5.魔力
テイカーの事務所(?)から出た途端に声から命じられたのはランニングだった。それもさっきまでいた場所、つまりは魔物が徘徊する危険地帯である未開域を目指せというのだから訳がわからない。時間がもったいないとせっつくのでとりあえず走り出した僕だが、これはさすがに説明を要求したい。
《言ったでしょう、修行のためですよ。こんな平和な街中でテイカーになるためのレベルアップなんてできると思います?》
呆れたように声は言う。テイカーの拠点があるだけあってタクシーを拾った街外れよりは背の高い建物も多いが、それでも大都会めいた喧騒はなくこの街はどこまでいっても長閑である。そんな中で修行に励む者がいたら確かに悪目立ちしてしょうがないだろう……けれど、だからといって「悪目出ちしない未開域へ行こう!」なんて発想になるわけもなし。だいたい僕は声の言う修行なるものがどういった行為を指しているのかすらも判然としていないのだ。呆れられたって困る。
《ま、行けばわかりますよ。とにかくあなたは私の指示通りに走っていればいいんです》
僕の諸々の疑問に答えるつもりはないらしい。……生存を助けるアドバイスを行うと言いながらこうやって情報を出し惜しみしたり、テイカーの説明をミーディア任せにしたりと、システムを自称するにしては声の判断はどうにも恣意的に過ぎる。またぞろ僕の胸中でこの声の言うがままになっていいものかと不安が広がっていく。
《何をぶつぶつ考えてるんです? 何か言いたいことがあるならはっきりと伝える意思を持ってくれないと聞こえ辛いんですけど》
あ、そうなんだ? 言葉にしなくてもやり取りができているから僕の思考は筒抜けなのだとばかり思っていたが……ある程度こちらから伝えようとしない限りはそうでもない、ってことか。これは僕にとって良い発見だ。何もかも声に見抜かれているとなるとやりにくいことこの上ないからね。
《なーんか嬉しそうな気配ですねぇ。いいですけど。ほら、そこですよ》
とっくに街を出て街道を駆けていた僕は、声を合図に停止する。どうやらここが先ほど僕とミーディアが街道に出た場所のようだ。同じような景色ばかり続くために正確なポイントの判別が僕にはつかなかったが、声にはそれがわかるようで。
《どうしたんです? ほら、行きましょ行きましょ》
「ほ、本当に森へ入るの? また山犬とかいう魔物が出たら……」
人香結界とやらで守られているらしいこの街道を一歩でも出てしまえば、そこは人ではなく魔物のテリトリー。いつ何に襲われても不思議ではない。ミーディアがいない今、再びそんなことになってしまえば助かりっこない。今度こそゲームオーバーだ。
鬱蒼と茂る木々を前に足の竦む僕に、声は淡々と言った。
《あなたって、冷静ではあるけどちっとも頭の働かない人ですね》
「え?」
《協会の支部からここまでけっこうな距離があったと思いません?》
「えっと……思うけど」
従いはしたものの、さっきはタクシーも込みで移動した距離を今度は足だけで戻ってきたことにも思うところがないわけではない。お金を持っていない以上は仕方がないとはわかっているんだけどさ。
《そうではなくてですね……これだけの距離を休まず走って、あなたは息を切らしてもいない。おかしなことだと気付かないんですか?》
「!」
言われてみれば、そうだ。僕は運動音痴でこそないがまともに身体を動かした経験はそれこそ体育の授業くらいである。ここまで走り通しで、なのにまるで息が上がっていない。たとえ全力疾走でなかったと言ってもこれは甚だおかしなことだ。だって僕は汗すらかいていないのだ。
《つまりこの程度はウォームアップにもならないってことですよ。今のあなたにとってはね》
「今の僕にとって……?」
《山犬から逃げている時も。火事場の馬鹿力と言えばその通りなんですけど、あなたの思うそれとはちょっとばかし違います。そのことを教えてあげますよ──未開域へ入れば、ね》
「…………」
《安心してください、山犬くらいならもう追っ払えますから。仮に手に負えないレベルの脅威があなたを襲ったとしても、その時は私が責任をもって対処させてもらいます》
そもそも手に負えないレベルの脅威に襲われる危険を冒さないのが一番だと思うが、それでは修行になるはずもないことくらいはなんとなく僕にも察せられる。つまり、ある程度の危険を受け入れるのとトレードなのだ。テイカーになるにはそういった無茶が必要であり、そしてそれは回り回って僕の生存に必要な危険だということでもある。声の助けがあったとしてもどうにもならない状況に陥る可能性を減らす、そのために。
「ふー……」
だとしても。声の言わんとしていることがおぼろげながらに理解できたとしても、昨日の今日どころかさっきの今でいったいどうやってあの恐ろしい山犬を追っ払えというのか、恐怖と疑問はまだまだ尽きないが。けれど深呼吸でそれをぐっと飲み込んで、奥深くに閉じ込めて。僕は街道の外へと足を踏み出した。
《それでいいんです。臆していたってなんにもなりませんからね。こんなのはこれから歩むあなたの道のりの、ほんの一歩目ですらないんですから》
◇◇◇
と、いうわけで森の中をえっちらおっちらと行く。ミーディアと共に踏破した道なき道を逆戻りである。当然僕にはどこがどこなのかさっぱりであったけれど、声はちゃんと全てを記憶していた。やがてミーディアに助けてもらった地点に辿り着き、そこからどうするのかと思えば。
《いま向いている方向のまま直進してください。すぐそこに居つくのに適した場所があります》
なんでそんなことまで声にわかるんだろうと内心で首を捻りつつ言う通りに進めば、なるほどすぐそこだった。急に木々が開けたかと思えば、少し先には水辺。ここなら確かに日当たりも居心地も良さそうだ……って、今「居つく」って言った?
まだ高い陽の光に照らされて輝く水面を見ながら背伸びをしたところで、ハッとしてそう問いかけた僕に声はまたしても呆れを多分に含んだ口調で言った。
《言いましたとも。なんです、ジム感覚で数時間気持ちよく運動してまた街まで戻るつもりだったんですか? そんなわけないでしょう、修行をなんだと思っているんですか。あなたはここで生活するんですよ。テイカー試験を受けるまでの三十日間を、この未開域で》
……マジ?
《大マジです》
そっかー……いや、うん。有無を言わさず街から出された時点で、そして修行なる聞えよがしなワードが出されたことからも、一応の予感がなかったわけではない。声に課されるのは相当にハードなものになりそうだという予感。またしても命の危機に陥るかもしれないと、それくらいの想定はしたつもりだったが……まさか三十日もの間ずっと森から出してもらえないとは恐れ入った。ハードどころかベリーハードじゃないか。
《急ぎなんですからそうでもしなきゃテイカー試験に受かりませんよ。それはあなたも察しているんでしょう? ですが重ねてご安心を、あなたを死なせるためではなく生かすために行う修行ですから。魔物が出る場所での野宿生活は確かに世間一般的に言えば気が狂っているとしか言いようのない危険行為ではありますが、この修行によって命を落とすことはあり得ません》
「声が僕を守ってくれるから?」
《そしてあなたがあなた自身を守れるようになるから、ですね。オープニングが終わってここからはチュートリアルってところです》
「チュ、チュートリアル?」
《操作方法を覚えましょう、ってことですよ。うってつけの教材も来てくれていることですし、さっそく始めちゃいましょうか》
そう言われて、首筋にぞわっとする気配を感じて僕は振り返った。するとそいつはすぐに視界に入った──山犬だ。茂みの中から首だけを覗かせてこちらを見ていた奴が、視線が合ったことでかのそりとその全体を見せる。口元から涎が垂れる。最初に出会ったのと同じく、こいつも僕を食らうべき獲物として見ていることは明らかだった。
《魔物は格上の魔物に挑むことをしません。勝ち目がないと本能でわかっているからです。そして同族や同格との争いも基本的に避けます。一か八かの勝負に出るのではなく己より弱い魔物や動植物を狙うのは生存戦略上当たり前のことではありますが、そうなるとこの山犬のように下級の魔物が『餌』にできる範囲はそう広くないこともおわかりになるでしょう》
なんだ急に、この講釈は……つまり僕は山犬にとって恰好の餌だって言いたいのか。そんなことは改めて言われなくたってとっくにご存知なのだが、それにしても初回の遭遇といい今回といい、声はどうやって山犬の接近を察知しているのだろうか。何かコツがあるなら教えてほしいと切実に思う。
《私が見聞きできるのはあなたが見聞きしているものだけですよ。ただし、あなたが見て聞いて感じているのに気付いていないことにもより鋭敏ではありますがね。どれだけ自分の性能を殺してしまっているかって話ですよ……まあこれはあなたに限らず皆そうなんでしょうがね》
岡目八目、というやつだろうか。それとも声には僕の性能とやらを万全に引き出す術があるのか。だとしたらそっちのコツを今すぐに授けてほしい、とにじり寄って来る山犬に冷や汗を流しながら懇願すれば。
《最初からそのつもりですよ。ということで借りますね》
え? と思う暇もなかった。湖の淵へとじりじり後退していたのが一転、まるで山犬なんて見えていないかのような軽い足取りで僕の足は前へ進む。言うまでもないがこれは僕の意思じゃない。勝手に動いているのだ。僕の肉体が僕の主導権から離れてしまっている。では、誰が変わりに動かしているかと言えば。
「もちろん私ですよ」
《!》
僕の声で声が応えた。その間にも歩みは止まらず、急に向かってきた獲物に対して山犬も臨戦態勢に入り、飛びかかるための低い姿勢を取って──そして僕はそのすぐ横にいた。
「よっと」
打ち下ろされる拳。それは山犬の無防備な頭頂部へと吸い込まれ、衝突。軽く落とされたように思える僕の……否、声による拳骨はしかし鈍くも強烈な破壊音を立てて山犬の頭蓋へとめり込んだ。ぐげっという小さな声を漏らして倒れた山犬はぴくりとも動かない。
「一丁上がりですね」
《こ、殺したのか》
「はい、ざっとこんなもんです。じゃあ返しますね」
そう声が言い終わった時にはもう僕は僕の主導権を取り戻していた。手を開いたり閉じたりしてみるが、問題なく動く。体を奪われていた違和感なんて欠片も残っていない、いつも通りの感覚だ。
《いいえ、いつも通りではないはずですよ。入れ替わり中に感じたでしょう? あなたの知らないあなたの力を。私はそれを引き出して山犬を倒したんですよ》
僕の知らない、僕の力? ……確かに声が動かしている最中、僕の肉体はやけに力強かった。それは動かしている者の違いというよりもっと根本的な何かが異なっているからだと感じた。そしてその感覚は、山犬へ距離を詰める瞬間と、拳を打ち込む瞬間の二度。より強烈なものになった。
《それを掴めているなら上々です。あなたが感じたものの正体、それは──魔力》
「魔力……」
《魔物と戦うことを生業とするテイカーとは、ただの超人集団ではなくて。全員が全員魔力を扱える人間、つまりは魔術師でもあるんです。ミーディアもエマもね。故にあなたの喫緊の課題は彼女たちと同じステージに立つことにある。そう理解してください》