41.直下
「なん、で……」
ここにこいつが。
その顔を見た瞬間に蘇る、あの日の記憶。ライネの体は小さく震えていた。遅れて自分たち以外の存在に気付いたときザッツら三人も、ライネの尋常ならざる様子を受けて自然と警戒態勢を取っていた。
「誰だ、あんた? いつからそこにいたんだ」
そうだ、ライネが驚愕に身を震わせるのは単に見知ったならず者と再会してしまったが故のみならず、その登場の仕方にも理由があった。
まったく気配がしなかったのだ。戦闘終了の直後ということもあってチーム内に弛緩した空気が流れていたことは否めないが、しかしザッツやギルダンも口にしていた通り、ライネ含めて一同は誰も周辺への注意を怠っていなかった。ここが未開域といういつ何があってもおかしくない危険地帯であることを忘れてなどいなかった──だというのに、さも当たり前のようにこの男は現れた。どこからともなく自分たちの目と鼻の先へやってきた。
無論のこと彼が近づいてくるのを察知できた者はこの中にいない。それはいち早く男の視線と気配を感じ取れたシスであっても同様だった。
何かカラクリがある。以前の移動車の襲撃も、シスはおろかミーディアの警戒網にすら引っ掛かることなく事は起こされた。あの唐突さに加えて魔石を奪った際と、それを持って消えた際の不可解な挙動。勘案するにこれらは十中八九、金髪男の唯術による現象に違いない。異常な状況下にあっても思考を止めることのないシスがそう結論付けると同時に、男は口を開いた。
「や。ライネ、でいいんだよね。こんなところにいるなんて手間取らせてくれるねー。きっとあのおっかない女の子と一緒だと思っていたから探すのに苦労したよ……ま、苦労したのは俺じゃあないんだけどさ」
おっかない女の子、とはおそらくミーディアのことだろう。現在別地にて地噛の討伐及びその後に襲来が予想されるフロントラインの拿捕に当たっているはずの彼女の話題が、他ならぬフロントラインの構成員であるこの男の口から出てきたことに、ライネは自分でも言い表しようのない嫌な感覚を腹の内に味わった。
額に汗を滲ませて睨みつけてくるライネに、男は「ふふ」と口元を歪ませて。
「そう怯えた顔をするなよ。ちょっと用事を済ませに来ただけだから」
「用事……?」
そんなことを言われてもライネには何も思い当たらない。まさか地噛の上質なそれを置いて凶獣程度の魔石を奪いにきたわけでもなかろう。このタイミングであちらを放ってまで男が自分にどんな用を果たそうというのか……困惑の後、ライネの頭にはひとつだけそれらしい可能性が浮かんだ。
「ランとゴードのことでも聞きにきたのか」
魔石ではなく仲間の回収が目的。そのために当事者である──それももう一方の当事者よりも遥かに与しやすそうな──自分の下へ居場所を聞き出しに来た。用事というのがそれを指しているのなら、男が姿を見せた理由として納得できる。
が、彼はライネの問いかけに対して小首を傾げて。
「ランに、ゴード? んーっと……誰のことかな、それ」
「……!?」
初めて聞いた名前をおうむ返しに呟いただけ、といった感じの、本気で心当たりのなさそうな彼の返答にライネは愕然とする。
帰ってこない仲間を奪還しに来たのではないのか? いやそれ以前に、敵である自分ですら把握している彼らの名前をどうして知らないのか。仮にその名が敵前でのみ名乗ることを前提にした偽名であったとしても、話の流れからしてあの二人のことを言っていると理解できないはずもないというのに。しかし金髪男にはそこすら察せられていないようだった。
訳がわからずにますます困惑が加速するライネを余所に、ひとしきり頭を捻った様子の男はそこで「ああ!」と閃きを得たように手を打って。
「俺の代わりに残ってくれた二人のことか。ひょっとしてあいつらを取り返そうとしにきた、とでも勘違いしたかい。生憎だがてんで的外れだな。そんなことのためにわざわざ俺は動かない」
「なんで……仲間、じゃないのか?」
それともこいつ自身はただの雇われのような立場で、必ずしもあの二人と志を共にしているわけではないのか。ランやゴードの口から直接この男がフロントラインの所属であると語られてもいないため、その線はあり得ると言えばあり得る。だがその推測も男はあっさりと否定した。
「仲間、それは確かだね。仲間だった、がより正しい。使い捨ての要員をその通りに使った。それだけのことさ。感謝こそすれど別れを惜しむような愛着もない。そもそも負けて捕まっている時点で仲間とは思いたくないっていうのが本音かなー」
まず負けているのに無事っぽいのが意外なんだけど、と気もなく言う男に、ライネは眉根にしわを寄せる。
「……ゴードは戦闘で死んだ。ランは生きているけど腕を失って弱っている。もう長くないかもしれないぞ」
「そうかい、それはいいニュースだな。脱落したなら早く死んでくれた方が組織にとっては助かる。それ以前に重要なことは何ひとつ話せやしないけどね。ん、なんだいその顔は? 意外でもないだろう。そのくらいの保険はかけるさ、使い切りの消耗品にだって」
「…………」
悪辣な男である。それでいてまるで悪びれない。さも正しい行いをしているのだと言わんばかりのつらつらとした語り口。危険だ。四人がかりでようやく倒せた凶獣よりも、一時は死を覚悟させられたランよりも、この男は遥かに危険な存在である。ライネはそう確信した。
結局のところ男が何をしに来たのかはわからないままだが、それがなんであれ。自分のやるべきことは決まった。
「みんな。あいつの目当ては僕みたいだから……時間を稼ぐ。その間に逃げてくれ」
《──いけません。『全員で立ち向かう』だって選びたくない選択肢だというのに、ましてやあなた一人で奴と戦うなんてあり得ません。自殺行為ですよ!》
「馬鹿言うなよライネ、あの野郎があぶねー奴だってのはよくわかった! 逃げるなら全員でだ! 街道まで戻って移動車に乗り込みさえすれば……」
シスとザッツが揃ってライネの提案に否定を返す。いつ事が起きてもいいようにと身構えている三人も、けれどテイカーのチームを前にして余裕綽々の態度でいる謎の男が決して只者ではないということを理解できているようだった。
迂闊に戦闘に入ってはマズいことになる。そう予感させるだけの得体の知れなさが金髪男にはあった。だからこそ、チームのリーダーたるザッツはその立場を任されるに相応しい判断として逃走を念頭に置いているわけだが──。
「全員で背中を見せて逃げる、なんてできっこない。そんなことしたら街道に辿り着く前に全滅するのが目に見えている。そもそも、こいつは距離を無視したような芸当をする。車での移動だって安全とは言えない。むしろ身動きが取りづらくてかえって危険かもしれない」
「……!」
《……ええ、困ったものです》
ライネの言うことは正しかった。ザッツにも、シスにもわからないのだ。誰にも察知されることなく、どこからともなく現れたこの男から、どうすれば逃げおおせられるのか。それもチームの誰にも被害を出さずに、となると難しいを通り越して不可能と言い切ってもいいくらいだ。
無論ここで「全員の無事」を第一としているのはザッツであってシスではない。彼女の念頭には何より「ライネの無事」だけが置かれていることは言うまでもないが、しかし金髪男の目当てがライネにある以上はある意味で彼を守ることはチームを守ること以上に難しい状況だ。それ故に。
《提案します。まずは全員で戦う、フリをする。そして戦闘の折を見て全力の逃走を図りま──》
却下の二文字が返ってくる。上々の策とは言えぬまでも唯一と言っていい生存の目が望める選択。だがシスの言うそれが他三人を置き去りにしての逃走であることをライネは察しており、その時点でそんな策は論外。選ぶための選択肢に上げてはいけない下の下の下策に他ならなかった。
ライネがザッツたちを助けようとしているのは『善く生きる』ためではない。彼らが自分を仲間と認めてくれたから。仲間を助けたいと自らが思うからそうするのだ。こればかりはシスの指示であろうとも曲げられない、言うなれば彼の執念であった。
梃子でも動かない。ライネの覚悟を前にシスは小さく舌を打ち、ザッツは笑みを浮かべる。彼も覚悟を決めた。逃げの一手が通用しないとライネがそこまで断じるのであれば、それを信じる。そして戦うのだ。全員で実力も何もかもが未知数の男──ザッツから見ても明らかに強敵のアンダーだと判る脅威を、退ける。それ以外に手はないと腹をくくる。
「モニカ、ギルダン。やるぞ!」
否やはなかった。モニカはいつでも盾を展開できるように身構え、ギルダンも一度は収めた刀身を鞘から抜いて男へ向ける。
「お前だけ囮にして逃げるなんて、俺たちだって却下だそんなもの。全員で支部に帰ろうぜ、ライネ!」
両の手に火を掴みながら意気軒昂にザッツが言う。投げかけられたその言葉は、彼の唯術が生む熱以上に温かいものにライネには感じられて。
「ありがとう。一緒に戦おう」
自分が彼らに助かってほしいと思うのと同じくらい、彼らだって自分を助けたいと思ってくれているのだと。そう理解したからにはこれ以上議論したとて無意味である。それを悟ったライネは、だから方針を変更して全員で協力して抗うことに決めた。
果たしてこの決断が吉と出るか凶と出るかは定かでないが、少なくとも今この時、ライネの胸中は危機を目前にしながらかつてないほど晴れやかだった──満たされていた。
絶対に誰も死なせない。
決意が魔力の昂りとなって、ライネの体中に力を漲らせた。
四人それぞれが戦闘体勢に入る。その戦意を真っ向から受けて、男は。
「盛り上がっているところ悪いんだけど、俺は戦らないよ? なるべく汗はかきたくない主義なんだ。弱い者いじめも好きじゃない。だから、君らが戦うべきはこっちね」
ぬっと。男が指差した木の影からもう一人、別の男が出てきた。ターバンのようなものを被って顔の半分を隠している、なかなかに体格のいい新たなる敵。その出現に一同はいっそうの緊張を強いられた。
「はは、伏兵がいるんじゃないかって探っていたろ? いたとも。なのに気付けなかった。無理もないさ、こいつはダイン。唯術を持たない代わり魔力操作に卓越した凄腕だ。隠匿にかけても一流、だから魔力探知じゃあ絶対に見つけられっこない。そういう唯術でもない限りはね」
「……ライオット。あまり敵を前に話すことではないだろう」
上機嫌に語る金髪男の口を塞ぐように、ターバン男がむっつりとした様子でそう言った。ライオット。それがこいつの名。そうライネが知る間にも、彼らの気安い会話は続く。
「おっと、黙ってるべきだったかい? でもいいでしょ、『敵』なんてどこにもいない。知られたからって何が起こるわけでもなし……ていうか、ちょっと手の内知られたくらいでこんな子供らに負けるようならそんな奴はいらないし?」
「……ふん。見ていろ、すぐに終わらせる」
いよいよもって窮地である。ライオットだけでも手に余る強敵だというのに、更に未知数の敵が増えた。シスは今一度、戦闘行為に入る前にライネへ考えを変えるよう提言しようとして──。
「鎧袖一触だ」
察する。事ここに至って提言などと、どれだけ己は呑気でいたのか。遅きに失したのだ。と、気付けば息遣いすら感じられるほどのすぐそばまでダインが接近していたことで、そしてその身に張られた尋常でない魔力を前にして。
否応なしにシスは。一同は理解した。
──勝ち目などない。
「う、っぐ……」
ザッツの胸にダインの手刀が埋もれる。
深々と突き刺さったその手は、的確に少年の脈打つ心臓を捉えていた。