68.「敵」
突き刺した腕の先、拳の表面が確かに致命的な部分を潰した。その実感によって勝負の終わりを悟った僕だが、一応は警戒を怠らないまま腕を引き抜く。
砕けた衝撃によって一部が液化している、血肉が混ざって赤くなっている氷の欠片。拳についてきたテディではなくリントの物であろうそれを一振りして落とせば、まるでそれが契機だったかのようにテディが元の大きさへと戻り、そして武装が解除されたリントがその場へと崩れ落ちた。
倒れた彼の上にぽとりと編みぐるみサイズのテディが落ちて、それっきりだ。あれだけ元気一杯に暴れていた彼も彼の熊も、もう二度と動くことはない。僕が殺したからだ。
……シスの手を借りず、僕自身が能動的に人を殺めたのはライネになってこれが初めてだ。またしても殺人に手を染めてしまった、それ自体にはため息をつきたくなる気持ちもあるが。しかし思ったよりも心は冷静だ。
なんのかのと言っても手を下した後には動揺が襲うだろうと予想していたのだが、良いのか悪いのか、僕の覚悟はもうそれくらいじゃ揺らがないらしい。
フロントラインは壊滅させると決めた。ならば主要構成員の一人を仕留めたことで動揺なんてしている場合じゃない。むしろ敵の駒をひとつ落とせたことを喜ぶべきところだ……なんて言っても、喜びの感情だって今一つ湧いてはこないのだが。
あちらが先に殺意を見せたのだ。協会潰しのこともあって間違っても同情なんてしないが、けれどまだ更生の余地もあったかもしれない少年の死。そのことになんとも言えない感情を味わう僕に、それに気付いているのかいないのか、まったく空気を読まずにシスが言った。
《お疲れ様でした。氷鱗は言わずもがな、氷筍も氷蝕も素晴らしいですね。どれも手放しに褒めていい逸品だと思いますよ》
そうかな? いや、そうだな。自分で言うのもなんだけど、確かにどれも強力な術だ。シスがそう認めてくれたなら僕も自信を持てるよ。
新術と、改良した術。仮にそれらが一切なかったとしたら僕はリントに勝てなかっただろう。魔力操作や体術に関しても以前と比べれば著しく成長している自負があるが、その要素だけではテディのパワフルさにジリ貧だったはずだ。おそらく氷鱗や氷筍なしには対抗しきれなかったろうし、氷蝕がなければ決着が長引いて僕の方が不利になっていたかもしれない。そう思えば、やはり手札の多さとその有用さは大切だ。
シンプルな強さだけで「上」に行くのはなかなか難しい。それが魔術戦である。と、ダインやリントという総合力で見れば術師として同等かそれ以上の相手に僕が勝利できたことが、何よりその事実を裏付けている。
《ちなみに氷蝕はどういった設定で成り立っているんですか? 氷霧下での接触凍結並かそれ以上に強力な術へ仕立てているわけですから、それなりの制約になっているとお見受けしますが》
さすがシス、ご名答だ。彼女の推察通りに氷蝕はいくつかの制限を設けることで発動が叶っている。その数は氷筍よりも多い──まず第一に、通常の凍結のような指先だけでの発動は不可だ。掌全体でしっかりと対象に触れていることが必須。その上で触れていない方の手は触れている方の手首を握っていないといけない。片腕でだけでの発動ができない、ということで凍結よりもリーチが落ちているわけだ。
加えて間髪入れずの連続発動もできない。凍結は魔力の消耗にさえ目を瞑ればひと息に何度だって使えるが、氷蝕は次の発動までに最低でも一呼吸か二呼吸は間を空けなくてはいけない。そして氷路を利用した遠点での発動も許されない。あくまでも掌が起点で、ばかすかとは撃てない。これらの制約を守らなければ氷蝕は威力を発揮せず、通常の凍結へと成り下がる。
随分と取り回しの悪い術になったとは自分でも思うが、凍結の必殺性を高めるにはこれらの条件のどれが欠けても不可能だった。術としての高度さで言えば氷鱗だって劣らないはずだが、僕……というより【氷喚】が得意としているのはやはり、凍らせることよりも氷を生成すること。制約の差はその差が生じさせたのだろう。
氷鱗は効果に対して魔力消費の低さも優れているが、氷蝕は凍結と同じく結構な魔力を食う高燃費技だ。が、そこは凍結よりもいたずらにコストがかかるような仕様にならなくて良かったと思うべきだな。
《あなたが魔術師として更に成長を遂げれば設定を変更し、より良い術へと昇華させることも可能となりますから。使いにくさや消耗の度合いに関してはその時に解決すればいいでしょう》
それにしても、といつもの淡々とした平坦な声音で、けれどしみじみとしたものを感じさせる口調でシスは言った。
《この短い期間に強くなったものですね。術の輪郭とでも言うべきものを自らで定めて精度と性能を高めていく手法は、確かにこの上なく有効なものですが。しかしあなたがそれを実行できるのはもうしばらく先になるだろうと私は予想していました》
うん、そうだね。基礎も固まっていないうちからこういうやり方に手を出しても上手く性能アップには繋がらない……どころか下手をすれば基礎の部分までぐずぐずになってしまいかねない。自分の唯術と、今の実力。どちらも深く理解できていると確信を持てないならばやるべきじゃないだろう。
その点、僕はライオットという必ず倒すと決意した強敵を相手に、限りなく実戦に近い形式で訓練を続けていた。となれば否が応でも理解は進むというもので、そこに追加でイオから「餞別」まで貰ったのだ。ライオットに負けたあの日から、今日との間に、シスが驚くほどの変化が起きているのは言わば道理とも言える。
《イオのアレがどれほどの援助になったのかは私にも定かではありませんが。少なくともライオットが指導者として優れているのは間違いないようですね? 妙な教え方をされてあなたの成長が歪んでしまっては堪ったものではなかったので、そこに関してだけは感謝しないといけませんね》
あなたを導く役目を負った身としてはなんとも不甲斐ないことですが、と嘆息混じりに述べたシスに僕は「いやいや」と否定を返す。
「ライオットの教え方が良かったっていうのは悔しいけど否定できないし、自分でも森で過ごした一ヵ月より必死で食らい付いたっていう自覚もあるけどさ。でもそれで強くなれたのはやっぱり、シスが基礎的な部分を鍛えてくれていたからだよ。そうじゃなかったらここまで伸びはしなかったと思う」
なんだって土台がしっかりとしていなければ発展はない。シスが僕の変化を著しいものだと感じているのならそれは、僕やライオットではなく彼女自身のお手柄だ。という気持ちを込めた僕の言葉を聞いてシスは、彼女にしては珍しく照れ臭そうな雰囲気で「まあ、そういうことにしておきましょうか」とだけ応えた。
「ふふ……あ、そうだ」
久方ぶりの彼女との会話ということもあって微笑ましい気持ちになった僕だが。そこでリントとの戦闘が始まってそれどころではなくなったせいで確認の採れなかったことを、改めて訊いておこうと思い至った。
あまり時間的な余裕があるとも思えないので、移動しながらがいいか。
「ねえ。シスはライオットとの組手や、イオって子のことも把握できているようだけど……いったいいつから起きていたの?」
《いつから起きていたか、ですか。あなたの状況を把握し始めたのがいつか、という意味ならほんの数日前ですよ。それまで私は──そう、あなたの言う通りに『眠っていた』と表現すべきなのでしょうね》
ライオットにこっぴどくやられた際、シスは落ちる間際に僕の意識だけでも残るようにと──自分でも何をどうやったのかは定かでないらしいが──精神的な負荷を一身ならぬ一心に引き受けた、とのことだった。そのおかげで僕は彼女と交代して表層へと戻れた……ってことは、シスの献身がなければライオットのあの一打は僕らを二人まとめて飛ばしていたのか。改めて恐ろしい奴だ。
ガントレットの重い拳を受けてもシスにまでその威力は届いていなかったというのに。まあ、試験と実戦の違いがあるのだから単純比較をしたってしょうがないとは思うが、だとしたってライオットの強さは異常だ。
《ですねぇ。アレは完全にイレギュラーとしか言いようがありません。願わくば、協会の最高戦力であるS級も彼に負けないくらいのイレギュラーであってほしいところですが》
確かS級の人数は五人、だったか。もしもそれだけライオットと互角以上の人員がいるなら、仮に残りのフロントラインの幹部たちも同じくらいの実力だったとしても数の上ではとんとん。後手に回っている現状を踏まえてもそこまで絶望的ではない。
問題は、もしもS級よりライオットの方が明確に強かった場合なのだが……。
《そうなればいよいよ腹も首もくくる覚悟が必要ですね。何せライオットをどうにかしたとしてもそれで終わりではないんですから》
彼女の言わんとしていることはすぐに察せられた。打倒フロントラインが叶ったとしても敵勢力はそれだけじゃない。イオ率いる未だ謎の多い集団ないしはもっと大規模な別組織がいるのだから、僕らは目の前の壁だけでなくその先も見据えて戦わなければいけないわけだ。
そして察したことはもうひとつある。元からそうではないかと思っていたことだが、シスの態度でほぼほぼの確信が持てた──彼女はイオの存在を以前から知っていたに違いない。
僕からすればイレギュラーという呼称は、単なる在野の強者であるライオットよりも「もう一人の転生者」であるイオにこそ相応しいものだ。もしも僕と同じ知識量であったならば……つまりシスもイオのことを出会って初めて認知したのならきっと、もっと大きな反応があるはずだ。それこそフロントラインのことなど半ば捨て置いてでもイオとその仲間たちを警戒し、対応を急ごうとしただろう。
なんと言ってもイオは宣言したのだ。僕に課せられた使命とは真逆の使命を課せられていると──どちらか一方は勝者となり、もう一方は敗者になる。対決は必至で、決着も必須。そういうゲームなのだと彼女は言った。
不意に現れた、僕にとっては予期せぬ対戦相手。だがシスは元より本当の意味での「敵」がいることを承知していたのだ。神のような何かからそれを聞いていないわけがないとも思うし、この推測はおそらく当たっている。
そうじゃないか? シス。
《──ええ、その通り。イオという名はともかく存在自体は知らされていましたよ。あなたには、あなたと反対の立場につかされた倒すべき敵がいる。その者を止めることが即ち世界を救うことの第一。人間社会を終わらせない上での最も重要な課題である、とも》
そうか。それじゃあやっぱり、イオがやろうとしているのって。
《はい。間違ってもフロントラインの理念に共感して則っているわけではありません。むしろ乗っ取っている。社会変革を目指す彼らをいいように利用して、社会の完全壊滅を狙っていると見ていいでしょう》
多少以上の犠牲も見越して人の世を自分たちの居心地がいい世界へ変えようとしているのが、フロントラインだとすれば。多少どころか全滅も見越して、望んで人の世を終わらせようとしているのがイオ。ということか。そしてそのどちらにもテイカー協会という人の世を守る武力組織が最大の障害であり、それを壊すまでは互いに手を取り合うことを選んだ。
……何もフロントラインだって、イオを信の置ける相手だとは見做していないだろう。利用するだけ利用して、用済みになれば排除する。ライオットならそれくらいの腹積もりはありそうだ。だが、僕という転生者のことを理解しきれていないように、ライオットはイオのこともきっと理解できていない。なんでもお見通しのようなあの男でもそこまでは見通せない。
読み違いがあるとすればイオではなくライオットの方だ。それはたぶん、事が済んだ後のフロントラインに致命的な打撃を与えることになる。
無論、僕の理想はそれに先んじてフロントラインを止めること。ライオットを倒すことである。そうすればイオにも二の足を踏ませられる上に、協会が存続していれば彼女との戦いも有利に運ぶ。良いこと尽くめだ……というより、そうならなければ悪いこと尽くめだと言った方が正確だな。
フロントラインの幹部の一人はこの手で倒した。だが、リントは決して組織にとって大切な駒ではない。その位置にいるのはやはり組織の機動力を担うメグティナ、一番の武闘派と思われるギドウス、そしてそのどちらの側面から見ても二人より上のライオット。この三名だ。彼らを攻略しないことにはフロントラインは止まらない。それを隠れ蓑に暗躍しているイオもまた。
《──すみませんでした》
状況は芳しくない。そう結論するしかない僕に、シスが神妙な声で謝罪の言葉を口にした。