ。二人の意見は一致していた。
「!」
コォオオオ、とライネの口から吐息と共に冷気が吐き出されていく。
氷霧。件の強化術を切ってきた。そう悟ったライオットの眼差しは……どこか些か訝しげであった。