92.始まり
「やれやれ。この私が逃げの一手とは、無様なものだ」
上階まで吹き抜けになっているエントランスへと降り立ち、ティチャナは緩やかに首を振った。イオの配下として恥ずべき行為をしたという自覚はあるが、あの場面、一か八かでS級一人のために命を懸けるよりも優先すべきは撤退一択だった。
ついつい戦いの熱に浮かされて仲間のような行動に出てしまうところだったが、それをぐっと堪えて冷静に事を運んだ己にティチャナは口では無様と言いつつ満足も覚えていた。
ダルムは本能に忠実でもいい。彼には元からあれこれと物事を深く考る能がないのだから。故にその分だけ自分が理性的であらねばならない。それがイオのためになるとティチャナは知っている。なので、おめおめと敵に背中を見せたことを恥とは感じていてもそこまで深刻に捉えてはいない。矜持に傷がついた、などとは露ほども思っていなかった。
それになんと言っても、自分が逃げたのだと気付いた瞬間のS級とそのお供の反応を想像すれば胸がすくというものだ。直前になって方針転換したからこそ彼女らは狙いに気付くのが遅れたし、完璧に騙された……と誤解もしているはずだ。
今頃は泡を食って──【同調】の唯術を持つティチャナを野放しにしてはどれだけの被害が増えるかわかったものではないために──探し出そうとしているだろうが、ティチャナも易々と捕捉されるつもりはない。今はきっちりと魔力を殺している。いくらS級が優れた知覚能力を持っていようと探知だけでは素早く見つけられなどしないだろう。
「さて。確かにこの辺りのはずだが」
周辺を見渡す。ティチャナがエントランスにいるのは何も無軌道に逃げた結果ここへ辿り着いたのではなく、上座の居場所へと向かう途中で感じられたダルムの魔力を目印に移動してきたのだ。しかし見える範囲にダルムはいない。どころか、まだ戦闘が続いていれば探らずとも気付けるはずの魔力の余波すらも一切ない。
これは甚だおかしなことだった。戦闘が終わっているのなら、それは好都合。ティチャナほど上手く自身の魔力を隠す術を持たないダルムは、またそんなことをしようとすら思わない本人の性格も相まってただそこにいるだけでも色々な意味で抜群の存在感を放つ。が、かと言って四方八方に彼が存在することを喧伝するほどのものではないために、ダルムをよく知る者──ここではティチャナくらいしか、非戦闘時のダルムを探し当てることはできない。
問題なのは、ティチャナであれば見つけられるはずのその「平時のダルムの魔力」がまったくと言っていいほど感じられない点だった。
感知が及ばないほど遠くにいるのか? ティチャナが思うよりも随分と早くに決着がついていたならそれもあり得る。何せ本館を含め協会本部は──ティチャナからすれば不必要に思えるほど──広い。己の魔力を操る術においては優れていると自負する彼も、他者の魔力を感じ取る力についてはまだ発展途上。まずもってこの建物の端から端までを感覚器官で捉え切れているとはとても言えないのだから、自分のように戦った場所からダルムも大きく移動していれば彼を見つけられないことは充分にあり得る。
だが。
「ふむ……」
根拠はない。強いてそれらしいものを挙げるなら、あれだけの魔力を発するとなれば敵はおそらくS級テイカーであったろうことと、故の激しい戦いを繰り広げたであろうこと。その後の精神的なクールタイムも踏まえて、あのダルムが速やかに魔力を静めて戦闘現場から離脱する様が少々想像しにくい。
という、ちょっとした疑問程度の引っ掛かりが、今この時のティチャナには非常に重要であるように思えた。
「──ダルム」
果たしてその気掛かりを胸にエントランスから続くエリアの二階部分に足を運んだところで、彼は探し人を発見した。
上半身と下半身を分断されて息絶えている、もう二度と動かないダルムを。
「…………」
少し離れた場所にはダルムと戦っていたと思しき人間の死体もある。こちらは顔面が陥没しており人相の把握が困難だが、ティチャナの予想通りにS級だとすればこれは体格や髪色からしてエディク・フォーゲンに相違ないだろう。──相打ち。互いの必殺が互いに炸裂し、両者死亡という結末になった。状況からしてそう見るのが自然だ。
「上半身が胸から上しかないな……そしてこの内側から爆ぜたような傷跡。お前がどういう終わり方をしたのか手に取るようにわかるぞ、ダルム」
途轍もない激痛だったろうに、しかしダルムの亡骸は悲痛な顔をしていなかった。満足そうに、死んでいた。配下三人の中でも一際に純粋で、一際に戦闘欲の強かった男だ。エディクはそんな彼が戦いを思うがままに楽しめた最初で最後の相手だった、ということだ。
少なくともダルムは後悔の内に沈んだわけではない。
そうと知れただけでもティチャナには充分だった。
「……それにしても。人間と魔物の混成とでも言うべき私たちだが、死んでも魔物のように魔石を遺して体が消えることはないのか。これは発見だな。イオにも報告しておくか」
ダルムの遺体も上下セットで彼女の下へ届けた方がいいだろう。そう決めて、先ほどからこの付近で感じられている戦闘の気配に対しティチャナは改めて意識を向けた。場所はエントランスを反対に抜けた側、協会本館の玄関前にある広場のようだ。
「イオの実験動物。なかなか頑張っているようだな。相当に肉体の変化も進んでいるようだ」
だが少々、苦戦中だろうか? 敵の増援が現れたことで優勢が崩れたようだ。特に一人、ユイゼンと比しても劣らないだけの魔力を放っている者がいる。これを片付けるのは実験動物には荷が勝ちそうだ。
仮にもイオの手に拾われた者だ。変化の果てで彼がどうなるかを見届けるのもきっと今後のためになる。ハワードという個人に対してティチャナは特に思うことなどないが、それは見捨てる理由もないということだった。助けてやるかと一旦はダルムを置いたままでそちらへ足を向けようとして──。
「……!」
あることを察し、彼の足は止まった。ハワードどころではなくなったのだ。
踵を返してダルムの上と下をそれぞれの腕に抱えた彼は、広場とはまったく別方向へと消えていった。
──彼がもしハワードへ助太刀していれば戦局はまた変わり、下手をすればミーディアたちは全滅していたかもしれない。その可能性が潰えたことで九死に一生を得たわけだが、当然、それをミーディアたちが知ることはない。
彼女らを救ったものは──ティチャナにだけ判ぜられる、とある人物からの呼びかけだった。
◇◇◇
立ち上がりは静かだった。互いに魔力を凪に留めたまま、自然な歩調で距離を詰めていく。どちらから提案したわけでもなく指し示したように同じ行動を取っているのは、これが地下基地で何度となく繰り返した組手の「始まり」だったからだ。
言葉もなく。双方がリーチ圏内となったところでライオットの拳が閃いた。
ライネは打ち込まれたそれを頭の動きだけで躱しつつ近づき、左フックで脇腹を狙う。だがそれは予期していたような手の動かし方で簡単に受け止められた。
そこから打ち込んだ腕を折り曲げての肘打が来るが、ライネもまたそれを読んでいたかのように無理なくしゃがんで躱し、足払い。しかし軽く跳ばれてすかされる。
互いにリーチ外となり、見合う。ライオットは楽しげに笑い、それに応じずライネの顔付きは真剣そのものだった。
「なんだライネ、目も反応も良くなったね。別人じゃないか」
「半分くらいはお前のおかげだ。お礼にこれからもっと驚かせてやる」
「そいつは楽しみだ!」
引。引き寄せる力を自身に作用させての急接近。からの、その勢いを殺さずの打突。槍のように突き出された縦拳をライネは防いでみせたが、受け切れずに体勢が後ろへ流れる。そこに掬い上がって迫るライオットの蹴り脚。無理な姿勢からでも頭部を守るべくライネは拳の甲でそれを止めたが、止めた瞬間斥──引き離す力がそこに発生。まるで二発の蹴りを食らったようにライネが弾かれて飛ぶ。
「くっ……!」
堪え切れない、と悟ると同時に自ら跳ねたのがよかった。力に逆らわなかったことでライネは宙で体勢を整えて足から着地することができた。大きな隙を晒さずに済んだ……しかして彼の表情に安堵は見られず。
「予想してても対応は無理だろ? 言ったはずだぜ、俺との格闘にはこれが付き物だって」
ライネに反論はなかった。引と斥。自在に近づけては自在に遠ざける。手足に限らず体のどこにでも、なんなら周辺のどこかしこにでもそれらの力を発生させられるライオットと殴り合うなど正気の沙汰ではない。
魔力残量が心許ないが故だろう、ライオットは唯術を小規模にしか使っておらず明らかに節約を意識している。だというのにこの有り様だ。打撃に術を乗せられてしまえば手も足も出ない。やはり彼の言うことはいつでもどこまでも正しい。肉弾戦においては依然として勝ち目がない。
そう認め、ライネは。
「──氷鳥」
両の手で翼を模した印を組み、それを呼び出す。氷で出来た鳥。現れたその物体をライオットがそう認識した瞬間。
「!」
羽ばたき、そして迫る。その思わぬ素早さに少しだけ目を見開きつつもライオットは魔力を込めた裏拳でそれに応じる。問題なく打ち砕けた、が、目算以上の硬さと威力を拳に感じて今度はその金色の目を細めた。
(氷礫のアップデート版、かな? あの礫よりは若干だけトップスピードが落ちるし溜めもいるみたいだけど、代わりに機動力と誘導性を得たってところか。しかも……)
今も鳥は増えていっている。──合計は五体、それ以上出てこないからにはそこが現在のライネの上限のようだった。
彼の傍を飛び回る鳥たちと彼自身の様子を窺えば、鳥の操作に脳のリソースが割かれていないことが見て取れる。簡単な命令だけを受け取っている半自動操縦か、それとも鳥自体が独立して動いている完全自動操縦かまでは判別がつかないが、少なくとも氷鳥が術の並行行使における圧迫の原因になることはないだろう。それは確かで、ライオットは感心する。
「いい術だ。やられたら大半の術師はうざったいだろうね。俺は別だけど」
「よく言う。今のお前には多少なりとも魔力を使わされる存在は鬱陶しいだろうに」
手印──術の契機といった特定行動として用いられるそれは主に契印と呼ばれる──を解いて、ライネは強気に返す。その内心で大きく息を吐いていることは、さすがにライオットにも見透かされていないことを祈る。
氷鳥は先ほど目にしたユイゼンの氷竜、その技術とエッセンスを自分なりに取り入れて氷礫をより実戦的な術へと昇華させたものだ。ぶっつけ本番で試したことが予想以上に上手くいった、そのことにライネは手応えを抱く。
氷礫の利点はモーション無しの溜め無し、ついでに魔力もほとんど消費しないことにあった。氷鳥はそれらの旨味を全て捨てているが、しかし氷礫にはできなかったことができる。
こうして飛び回ってくれているだけでも牽制としては充分、もしも勝負のどこかでまともに命中すれば美味しい。それだけにライオットからすれば決して軽視も無視もできずその分だけ集中力が散らされることになる。これもまた、最高に美味い。
「ま。単発小火力で見てから避けるのも余裕だった礫からの進化としては上出来だろう。でもさ……そんなもので俺を攻略できると思っているのなら、少しショックだ」
組手での痛めつけが足りなかったかな? などと嘯きながらライオットの姿が消える。
「……!」
少し前まではまったく見えなかったその挙動、だが今のライネには魔力の起こりと術の作用がなんとなくではあるが感じ取れる。ライオットの恐ろしく静かなそれらの気配を目や思考というよりも肌と直感で読んだライネは一も二もなく横へ飛びのいた。斥を作用させた拳が、空を切る。
あと一瞬でも反応が遅れていたら無防備な背中に食らっていた。そう思えばゾッとするものがあるがそれに構わずライネは床に手をついて体の向きを入れ替えながら距離を取り、「半自動操縦」の氷鳥へ一斉にライオットを襲うように指示。途端に四方から鳥たちがライオットに殺到するが──。
「なるほどね」
この挙動と統率からライネと鳥の間にある繋がりの種類をほぼほぼ正しく看破しつつ、どうしても邪魔な二体だけを殴打で破壊。そして残りには目もくれずにライネへと接近。彼が身構えた瞬間に引でその頭上へと跳び、斥で己が身を弾いて急降下。脳天に踵を叩きつけようとして。
「!」
いつの間にかそこに生成されていた氷の層。ライネの身を守る鎧のように展開されたそれによって阻まれた。