65.リント
荒々しくリントが立ち上がり、そのはずみで倒れた椅子が床に打ち付けられる。その渇いた音を聞きながら僕は笑った──これは決意だ。
リントが空間を縛る要石として椅子に座り続けている限り、僕は何もできない。ベッドの上から動けず、おそらくは氷礫を飛ばしたって見えない何かに阻まれてリントまで届くことはない。だがそれはつまり、リントが要の位置から自主的にどいてくれさえすれば。彼が僕の見張りという役割を放棄さえしてくれれば、翻って僕も見張られるのみに終わらず自由を得られるということでもあった。
慣れない挑発も、日ごろから言動の全てが挑発めいているライオットと生活を密にしているおかげでなんとかなった。彼を参考に吐いた心無い言葉は見事にリントの神経を逆撫でてくれたようで、要石は要石でなくなった。室内を縛り付けるメグティナの術は解けたのだ。
だがリントを怒らせて自由を得ることは即ち、彼との戦闘が避けられなくなることも意味している。メグティナの術でまったく身動きが取れないよりはまだしも展望が見込めるとはいえ、年若い少年と言えどもリントだってフロントラインの幹部。他メンバーからはどうやら守るべき子ども扱いされている──実際に子どもなのだから当然と言えば当然だが──らしいからといって、その実力までお子様のそれだとは僕は思っていない。
確実に、強い。怒り心頭のままに発している魔力の勢いからしてもそれは確かだ。さすがにライオットには及んでいないだろうが、こうして向かい合って感じるプレッシャーは彼が最低でもダイン並か、おそらくはそれ以上の魔術師だろうと如実に告げている。
「いつもそうだなテイカー! あんたも同じだ! 何も知らないくせに、知ろうともしないくせに、偉そうなことばかり言う! だったらボクの家族を返せよ! それができないなら、死ね!」
フロントラインの幹部は皆が訳あって──つまりは自ら望んでのことではなく、不可抗力によって道を外れざるを得なかった者たちだという。そんな彼らが魔術に目覚めながらもテイカー協会に身を預けないのは境遇からして道理の判断であり、そしてそれを選んだだけで非合法として扱われることを鬱陶しく思うのもまた、自然な感情だと思う。
だから壊そうとしているのだ。現在の魔術師と非魔術師の領分を決めている協会は、そんな境目を取っ払って社会の構造を逆転させたいと画策しているフロントラインにとって怨敵であり目の上のたんこぶである。特にリントは組織的な目的のみにあらず個人的な恨みを……それも相当に強烈なものを協会に対して、引いてはテイカーに対して抱いてもいる。
単純な強さだけじゃない。復讐心がリントの魔力を底上げしている。恨み節を吐き出すと共に更に激しさを増した彼の魔力の轟々たる盛り方に僕は一瞬、怯んでしまう。
怒らせたのは失敗だったか? ──いや、今更そんな弱気でどうする。今こそ反旗を翻す時。そう決めたのだから、行動に移したのだからあとはやり切るのみじゃないか。
事態の進展を伏して待つ。支部の皆を信じるならそれも悪くない選択ではあった。だがそうやって自分は何もせず、全てをミーディアたちに任せきりにしてしまうのは少し違うのではないか。それは信頼じゃなく臆病と言うのではないか……そう思ってしまったからには。そして今の時点で本部が危険に晒されていることを知っているのが僕のみであるからには、テイカーとして大人しくなんてしていられない。してはいけないのだ。
フロントラインの目的を、阻止する。その手始めとして僕はリントを下す。彼がどんなに強かろうとも関係ない。これは決定事項だ。
《──充分に勝算はある。と、私も思いますよ。少なくともこのリント少年に関しては》
……!!
覚悟と共に自らも魔力を練り上げた。戦う意思を明確に持った、その瞬間に聞こえてきた待ち望んだ声。
突然繋がりが復活した。シスが戻ってきてくれた──驚きとそれ以上の喜びから彼女に何を言えばいいかもわからないでいる僕へ、シスはやはり淡々と冷静に。まるで長らく会話をしていなかった事実などなかったかのように、いつも通りのアドバイスをくれる。
《気持ちはわからなくもないのですが。そういうのは後回しにしましょうか。状況は把握できていますし、あなたの決断を私は支援します。そう、いつも通りです。いつも通りに戦って、倒すべき敵を倒そうじゃありませんか》
二人三脚で戦う。ああ、それができるなら確かに倒せる。勝てるはずだ。シスがいてくれるなら百人力。どれだけリントが怒髪天だろうと魔力を昂らせていようと、もう怖くない。怯んだりなんてしない。
《だからと言って油断・慢心は禁物ですからね? さあ、来ますよ》
これまたいつも通りにチクリと釘を刺してくるシス。彼女の言う通りにリントには変化があった。彼の懐から小さな熊のぬいぐるみのようなものが独りでに飛び出したのだ。
魔力で動く人形? それがリントの武器か、と思考を巡らせる。だが操って戦わせたりするには些かサイズが小さすぎる。何せ服の中に仕舞えるくらいの大きさだ。魔力で強化されると言っても限度があるのだから、ミニチュアのテディベアが得られる戦闘力なんて高が知れているはず……。
だがリントの顔付きは処刑人のそれだ。あの熊を使って僕を裁くつもりでいるのは間違いない。何が起きてもいいように身構えつつ、注意深く彼の動向を見る。待ちの姿勢だ。
先手必勝とは言うがそれもケースバイケース。後ろから襲いかかるならともかくこうやって互いに臨戦態勢で向かい合っている場合、何も考えずに仕掛けるのは迂闊だろう。カウンター系の唯術も考慮するなら少なくとも相手の出方くらいは窺い、能力の把握に努めるのは悪い判断ではない。と思う。これはライオットとの戦闘で学んだ教訓でもある。
《敵の操る術理の看破は魔術戦においてこの上なく重要です。ですが後手に回り過ぎても良いことはない、これが戦いの難しいところですね》
要するに見抜くなら素早く見抜け、ということだろう。時間をかけ過ぎて敵の必勝パターンに持ち込まれては本末転倒だ。そうやって詰まされるくらいなら迂闊だろうとなんだろうと攻め込んだ方がいい。
思えばライオットやダインは僕の【氷喚】に何ができて何ができないかを当たり前に見抜いていた。その観察力や、観察してもわからない部分を推測で埋める直感力や勝負勘もまた、優れた魔術師には欠かせないものに違いない。
《それを身に着ける練習、と思えばちょうどいい相手かもしれません。やはり経験を積まないことにはそういったものは得られませんからねぇ》
などとどこか呑気にシスが言う合間に、僕は自分の警戒が正しかったことを知った。ミニチュアサイズだった熊が、ぼんっと膨らんで巨大化したのだ。本物の熊も超えるだろうという、目測二メートル半から三メートルほどの巨体になった。しかも、だ。
「取り込まれた……いや、乗り込んだ?」
もっと正しくは着込んだ、だろうか。リントは大きくなった熊の内部へと収納された。つまりあれはぬいぐるみではなく着ぐるみだったのだ。そしてもちろんのこと、それこそがリントの戦闘形態。彼は装着(?)が完了すると同時にまさしく野生の熊のような狂暴さで襲いかかってきた。
っ、速い!
身の守りを固めつつ回避に動く。だが巨体を避け切ることはできず、突き出してきた腕からは逃れられてもそのまま体当たりによって押し込まれてしまった。着ぐるみ熊はその見かけ通りの──と言っても見た目は愛くるしいぬいぐるみそのままなのだが──重量と力強さを遺憾なく発揮し、ベッドを踏み潰しながら僕の背後にあった壁を一打で粉砕。僕まで一緒になって隣の部屋へともつれこんだ。
転がりながら距離を取って、立ち上がる。すると向こうものっそりと起き上がり、再び姿勢を低くした。また突っ込んでくるつもりか? なるべく熊から視線を外さずに周囲を確認する。ここはもしや、僕がライオットと組手をやらされていた部屋か。戦うのに十分な広さがある。だがそれは吉報とは言い難いかもしれない。
《あの重たい起き方や攻撃の仕方からして俊敏さはあまりないようですね。けれども、パワーはある。直線的な動きだけなら凶獣以上でしょうか。先ほどの狭い部屋の方がむしろやりやすかったかもしれませんね》
まさにだ。ぐぐっと両脚に力を溜めている着ぐるみを前に、僕も用意をする。こいつの突進は見てからどうこうするのは難しい。避けるにしろ他の手を打つにしろ事前の備えが不可欠だ。そして僕はリントに空間を広く使って自由自在に戦われては困るので、そうさせないようにしなければならない。
見極める。溜まった力が解放される──その直前!
「氷筍!」
強く床を踏み込む。これは起点だ。そこから急速に床が凍り付き、そしていくつもの氷柱が上へと突き出していく。
──唯術の結実にはイメージ力がモノを言う。自分が持つイメージを正しく形にするために有効な方法としてライオットに教わったのがこれ、特定行動による起点の作成である。術の行使に当たって動作を取り入れるのはイメージの補強になる。ルーティーン、というやつだ。本来なら不必要な手間をあえて増やすことで術理の完成がむしろ早まるという、矛盾のようで矛盾ではないこの技術。一角以上の魔術師なら誰もが習うと習わざるとにかかわらず取り入れているとのことだった。
以前までは地面が水浸しになっているか、あるいは凍結を繰り返してその状況を作り出すことでしか成し得なかった氷筍という強力な技。を、魔力操作の向上+特定行動の設定によって単体で繰り出せるようになった。これすらもライオットの身のこなしや【離合】の前には大して役に立たないのがなんとも言えないところだが、しかし奴を相手にするのでもなければ仕込みなしで行える氷筍は大きな武器になる。そう予想したのは間違いではなく。
「ぐっ!」
突っ込もうとするのに先駆けて殺到した氷の槍に、リントは対応しきれず直撃。複数の氷に貫かれ──ることはなかった。
「こんなもの!」
自分を進ませまいとする障害を、腕の一振りでまとめて叩き折る。やはりパワフルだな、あの着ぐるみを纏った状態のリントは。氷筍をまともに浴びても動きが止まらないとなると防御力も相当なものだ。だがさすがにノーダメージとはいかなかったようで、着ぐるみのあちこちには小さくとも確かな傷が付いている。
これならいけるな。ひたすら近づこうとしてくるからにはおそらくまともな遠距離攻撃の手段を持たないと見ていい。突進を許してしまえばその素早さから至近戦を余儀なくされ、あの作り物の腕から生えたフェルトのような爪の餌食になってしまうわけだが。けれどリントの突進は見え見えでカウンターが取りやすいのだから大した脅威でもない。逆にこちらの攻撃のチャンスにもなるくらいだ。
突っ込んでくる間際に氷筍。そのタイミングさえ間違えなければ少しずつダメージを蓄積させて、やがては着ぐるみも維持できなくなるだろう。二度の攻防から勝利までの道筋が見えた……つもりでいたのだが。それは呆気なく覆される。
「げ」
なんか、傷が塞がっていくというか。修復されていっている気がするんだけど。
《されてますねぇ、修復。どうやら彼の魔力が持つ限り着ぐるみが負った損傷は立ちどころに回復されてしまうようです》
げげげ。それじゃ氷筍をどれだけ食らわせようと一向にダメージなんて蓄積されないじゃないか。
《ですね。修復自体には大して魔力を消耗していないようですし、戦闘プランを見直した方がよろしいかと》
ガス欠も狙えないならいくら繰り返したって意味がない。時間稼ぎをしたいならともかく、そうでもないのにひとつの攻撃に頼り切っていてはやがてリントに攻略されてしまうだろう……手札の一枚に慣れられてしまえば痛手だ。より有効的に使えるその時まで、氷筍はしばし控えるとしよう。
《では、どうします?》
草木を掻き分けるように僕が作った氷柱の群れを薙ぎ払ないながらリントが接近してくる。それに合わせて僕は──彼と同じ土俵に立つことにした。
「考えてみれば絶好の機会だ。試してみようかな……新技を」
ぱきり、と僕の手が凍り付いた。




