58.プレイヤー
もうひとつ、違いがあった。唇の間から覗く鋭くて長い犬歯。まるで牙のようなそれは、僕にはないもので。異形めいた彼女をより人以外の何かに見せるものだった。
「まあまあ、慌てなくていい。お前が周回遅れだってことは俺も知ってる。いい裏技だと思うぜ? 確かに強くなるだけならライオットから学ぶのが一番効率がいい。あいつの感性での教え方についていけるなら、だけどな。しかし実際そこんとこの問題はお前にゃあってなきが如し。三段飛ばしくらいのルートではあるんじゃねえか?」
一歩、二歩、三歩と。朗々と語りながら少女は近づいてくる。そして、鼻と鼻が触れ合うほどの近すぎる距離感で立ち止まった。体格の割には大きな胸が、僕の胸板を押す。僕は引いてなるものかとあえて自分からは動かない。後ろに下がれば何故か負けのような気がしてやまなかったのだ。
何も映さない真っ白な瞳孔が射貫いてくる。
「だがその腑抜けた面は気に食わねえな。俺こそ慌てちまうぜ、ライバルがどんな奴かと思えばこーんな可愛い子ちゃんとはよ。まるで捕らわれのヒロインじゃねえか。どこのお姫様だ?」
「……僕は、男だ。それにかわいらしさで言えば君も人のことは言えないだろ。悪ぶった喋り方したって凄みなんて感じないよ」
「おぉ? この見た目にんなこと言えるとは思ったよか豪気じゃねえの。いいね、少しは安心できたぜ」
少女はするりと僕の肩へ、そして首へと片腕を回してきた。逢瀬のような体勢。けれど僕らの間にあるのはそんな甘酸っぱい空気では断じてない。彼女は囁く声音で言った。
「俺もそうさ、ライネ。お前と同じで、正反対。使命を帯びてこの世界にいる」
「……!」
「お前ももうある程度は聞かされてるんだろう? 俺とは違う形でかもしれねえが、まあ細かいことはいい。こいつは勝負だぜ。世界のバランスをそっちの望むように取るか、こっちの望むように取るか。そういう競い合いさ。ゼロサムでは決して終わらねえ」
決着は絶対だ、と。手の指先で僕の首筋をつうとなぞる。少女の目には戦意があった。僕に対する戦いの意志。そしてそれに混ざっての、親しみも。
「お互い苦労するよなぁ。つって俺はなんでも楽しめるタチだからいいけどよ、お前はどうもそんな感じでもねえよな。なんで選ばれちまったんだか……なんて俺が言うのは流石に失礼かね? くっく」
「君は……転生者なのか。僕と同じ、別の世界から来た。そう思っていいんだな」
「おうよ。死んで、死ぬ前とは違う体で違う世界で違うことをやらされている。何から何までお前と同じだろ? まー俺の場合は元々男だっつーのに女の体にされちゃいあるが……ん? ってことはお前は元女か?」
本当に男なんだろうな、この身体? などと言いつつ無造作に股間へ伸ばされた手を、触られる前に僕は払った。ついでに首に回されている方の手も引き剥がして、彼女の腕を掴んだままで言った。
「僕は今も昔も男だよ。そして……この世界でしなきゃいけないことを、『ゲーム』だとは思っていない。やらされているわけでもない。それは確かに僕自身の使命だ」
掲げられた『善く生きる』という指標。それを放棄することが即ちライオットや、この得体の知れない少女を野放しにすることだというのなら、僕は僕に与えられた使命を全うしよう。それを与えられたものだとはもう思わない。神のような何かにそう定められたからでも、シスに言われたからでもなく、自らの意思で。僕がやりたいからそうする。
二度目の生はそのためにあるのだと、自分自身へと定める。
掴んでいる腕を放し、僕は続けた。
「君が何者だろうと、何を目的にしていようと。知ったことじゃない。それが多くの不幸を振り撒く身勝手な行いだとわかっていればそれで充分だ。僕は君を止める。フロントラインにも、君の組織にも、好きにはさせない」
「へーぇ、見かけによらず本当に言う奴だ。そこまで大した豪気だってんなら……いっそ今すぐ付けちまおうか? ゲームの決着を」
「っ」
途轍もない圧力。ライオットが放つそれを思わせるような極度に重く、けれど彼よりずっと悍ましい魔力の蠕動。僕と同じくどちらかと言えば小柄な背丈から、そんな代物が後から後から滲み出てくるのには違和感とそれ以上の恐怖を抱かずにはいられない。はっきりとわかる。少女の魔術師としての完成度が僕とは比べ物にならないことが……現時点ではほんの僅かにすらも勝ち目がないことが、多少は力を付けた今だからこそ克明に感じ取れてしまう。
だが、それがどうした。おそらくはライオット並の強敵、だとしても。いや、だからこそ。このクラスの強敵相手に退路など見つけられるわけもないのだから、戦う以外に道はない。臆せば次の瞬間にも死ぬ。そうとわかっているのなら。わかりきっているのなら悩む必要もない。
全力で抗う。それだけだ。
魔力を練る。練り上げる。最高密度で身に纏う。それと共に氷礫と氷霧の展開準備を並列で整える。ライオットとの苛烈が過ぎる訓練で身に付いた技術は、訓練以前の僕が持つそれとは一線を画すもの。であるが故に、この少女を敵にも多少なりとも役に立ってくれるはずだ。どこまで通用するかはともかく、持ち得る全てをぶつける……!
「なぁんてな。じょーだんだ、じょーだん」
──少女の圧が霧散した。にへらと力の抜けた笑い方で手をひらひらとさせながら、彼女は警戒を解けずにいる僕の顔を窺うように上目遣いに言った。
「やるわきゃねえだろ、んな勿体ねえこと。とんだ横着だろうが。お前がどう思っていようが俺たちがやってんのはゲームなんだ。んでもって、ゲームである以上はルールもある。厳格でこそなくても明確な不文律がな。そいつを破るなんざ一プレイヤーである俺にはできねえ。勿論、お前もそうだぜ。ライネ」
「……君をこの世界に呼んだ『何か』が、そうすることを許さない?」
「お前をこの世界に呼んだ『誰か』もな」
神様、とは少女も言わなかった。それを神と呼んでいいものかどうか彼女も判断がつかないでいるのか。あるいはあえてその呼び方を避けているのか。どちらにしても『何か』に対するスタンスや、抱いている感情も、彼女と僕とで大きくかけ離れてはいないようだった。
「俺たちゃプレイヤーであり『駒』だ。行き過ぎた自由はねえが行き過ぎた拘束もされねえ。どっちつかずの行動範囲。だったら流儀がいるとは思わねえか? 駒には駒なりの誇りってやつが必要だとよ」
「…………」
「決着はルールに則る。厳密に、厳格に白黒付けようぜ。全てが終わった時に俺とお前、どちらが上でどちらが下か。それを以って勝敗としようじゃねえか」
全てが終わった時。それはいったいいつ、何を指してのことなのか。バランスという言葉の真意とは。薄っすらとした予感めいた推測は立つものの、僕にはまだわからないことが……知らないことが多過ぎる。
僕に必要なのは流儀よりもシスだ。今ほど彼女の不在が惜しい時間もない。ここにシスの副音声があれば、もっとずっとこの少女のことが、僕たちのことが理解できたはずなのに。
ゲームについても、そのルールについても。ただ訊ねたって素直に教えてはくれないだろう。少女の態度からしてそう確信する。そもそも「相手プレイヤー」である彼女がそれを教えてくれたとしても素直に信じていいものか怪しいところだ。フロントラインとの関係性や、彼女の属する組織についても同様に。なので僕が彼女に投げかけるべき質問はひとつしかなかった。
「君の名は?」
「『イオ』。俺の名乗る新しい名はイオだ、姓はねえ。なかなかどうして美しい響きだろう? お前の『ライネ』も悪くねえがな」
もう一人の転生者、倒すべきプレイヤーの名はイオ……よし、覚えた。彼女もしっかりと僕の名を記憶したらしい。いつかどこかでイオとの決着は必須。だがそこを見据える前に、まずやるべきはライオットを。フロントラインを止めることだろう。おそらく彼らの決行する協会潰しを成功させることは、イオの望む通りの「世界のバランス」になる一助にして最大の要因になり得るはずだから。
放っておけはしない。協会全体の被害や、その先の社会の混乱を抜きにしても、僕だってテイカーなのだ。ライオットがそう指摘したように僕自身がテイカーに進んでなったわけでもなければ協会そのものへの恩義を抱いているわけでもないが……しかしミーディアを始めとしてルズリフ支部の面々には世話になっていて、助けてもらっていて。その点に関して僕は大いに恩を感じている。
皆のために命を懸けていい。それをまったく躊躇わない程度には、力になれたらいいと思っている。
「イオ。フロントラインの構成員じゃない君が何を目指して協会の排除を目論んでいるのかはわからないけど、君がフロントラインすら利用してとんでもないことをしようとしている。それは確かなんだ……だったら僕はそれを防ぐ」
「できるかねぇ? 魔術師の強さは魔術の練度がモノを言う。唯術はその典型だ。そして練度を上げるにはひたすら時間をかけて練り上げるのみ。俺やお前はそこんとこの効率が常人より抜群にいいが、そうは言っても周回遅れ。足りてねえもんは足りてねえわな」
「……君は僕よりも早くからこの世界にいるのか」
「らしいぜ? お前がいつ頃来たのか詳しくは知らんが、少なくとも俺が目覚めた時にゃお前はいなかった。先行してんのは俺さ。だからまあ、ズルだわな。インチキだ。ゲームにんなもんはご法度だろ? これじゃ勝ったところで俺が気持ちよくねえ」
「だから?」
「だから対価を支払ってやる。お前に力をくれてやるよ。ちょうどそれに適した唯術を持ってることだしな。ほれ」
そう言って少女は手を差し出してくる。まるで飼い犬にお手を要求するように、その異様なまでに白い掌に僕の手を重ねろと言っているのだ。
「なに、詫びなんだから遠慮すんなよ。お前の成長を手助けしてやる。お手軽にレベルアップできるんだぜ? 周回遅れを埋めるまたとないチャンスだ。もっとも……」
ゆらゆらと、伸ばした手をこれ見よがしに揺らしてみせながらイオは胡乱な笑みで続ける。
「渡されるもんが力だと信じるも信じないもお前の自由だぜ。罠だと決めつけてつっぱねるんだったら、それでもいい。俺はスタートダッシュ分の有利を権利としてありがたく受け取ろう。そいつが不服だってんなら手を出しな。喜んでお前に下駄を履かせてやるよ。それで対等だ。遊び相手としてな」
さて、どうする? その問いに。向けられた手に、僕は迷うことなく自分の手を置いて答えた。
「こちらこそありがたく貰おう。どんな手段であれ力なら欲しい。くれるって言うなら遠慮はしないよ」
「いいのか? 騙されてからじゃ遅いんだぜ。何か致命的なことを仕出かされても恨むくらいしかできねーぞ」
「大丈夫だ。君はそういうことをしない。僕と同じでね……そうだろ?」
信じられるはずもない相手を、信じる。それは誇りの話でもあり、流儀の話でもあった。ここで騙し討つような真似をするならイオは所詮その程度である。対戦相手である僕にそう思われたくはないだろう。そう彼女の発言に見え隠れするプライドを信じたのだ。
僕の対戦相手を名乗るならここで情けない真似はしてくれるな、とイオの目を見つめる。それに彼女はとてもフラットな眼差しで頷いた。
「おうともライネ、お前は良い目をしている。餞別を贈る相手には最高だ──てなわけで、耐えろよ」
「何を──ッッぐぅ!!?」
流れ込んでくる。イオの手から……いや、彼女という一個から、僕という一個へ。莫大な量の何かが荒々しく熱を持って押し寄せてくる。それは突風のようでもあり激流のようでもあり、だが決してそれらの表現では表し切れない不可解な現象だった。
侵食されている。メキメキと音を立てて内側から自分が変わっていく感覚に僕はそういう感想を抱いた。それが合っているのか、正確かどうかはわからない。だが確実に、急速な変化がこの身に起きている。
特別製が特別製に引き上げられる。
「【同調】。やたらと扱いの難しい唯術だが、それも納得の性能はある。俺が仲間に恵まれたことをお前も感謝しとけよ。次に目が覚めたらきっと、見える景色ががらりと変わるぜ」
そんなイオの言葉を最後に聞いて、僕の意識は闇へと落ちていった。