64.目覚め
目が覚めてから自分が眠っていたことを知った。もはや見慣れたコンクリートが剥き出しの寒々しい天井。体を動かす前に最後の記憶を辿れば……ああ、そうだ。イオだ。彼女に何かをされて、その衝撃で僕は気を失ったんだ。
いや、あれは気絶とかそういうものではなかったな。そんな生理的な反応ではなかったように思う。言うなればあれは、アップデートだ。肉体に強制的な変更が加えられ、その完了を待つために僕は自ら眠りに落ちた。と表現するのが一番しっくりくる。正しいかどうかはともかく、感覚としてはそれが近い。
さて、ここはどこだろう? フロントラインの地下拠点には違いないだろうが、僕に与えられた個室ではないぞ。天井の傷や汚れからなる模様が違う。けれど、どうやら僕はベッドの上に寝かされている。わざわざ別室に僕を横たわらせた意味はなんだろうか? 考えてもよくわからなかったので、ひとまず起きてみることにする。
う、背中がバキバキだ。体中が重たくも感じる。調子は……悪くなさそうだが、本調子とは言えないか? 相当長く、あるいは深く眠っていたらしい。無理に起きるよりもこのままもう少し横になっていようかとも迷ったが、やはり状況を知りたい。億劫さを振り払って上体を起こしてみて……そこで初めて、室内に僕以外にも人がいたことを知った。
その人物はベッドから数メートルほどの距離を置いて、扉の前で椅子に腰かけていた。それはあたかも、僕を部屋から出さぬように通せんぼをしているようでもあった。
「起きたんだ」
読んでいる雑誌から顔を上げて彼は僕を見た。リント。メグと同年代くらいの、幹部の中でも一際年若い少年だ。フロントラインに限らず、僕が目にしてきた魔術師というカテゴリでも彼ほど幼い人物はいない。正確な年齢は知らないが、精々が十二、三歳といったところだろう。子どもだ。遊び盛り育ち盛りのどこにでもいるような子ども。しかし見た目がどれだけ幼気であろうとも彼もよく鍛えられた魔術師。僕を見つめる眼差しには魔術を扱う者特有の油断ならない光がある。
警戒、されているか。それもそうだ。ライオットやメグは僕のことをもはや敵と見做していない素振りすらあるが、本来はリントのこの反応がアンダーとしては正しいだろう。いくら自分たちのリーダー格が招いた客人であったとしても気を許す方がどうかしている。
僕は彼を見つけても起き上がるのをやめなかった。なるべく彼を刺激しないように自然に、緩やかにベッドに腰かける。そしてそのまま、ご丁寧に置かれている靴にも足を通して立ち上がろうとして。
「ストップ。そこまではいいけど、その先はダメだ」
「っ、」
それとなくいつでも動けるように……つまりは戦えるように備えたかったのだが、怪しまれてしまったか。ぎくりとして言われるがまま止まった僕に、リントは続けて言った。
「一応はあんたのために言ってやってんだぜ。この部屋はメグティナに縛られている。あんたが自由に動いていいのはベッドの中だけ。ボクがここから動かずに要石の役目を果たしている限り、この術は続く。らしいよ? あいつの唯術ってボクからしてもわけわかんないからただの受け売りだけど」
……部屋を縛る? いや、室内の空間を、か。門を用いた長距離移動だけでなくそういうこともあの子はできるのか。ますます厄介そうだな。でもまあ、瞬間移動ができるという時点で厄介さなんてカンストしているようなものだから悲観するようなことでもないかもしれない。我ながらこの思考はネガティブなのかポジティブなのかよくわからないが……。
それにしてもあの少女、メグとは愛称であって正しい名はメグティナというらしい。ライオットがメグとしか呼ばないせいで気付けなかったぞ。そういえば奴はギドウスのこともギドと略して呼んでいたっけな。親しみの表れ、なのだろうが。ここで注目したいのは、ライオットが誰も彼もを愛称で呼んでいたわけではないという点。そしてリント少年もまた、メグティナのことを愛称では呼ばない点だ。
「ベッドから無理に出ようとすれば、どうなるんだ?」
「固まって指一本動かせなくなるってメグティナは言ってたけどね。本当にそれだけかは知らない。まあ、無理なんてしないことだよ。寝起きの頭でもそろそろわかってきたろ? ボクが嘘なんて言ってないってことが」
僕は頷く。言われてみればなんとなく感じ取れるものがある。部屋の中を渦巻く空気というか、雰囲気というか。何かしら普通ではないものに満たされていることが肌に伝わってくる。自分でも何を感知しているのかは判然としないけれど……なるほど、もしかしたらライオットやダインが目に見えない空中氷路を躱せたのはこういう絡繰りだったのかもな。
魔力操作に優れた彼らが当たり前に察知できるそれを、僕も曖昧ながらに気付けるようになった。ということなのかもしれない。
とにかくリントの言う通り、ここは動かないのが吉だ。下手に出られないか試してみて完全に拘束されてしまうよりは、ベッド上という僅かな範囲ながらに自由があった方がいい。それはそれとして、ひとつ気になるのは。
「こんなことは初めてだな」
「ん? 何が?」
「拘束らしい拘束なんて受けてこなかった。ここに連れられて以降、常に軟禁状態ではあってもここまで直接的に『動けなくされた』のはこれが初だ。どうして今更こんなことをするのか聞いても?」
「………」
そこでリントはしばらく黙り、じろりと。じっとりと僕のことを見た。僕も彼を見つめ返して黙っていると、やがて「はあ」とため息が吐かれて。
「ボクとしてはそんな義務なんてないと思うんだけど、ライオットが教えてやれってさ。だから、訊かれたからには答えてやるよ。今ここにいるのはボクとあんたの二人きりだ。他には誰もいない、みんな出払っている」
「出払っている……? それって」
「そう。あんたも知ってるだろ、ルズリフの周辺に魔石がばら撒かれていること。ライオット以外はそれを回収に行った。十中八九──いや、百パー罠だけど、だとしても構わない。そこで誰が網を張っていようと協会の戦力ならついでに潰すだけだから」
……! イオがライオットに寄越したあの紙片の情報通りに、フロントラインは行動を開始したということか。罠と見抜いていながらあえてそれに乗る。それはかなり思い切りがいいというか、言ってしまえば増上慢な選択のように思えるが。そうしてでも質のいい魔石が欲しいし、ともすればそれ以上にそこに待ち構えている質のいいテイカーを減らしたい。そういう気持ちの表れだろう。
実際、ライオットにはそれだけの自信を持つに相応しい強さがあるのだからただの思い上がりとは言えない。
ルズリフ支部がどういった作戦・陣形で敵を誘い込んでいるのか僕には知りようもないが、それがどれだけ考え抜かれた素晴らしいものであったとしても、ライオットが一人いるだけで厳しい戦いになることは確定している──って、あれ?
「回収に行ったのはライオット以外って言った?」
「言ったよ」
「……じゃあ、あいつは何を?」
「護衛だよ。お守りをしてくれって『奴ら』に頼まれたんだ」
護衛……『奴ら』、即ちイオとその仲間たちをライオットが守る? いったい何から? その疑問が顔に出ていたのだろう、リントは読みかけの本を閉じてから肩をすくめてみせた。
「同時進行だってさ。ボクらが弾用の魔石を調達している間に、一足先に完成した発射台を『奴ら』が仕掛ける。協会本部を狙い撃ちするためのものだから、その居場所の大都からそう遠くには設置できない。つまり設置作業には、どんなに見つからないよう細心の注意を払っても危険が付き物。万一『奴ら』がしくじりでもしたらボクらの苦労も水の泡だからね。ライオットが作業に掛かり切りの『奴ら』を守ってあげるのは理に適っている……なんでそこまでしてやらなきゃいけないんだって気持ちもなくはないけどさ」
そうか……計画はとうとうそこまで来てしまっているのか。
発射台とやらの設置が協会に露見せずに済んだなら、あとはルズリフ支部が餌として用意したらしい魔石のいくつかで砲弾を完成させ、協会本部へそれを撃ち込む。そうすると協会を守っているという結界の効果がなくなり『奴ら』とフロントラインはこれまで反協会勢力の誰もが成し遂げられなかった本部への強襲が行える。
という最悪の流れの一歩目が、既に始まってしまっている。
少し眠っている間にこんなに大きく事が動いているとは。フロントラインという組織の内にいながら僕は転機に携われていない。イオはそれも見越していたのだろうか? イレギュラーである僕が最後の魔石回収を邪魔しないようにと……そういう意図もなかったとは言い切れないな。だけど、あのとき彼女が語った全てがそのための騙りというわけではなさそうだ。
ぐっと拳を握る。今この手の中には、イオの【同調】とやらが与えた力が確かにある。
「──はは」
「? なに笑ってんの」
訝しげなリントの反応は当然のものだろう。何せ今この瞬間、支部の仲間たちとフロントラインが激突しているのだ。そこに生じるであろう被害、そしてその裏で協会本部までがひっそりと、しかしかつてないほどの危機に陥ろうとしている。それらのことを思えばテイカーである僕が平静でいられるはずもない。
阻止するために何かしらを仕出かすのは目に見えている。と、フロントライン側もそう想定したからこそこうしてメグティナの唯術で身動きを封じ、その要にリントを置いたに違いないのだから。
すると眠り呆けていたのも悪くはなかったかもしれない。でなければリントは魔石回収の班に回され、僕はライオットの方に付き添わされていた可能性がある。もしそうなっていたら支部の皆が相手しなければならない敵の数が増えた上に、僕も本当の意味で何もできなくなってしまう。だから現状は、一見してどうしようもない状況に思えるものの、決してそうではない。
最悪からは程遠いケースをただ眠っているだけで引き当てた。その思いがけない幸運に僕は笑ったのだ。
「リント。なんで君はここに残っている」
「はぁ? 言ったろ、あんたが余計なことをしないように。見張りのためだって」
「だから、それを『なんで』って訊いているんだよ。この施設があるのは大都の協会本部からもルズリフからも離れた街だろ。いつ目覚めるかわからないにしたって、僕なんて放置していてなんの問題もないはずじゃないか。空き家が荒らされる心配なんて計画の大詰めですることでもなし。メグティナやライオットみたいに遠くまで一瞬で移動できる術を僕は持ってもいない。捨て置いていい存在だ。そんな奴の見張り? 御大層な仕事もあったもんだね」
「……何が言いたいんだよ」
迂遠な物言いながらに僕がどういうつもりで、どういう意図で喋っているのかリントはしっかりと理解してくれているようだ。彼の表情ははっきりとわかるほど険しくなっている。そうだ、それでいい。
僕にはそれしか手がないのだから。
「わからない? 君から志願したにせよ押し付けられたにせよ。他のメンバーたちは、要するにあれだろ? 体よく君を置いてくために僕の監視なんていう本来なら不必要な仕事を与えたわけだ。今ならよくわかるよ、ライオットがメグティナやギドウスばかりを親しげに呼ぶ理由。あの二人ほど信頼されてないってことだね、リント君は」
「……!」
リントの眦が吊り上がった。思った以上のこのリアクション、ひょっとすると彼自身にも心当たりがあったのかな。それとも単に侮辱されること自体に慣れていないのか。
失礼なことを言われたってそれがあまりにも的外れであれば、怒りよりもむしろ呆れの感情が先立つものだが。そうやって冷静でいられるのはある程度精神的に成熟している者だけだ。酷いことを言われたなら、その分だけ怒る。それが子どもというものだし、聞き流すよりも元来正しい素直な反応でもある。つまりリントは、まだすれていない。きっと他のメンバーから大切に守られているのだと思う。が、当の本人には──このくらいの歳の子が往々にしてそうであるように──その大切な扱われ方が不満なのだ。
早く大人になりたくて。早く皆に追いつきたくて。きっと彼は必死だ。それが僕にとっては非常に好都合だった。
「ライオットからは仲間になれって誘われてるけど……正直それも悪くないかなって思い始めてたところなんだけどさ。でもやっぱり遠慮しとこうかな。フロントラインに加わったら、リント君と違って僕はきっと何かと頼られるだろうし。そうなったら君に悪いものな」
ますます居場所がなくなるだろ、と。
さも心配しているような、心から気遣っているような顔を意識してそう言ってやれば。
そこまでが彼の限界だったようだ。
「ふざけんなっ、テイカー野郎!」
椅子が倒れて音を立てる。それが戦闘開始の合図となった。