87.傲慢
カン、と刀身が床に当たって硬く乾いた音を立てる。それが声もなく死した男の、リグレ・リンドルムの断末魔であった。
唯術【離合】の奥義である『発』を受けて離散した肉体。それが上げる血飛沫を斥で弾きつつ、なくした片腕を自己治癒で生やしながらライオットは「ふう」と息を漏らした。
ようやくの決着。死闘を制した感慨もそこそこに、気付けば刃がなくなって鞘だけになっているリグレの刀へ視線をやりながら彼は納得したように頷いた。
「なーるほど。この武器自体があんたの唯術だったのか。道理で斥じゃ防げないわけだ……物理的な切れ味だけじゃあなかったんだね」
死闘の言葉通り、戦いは本当に命懸けであった。リグレの剣の冴えは凄まじく、また付け入る隙もなかった。深い傷を負えば直ちに治癒で修復しつつひたすらに大技をぶつけられる瞬間を待ち続けたライオットと、それを晒す前に彼の首を刎ねんと延々と刀を振るい続けるリグレの気の長い、それでいて一瞬も休む暇のない濃密な戦闘は……最終的に引と斥の多重併用に加えて腕まで犠牲に差し出したライオットの捨て身かつこの上なく計算的な一手によって、勝敗が決した。
──強かった。あのエイデンに並ぶS級という等級に恥じない、恐ろしいまでに強いテイカーだった。
ライオットはそう満足感と共に心の内で手を合わせる。
彼に何度となく死を意識させた。そういう意味ではエイデンよりもずっと上なのだから、リグレという男がどれだけの実力者であったかは強調して語るまでもないだろう。ギリギリの勝負だったのだ。軍配はライオットに上がったとはいえ、何かがひとつ違えば立っていたのはリグレの方で、血だまりに伏していたのはライオットの方だったろう。
何よりも濃い時間を共に過ごしながら結局のところライオットはリグレの名しか知り得ず、唯術の仔細やどういった人物なのかもまったく不明のままに永遠の別れとなってしまったが……満足だった。心からの満足を彼は味わうことができていた。
これほどの優れた魔術師であれば、できればこの後に訪れる新しい世界において手を取り合いたかったが。しかし今の立場がそれを許さないのだから仕方がない。エイデンと同じく──ライネと同じく。「そちら」を選んだ者たちの意思を優先し、尊重し、やれることは互いの理と利をぶつけ合うことだけ。そうして雌雄を決することだけであった。
必然にして非業の死。絶対者としての自負を持つ己が命へ手の届いたかもしれない誇り高き強者の末路へ静かに祈りを捧げ、そしてライオットは振り向いた。
「やあ」
感じていた。近づいてくるのを。その時が来ようとしていることを、ライオットは明確に。克明に感じ取っていた。
「思ったよりも早かったじゃないか」
終わった者への追悼の想いは既に欠片もなく、新たな敵に対する歓待の気持ちだけが彼に言葉を紡がせる。その顔に、笑みを浮かばせる。
「そんなに俺に会いたかったかい? 嬉しいね」
ライオットは用いなかった本館屋上への直通エレベーター。そこから姿を現したライネに、ライオットは彼を打ち負かしたあの日と同じ顔で、同じ声で優しく語りかけた。
彼の選択をライオットは知っている。仲間を殺したであろうことも知っている。ライネはフロントラインを選んではくれなかった。共に世界を変えようとはしてくれなかった。
決裂は決定的。
もう、仲間にはなれない。
それでもライオットが向ける優しさに嘘はなかった。矛盾しているようだがそれは確かなことだ。ライオットは容赦なくライネを潰すつもりでいる。だが同時に、自分が鍛えた彼という魔術師に愛着を持っていることもまた事実。
(ま、初めはこの子と何故だかよく似ているイオに対しての牽制になれば、って程度のことだったんだ。それ以上の狙いなんてなかった。……用途が元に戻ったんだと思えばいい。ライネがイオにとって特別だってことはほぼ確定しているようなもんだしね)
場合によっては殺さずに倒すことも視野に入っている。それがイオに対するキラーカードを手に入れることになるのであれば。
もしもそうするのならこれまではあえて訊ねなかったイオとの関係についてライネから聞き出しておきたいところだが……戦闘中にそれをするのは流石に面倒だな、とライオットは思う。しかし今後のことを考えればイオとその仲間たちの手綱を握る、または排除するのは必須である。そのためなら多少の面倒くらい目を瞑るべきだろう。
たとえそれがこの戦いを台無しにすることになったとしても──と、そこまで思考を巡らせたところで。一歩一歩と踏み締めるように近づいてきていたライネが立ち止まり、彼もまたその口元に薄く笑みを作って言った。
「ああ、会いたかったよ。お前に会うために飛んで来たんだ。お前を、倒すために。この手で止めるためにね」
「……!」
ただの言葉だ。現時点ではただ願望を口に出しただけ。誰だって口でならなんとでも言える──だが「これ」は違う。ライオットはそう直感した。単に言葉にしただけでなく、ふわふわとした上っ面だけのものではなく。重みがある。想いがある。
戦って、勝って、ライオットという存在を終わらせる。
その確かな決意が彼にはあると。そうひしひしと伝わってきた。
「は──ははっ。なんだい、どうしたんだよライネ。随分と見違えたね」
「見違えた? そうか、そう見えるのか。だったら重畳。お前の見立てはいつだって嫌になるくらい正しいものな」
「そうとも、俺は間違えない。君を拾ったのは失敗だったかもしれないが、それでも間違いじゃなかった。そう確信したよ」
生かさず殺さずで倒す。そうしてイオのことを聞き出す。などという考えはもう吹っ飛んでいた。それは失礼だ。そんな「どうでもいいこと」に頭を使いながら戦うなんて、あまりにも勿体なさすぎる。リグレとそういう時間を過ごしたように、今からの逢瀬に不純物があってはいけない。混ぜ込んではいけない──何よりも楽しいひと時を穢してはいけない。
決着で静まった胸の鼓動が、戦闘者としてのギアが再び高まる。
現在のライオットは強敵との連戦、重軽症の自己治癒、能力を使った長距離移動が重なり、疲労が募っている。一般的な魔術師の優に五倍はあろうかという恵まれた魔力総量にも陰りが差し、とてもベストコンディションからは程遠い状態だ。
だがそれがどうしたのか。持ち前の観察眼で彼が見たところ、ライネもベストとは言い難い。リントを下したその足でここに駆け付けたとあれば自分ほどじゃなくても疲労があるのは当然で、そして「ベストで戦えない」というのも魔術師にとっては当然のことでしかない。
好不調の揺蕩いはあって当たり前。常に最高の状態で戦えるわけもなく、そうでなければ戦えないというのであればその者はもはや魔術師を名乗るべきではない。どんな前提や事情があろうともその時に披露できるパフォーマンスこそが実力なのだ。それを受け入れなくてはまず戦いの土俵にも上がれない──翻って今、この場面。
互いが好調とは言い難いままに向かい合うことはむしろ良いスパイスですらあった。なんであれ多少万全でないぐらいの方が楽しいものだ。それを理由にあっさりと敗れるような蒙昧ならばともかく、自分は勿論、ライネもまたその段階をとうに超えた本物であるために。
よくぞ成ってくれた。最もの切っ掛けは自分との手合わせの日々ではなく、おそらくイオと相対したあそこで彼と何かをした……いや、されたからなのだろうが。そこが少々口惜しくも感じるが、しかしそれも些末事。どうでもいいことでしかない。
か弱かった少年が予感した通りに大成してくれた。それに比べれば後のことはなんだって構わない。
ライオットは飢えているのだ。常に。いついかなる時も、極限の飢えに抗っている。
それは強者故の渇望だった。
「戦る前に、ひとつ訊いておきたい」
「うん?」
ライネ側から訊ねたいこと? フロントラインの全貌も計画も把握している彼に今更そんなものがあるのかとライオットは不思議に思い、けれどすぐに思い当たる。
「魔石回収の顛末が知りたいかい? 君の仲間であるルズリフのテイカーたちがどうなったのかを」
ずばりこれだろう、ライネが気にしているのは。
協会本部までやってきているということはその道中で他のテイカーと接触している可能性が高く、ならばルズリフ支部の情報もある程度は得られているものと考えていい。加えて現状、御覧の通りに結界を破っての本部襲撃がなされているからにはお仲間が魔石を守りきれたかどうかについても想像はつくというもの。
──実際にはルズリフ支部が罠として撒いた魔石は本来の用途であった砲弾の材料には使われていないわけだが、それはライネからすれば知りようのないことである。彼の視点では今回奪われた魔石を以って事が起こされたようにしか見えないはずだ。
つまり何が言いたいかといえば、細かな部分で誤解や推測があったとしても、改めて当事者へ質問せずとも概ねここまでの流れについてライネは理解できているに違いないということ。だが彼が知りたいのはまさにその詰め切れない細かな部分なのだとライオットは予想した。
誰が死んで誰が生き残ったのか。仲間と敵と、戦力の変化の詳細。混乱の最中にある協会がそれを完全に掴めているとはとても思えず、ならば正確な情報はライネの耳にもまだ入っていないことになる。
さて、なんと答えたものか。
一言で言うのなら互いに「被害甚大」。これに尽きる。フロントラインはライオット含めてたった六人しかいないメンバーの半分を失った。リント、バーツ、ミュウミュウ。彼らは同じく幹部級にいたダインとは比べ物にならないほど将来性があった。大切な、仲間であった。その命が散ったこと。まだフロントラインという名前さえついていなかった頃、組織結成当初のメンバーしか今や残っていないことは、ライオットにとっても手痛い事実だ。
だがテイカー協会とて痛手を負っている。ルズリフ支部がボロボロであるのは言わずもがな、ライオットだけでも協会最高戦力であるS級二人を落としている。守り専門だというS級についてもおそらくはイオの仲間が既に屠っているに違いない、とくれば、準最強クラスと言っていい特A級の死者も含めて協会の戦力は相当に目減りしている。
失った人数の比率で見るなら自分たちの方が深刻だ。しかし「駒としての価値」で見るなら協会が失ったものも大きい。今頃は上座などと呼ばれているらしい協会のお偉方たちもまとめて始末されているだろうことを鑑みると……戦局としては痛み分け、だろうか?
現状を正しく言えばイオの一人勝ちなのだが、そこは後からライオット自身の手でなんとでも覆せる。いずれにせよそちらは協会を完全に沈黙させてからのことなので、今この場には関係がない。故にライネの問いにちゃんと答えるとするなら──。
と、表現の言葉を探したライオットだったが。
ライネの首が横に振られたことで自らの予想が的外れであったとあったと知らされた。
彼が気にしているのは。聞きたがっているのは計画の進捗でもなければ仲間の安否でもなく。その問いかけはライオット個人へと向けられたものだった。
「本音を聞かせてくれ、ライオット」
「……本音?」
「リントを始めとした他の幹部たちにはテイカー協会への恨みがある。それは嘘じゃないってなんとなく僕にもわかる。だけど、お前だけはわからない。お前のことだけがちっとも理解できない」
薄青の瞳。ライオットが知るそれより幾分か輝きを増したように思えるその眼差しには、力強さと静けさが同居していた。そこには黄金色の髪と瞳を持つ自分自身が、鏡のように鮮明に映っている。
理解ねえ、と青の中の黄金が呟いた。
「必要かな、そんなもの」
「…………」
「大方アレだろ? 恨みがないなんて真っ赤な嘘で、実は過去に協会との因縁があるんじゃないかとか。リントの遺恨なんかもそうなるように俺が仕向けたんじゃないかとか──そうやって仲間を増やしてきたんじゃないかとか、そんな風に色々と想像してるんだろう? ただの面白半分の愉快犯じゃあなくて、復讐心に突き動かされているそれっぽい『巨悪』。そういうものへ俺を仕立て上げたくてさ」
「そうじゃなければお前はなんなんだ。大した動機もなく世界をひっくり返そうとする、大勢の命を蔑ろにできるお前は、いったい何者なんだ」
「だから。仮にそれを知れたってどうするんだ? どうにもならないだろ?」
──傲慢だよ、君は。
ライオットにしては色のない、実に平坦な声が屋上の空気に溶けていった。