31.回生
──さっと視線を走らせ、数を数える。十本。それは海中より姿を現した異様の触手の本数。タコやイカのそれを巨大化させた上で吸盤を取り除いたような、水噛の体色と同じ浅黒い色をした、どう見ても水噛の意思で動いているモノ。その役割が自身の手、ではなく手に持つ剣。即ち外敵に振るうための武器であることをミーディアは敏感に察していた。
ふむ、と状況の変化を受け入れながらも翳す一太刀。攻撃の手を止めずにミーディアは考える。
これは少々面倒なことになってきた。足元のこいつは明らかに攻勢に打って出ようとしている。その内容が先のようにただ体を震わせて落とそうとしたり波を起こしたりするだけなら何も困ることはなかったのだが。しかし見えなかった下半分にこのような触手が生えていたとは……いや、自分たちは偵察の段階で海中部も確認しているのだ。距離を保ってのこととはいえ、その際に十本もの触手という目立って仕方がないパーツを丸ごと見逃していたとは考えにくい。
普段は体内に仕舞っていたか、あるいはたった今新たに獲得したのか。魔物ならばそれも大いにあり得る。上級格である地噛の亜種たる水噛ならば尚のことに、降って湧いた「害虫」を蹴散らすための手段がどこからともなく生えてきたとしても何も不思議なことではなかった。
予想だにしないことが起こる。それが上級魔物をB級以下のテイカーに任せられない最大の要因のひとつであり、実際にミーディア含めこの場にいる誰も、触手による迎撃を想像できていたものはいない。
とはいえ、まあ。
「さーて、やりますか」
少々面倒。所詮はその程度でしかない。一人ならばともかく、彼女には頼れる仲間もいるからして。
「!」
さっそく来た。海面を越えて水噛の背丈と同程度、否、それすら越えて持ち上げられた十の触手の内の五本が自分に向かってきている。それを確かめてミーディアは走る。
今し方いた場所にどちゅん、と柔らかくも鈍重な音を立てて叩きつけられた触手の先。間断なく今度は別の触手の、鋭さを持つ先端が迫ってきていた。叩くだけでなく刺す。そういう使い方もできるようだ。危なげなく二撃目を躱したミーディアだったが、その先には三本目。そして更にその先で四本目と五本目も待ち構えている。
胴体か、あるいは頭部と称すべきか。とにかく「本丸」である球状の肉体に比べて触手はまだしも機敏に動かせるようだ。といってもミーディアからすれば然程の速度でもない。差し向けられる一本を回避するのに苦労はなかった。五本であっても、捉えられるつもりはない。仮にこれが持ち得る触手の全てが集中して襲ってきたならば──触手のサイズから来る物量も悪さをして──限られた足場での逃げ道が確保できなくなり、万が一も起こり得たやもしれないが。だがそうなる可能性はほぼゼロである。
何故ならば、水噛はミーディアのみに触手を集中させられないからだ。本当なら自身に最もの被害を与えている彼女の排除にこそ注力したいだろう。だが、そのためにと捨て置くには「他の害虫」が与える被害もまた大き過ぎた。
「あは」
ミーディアは笑う。触手が出現した途端、なんの合図もなく援護射撃の激しさが増していたから。だから水噛にはミーディアだけにかかり切る選択ができなかったのだ。
攻めの主軸であるミーディアの自由と安全をなるべく保つ。共有するともなく通じ合った意思伝達により、示し合わせたように彼らは息を合わせた。そしてそれは見事に功を奏している──回避と並行して攻め続けられているのは皆のおかげだった。
ただし懸念もあるにはあった。それは自分に向けられた本数が六ではなく五であること。そこからわかるのは、水噛が思った以上に把握力のある魔物だという事実。離れた位置にいる敵の数をきちんと理解している、それ故の割り振り。つまり直接的に危害を加えているA級のメンバーだけでなく、もう一人。補助役のライネも補足し、その対処として触手の一本を当てている。
そうなると今一番危険なのは彼だ。
たかだか一本、A級であれば難なくいなせる。彼らの実力をよく知っているためにそう信頼しているミーディアだが、けれどライネにとってこの水噛の反撃への対応は大仕事だろう。叩き付けや刺突を食らうならまだいい方で、最悪の場合は海の中へ引きずり込まれて救出すら困難になるかもしれない。と、奇しくもつい先ほどライネがミーディアに対して抱いた心配を彼女もした。
ライネを参加させた推薦者として守ってやりたい気持ちはあるが、自分は位置的にも役割的にもまるでそうすることが適さない。なので、他の四人に期待する。水噛本体へ攻撃を送りつつ触手も処理してライネも救う、では少しばかり働かせ過ぎな気がしないでもないが、言ったようにミーディアは彼らの力がそれだけ求められてもなんら不足のないことを知っている。特にヒューロはあれでいて後輩思いのテイカーだ。始まる前は厳しめの物言いをしていたが、いざライネが危なくなれば率先して守ってくれるだろう。
そう想定して剣を振るうことをやめないミーディアは、ただどうしても気になって水噛の上からライネの様子を確かめて──「あはは!」大きく笑った。
期待も想定も超えた光景。氷漬けにされた触手の一本を認めて、もはや考えるまでもなく何が起きたのかミーディアには明白だった。
自力で対処してみせた! そんなことができるとはまったく思いもしていなかった。だがライネはやってのけた。C級上がりたての新人の身で水噛の圧倒的質量に対抗したのだ。たった一撃を防いだだけだとしても、これは快挙と言っていい。
ミーディアの魔力で強化された視力がひどく青褪めたライネの顔色を捉える。あれは急激な消費によって魔力切れに陥りかけている典型的な症状。触手の動きを封じるために無茶な唯術の使い方をしたらしい。
他のメンバーが既に自らへ伸ばされた触手を破壊し終えていることを加味すれば、ここまでやってもまだA級並の働きをしたとは言い難い。凍った触手も直に氷が砕かれるか解凍されるかして動き出すだろう──それら諸々含めて、なお快挙。このレベルの魔物との戦いで自分の身を自分で守れたというのは実に素晴らしいことだとミーディアは賞賛する。
「つれてきてよかった」
役に立ってくれているから、というだけでなく。ここでの経験が彼にとって大きな財産になるだろうと。飛躍の一助になるだろうと思うから。何かしらやらねばならないことを背負っている、そう見受けられる訳ありの少年。ガントレットと同様に彼に目をかけているミーディアは、しかしその動機が若干異なる。
純粋に未来ある若者の助けになろうとしているガントレットに対し、ミーディアはただの興味本位。ライネという存在を面白いと感じた、あくまでも自身の関心こそを優先させた結果であった。
エマの不安も押し切って協会へ勧誘したのは正解だった。見るからにふらふらでいながらこちらを見る目。その薄青の瞳と視線を交わらせてミーディアは更なる予感を受ける。
この子は、もっと伸びる。どんどん伸びていく。
そう確信して。
「私もいいところを見せなきゃだね」
新人が頑張ってくれたのだ。ならば先輩である自分も頑張らなくては呆れられてしまう。ミーディアは触手を潜り抜けて走る。
テイカー五人の総攻撃を浴び続けて水噛の巨体も目に見えて傷付いてきており、その様相は惨憺たる有り様だった。中でも一段と傷の深い部分。ミーディアが積極的に攻撃を重ねた頂点部の抉れ方は一際に酷く、筋層の下までが剥き出しになっていた。
ここからならいける。
そう判断した彼女は両の手で天高く剣を掲げた。
魔力の鳴動。異常事態を水噛も感じ取ったのだろう、総数の半分を失って僅かだが鈍くなっていた触手の動きがやにわに激しさを取り戻した。だがミーディアはそれに取り合わない。完全に足を止めて、次の一撃を放つことにのみ意識を向けている。最も近い距離にあった触手の一本。刺し貫かんと真っ直ぐ背後から迫るそれを回避するのはもはや不可能。そうとわかっていながらミーディアはその場から動こうとしなかった。
彼女が攻めの主軸に据えられた理由は、単純明快。彼女こそが今回のメンバーにおける最大火力の保持者だからだ。遠距離から高火力を叩き出せる他A級を差し置いて、攻撃手段が剣一本の彼女がどうやってそれだけの火力を発揮するかと言えば、その方法も単純。
防御を含めたその他一切をかなぐり捨てて、ただ攻撃だけに全てを注ぐ。それだけである。
ぐぶっ、とミーディアの口から血が吐き出される。触手の先端が彼女の腹を突き破る、だけに留まらず、その太さによって上半身と下半身を分断。泣き別れとさせていた。魔力で身を守らず攻撃を受けたのだからこうなることは当然だった。明らかな致命傷。その手応えが触手にもあったのだろう、水噛から喜色の反応を確かにミーディアは感じ取った。
馬鹿だな、と思う。
「もう四本。手を緩めずすぐ追撃していれば、もしかしたら止められたかもしれないのに。この程度で満足してくれるなんてお優しい魔物だ」
転がった下半身は煙を上げて消え始めている。その代わりとばかりに彼女の腰元からは新しい下半身が再生を終えていた。肉体だけでなく、身に着けていた衣服までもセットで。五体満足。
斬ることになんら支障は生じていない。
高まった魔力が一箇所に集う。魔石を用いて作成された魔鉱の刃は持ち主の魔力とよく馴染み、魔力操作の次元を引き上げる。その親和性とA級テイカー渾身の魔力集中が合わさって繰り出される最強の一太刀。それが。
「──極斬り」
ミーディア最大の技。俗に言うところの『必殺技』であった。
ぶるりと水噛の体躯が震えた。その原因は生理反応。最初に見せたミーディアを振り払うための能動的なそれではなく、どこまでも受動的な。己が命へ敵の牙が届いてしまった生物特有の絶命の合図に他ならなかった。
開いた傷口を起点に深奥へと侵入したミーディアの剣撃は、その到来を押し留めんとするあらゆる障害。水噛の筋肉も骨格もまとめて粉砕し、威力をそれらが守る主要器官にまで運んでいた。力を失った触手が垂れ下がって水噛の体の上に落ち、そのままずるずると海面に引っ込んでいく。それを確かめてミーディアも剣から伝わった感触が間違いでないことを確信した。
終わった。討伐任務、完了である。
「ま、こんなもんかな。……わっと?」
血を払った剣を鞘に納めて、下に降りようとしたところで死した水噛の体が消え失せた。巨大な足場が突然なくなったことで落下を始めたミーディアは、けれど落水の前にがしりと肩を掴まれて。
「お疲れさん」
「あ、チャック。ありがとー、そっちもお疲れさま」
「大して働いてもいないから疲れてもないよ。それに比べてあんたは相変わらずイカれた戦いっぷりだな」
「そう? 普通に切ってただけなんだけど……そんなことより、爪が食い込んで痛いからもう少し優しく掴んでよ」
「……あいあい」
鳥らしい鉤爪を持つ脚でミーディアを船まで運びながら、チャックは彼女に「やっぱこいつやべー奴だなぁ」と内心で感想を持つ。【回生】。魔力が尽きない限りどんな傷でも瞬時に修復され、たとえ死んだとしても蘇る埒外の唯術。
だからとて痛覚までもがなくなっているわけでもないというのに、必要とあらば……それが効果的・効率的とあらばなんの躊躇もなく本来致命となるダメージを負ってのける。それでいて乱されることなく自身のすべきことに集中できるミーディアの精神性は、同じA級格から見ても尋常のものではなかった。
魔物よりも魔物めいている。口さがない者が彼女のことをそんな風に称しているのをチャックは知っており、それを不憫に感じつつもそう言いたくなる気持ちだってわかってしまうだけに、同支部で働くことになったミーディアとの付き合い方で密かに悩んでいるこの頃だった。