67.拡充
氷鱗。ライネは新術をそう名付けた。
それを身に纏ったライネを見てリントは「氷の衣」と称したし、その用途を鎧だと考えた。どちらも間違っていない。外見はまるで氷で作られた舞台衣装のようで、それを着込む意図に防御力の向上が含まれているからには鎧という表現も正しいと言える。──だが、間違いでこそないが正確でもない。
ライネが着飾ったそれはまさしく鱗のような小さく平たい氷がいくつも重なって出来ている。その間に空気の層を取り込むことで、僅か一センチにも満たない厚さの内部は極限まで薄く作成された氷と空気が何十層にも重なっており、見かけからは想像もつかない堅牢性を有しているだけでなく、その堅さを突き破れるほどの攻撃に対しては表層面から順番に氷が割れ砕けていくことで威力を散らして和らげるようにもなっている。
この原理、いやさ術理を踏まえて──この技術で作れるものが何も衣だけに限らないだろうという将来的な発展も見据えて──やはり名称としては「氷鱗」が正しいとライネは考える。
そして恩恵は防御だけに寄らない。ライネが身に纏うそれは言うなれば強化外骨格の役目も果たす。拳まで氷鱗で覆うことで打撃が硬く重くなる、だけでなく、纏った氷そのものが魔力で強化されることで更に威力が跳ね上がる。これは【氷喚】という自身の唯術が氷を生み出すこと、そして生み出した氷を利用することに長けている点を応用したものだ。
通常、自分以外に魔力を纏わせるのは難しい。衣服や革鎧程度なら身から発せられる魔力の範囲内に収まるが、例えば全身鎧のような大きくてごてごてとしたものや、剣や槍といった武器も「人体」の形からは大きく外れてしまうために魔力で強化するには特異な技術が必須となり、故にこそ、その課題を解決してくれる魔石から作られた武具や防具はテイカーに重用されているわけだが──閑話休題。とにかく本来、己が肉体以外の物を己が魔力で強化するのは難度が高く強化率も割に合わないことがほとんどである。
数少ない例外は、ギルダンの刀やロールマンの鎧のように「自身の唯術で作成された物」だ。ならば【氷喚】でも、強化効率では多少及ばずとも似たようなことができるのではないかとライネは考え、発想そのままに実行へと移したのがこの氷鱗である。氷そのものを肉体の延長として武器とし、素の打撃と重ねて打ち込む。これによって肉体強化のみで行うそれとは比べものにならない打撃力を獲得するに至った。
──頭に思い描けてはいても、実現が難しかった。つい昨日までは机上の空論でしかなかったこの新術が新術として完成したのはたった今である。それもろくに予行練習すら行わずにぶっつけ本番で試しているところだ。リントがそう感じたように、ライネは彼という紛れもない強者を使って経験値稼ぎをしているのだ。その成果は。
(上々、だね)
イオによって施された例の術……【同調】とやらでもたらされた異変。それは決して悪いものではなかった。むしろ頗るにいい。研ぎ澄まされている、とライネは実感している。
まるで体の主導権を一時シスに預けて戦わせた後のような。彼女の感覚を引き継いで覚醒状態に入っている時のような──否。あれ以上に深く、克明に、何もかもが手に取れる。氷鱗という精緻極まりない新術を使えた上に、既に使いこなせてまでいるのは偏にそのおかげだろう。
生身で受ければ無事では済まない一打を連続で放つ熊の着ぐるみ、テディとの殴り合いも、だから成立する。仮に防御に失敗しても氷鱗によって被害は最低限。その上でこちらの攻撃も少なからずテディ内のリントを苦しめている気配があるからには、ライネの精神状態は限りなく魔術師にとって理想的な状態が保たれる。
即ち魔力を燃やす情熱と、魔力を回す冷静の同居。精神的な余裕と昂りが高い水準で均衡を保ち、なおかつ過去最高レベルに好調なコンディションが肉体的動作にまで好影響を与える。なので当初こそテディの激しい連撃に後手に回らざるを得なかったとしても。しかし攻防の趨勢が徐々に、だが着実に、ライネの側へ傾いていくのは当然で。一度取られてしまった流れをリントが取り戻せないのもまた、当然と言う他なかった。
だからこそリントは決断したのだ。
ここで奥の手を切ろう、と。
「!」
拳が綺麗に入った──綺麗に入り過ぎた、と思った瞬間には弾かれたように熊のぬいぐるみが殴られた勢いを利用して飛び退り、目と鼻の先から手の届きようがない位置まで下がっていた。そして両手両足を広げて、四つ足を着く形でこちらに顔を向けてくる。何かをしようとしている。それも、これまでに見せていない特別な何かを。ライネはそう直感し、つい先ほど投げかけられたシスのアドバイスを思い起こす。
《彼の唯術、過程は特徴的ですが結果は至ってシンプルですね。つまりはダインがより凶悪になったようなものです》
シンプルな唯術は、シンプルであるが故に手堅くて強い。その術理には敵に突かれる隙や弱点といった明確な欠点が存在しないからだ。しかし長所と短所は表裏一体で、単純であることは応用の幅がないのと同義。取れる手立てが少なく、力負けしてしまえばその時点で勝ちの目が薄いということでもある。
ならばライネがあえてリントの得意分野で勝負したように、氷鱗を用いた格闘戦で彼の上を行けば勝敗は決まったようなもの……と、決めつけてしまうのは些か早計だとシスは注意を促した。
《ですが本当に種も仕掛けもなかったダインと違って唯術由来の強さですからね。ここまでなんなら野生の熊でもできるような挙動しか見せていないのが逆に臭いとも思いませんか?》
隠し玉がある。そういうことかと訊ねたライネにシスは肯定を返した。
《大抵の術師が何かしら奥の手を隠し持っているものです。シンプルな唯術だからといってそれがないとは限らない、という話ですよ》
なるほど道理だ。ライネはそう納得して、だからあからさまにリントがその奥の手を披露しようとしている今も焦ることはなかった。これまで以上の高まりを見せた敵の魔力が圧すら伴って自身の肌を叩こうと、慌てず騒がず。氷鱗の操作を行った。
──敵が自らの得意であるはずの格闘から逸脱するのであればライネもまた、別の手を切ればいい。氷鱗が実戦に耐え得るものだという証明も既に済んでいるのだから一個の手に固執する意義はない。
明らかに遠距離からの攻撃に切り替えたリントに対する手立ては即座に距離を詰め直すか、あるいは離れつつ的を絞らせないように動き続けることだろう。だがライネはその選択肢が浮かんでいながらどちらも選ばなかった。彼が取った行動は適切には程遠いもの。その場から動かずに防御を固める、というものだった。
狙い撃ちをされることがわかっていながらなすがままでいる。誰から見ても悪手と断じられるその行為に、しかしシスは咎める声を出さない。これが最終チェックだと彼女も理解しているからだ。
敵の奥の手、つまりは最大威力の攻撃と目されるそれを氷鱗で受け切れるか否か。是非初使用の今の内にライネはそれも調べておきたいと考えた。全身を不足なく覆う量。それが現状の氷鱗の展開限界。それ以上は増やせないが、けれど魔力と同じく一部に集中させることで厚みを増やすことはできる。敵は真正面からぶっ放すつもりだ。そう悟ったからには絶好の機会だった。
背面の氷鱗の全てを前へ回して正面防御を二倍にした。氷層と空気層が交互に重なった薄くも堅いそれは厚みが二倍になれば堅固さも二倍、けれど衝撃吸収力に関しては倍どころではなく更に上がる。現在発揮できる最高の守り。モニカの盾を参考にしたただ堅いだけでなく柔らかさも合わさった防御──ライネなりの最大硬度でもって迎え撃つ。
その意思はリントにも重々に伝わっており、己が必殺技を前にしても動じないその姿。あくまでもこちらを訓練相手としか見做していないふざけた態度に、リントの怒りと魔力は彼の最高点すら超えて発露した。
「猪口才な氷を! 剥いて削いでぶっ殺してやる──『ヘヴィ・ハウリング』ッ!!」
砲台のような体勢で開いた大口。テディの喉奥からせり上がった魔力が耳をつんざく咆哮と共に前方へと発射される。指向性を持った爆音に魔力が合わさった砲撃。カッ、とソニックムーブと空気摩擦による明滅が室内を満たすと同時に音のレーザーは標的へと着弾。その足元の床には余波によって放射状に罅が走り、奥にある壁をいくつもぶち抜くだけの大破壊をもたらした。
──完全に決まった。リント本人も出来すぎたと思うくらいの威力が出た。
だというのに。
「な、んで……立ってんだよ。どうして無事なんだよっ! 今のを食らってなんで、なんで!? そんなのおかしいだろ!?」
前面に集中させた氷鱗の大半は剥がれ落ちているが、けれど全滅はしていない。それはつまり「防いだ」ということだ。部位によっては、特に急所に当たる場所を庇った両腕に関しては傷も負っているが、しかし目立つダメージはその程度。「ふー」と息を吐き出すライネは継戦の観点から言えば無傷と称しても差し支えない。──奥の手がまともに決まっても、決定打になり得ない。そう知ってリントは狼狽を隠せなかった。
それは隙が無いはずの唯術を用いる彼が見せた、明確な隙。
「うっ──」
気付けばライネがすぐ傍にいた。動揺のみならず連続では咆哮を撃てない仕様と、大技を放ったことで陥った技後硬直。ライネはそこに付け入り、残り少ない氷鱗を脚部へと纏い一足で彼我の距離をゼロとした。そして、触れる。氷鱗のテストは終わったので、彼にはついでにもうひとつ。この丁度いいレベルの強敵を相手に試しておきたいことがあった。
「接触凍結──拡充」
リントにとっての『ヘヴィ・ハウリング』に当たるライネの奥の手……必殺技と言えばやはり接触凍結だろう。触れた物を地面だろうが人間だろうが凍り付かせるその技は、要所に決まりさえすればそれだけで勝負の行く末を決定付ける文字通りの必ず殺す技。が、そう名乗るにはまだまだ弱い。
ミーディアの『極斬り』の凄まじさを目の当たりとし、またライオットの唯術を絡めた攻撃ひとつひとつが必殺と呼ぶに相応しい威力を誇っていると組手を通し骨身で教え込まれたからには。触れて、時間をかけて、それでもなお必殺足り得ない場合がある接触凍結を自慢の技のように誇るなどライネにはできなかった。
動かない物を凍らせるには通常の凍結で事足りるが、問題は動き抗うもの。生物だ。それも魔力生物の魔物や、魔力で身を守る魔術師に関してはどう考えても既存の凍結では追いつけない。ダインにそれが通じたのは氷霧が通じたからであり、以前にライオットがそう警告したように、仮に氷霧が脅威にならない相手の場合はその時点で凍結も無意味なものに成り下がる──それではいけない。
繰り返すが触れさえすればなんであろうと凍らせられるというのは、ライネの強味だ。そのせっかくの強味を一定以上の敵には通用しないからと戦闘の手札からオミットするのは勿体ないこと。だから、強化した。
氷筍と同じだ。下準備に手間がかかるせいであまり実用的とは言い辛かったそれを、プログラミングとでも称すべきプリセットの導入によってその場で足を踏み込む動作さえすれば──範囲は前方のみに数メートルと限られはするものの──いつでも発動できるように仕立て、実用性を持たせた。
では凍結をライネがどう改良したかと言えば。
「氷蝕」
ひたりと。ライネの掌がテディの胸元へと添えられている。マズい、と何が起こるかは察せられずとも本能で窮地を知ったリントは急ぎ四つ足の状態から身を怒ることでその不気味な手から逃れようとしたが、しかし遅かった。ライネが術名を口にするよりも早くからそれはもう始まっていたのだから。
「嘘、だろ……」
ライネの触れている箇所が、凍った。否──氷に侵食された。テディの装甲もそこに込められた魔力も一切合切を無視して。脆く不安定な氷と元の素材が混ざり合った、それらのどちらとも言えない何かへと変えられていく。そしてその範囲はなんと直接触れられているテディだけに留まらず、内部に潜むリントの肉体にまで届いていた。
テディと同じく胸板とその奥、内臓の一部まで氷に侵されてリントの呼吸は極端に浅くなった。息も満足に吸えない痛みと冷たさ。それもあるが、しかしそれ以上に、今の呼吸器に普段通りの負担を強いたらその途端に砕けるだろうと。氷混じりとなった自分の体が崩壊するだろうという予感がそうさせたのだ。
そんな状態では動くことも、魔力操作もままならず。つまりは戦えなくなってしまったからには……決着だった。
氷鱗を纏い直した拳が、テディごとリントを貫いた。