175.一年後
黒天使との初邂逅から──僕が代行者となってから、一年が経った。
神のような『何か』に肉体を授かった特別製とはいえ、それまでは一応人間の枠組みにいた僕が、完全に人間でなくなった。神の眷属のような立場になった、らしいのだが……そして得られた力からしてその実感も少なからず持っているのだが、しかし僕に起こっている変化は黒天使から説明を受けて自分なりに想像していたものとは大分ズレている。というか、簡潔に言って覚悟していたほどの「内面の変化」は起こっていなかった。
今のところは、だが。
いや、勘違いしないのでほしいのだが僕は何も黒天使が言っていたような人を人とも思わない思考、人よりも上の格を有するが故の超越者的な物の考え方、感じ方ができなくて残念だ、などとは露とも思っていない。むしろそんな自分にならずに済んでいる今を幸いだとシスと共に心から喜んでいる。
とはいえ喜ぶだけでなくシスは、正式な代行者となったからには……つまりは「神に選ばれた世界の守護者」になったからには襲い来る試練もイオとの席争いをしていた一年前とは比べ物にならない過酷なものとなるだろう、と予測しているからには。多少の人らしさくらい失っても超越者としての観点や振る舞いを身に着けて、より力を増す……というよりも力の相応しい使い方を覚えていくべきではないか。そういう風に考えてもいるようなので、僕が内面において大きな変化を遂げていないことに関しては良かれ悪しかれの思いがあるみたいだが。
だけども力の有無だけで人より上だの下だのと安直に考えられないのが僕だ。これは生来の悲観主義と合理性がブレンドされての意固地さだろうと二度目に会った黒天使から指摘されたことであり、シスも彼女の言葉へ全面的に同意しているからにはおそらく正しいのだろう。
僕の性格によって変質は遅れている。力の増加に伴って必ず起こると説明された内面の変化がまさか気質や心の持ちようによって前後するものとは思っていなかっただけに驚いたと言えば驚いたが、言ったように僕自身はその変化を歓迎してはいないために結果オーライである。
けれどまだ一年程度。ここから先僕は何十年、何百年、下手をすればもっともっと長期に渡って終わりの見えない使命に生き続けることになるのだから、あまりに気の長いその道程においていつまでも不変を貫けやしないであろうことは、既に覚悟もできている。
人はただでさえ変わっていくものだ。この世界に呼ばれて戦った半年ちょっと、それだけで僕は以前の僕と運泥と言っていい変貌を遂げた。空っぽだった内側に大切なものがたくさんできた──それを大切に思い続けている内はきっと人のままでいられる。
逆に言えば、いつかそれらも遠い思い出に変わり、その上に埃が積もりでもすれば……僕はその時初めて人以外の何かになるのだ。
そしてそれは逃れられない確定した未来なのだろう。そう、覚悟をしている。
しかし、だとしても今はまだ関係のないことだ。僕は僕のまま、人のままに今を生きている。いつかそうでなくなるとしてもそんな遠い先のことまで悲観して落ち込むような自分ではいたくない。そんな弱さとはとっくに決別したのだから、下でも後ろでもなく前を向くのだ。シスと一緒に、仲間たちと一緒に、恐れることなく未来を目指す。それが僕のすべきこと。
そのために、こうして今日も任務に就いている。
「お待ちしておりました。移動に煩わせてしまって申し訳ありません、イクセスS級。なんと言っても旧大都であるこの地下都市は構造自体が特殊な魔術建築となっておりまして、私の【標点】に限らず空間越えの唯術全般が内部に通じないのです」
「ええ、入口からでもわかりますよ。異様な空気ですからね……魔人戦争で本部に施した異空間化と似たような処置が実装されているとは、大昔の技術も侮れませんね」
確かに車両での移動ではなく術でひとっ飛びができたならとても楽だったろうけど、それが叶わなかったのはオルネイの怠慢や力不足によるものではなくこの地の特殊性が原因なのだから謝罪の必要なんてない。
ないのだが、彼は律義な人なので──何せこうして任務中となると遥か後輩の僕にもS級に対する慇懃な態度を崩さないほど真面目な人物だ──謝るなと言ったところで無意味なのはわかっている。だから僕もあえてそこには触れず足と共に話を先へ進める。
「残っている区画は少ないって話でしたけど、具体的にはどれくらいなんでしょう? 昨晩急にガントレットさんから概容を伝えられただけでまだちゃんと任務の内容を聞けてないんですよね」
「そうでしたか。ルズリフと本部、どちらにも籍を置きながら双方の任務を受けているイクセスS級ですから、当然に多忙の身であることは予想していましたが……どうやら私が思う以上に、私たちはイクセスS級に頼ってしまっているようですね」
その気遣いと自嘲を感じさせる言葉に僕は苦笑を返すしかなかった。忙しい、というのはまったくその通りであるのだけど、S級への昇級と同時に本部籍になっていながらルズリフの方でも活動を続けているのはそうするよう強要されたのではなく、完全に僕自身の意向……有り体に言って単なる我儘なので、多忙を理由に偉ぶった態度なんて取れやしない。
これは一年前までユイゼンが本部籍でありながら(ほぼ独断で)支部に居ついて半引退生活を送っていたのと逆ベクトルながらに似たような特権の使い方で、言うまでもなくS級でもなければこんな個人的かつ類を見ない要望など通らない。
望んで自分から忙殺されに行っている以上は──しかも他のS級であるユイゼンやイリネロが今となってはそういった類いの我儘をひとつも押し通していないだけに──それを「重い責務を必死に果たしている苦労人」のように扱われるとなんとも反応に困ってしまうのだった。
「ルズリフは僕にとって思い入れしかない場所ですし、元々はあそこの再開発計画あっての拾われみたいなものですからね。それに尽力することが本来求められていた役割なんですから、なるべくなら応えたいじゃないですか」
僕を拾ったミーディアがルズリフにいたのも再開発に携わってのことなので、まあ正確とも言えないが決して間違った表現でもないだろう。実際、せっかく再開した再開発(この言い方は少しややこしいな)に対して「もう今は本部勤めなので関係ありません」と距離を置くのはちょっと不義理な気もするので、できるだけ力になりたいというのも偽らざる僕の本心である。
当たり障りのない返答をしたつもりだったが、オルネイは僕の言葉にいたく感心したように大きく頷いていた。
「なるほど、素晴らしい心構えをお持ちなのですね。テイカーとはそうでなければ……イクセスS級はその等級に違わぬテイカーの体現者でもあられる。お言葉を聞くだけで私の心まで洗われるようです」
「いえ、大袈裟ですって。ホントに……」
ううん、オルネイは人格者であることに間違いはないけれど、ここまでくると少し取っ付きにくさまで感じてしまうな。さすがは特A級の一員といったところか、癖の強い者が多い協会員の中でも特段にその傾向が強い等級においても彼のキャラクター性はなんら他の人たちに劣らない。そういう部分はもうちょっと控え目でもいいと思うんだけどね。特Aに限らず協会全体。
ああそうだ、名前も出たので言っておくと、ミーディアは存命だ。本人曰く寿命はほぼ使い切っており、とっくにこの世を去っていなければおかしいはずが、何故だかピンピンしている。そのことにミーディアは最近首を傾げてばかりいるが、おそらくは彼女の唯術である【回生】には彼女自身も知らない特性があるのだろう。というのが僕とシスの意見だ。
言い換えるならそれは、能力が特殊に過ぎる唯術故に、そしてミーディアが唯術に頼らずとも充分に強いテイカーでもあるため余計に、彼女が未だに自身の力を正確に把握しきれていないということだ。理解が足りておらず、そのせいで深掘りもできず──ごくごく浅い表層の部分でしか【回生】を活用できていないに違いない。
A級以上のテイカーともなれば誰もが自分の唯術について深く探求しているもので、拡充を充実させている者も少なくない。そんな中でミーディアがほとんど自分の能力について向き合ってきていない、というのは、それでもテイカーとして成り立つ彼女の素質に驚けばいいのか、そんな立場にいながら今一度唯術の理解を深めようとしてこなかった豪胆さに呆れればいいのか、非常に微妙なところだった。
まあ、【回生】を『自分だけが助かる能力』と称してどこか嫌悪している節すらある彼女だ。自ら率先し傷付くような戦い方は一見して【回生】をこの上なく信用し、活用しているようでもあるが、実際の心情としては反対なのだろう。こんな使い方しかできないからこうするのだ、という一種のヤケクソがそこにないとは言い切れない。それは紛れもなく唯術への、自分の一部への拒絶に他ならない……これではどれだけ過酷な任務に身を投じてこようとも能力の理解など深まるはずもない。むしろ戦うだけ遠ざかっていくばかりだ。
おそらく。いや、確実に。彼女と彼女の力を客観的に見ているからこそ感じ取れるものとして、【回生】はミーディア自身が思うほど単純でどうしようもない代物ではないのだ。だからこそ、一年前に限界近くまで寿命を使い切ったと本人が感じているにもかかわらず、今でも彼女は剣を取り戦うことができている。
ミーディアが【回生】と向き合い、その真の力。本質というものを知れた時、彼女はきっと今よりもずっと強くなる。肉体的にも、精神的にもだ。そしてその時はそう遠くない。そんな気がヒシヒシとする今日この頃だった。
──ちなみに、ミーディアについてはもうひとつトピックがある。それはミーディアだけでなく僕に関するものもであるけど。
僕が先ほどから「イクセス」と呼ばれていることにお気付きだろうか。イクセスとはそう、ミーディアの姓だ。そして僕はライネという名だけを貰ってこの世界にやって来たため、元々姓を持っていなかった。……これらの前提から勘のいい方であればもう察しもついたことだろう。
その通りだ。僕はつい一月ほど前にミーディアと結婚し、彼女の伴侶となっている。
……いや、生憎と言っていいのかどうか、結婚というワードから連想されるようなラブロマンス的な展開は、僕とミーディアの間には起こっていないけれども。何せお付き合いの段階をすっ飛ばして婚約を結び、その翌日にはすぐ籍を入れたので、ロマンスの介在する余地もなかったというか。
そもそも結婚の理由も、ミーディアはイクセスの姓を自分で途絶えさせるのを少しばかり惜しく思っており、そして僕はいい加減名前だけでなく苗字もあった方が──協会がなんとかしてくれた戸籍に関しても──いいだろう、という互いの事情が噛み合った結果、僕もイクセス家(ミーディア一人のみ)への仲間入りをすることになったのだ。
ただし僕がイクセスの姓を獲得するにはふたつにひとつ。養子縁組の手続きをしてミーディアの子どもになるか、婚姻届けを出して夫になるか。そのどちらかしか方法がなかったのだ。いや、正確に言えば事件・事故によって名前を変えざるを得なくなった人や、孤児に代表される自分の正しい名前がわからない人のための仕組みもあるにはあるようなのだが、そちらは養子案や夫案に比べると手続きが煩雑で、即席とはいえ僕には一応の「なんの問題もない戸籍」があるだけにそちらへ頼るのはあまり現実的ではなかった。
協会の法務部でそっち方面に強い事務員へ相談したところ、この説明をしながらも決して不可能とは言わなかったので根気強くやっていけばミーディアと家族関係にならずとも僕がイクセスを名乗れるようにもなったのかもしれないが……しかしミーディアは自分の寿命、つまりはタイムリミットを気にしておりあまり長い時間をかけたがらなかったし、何より僕もミーディアもお互いが家族になることに何も不都合がなかった。ので、最も手っ取り早い手段を取ることにした。
若くとも成人済みではあるためにミーディアの養子になることはできる。とはいえ僕とミーディアの年齢差は──この身体が何歳相当なのかよくわからないため確かなことは言えないが──少なくとも見かけ上、親子と言い張れるほど離れてはいない。いいところ姉弟ぐらいだろう。ミーディアもできるだけ対等な関係を望んでいたし、ならば夫婦一択。ということで共に納得し、一緒に婚姻届けを提出に行って、晴れて僕はミーディアの旦那さんとなり、ミーディアは僕のお嫁さんとなったのだった。
今の僕はライネ・イクセス。なかなか格好いい響きだと自分では思っている。