6.罰
《課題とは言いましたけど、実はもう同じステージに立つこと自体はできているんですよね》
と、湖畔で一人目を閉じて佇む僕の頭の中で声が言う。
《あなたは既に魔力を操っている。僅かな上に無意識で、ですけどね。でなければ悪路を山犬と駆けっこなんてできませんし、あの距離をジョギングして息のひとつも乱さないなんてありえません》
語りかけられながらも集中を切らさず、なるべく自然体のままに立つ。
《その上で意識的な運用を私が行った。あなたの身体はその感覚を覚えた。あとはそれをなぞるだけです。……どうです、そろそろいけるんじゃありませんか?》
右手。そこに込める。体の全てへ均等に行き渡っている力を偏らせる。
「……どう?」
《おー、できてますできてます。素晴らしい上達速度ですね。まあ知ってしまえば手足を操るのと同じですからできて当然なんですけど。でも一から始めたらここまで来るのにも一苦労どころでは済みませんからね》
「そうなんだ?」
息を吐きながら一旦力を……魔力を抑える。集中を切らせばふっと立ちどころに消えてしまうそれは、けれど完全に失われたわけではなく確かに僕の中に存在しているとわかる。疲労はそれなりにあるが、まだまだいける。そういう感触があった。
《魔力は言うなれば生命力の一環。生物誰しもが持っているものですが、それを意図的に扱うのはとても難しいんです。あなたが証明しているように感覚を掴んでしまえばなんてことなくとも、一生をかけても掴めない者には掴めません。あと、いくら魔力の扱いに優れていても魔力の総量が伴わなければ意味ないんでそこのハードルもありますね》
乏しい魔力では魔術に昇華できない、と声は言う。
「魔力を操る技術の総称が魔術、って言ってたっけ」
《はい。今あなたがやっている魔力操作は魔術の基本にして奥義ですから、どんどん伸ばしていきましょうか。はい、次は左肩。手よりも意識が難しいですけど、できますよね?》
「やってみる」
声曰く、僕は段階をすっ飛ばしている。魔力の自覚も操作も、なんの用意もなく始めようと思ってもできることではないらしいが、僕は無意識とはいえ魔力の恩恵に預かっていたし、そして声が肉体に直接使い方を教えてくれたことで我ながらスムーズに操作の技量を上げていると思う。最初は難しそうだと感じてもやれば意外とできてしまう。今もそうだ。確かに肩に魔力を集めるのは手以上に難度が高かったが、手こずったのもしばらく、僕はちゃんと左肩に魔力を集わせることができていた。
《上々ですね。私が山犬を倒した例からもおわかりの通り、魔力による強化は素の身体能力を何段階も引き上げます。それを万全に扱えれば現時点のあなたでも下級の魔物程度には後れを取りません。それは攻撃面だけでなく、防御面においても同じことが言えます》
魔力操作は攻防一体の技術だということだ。打突に合わせて拳に集めれば強烈な打撃になるし、相手の攻撃が当たる箇所に集めればその被害を減らせる、あるいは完全に防げる。聞けば魔物という言葉の定義は「肉体が魔力によって構成されている特殊な生物であること」だというし、そんなおかしな存在と戦うからには人間側にも魔力が必須だろうと納得する。剣と魔法のファンタジーではなくても、剣と魔術のファンタジーではあったわけだ。
「ミーディアが山犬を切り伏せたときも魔力が使われていたってことだよね?」
あの目にも留まらぬ動きと、軽々と剣を振れる膂力は魔力あってのものだったのだと合点がいった僕に、声は「違います」とすげなく否定した。
「違う?」
《彼女、魔力なんて使っていませんでしたよ。少なくとも体には纏っていませんでした。ですので、あの動きは素ですね。魔力なんて使うまでもなかったということでしょう》
「えー……」
アレが素? 瞬きと同じ速度でけっこうな距離を詰め、次の瞬間には山犬を両断していたあの一連の動作が? それが本当ならとんでもないことだ。だって僕は魔力の力を借りてようやく戦えるかどうかだというのに、彼女はそんなものなくても容易に山犬を屠ってしまえるのだからそこには大きすぎる差がある。
《基本性能にかなりの開きがあるのは間違いないですねぇ。それが魔力強化でさらに広がるんですから、魔力を扱える同士とは言ってもあなたとミーディアはちっとも横並びじゃありません。彼女を指標にするのはまだ早いですよ》
同じステージであったとしても彼女のいる場所は遥かに遠いということか。まあ、それも合点のいくことではある。あの落ち着いた態度や未開域を単独行動していた事実、そしてそれをエマも咎めていない様子だったことから、ミーディアはテイカーの中でもおそらく実力者の部類に入る人物であろうと予測もつく。若い身空の女性でありながら立派なことだ。声の言う通り彼女は僕なんかがおいそれと指標に使っていい人ではないのかもしれない。
それはともかく、少し困ったな。
「元々の身体能力も重要になってくるのなら、僕みたいにまったく体を鍛えていない人は魔力で強化しても高が知れているんじゃ……?」
ミーディアの動きは明らかに訓練を積み重ねた者のそれだ。テイカーの基準がそこにあるのなら、付け焼刃で魔力操作を覚えたところで試験に通用するかは非常に怪しい。武術でなくともいいから最低限、何かしらスポーツの経験なんかがあればまた違ったかもしれないが……言ったように僕には生憎とそういったものに汗を流した経験が皆無なのだ。
《その点は大丈夫でしょう。あなたの身体は以前のものよりずっとよく動くようになっていますからね》
「えっと……それは」
どういう意味なのか、と全身に魔力を張ったままで戸惑う。この訓練を始めたての際には少し話しかけられただけで魔力の維持が途切れていたことを思えば、確かに僕は順調に操作技術を伸ばせているようだった。そのことに、静かな口調ながらに声もどこか満足そうにしているように僕には感じられた。
《特別性なんですよ、今のあなたは。ちょっと目を開けてみてください》
言われた通りに下ろしていた瞼を上げて、訓練の開始時以来に景色を見る。と言ってもここは湖のすぐ目の前であり、見える物は目を閉じる前となんら変わりなかったが。日光の辺り方によって多少水面の輝きが違うかなといったところだ。
《あなたが魔力操作を始めてからどれくらい時間が経っていると思いますか?》
「どれくらい……」
そういえばどうなんだろう。やればやるほどやれるようになるのが楽しくて熱中していたものだから、時間感覚がぷっつりと途切れている。それだけ集中できていたという証だから悪いことではないと思うけど……おかげで、声に体の主導権を奪われるという結構な恐怖体験をしたはずなのにそれがちっとも気にならないくらいだ。
とにかく訓練時間を考えてみるとしようか。ヒントになるのは太陽の高さだろう。三十日という期日を設けたのを機に、未開域までの移動中に声へ訊ねてみたのだ。この世界の一日とは何時間で、三十日とは僕が知るどの程度の長さに相当するのか。すると声はあなたの知っている通りだと答えた──要するに僕がいた世界と変わらず、こちらも一日は二十四時間、一ヵ月は三十日、そして一年は十二か月であると。そうなると、時計がなくてもざっと時刻の目安はつく。
「陽がさっきよりも傾いているけど大きな違いはないから、一時間から二時間ってところかな。……あれ?」
言いながら首を傾げる。おかしいな、いくら時間感覚が働いていないと言っても体感上、五・六時間以上は訓練を続けているという確信がある。なのに太陽は確かにほんの僅かにしか空を移動していない……どういうことだ?
《時刻の目途についてはいい線いってますけどそれ以外が狂ってますね。正解は二十五時間です》
「二十……え?」
《ですから、丸一日以上もここに突っ立って魔力操作に没頭していたんですよ、あなたは》
「…………」
唖然とする。いくら熱中していたにしてもそこまで集中力が持続するものなのか……陽が沈んでまた昇ってきたのを丸っきり認識せずにいたなどと、そんなことがあり得るのか。声の言うことであってもさすがに疑わざるを得ない僕に、声は続けて。
《普通ならできっこありませんよ。修行僧じゃあないんですから二十五時間もひとつのことに没頭なんて、そりゃ無理ってもんです。でもあなたならできる。特別性ですからね》
「その、特別性っていうのはいったいなんのことなんだ」
《あなたまさか、自分が元の自分のままだなんて思っていないでしょうね。記憶はあるでしょう? あなたが前のあなたとして生きた記憶。そして死んだ記憶も。なのにまだ生きているということは、もう一度生まれたということですよ。ライネとしてあなたの新たな生が始まった。この肉体はそのための容器です》
「容器」
《ええ、あなたという魂、生命の入れ物。ですから魔力が備わっているし身体能力も上がっている。訓練次第で如何様にも伸ばしていけます。飲み食いもなしにいくらでも修行ができる。そう造られているからです》
「造られているって、誰に……?」
《人が神と呼ぶような誰かに。そう答えるのが一番正確ですかね。驚くようなことではないでしょう? 人の生死をどうとでもできてしまう存在となるとそれ以外に答えはないじゃないですか》
──神様が、僕を生まれ変わらせた? 僕の魂を別の世界へと運んだと、そういうことなのだろうか。あまりに荒唐無稽。だが、それを言うなら既に信じ難いことなんていくつも起こっているし、その原因となれるものが何かと言えば、やはり神様くらいしかいそうにないのも事実だ。
《まーそれだけ集中できていたのは私が周囲を見張ってあげているおかげでもありますけどね。いきなり魔物にガブリ、なんて心配がないからには魔力操作も捗ったでしょう》
……そう、目も開かずに魔力の流れだけに意識を向けるという無防備極まりない状態でも、僕には声がついていてくれるから安心だ。それだけじゃない。二十五時間も訓練していたというのは我ながら驚愕でしかないが、しかし声の的確な指導なくしてここまでの上達はなかっただろう。声の存在はとても大きい。だからこそ今一度の疑問がわく。
「僕を生まれ変わらせたのが神様みたいな誰かだっていうなら、君はなんなんだ? 神の使いか何かなのか? それがどうして僕の中にいる?」
《神の使い、というほど上等ではありませんが。まあそれに近しいものだと思ってください。あなたに目的意識を与え、そして神の望む生き方をしてもらうために派遣されたんですよ》
目的意識。神の望む生き方。前者はわかる、実際に声は僕が何をしたらいいか逐一教えてくれているし、それに従うのがベストだろうと結論して僕は逐一その通りにしている。声は僕をどこかへ導こうとしている。なんとなくそれがわかってきたところだ──ということは、つまりそれこそが神の望む生き方とやらなのか。
《その通り。神のような誰か、いえ、何かは、あなたに活躍してもらいたいようです。そのためにはテイカーとなり、強き者となり、世界に益をもたらす善き者とならねばならない。あなたに課せられた使命はそれなのです。『善く生きる』。悪行は許されませんよ、私利私欲のためだけに道徳に恥じるような真似をすればその時点であなたのお先は真っ暗になると理解しておくことです》
それが人殺しのあなたに相応しい罰だ。
と、声はそう言った。