91.増炎
体内に埋め込まれた魔石の影響によりハワードは、【強靭】を適用中のギドウスに勝るとも劣らない肉体的な硬さを手に入れている。つい先刻のギドウスとの戦闘で必殺技であるはずの極斬りが必殺足り得なかった経験を経ているミーディアが、しかしハワードの首を切り裂いたこと。しかも魔力と唯術で二重に守られたその上からそれが成せたというのは、この一時間足らずの間にも彼女が戦士として、魔術師として成長した証と言えるだろう。
だが、今ばかりは。その成長があと一歩及ばなかったことにミーディアは歯噛みする。
(断ち切れなかった……! 斬れはしても落とせなかった!)
まさに首の皮一枚。たったそれだけに阻まれて完全切断には至らず、その僅かに繋がった首が立ちどころに修復されていくのを目の当たりとしたからには否が応でも自分が失敗してしまったと理解できる。理解、させられる。
火花によって剣先がほんの微かにブレていなければ。あと少しハワードの魔力防御か肉体のどちらかでも硬くなければ……確実に首と胴を泣き別れにできていたはずなのに。しかし全ては「一歩」及ばなかった。結果としてミーディアは千載一遇の好機と少なからずの魔力を失い、囮役となったガントレットは意識こそ繋ぎ止めてはいるが地に膝をついたまま動けず、とても戦える状態にない。
──ますます状況は不利になった。あっという間に切れた首を元通りにしてニタニタと笑うハワードに、ミーディアは悪態をつく。
「化け物が」
「かっか! 誉め言葉をどうもよ。だがな──」
落ちかけた頭部を事も無げに治すという度を越えた自己治癒の性能。それに加えて、あたかも治癒が起点になったかのようにますますハワードの裡から感じられる力が増している。化け物とは単純な力量ではなくそれも含めてのミーディアが抱いた端的な感想であり、しかしてハワードは「まだ」だと。その感想を抱くにはまだ早いだろうと機嫌よく言った。
「俺が真の化け物になるのはここからだぜ!?」
「……!」
やはりミーディアの見識に不足はなかった。増幅された力が、容貌にも表れる。ハワードの肌はますますどす黒く染まり、体格まで一回りは増した。魔力も従来の彼のものからはかけ離れて変質していく。
──もはや人間ではない。今やガントレットをも大きく超える上背と厚みを持ち、全身を黒々とさせて。けれど目玉だけは爛々と、ぎょろぎょろと白く剥いている彼を見てミーディアは言いようのない悪寒と嫌悪感から背筋に冷たいものが走った。
変化にはまだ先があった。いや、これでもまだ「途中」なのかもしれない。だとしても、恍惚としたハワードの顔付きからは充分過ぎるほどの「取り返しのつかなさ」が感じられた。
「あぁ……すげえ。これが俺か。これからの俺が見続ける景色か。悪くねえ……いや違うな、最高だ。これより気持ちのいいもんはねえ」
無論、取り返しなどつかなくともハワードは構わない。軽い吐き気や酩酊に似た症状が出ていることだってどうでもいい。そんなのは全て些末事。重要なのは力。何を置いても力こそだ。目障りだったいじめっ子のガキ大将を、目覚めたばかりの魔力でぶん殴って泣かせた。そうして持て囃されたことが全ての原点である彼にとって、あの時以来に抱ける展望の予感は甘く蕩ける味がした。
「感謝してるぜぇ、てめーらのおかげで慣らしも大方済んだ。この身体でどう戦うのがいいかもわかってきた。ってことでトドメといかせてもらおうか!」
用済みと言わんばかりにハワードが繰り出した電撃混じりの拳。雑に繰り出されたようにしか見えないその一撃は、しかし異形と化した肉体がもたらす圧倒的なスペックに助けられて極斬りにも迫ろうかという必殺の威力を備えていた。
死。
回避不能と見て咄嗟に拳との間に剣身を差し込んだミーディアではあったが、とてもではないがこんなやり方で受けられるものとは思えなかった。へし折られる。魔鋼製の剣も、体中の骨という骨も。この拳は容易く折り砕いてしまうだろうと、これもまた戦士の見識が確かにそう告げている。
極斬り直後の魔力の停滞。それさえなければ他に取り得る手段もあっただろうが、現在のミーディアには剣を盾代わりにする以外の手がなかった。つまりは詰み。【回生】で死の淵からでも、淵へ落ちても魔力さえあれば戻ってこられる彼女ではあるが、しかしその再生の間にガントレットは確実に殺される。そして二人がかりですらも劣勢を強いられているからには、相方を務めている彼を失ってしまえば勝ちの目がいよいよゼロになる。
まだまだ凶悪さを増していこうとしているハワードに対しできることが何もなくなる。
なぶり殺しにされて、おしまい。
(まったく。本当にイヤになるな──自分の弱さが)
確度の高い未来予想をして、けれどミーディアに動揺はない。精神を揺らがせずに残されたごく短い時間で可能な限りの魔力防御を行なう。無駄な抵抗だとわかっていても、しかし抵抗をやめる理由もないために。死に方を少しでもマシにできれば唯術による再生に費やされる時間と魔力を減らせられる。そのための努力はすべきだと、至極冷静に彼女は考えるでもなく考えている。
一振りの剣。ミーディアを知る者は彼女をそう喩える。それはミーディアの在り方を端的に評した的確な表現である。彼女をよく知らず、表層だけを見て、口さがなく「人というより魔物のようだ」と若い女子の才能へのやっかみ混じりで宣う耳目の利かぬ者たちの言葉よりも、ずっと正しく彼女というテイカーを称えるものである。
折れず曲がらず、よく斬れる。一般的な例よりも遅まきに魔術に目覚めながら最短でA級テイカーにまで登り詰めた、命令に忠実で魔物を狩ることに精力的な現場員らしい現場員。まさにテイカーの鑑のようなミーディアをして「敵わない」と諦観を抱く存在は山ほどいる。
彼女が有する【回生】という生存特化の唯術は戦闘に直接役立て辛く、また仲間を守ることにも適さない。命を投げ打った挺身によってそれが叶う場面もあるが、そういったミーディアが【回生】をフルに活かさねばならないような窮地ともなればそもそもが詰みに近しく、一度や二度我が身を投げ打ったところでどうにもならないことが往々であった。結果としてチームが全滅、生存者がミーディアのみという事態も過去に何度かあった。
それこそが、現在ミーディアが同級の者たちとチームを組んでいない理由であり、本部所属員の一部や他支部の者たちから陰口めいた噂を立てられる原因でもある──が、この事実は何も彼女の境遇や気運の恵まれなさばかりを強調するものではない。
何より特筆すべきは、このような経験をしてもなお。たった一度だけでも心に消えない傷が残されたことで任務に就けなくなってしまうテイカーも多々いる中で。ミーディアは折れず曲がらず、変わらずよく斬ってきた。それは彼女が仲間の喪失に何も思いを抱かないほど鈍感だからではなく、その逆だった。
仲間の死を経て生き残っている自分だからこそ、彼ら彼女らの犠牲を無駄にしないためにも、剣を振るい続ける。
自分はそう生きるのだと定めた通りに、テイカー資格を経たその日から不変の目標を掲げて戦い続けている──。
目標。
即ち、魔物の手にかかる命を少しでも減らすこと。
ただひとつそのためだけにミーディアはいついかなる時も全力だ。そう、もはや好転の兆しも見えないこの絶望的な状況においてもだから、ほんの少しでも生き延びられる可能性はないかと思考を巡らせ、それを手繰り寄せる。そこに死への恐怖はなく、また己に対する後悔も欠片も存在しない。
「……ッ!」
なけなしの悪あがき。つい直前に自分がやったのとは根本からして訳が違う、防御足り得ない防御。差し込まれた剣ごとミーディアの首や背骨をへし折ってやれる確信はハワード自身も持っていた。なので、彼からすれば懸命に生を諦めない彼女の在り方は鼻で笑ってしまいたくなるほど滑稽な弱者の抵抗でしかない……はずが。
しかし何故なのか。諦めを、恐れを、悔いを見せないミーディアの眼差しと正面から対して。今の自分にとって比較対象にもならない雑魚であるはずの彼女から、強さを感じてしまったのは。そしてその強さが自らには決して手に入らないもののように思えてしまったのは、どうしてなのか。
惑いが生じた。生じた、というその事実をハワードは胸中で捻り潰したが、感情の機微は動作にも表れる。微かに。ごくごく微かに、ミーディアへ死をもたらす絶拳がブレて進行が遅れた。それは刹那にも満たないようなもので、その遅れを利用してミーディアが何かできるわけでもなかったが。
ただし明確な影響はあった。
ミーディア自身にはどうすることもできずとも、たった今この現場に到着した『彼女たち』は別だ。
「「!?」」
魔力で構成された盾を挟んで両者は驚愕に彩られる。ハワードは自分の拳が止められたことに、ミーディアはそれに加えてこの盾の生成者を存じているが故に。
「【境界】……!」
モニカである。先行したミーディアとガントレットを追わんとオルネイの【標点】により飛んできた彼女が、到着するなり目の間で仲間が戦っていることを認識した瞬間に迷わず唯術を起動。危うくも絶妙のタイミングで魔力盾を設けることができた。──盾との繋がりが伝えてくる、謎の黒い大男の拳が持つ威力は絶大。先刻戦ったギドウスの全力と思しき一撃にも劣らない、いやそれ以上かというような重さがある。
が、盾は割れない。砕けない。もう一度同じのを防げるかは怪しいところだが……少なくともギドウスの全力には一撃も耐えられなかった盾が、更に堅牢になっている。それは確かなことだった。ミーディアもだからこそ驚いたのだ。彼女自身もギドウス戦から得られるものがあり、魔術師としてより高みへ達しようとしているが、モニカの成長速度はその比ではない。
──加えてもう一人。即座に唯術を使用したモニカとは対照的に、状況を理解した瞬間にまず肉体を動かしていた彼女の、以前にも増して鋭く素早い挙動にも確かな成長が見られた。
「【切断】」
「ッガァ!?」
盾が消え、入れ替わるようにミーディアと大男の間にするりと踊り込んだアイナが両手に持った短剣を交差。ハワードの右腕を「ぶった切った」。
「こいつ……!」
彼の肉体がどんなに硬くなっていようが、その腕がどんなに太かろうが彼女には関係がない。斬るイメージさえ損なわなければ【切断】はアイナが振るう刃に理不尽なまでの切れ味を与える。これにはさしものハワードも怯み、咄嗟にアイナのリーチの外へと出た。敵の増援の到着という戦況の変化を警戒し、追撃ではなく後退を選んだのだ。
(ちィッ、ついてねえな。ちょうど始末するってタイミングで新手が来やがったか)
だがまあ、問題はない。たとえ増援がどれだけの数やってこようとも、それこそS級格のような並外れた存在でもなければ敵にはならないからだ。新しい体の扱いに慣れてきたとはいえすぐにそのレベルに挑もうと思うほどハワードは性急ではない。彼にとって最大の障害であった彼らを殺すのは、もう少しあと。体だけでなく出力を増した唯術にも慣れ、戦闘面を習熟させてからだ。
もっともそれは、この協会潰しを経てS級に生き残りがいればの話だが……なんとしても一人くらいは残ってほしいものだ、と自分がその誰かを殺す様を妄想しながらハワードは切り飛ばされた腕を拾おうとする。
無い腕を生やすよりも切断面を癒着させた方が治りは早いし、魔力消費も少なくて済む。よって治癒の観点から見てその行動は実に正着であるが、しかしここでハワードが気にしているのは体内の魔石の供給によって後から後からいくらでも湧いてくる魔力の残量に関してではなく、ましてや速度面でもなく、治癒を行なうことでこれ以上の変身が進んでしまうこと──それによって意識が飛んでしまう懸念だった。
(いずれは自我を失ったって構わねえ。その時に最強にさえなっていればな。だがそいつは『いずれ』の話だ。今じゃねえ)
そのための節約。最小限の治癒で済ませて、取り戻した両腕で小娘共を殴り殺し、死に体のガントレットも殴り殺し、そして新しい上司の下へ戻り、より力を付けていく。
という未来が、彼の目前で焼け消えた。
「は?」
轟々と。渦巻く熱流を身に纏っているそいつも新手の一人。その人物をハワードは知っていた。が、それ故に彼の理解は遅れる。イリネロ、C級の事務員。それがどうして、こんな。S級もかくやという魔力を吹き荒ばせているのか。どうやって一瞬にして自分の腕を消し飛ばしたのか、ハワードにはまったくわからなかった。
「申し訳ありません。あなたに恨みがあるわけではないのですが」
穏やかな笑みを浮かべて、しかしハワードにはそら恐ろしく見える表情で彼女は言った。
「私の練習台になってもらいますね」
──立場が逆転した。彼がそう予感した時にはもう、そこに熱波が爆ぜていた。




