80.姉妹
「二人は……どうしようか? 魔力が戻ってから参戦? それとも」
と、一応の師匠であるミーディアから会話の水を向けられたアイナとモニカは、ちらりと互いを見やって共に意思が揃っていることを確認し、代表してモニカが共通の答えを述べた。
「行きます。多分、ライネくんも本部に向かっているはずですから。……今度こそ彼を守りたい。もちろん、本部の方たちも。私の【境界】はそのためにある唯術ですから」
参戦を表明する。とはいえ譲渡弾のデメリットが作用している内は戦場へ乗り込んでも単なる自殺行為に同じだ。ミーディアの言う通り、二人は魔力がいつも通りに操作できるようになってからオルネイに運んでもらうつもりでいる。それまでは待機するしかないだろう。
「私も参ります。ロールマンさんに庇って頂き、不覚を取りながらも五体満足のこの身、この炎。まだ燻らせるわけにはゆきませんので」
そうモニカに続いたのはイリネロだ。彼女も先の戦いで傷を負ってはいるが、オルネイと違って戦闘に支障をきたすほど深刻なものではない。精々が(魔術師換算での)掠り傷程度だ。
それは彼女の言通りにロールマンが敵の攻撃からイリネロを身を挺して守ったからであり、そのせいで彼は片腕と片脚の欠損に加えて内臓をいくつか損傷する大怪我を負って現在集中的にマーゴットの治療を受けている最中だ。……以前までは本部の廊下ですれ違った際に会釈を交わすくらいしか接点のなかった人物ではあるが、それだけの仲でしかない相手が命を賭して自分を庇ってくれたのだ。
イリネロの闘志。長く裡に秘めていたことで対象を問わず発散に滾っていたそれの燃え方。燃える意味が、今は少しばかりの変化を迎えていた。
「おし、五名とも参加ってことでいいな」
全員の返事を聞いてガントレットが厳めしく頷き、グリンズへと視線をやる。作戦行動開始──とその視線に応えてグリンズが逞しき現場員たちへの感謝と共に号令をかけようとした時、部屋の扉が叩かれた。ノックというにはやや乱雑なその音から間もなく扉は開かれ、姿を見せたのは。
「失礼します」
「マーゴット君」
強いノックも許可を待たずの入室も平時の彼女らしからぬ行為。今が緊急時であることを差し引いても少々意外なその行動を受けて表情に些かの驚きを浮かべつつも、グリンズは訊ねた。
「どうしたね、治療中のはずでは?」
「ロールマン様への処置は済みました。現在は小康状態、手足や内臓の機能を完全に取り戻せるかはしばらく時間を置かねばハッキリとしませんが、少なくとも直ちに命の別状はありません」
ほう、と室内の何人かが安堵とも感心とも取れるため息を漏らす。この僅かな時間にあれだけの重傷者を癒し切るとは、やはり本部肝入りの治癒者だけあってマーゴットの腕前は卓越している。その技量があったとしても、痛みと多量の出血によりいつ死んでもおかしくなかった状態から脱してみせたロールマンの生命力もまた見事。共にA級の位に恥じない超常者ぶりと言えた。
「アイアスは?」
「はい、申し訳ありませんがアイアス様には了承を得て治療途中で切り上げてまいりました」
「え、大丈夫なのそれ」
ロールマンのように全欠損ではないが、アイアスも唯術の起点である両手を潰されている上に左目も失っている。傷を負ってすぐに戦闘から離れたために大事には至っていないが、一般人の視点から言えばこちらも落命してもおかしくない負傷であり、魔術師の視点から見てもとても軽傷とは称せないものだ。
ミーディアは自身の唯術の特性上、それなりの修羅場を潜ってきているA級テイカーでありながら治癒者の世話になったことがなく、それどころか自己魔力による回復力の促進の恩恵に預かったこともない。そんなことを意識的に行わずとも深い傷は立ちどころに【回生】が治すし、また【回生】が必要のないちょっとした傷なら意図的にその回復のために魔力を用いる必要もない。よって一流と呼ばれるに相応しい実力を持ちながらもミーディアは治癒術にとことん疎い。
故に「治し切らずに治療を中断する」なんてことが他者を癒す際に果たしてアリなのかどうか。マーゴットの治癒者としての腕や矜持を疑うわけではないが、それでも気になって思わず口をついて出た疑問。それに対して「ご安心ください」とマーゴットは豊かな胸に手を当てて答えた。
「アイアス様はこの後に完治させます。例によって元通りに指が動くか、視力を取り戻せるかはリハビリを経なければ確かなことは言えませんが、この中断によってそれに差し障りが出ることはないと誓いましょう」
あるいはマーゴットほどの治癒者でなければ、治しかけでしばらく放置するという行為は論外のものだったかもしれない。しかし新進気鋭の才女である彼女には自身の治療においてそれだけの融通を利かせられる技量があり、その技量を用いてこうして治療室から出てきたのには当然にそれなりの訳があった。
どうしても今すぐに伝えなければならないことが彼女にはあったのだ。
「イリネロ様。ダンネロ様がお目覚めになられました」
「……! 姉さまが」
告げられた言葉にイリネロは肩を揺らして反応した。その瞳には喜びよりも怯えの色が多く見られる。
とにかく強く、壮健であった姉。そんな姉が癒えない傷を身に帯びたまま眠り続ける様にイリネロは恐怖を抱いたものだ。このまま目覚めないのではないか、という恐怖。それから、仮に目覚めたとしても以前のように戦えなくなった己をダンネロ自身がどう思うか。その失意を思えばこそ、イリネロは怖かった。
それは弱った家族の姿を見たくないという至極良識的な感情でもあり、しかし決してそれだけではなかった。
「姉は、なんと?」
「何よりもまず任務の進捗を気にしておいででしたので、私の判断で現状の全てをお伝えしました。これよりイリネロ様が本部の襲撃犯との戦いに赴くこともダンネロ様はご承知です」
その上で、とマーゴットは続けた。
「あなたをお呼びです。話したいことがると仰っておりました」
「……、」
今は緊急時だ。一刻も早く応援に向かわねばならない場面である。状況を知ったからには姉とてそれは理解できているはず。だというのに、戦地へ急ごうとする妹を呼び止める。床に臥す姉の思考力を疑う気持ち──などイリネロには皆無だった。呼ばれたからには、行こう。そこには必ずそうすべき理由があるはずだから。
「ガントレット支部長」
「ああ、いいぜ。まずは俺とミーディアだけで向かう。お前さんはダンネロとの面会が終わり次第、モニカとアイナは魔力が戻り次第追ってこい。つーことで頼めるか、オルネイ特A級」
「お任せを」
負傷を感じさせない力強いオルネイの返答を背中に、イリネロはマーゴットに続いて部屋を出た。そのまま彼女の後ろを行き、治療室を過ぎ、その先の個室へと歩を進める。マーゴットが扉を開け、無言で一礼する。それに対してイリネロは目礼で返してすぐに入室。背後で静かに扉が閉められる音がしたが、もうそれは彼女の耳には届いていなかった。
「イリネロ」
「……姉さま」
こちらを認めるなり朗らかな笑みを浮かべて名を呼んだ姉。ベッドの上で半身を起こしている彼女の思いの外に元気な様子と、しかし目付きや声音に彼女らしい覇気がまったく感じられないことに、イリネロの口内になんとも言い難い味が広がる。
「気分は?」
「悪くない。けど、勿論良くもないわ」
気分ではなく気持ちの方なら控え目に言っても最悪だ、と。失くして取り戻した腕を掲げてみせるダンネロ。それだけの動きに耐え切れず引き攣れを起こしてぴくぴくと震える、まさに病人としか言いようのない自身の有り様に彼女はふんと鼻を鳴らす。
「ご覧の通りよ。不調は腕だけじゃない。マーゴットにも言われたけど本当の意味で取り戻せるのは半年先か一年先か……あるいはもう特A級としては働けないかもしれない」
あんたはどうなの、と呟くような声量で訊ねる。イリネロも小さな声で訊ね返した。
「私?」
「そう、あんたの話。聞いたわよ、あたしが倒れたのをいいことに早速暴れる機会を得たんですってね」
「…………」
「で、どうなの。暴れられた? あんたの望み通り、思い描いた通りに」
「それは」
イリネロには首を縦に動かすことができなかった。同等級の少女二人を相手に行った模擬戦。そして、フロントラインという今の時勢が生んだ凶悪なテイカー組織を向こうに回しての実戦。……どちらもイリネロはその力を存分に振るえたとは言い難い。協会が彼女に懸けた期待に応えられたとは、とても言えなかったから。
ずっと眠っていたはずのダンネロは、けれども何故だかそれをお見通しのようで。
「そういうもんよ、戦いってのは。テイカーってのはあんたが思うほど簡単なもんじゃないのよ」
「……!」
「どんなに才能があろうが、あたし以上の火力を持っていようが。それだけのことでぺーぺーのひよっこが通用するような世界じゃない。あんたみたいに自分の力に溺れているような奴なら尚更だわ」
返す言葉が思い浮かばず、イリネロは歯噛みすることしかできない。姉の言葉はイヤになるくらい今の自分に突き刺さるものだった。
戦えると思っていた。活躍できると信じていた。自分にはそれだけの才があると、力があると──自惚れていた。
力を持っている。それ自体は、間違っていない。はずだ。何せ自分には特A級の姉以上の火力があり、意欲があり、本能がある。優れた能力者が故の宿命として、その発露をとにかく求めている。
ようやくのチャンスが訪れたことを、もっと喜べただろうに。自分が自分の思うままの人間であったならただただ純粋に好機に沸いていただろうに。しかし意外なことに、我がことながら甚だ不思議なほどに、喜びよりも目覚めぬ姉への心配が勝っていた。その時点で気付けてもよかったのかもしれない。
姉を姉として認識した最初の記憶。物心がつくかつかないかの時分に近所のやんちゃ坊主とその取り巻きの子供たちを、少し揶揄われたからと言って躊躇いなく焼き殺そうとした自分の炎を……姉は己が身を盾として受け止め、事態を納めてくれた。
思い起こされる、あの時の姉の瞳。こちらを見る眼差しの力強さ。一度だって姉の炎を熱いと感じたことはないし、むしろその脆弱さに憐れみさえ抱いてきたが。けれど姉の瞳からは感じるのだ。自分にはない輝き。熱が、そこにはある。優しさだとか気高さだとか、言葉にするには少しばかり陳腐な──そうと思わねば認め難い自分に欠落した何かが、彼女にはあるのだと。
姉の首元から臍の下までは焼け爛れた痕がある。女の肌に消えない傷を残した妹に、なのに彼女は恨み言のひとつも漏らさずいつも小馬鹿にしたように笑うのだ。あんたは戦わなくていいと。戦うべきではないと、あの日と同じように目の前に立って、力を持つ眼差しでそう告げるのだ。
イリネロ・ドーパにとってダンネロ・ドーパは蓋であり、支えだったと。齢二十にして彼女は初めて知った。
「戦いなさい、イリネロ」
「!」
好んで浴びていた──そのために幼少期は問題行動を繰り返し起こしまでしていた──姉の眼差しに、今ばかりは真っ直ぐに見つめ返すことができず俯くイリネロ。恥ずかしいのか、悲しいのか、何が自分をこんなにも追い詰めているのかわからない彼女は、不意に告げられた思いがけない言葉に顔を上げた。
弱った姉の瞳には、僅かにではあるが力が宿っていた。
「死亡率の高い仕事だもの。あんたを戦いに出せばそれを知る前に死んでしまう。そう心配してたのよ。父さんも同じ。周りへの被害も恐れていたけど、一番に恐れていたのはあんたが傷付くことだった」
でも、とダンネロは静かに言う。
「今のあんたになら任せられる。もう単に力を振るいたいだけの、見境のないお馬鹿じゃなくなったあんたになら……あたしは託したいと思う」
手を差し出してくる。包帯だらけの腕。やはり離れていてもはっきりとわかるくらいに震えているその腕を見ていられず、何を考えるよりも先にイリネロはベッド脇へと寄って姉の手を取った。
温かい、と久々に姉へ触れてまず抱いたのはそんな感想だった。
「唯術を発動させて」
「姉さん、何を」
「託すと言ったでしょ。一緒に体内で炎を練り上げて、繋げる。あたしの火力をあんたにやるわ」
そんなことができるのか、と驚く妹に姉は堂々と頷いた。
「いつかこうなる気もしてたのよ。だから備えてきた。……一年後はともかく、今日や明日のあたしはどうせ戦えやしないとわかりきっているんだから、なけなしの魔力も体力もまとめてあんたに貸し付ける。それでどうしたらいいか、なんて。言うまでもないわよね?」
「……うん。姉さんの分まで私が守るわ」
「そうしなさい」
あんたならできる。そう言われたイリネロの身の内と外から、灼熱の奔流が始まった。