2.テイカー
「それで。こんなところで魔物に追われていた君は何者なのかな?」
《あー、ばりばり疑われてますね。敵対したら今度こそ詰みなんで怪しい言動は避けましょう。素性を聞かれても記憶喪失の一点張りで通してください》
いやそれめちゃくちゃ怪しくない? とは思ったけれど。もうこの声に逆らおうなんて気はしない。指示通りに逃げていなければ、もっと言えば声が角犬の接近を知らせてくれていなければ僕は確実に死んでいた。一応の命の恩人(?)であるからには基本的に彼女(?)からの助言には素直に従うが吉だろう。?だらけ過ぎて本当にそれでいいのかという疑念も拭えはしないが、現状そうする他ない。
まあ、そうでなくとも僕だって剥き身の剣を手に持った人物から敵意を向けられたいとは思わない。謎の声も確かに怖いが、それよりも目の前の少女の方が対処の優先度は上だろう。ここで下手なことを仕出かせば角犬よろしく、気付けば僕の頭が宙を舞っているかもしれないのだから。
ごくりと喉を鳴らした僕を見てどう思ったのか。少女は剣を鞘に仕舞い、こちらに手を差し出してきた。尻もちをついたままの僕を引き起こしてくれようとしているらしい。恐る恐る彼女の手を握ってみれば、ぐいっと。細身の見かけからは思いも寄らないパワーで引っ張られ、おかげで楽に立ち上がることができた。
どうやらこの子、相当に鍛えているらしい……そうでもないと剣一本であんなことはできないか、と物言わぬふたつの物体になった角犬を見ると納得もできる。
「大丈夫? 顔色が悪いけど」
「あ、えっと……」
「私は君に危害を加えないよ。だから、落ち着いて話してみて」
やはり僕の怯えに気付いていたようで、彼女は気遣うようにそう言った。仮にも角犬から僕を助けてくれたもう一人の恩人を相手に怯えるというのは、考えようによってはひどく失礼な行為だ。請われた通りに助けてあげたのに怖がられてしまっては彼女からすれば非常に理不尽なことだろう。だというのにそれで気を悪くするでもなく純粋に僕の心配をしてくれている辺り、悪い人ではなさそうだ。
猛獣の棲む危険な森にいる腕の立つ人物。そこだけを切り取るとやはり「できればあまりお近づきになりたくはないな」というのが正直な感想ではあるけれど。だとしても僕は彼女にもっと感謝と信頼を覚えるべきなのかもしれない。
「た、助けていただいてありがとうございます」
「なんのなんの、私テイカーだもん。これくらいは当たり前、お礼なんていらないよ。……それよりあなたのことについて教えてくれる?」
「そのことなんですけど、自分でもすごく混乱していて。信じてもらえるかどうか……」
「あはは。君みたいな子が未開域で山犬とじゃれてたんだから、何かしら事情ありだってことくらいわかってるって。とにかく話してみなよ」
山犬。未開域。そしてテイカー。聞き馴染みのない単語がぽんぽんと出てくる。言葉は通じているけれど、何かが違う。彼女と僕を取り巻く常識のようなものが異なっているように感じる。これは……僕の事情どうのという以前に、それとはまた別種の意思疎通における不安も出てきたぞ。そう臆する僕に頭の中の声が言う。
《あなたの疑問にはあとでお答えします。まずは彼女を味方につけることからですよ。優先順位は間違えないように》
──わかっている。角の生えた犬……少女曰くの山犬に出くわした時と同じだ。立ち尽くしていたってしょうがない。一歩を踏み出さないことにはどうしようもない。ここも臆している場合ではない、ということだ。僕は勇気を出して声のアドバイスを実践することにした。
「実は僕、記憶喪失みたいで」
「ふーん」
と、思い切ったつもりの打ち明けに対して大したリアクションもなく相槌だけで先を促す彼女に、未だ若干の恐怖を抱きつつ。僕渾身の大芝居が始まった。
◇◇◇
「なるほど。じゃあ君は自分の名前もわからなければ、どうしてここにいるのかもどこに向かえばいいのかもさっぱりだってことだ」
「はい」
「それは参ったね」
「はい……」
参っている、というのは本当のことなので演技の必要はないが、けれどどうなんだろう。彼女がそれに対してどう思っているかは不明だ。僕は割と突拍子もないことを言っているはずなのだが、根掘り葉掘り質問を重ねようともせずやけにあっさりとこちらの言い分を飲み込んでみせたその度量がかえって怖いというか。元から信じる気持ちがないんじゃないかっていう気がして……これは僕がネガティブになって変に穿ち過ぎているだけもしれないが。
「じゃあ、これからどうする?」
投げかけられたそれは本質的な問いだった。僕はこれからどうすればいいのか。その答えを知っていそうなのは、今のところ声だけだった。
《あ、はいはい。そうですね。あなたにまずやってもらうことと言えば、『テイカーになる』です》
テイカーになる? ……目の前の少女もその推定肩書きらしきものを口にしていたけれど、僕には何がなんだか。それがなんなのかも、どうやったらなれるものなのかもわからない。
《テイカーというのは──って、せっかくなんだからその人に直接訊いてみたらいいじゃないですか。記憶喪失っていう設定なんですからその方が話も早いですよ》
それもそうだと納得した僕は声から勧められるがままに少女へと訊ねる。
「あの。テイカー、について教えていただけませんか」
「そっか、それもわかんないのか。ざっくり言うとこういう危ない場所での活動が許された立場というか、職業のことかな。それで山犬みたいな魔物を倒したりするの。ほら、見て」
そう言って彼女が指差した先には先ほど見た通りに首を斬られた山犬の死体が──どこにもなかった。
「あれ!? 死体が消えて……」
「そう、魔物は普通の生き物みたいに死体が残ることはないんだ。塵の山が崩れるみたいに消えていく。そうしてこれが出てくるの」
山犬の死体があった場所から拾い上げられた物は、指先で摘まめるくらいの小さな欠片だった。一見するとただの石ころのようにしか見えないそれを、彼女は掲げて僕にもよく見えるようにした。
「ここなら陽が当たるね。透かして覗いてみて……ね、綺麗でしょ?」
日光に照らされて虹色にキラキラと輝くその欠片は確かに綺麗で、僕は見惚れて頷くことしかできなかった。
「魔石って言って、死んだ魔物が唯一遺すのがこれ。こういうのを集めたりもするね。貴重な資源だから」
「資源、ですか」
「とは言っても、こんな風にしないと輝きも確かめられないような魔石は大した価値もないけどね。山犬みたいな下級の魔物が落とす石なんてその程度なんだ」
「へえ……」
「とまあ、これがテイカーのお仕事だね。他にもやることはあるけど基本はこんな感じ。つまり何が言いたいかっていうと、戦えなきゃ話にならないよってこと」
「……!」
《ですです。もっと言うなら強くなきゃ話にならない、ですね》
声の肯定もあって僕にもなんとなく理解できてきた。『テイカーになる』という提示された目標の達成難度の高さ。すごく気軽に言われた割にそれは相当に困難なことであるらしいぞ、と。
「じゃあ、あの。もしも僕がなりたいって言ったら」
「なりたいって、テイカーに?」
頷く僕に、少女はこりこりとこめかみを掻いた。
「んー……率直な意見でいいなら厳しいとしか言えないかな。山犬は下級も下級の、どこにでもいる魔物だからさ。それから逃げる以外の手を持たないようじゃ、はっきり言ってどうしようもない」
「そう、なんですね。やっぱり山犬を倒せるくらいじゃなきゃテイカーという職は務まらないと」
だとすると僕には厳しいどころじゃなさそうだ。そう続けようとして、しかし少女から訊ね返される。
「そんなになりたい? テイカーに」
「え……は、はい。できることなら」
己の意思ではなく声に言われるがままなので、どうしてもなりたいと強く断言こそできないが。けれど何かしら必要に迫られてのことだとは彼女にも通じたようで。
「そっかー。だったらもっとはっきり言わせてもらうと、山犬を倒せるくらいじゃテイカーの最低条件にも満たないよ」
「えっ? それじゃあ」
テイカーの最低とはいったいどれくらいのレベルなのか。という質問は、必要なかった。その答えを少女は訊かれずとも示してくれていた。
「このくらい」
「──ッ、」
ヒタリと、僕の首元に剥き出しの刃が添えられている。戦慄。反応する、どころではない。僕には彼女がいつ剣を抜いたかすらもわからなかった。山犬を屠った際の動きも見事なものだと感嘆しきりだったが、あれくらいは彼女にとって児戯。本当に最低以下のレベルでしかなかったのだと、ひやりとした刃の冷たさが僕にそう知らしめる。
言葉もない僕に、少女は何を思うのか。杳として内心を窺わせないままに彼女はおもむろに剣を引き、鞘の中に仕舞ってくれた。
「ま、今のを軽く捌けるようなら即戦力ってところかな。もちろん将来性も込みでね」
これは……お前には無理だから諦めろ、と暗に言われているのと同義なんじゃないか? 首に手をやって肌の無事を確かめながらそんなことを思えば、釘を刺すように声が。
《だとしてもなるんですよ。その子が何を言おうと言うまいと、あなたはテイカーになる。拒む選択肢はありません》
声はやけに強硬的だ。山犬からの逃走の場面でもここまで言い切りはしなかったというのに。では、もしも僕が声の指示に耳を貸さず、テイカーなるものをすっぱりと諦めたらどうなるというんだろう。
《あらら、もうお忘れですか? 私はあなたの生存をお助けするシステム。そう教えてあげたはずですよね。それに逆らったらどうなるかなんて言わずもがなでしょうに》
死、あるのみだと。声はそう言っているのだろうか。
《どう受け取るのも自由ですけどね。少なくとも魔物に食われて死ぬよりもよっぽど悲惨な末路を辿るでしょう。それだけは確かなことですよ》
…………。
それじゃあ、仕方ないな。
「将来性も見てもらえるのなら……必ずしも今、あなたの剣に対処できなくてもいいってことですよね」
「!」
僕の言葉に少女は少し意外そうな顔を見せた。やはり、彼女としてはテイカーを目指すという行為は推奨できないものらしい。刃には明確に脅しの意味があったのだ。
まあ、軽く説明されただけでも死と隣り合わせの非常に危険な職業であることは伝わってきた。どう見ても戦えるようには見えない人物がいきなりテイカーを志望したところで賛同などできないのは当然と言えば当然。脅しは彼女の優しさなのだ。危険な道へ進もうとするのを撤回させようという親切心……だけどその配慮を、僕は無視する。
そうする他にない。何せテイカーを目指さないことは目指すこと以上に危険な道になると、声からも脅しを受けているのだから。
「怖がらせても考えを改めない、か。それだけ本気ってことだね。だったらもう私から言うことはないかな」
ついてきなよ、と彼女は続けて。
「ここで会ったのも何かの縁。テイカーのなりかた、教えてあげる」