63.S級
戦地のど真ん中へ雷が落ちた。意識の空白を生む光とそれに続く轟音。雲ひとつない晴天の折、その奇妙さも手伝って、命懸けの勝負に身を投じている最中であっても誰もがそこへ視線をやらずにはいられなかった。
男が立っている。素肌の上から革のジャケットを身に纏い、黒いタイトなパンツと、大量の飾り鋲付きの豪奢な革靴でロックな雰囲気を漂わせている、一見して戦場にはまるで似つかわしくない恰好の男は──腰に手を当てて盛大なため息を零した。
「なぁんだって人様が出先で気持ちよく飲んだ途端なんだ? え? 罠張って即かかるとか辛抱もお頭も足りてねーにも程があんだろ。おかげでこっちは頭ガンガンの吐き気ムンムンだってのに叩き起こされて叩き出されてよぉ……これ以上はねえってくらいに最っ悪の気分だぜ」
項垂れながらぶつくさと。戦いに来たとはとても思えない、やる気を感じさせない佇まいに独り言。しかし視線だけはぎょろぎょろと辺りを見渡すその男からフロントラインの構成員たちはどうしても目が離せなかった。
睥睨する眼差しの剣呑な輝き、一目でわかるよく鍛えられた肉体、そして迸る魔力。強い。それも、尋常ではなく。男を構成する要素の全てが鮮明に物語っている。
流れが変わった。確かに自分たちの方へと向いていたはずのそれが男の登場ひとつで変えられてしまった。ギドウスがそう認識したときにはもう、逆向きとなった流れの勢いは留めようもなく増していて。
「この怒り。好きなだけぶつけていいんだよな? てめーらをサンドバッグに、よぉ!」
真横に走る雷。気付けばバーツが吹き飛んでいた。殴り飛ばされたのだ、と彼自身が自覚するよりも早く再び雷光が弾け、先回りした男に今度は蹴られた。人体を蹴って鳴るようなものではない深刻な音がバーツの全身と辺り一面を駆け巡る。
またしても吹っ飛ばされた彼は太い樹木の幹をへし折ってなお止まらず激しく地面を転がり、しばらくしてからようやく停止。
起き上がる気配は、なかった。
「……!」
おそらくはミュウミュウの【加護】を受けており、強度で言えば自分と遜色のない状態でいたであろうバーツがたった二発で沈んだ。沈められたことにギドウスは目を剥く。
横になったまま辛うじて意識を保っていたミュウミュウにも容赦のない蹴りを浴びせて強制的に眠らせた男が、こちらを見た。すぐ傍にいる敵のミーディアやアイナへの警戒も忘れて──否、「それどころではない」と判断してギドウスはその男だけにリソースを集中させて身構える。だが。
「ぬっ、ぐぅ!」
白い瞬きが起きたかと思えば、いつの間にか懐に入り込んでいた男の縦拳がギドウスの腹へと突き刺さる。大柄で頑強な肉体と、潤沢な魔力。そして【強靭】による堅牢さの付与。それらが互いを引き立て合ってギドウスの肉体強度はミーディアの極斬りにも正面から対抗できるだけの、言うなれば人外の域に達している。だというのに、それだけの強度でも受け切れない、受け止められないだけの威力が彼の内部へ染み込んでいく。
このどうしようもないほどの激痛。拳の一打でこれだけのものを己に与えてくるのは、ライオット以来だ。つまりこの男は。
(ライオット並の、強者だとでもいうのか……!)
機動力に打撃力。どちらも最高レベルで備えているライオットと、この男は戦い方がよく似ている。それ即ち両者が同じ高みにいることの証明なのではないか。ともすれば痛み以上にギドウスが気を取られたのはそちらの方で、故に彼は訊ねた。
「お前は、何者だ」
「ほー、耐えっかよ。腐れアンダー如きがこの俺様の拳を。生意気だな」
そこらの魔術師なら悶絶必至、どころか死んでもおかしくない一撃だ。
ギドウスらが一目で彼の強さを見抜いたように、彼もまた敵の実力を大方見抜いていた。中でも一等の強さを持つのが目の前の大男。それがわかっていただけに、瀕死女は勿論のこと優男に向けたもの以上の本腰を入れた打撃を叩き込んでやったのだ。なのに彼はそれで気を失わないどころか倒れもしない。
唯一目算を越えてきた。それが彼をしても見通せない実力によるものか、はたまた只ならぬ根性によるものかは定かでないが。とにかく自分の攻撃に耐えてみせたこと。それに対して彼は言い草とは裏腹にどこか嬉しそうにして。
「何者か? 教えてやんよ。そんくらいの価値はあると認めてやるぜ──俺様はエイデン・ギルフォード。本部所属のS級テイカーだ」
「S級……お前が、そうか」
数少ない戦力である特A級すらも超える、協会の真の最高戦力。片手の指で数えられる程度の人数しかいないとも噂される最強。その一角が、エイデンと名乗ったこの男。
とうとうS級まで引っ張り出したか。それを差し向けられるということは、協会がフロントラインをそれだけ甚大な脅威と認めていることの証であり、多少ならず達成感を抱かせるものだ。長年の努力が実を結んだような気持ちになるギドウスだったが、しかしそれ以上に感じるのは──焦燥。
S級が、想定を遥かに超えて強過ぎる。直近で特A級との一対一を経験しているギドウスはそこからその更に上であるS級テイカーの強さについても大まかな予想を立てており、それは決して自分自身や自分の所属する組織にとって甘い見通しではなかったはずだ……が、そんな「厳しい予想」すらも下にして、実際のS級は特A級と比較してもなお飛び抜けていると言わざるを得ない。その戦闘力はギドウスが最強と信じて疑わないライオットを連想させられるほどだ。
これはまったくの予想外と言っていい。
「んで? てめーはなにもんだよ。フロントラインの頭ってことでいいのか?」
「それは……俺を倒してから確かめることだな」
「名乗り返す礼儀もねーとはさすがアンダーだ、育ちが悪ぃな。そうさせてもらうぜ!」
パチッ、と雷光が弾けかけた一瞬。それより先んじてギドウスがエイデンの背後へと飛んでいた。それは移動ではなく空間の入れ替え。つまりはメグティナによる再度の転移による手助けであった。
そうしなければギドウスは勝てない、が、無防備な背中へギドウスの全力が命中すればS級であっても無事では済むまい。という勝算を以ってなけなしの体力を振り絞り行った強制転移は、確かにギドウスを救いもすればエイデンの虚をつくこともできた。
けれども。
「ッは!」
予め助けが入ることを察していたかのように淀みなく振るわれるギドウスの拳──よりも早く、速く、疾走く。スタートの遅れも、向きや体勢の圧倒的不利も、自らを邪魔する何もかもを振り切って。最速の反応と最高速の駆動でエイデンは易々と敵を追い抜いていった。
雷の速度での攻撃。それこそがエイデンをS級足らしめる最大の武器であり、最強の矛。
「ッッづ……!」
振り向きざまに放たれた雷速のフックに頬を穿たれ、ギドウスの視界にいくつもの小さな閃光がチラつく。意識が飛びかけるのをなんとか気力で堪えるが、体の方は抑えが利かずに膝を付くことを余儀なくされた。血混じりの唾を垂らしながら荒い息を繰り返す彼に、エイデンは「けっ」とこちらも唾を吐いて言った。
「まだくたばらねえとは呆れたタフさだな。やっぱてめーがリーダー格ってことでいいか? てかそうしとこうぜ、他にいたとしても探すのめんどくせーしよ」
エイデンはそれなりの打撃を二発も決めてまだギドウスが無事であることに──などと称せる有り様では断じてないものの──大いに不満のようだったが。けれど今の今までギドウスと戦っていたミーディアやアイナ、モニカからすればその光景は衝撃の一言だ。
何をやってもビクともしない、まるで攻撃を食らっていないかのように顔色も変えず平気の平左でいたギドウスが、息も絶え絶えに苦しんでいる。顔も上げられずに蹲っている。エイデンの一打に、まったく対応しきれていない。……わかってはいたことだ。外様故に四方山の噂でしかS級を知らぬギドウスとは違い、同じくテイカーであり一時期は本部にも籍を置いていたミーディアなので、その等級がどれだけ特別か。どれだけの強者に与えられるものであるかもよく存じていた。
だが所詮それは耳で聞いただけの情報だ。実際に目にして、肌で感じるのとは知識としての質が異なる。ミーディアは今、体験としてそれを知った。真に理解したのだ──エイデンと自分の間にある確かな実力差。S級というものがどれだけの高みにいるかを、敵であるギドウスを介して彼女もまたその骨身で味わった。
言葉もなく現実を直視し続けるミーディアはまるで自らを戒める修験者のようであった。その視線に込められた熱量に気付いているのかどうか、エイデンは目も向けずに彼女へと言った。
「元気いっぱいなのはお前だけみてーだな、イカれ女。だったら今の内に生きてるのは回収しとけ。あっちでオルネイもぶっ倒れてたからぶん殴ってでも起こせ、俺様が許可する」
「了解」
戦力としての期待はされていない。そう言われたに等しい指示だったが、間違っていない。エイデンからすれば下手に手を貸された方が鬱陶しいだろうし、そうでなくても疲弊した仲間たちの安全を確保する役目は誰かが担うべきことである。
モニカとアイナの強化もそう長くは続かない点も踏まえれば、戦線から下がりつつ撤退準備を進めておくのは理に適った判断だ。乱雑な口調ながらに現場上の責任者としての彼の言葉に瑕疵はない。そう認めたが故にミーディアは逡巡も反論もなく承諾し、即座に指示通りに動いた。
「二人とも手伝って」
「は、はい!」
「……」
迷いなく応答したモニカに対し、アイナは少しばかり残念そうに……まだまだ斬り足りないとはっきり顔に書いていたものの、こちらも指示には従ってミーディアの後ろへ続く。まずは身動きがほとんど取れない状態でいるアイアスを連れて、次は負傷しているロールマンとイリネロの下へ。そうやって女性三人組が離れていくのを待ってから、エイデンは口を開いた。
「存外お行儀がいいじゃねえか、アンダー共。俺様に手も足も出ねー腹いせにあいつらを背中から襲うだろうと思えば……まさかその気配も見せねえとはな。ま、んな馬鹿なことしてたら俺様にぶっ殺されて終いなんだから賢明だがよぉ」
馬鹿なこと、というのは集団戦の鉄則とも言える「落としやすい者を狙う」行為そのものではなく、エイデンに睨まれている状態でそれを行なうことを指す。それがわかっているからギドウスも、そして彼を助けたいメグティナも動かなかった──動けなかった。両者は共に気付いている。余裕綽々の態度を見せながらもその実、エイデンが自分たちの一挙一動を見逃すまいと目を光らせており、少しでも牙を覗かせればその途端。たちまち超反応の一撃が再び炸裂することは明らかである。
死にかけのテイカーたちを殺し切れないのは非常に惜しい。特に転移使いに関しては確実に仕留めたかったところだが……致し方ない。そんな欲目を出すことが、この男を前に他の何かに気を取られることがどれだけ致命的か。もはやまともに力の入らない肢体が強烈に教えてくれているからには、ギドウスは諸々を諦めざるを得ない。
成すべきは協会の戦力を削ぐのではなくフロントラインの戦力を削がれないこと。中でも優先的に、こちら側の転移使いであるメグティナだけはなんとしても守りたい。そのためならば自分含めた他が全滅したって構わない。エイデンから彼女を逃がせたならその悲惨な収支でも釣りがくるというものだ。
問題は、それが途轍もない難題であるということ。エイデンからしても最も落としたい敵はメグティナなのだ。満身創痍の彼女が狙い撃ちされずにこの場を去れるだけの隙など、得ようと思って得られるものではない。たとえギドウスが己が命を投げ打って決死の攻勢に出ようとも、だ。
それもわかっている。わかっているが。
「ぬう……!」
震える足腰に鞭打って、ギドウスは立ち上がる。そして拳を握り締める。ズタボロではあるが戦闘が困難なほどの傷は負っておらず、【強靭】の唯術もまだ切らしていない。魔力だって量的不安はなし。戦える、のならば戦うのだ。どれだけ困難であろうともメグティナを逃がす──いやさS級と刺し違える。その気概で構えを取った彼からは、とても追い詰められた者とは思えないほどの重厚な圧が放たれていた。
余人に重苦しさのみならず息苦しさまで覚えさせる極度の気迫。それをエイデンはそよ風の如くに受け流す。
「おーご立派ご立派。見苦しいから死んどけ」
せせら笑いと共にエイデンが放った蹴りは、ギドウスには対処不可能な速度と重みのあるもの。だから、それを止めたのはギドウスではなく。
「……チッ。んだこりゃあ」
「どういう状況? これ」
見えない何かに蹴り脚が止められたエイデンの頭上から、そんな軽薄な声がした。