148.最善
魔術の深奥。ひどく大仰にも聞こえるそのワードが、しかし決して過ぎたものではないとイオは認める。認めるしか、ない。
氷結領域は傑出している。唯術の効力ではなく唯術そのもので場を満たす、という結果だけを聞いても──そして実際に体験してみても、どういうプロセスを経ているのかまるで見当もつかない。イオにはおそらく真似ようと思っても真似できない、技術の継承を重んじてきた人間の魔術師だからこそ……テイカーだからこそ可能となったこの術は、まさに究極。およそ魔術と呼ばれる技術の頂きに据えられて然るべきものだろう。
ユイゼン・ロスフェウが編み出したものを自己流に再現してみせた、と彼が言うからには真に褒め称えられるべきはライネへこれを授けたあの老婆かもしれない。よくもまあ特別製でもない身でこんな術を、とイオは感嘆する。それもまた、最古参テイカーとして誰よりも経験を積み、誰よりも他の魔術師と交流してきた「人間としての強さ」が成せたこと、なのだろう。
元人間として、そして今は人間よりも魔力に、魔術に親しい魔人として、イオにはこの技術の素晴らしさがよく理解できた。
──ならば何故初めから使わなかった?
疑問だった。これだけ圧倒的な術の用意をしておきながら、本人もその力に絶大な信頼を寄せている口振りながら、ではどうしてここに至るまで使用に踏み切らなかったのか。……なんのリスクも制約もない、真の意味で「完璧な術」なのだとすれば出し惜しむ理由なんてどこにもないはずなのだ。使い時を見計らっていたというのならそれはつまり、考えなしに切ってしまえるほどこの手札は軽くないことを意味している。
(時間だろうな。それ以外にねえ)
飽和攻撃から命からがらに逃げ続けながらも観察を怠っていないイオの目には、氷結領域に術的綻びは見つけられなかった。やはり一個の術としての完成度は極めて高い。ということはその完成度の高さ故にネックとなりがちな「維持の難しさ」。それこそがライネの懸念に違いないとイオは当たりを付ける。
時間制限がある。それは果たして術の基本性能として設定されたものなのか、それとも単にライネのリソースに限界が訪れることで結果的にそうなるのかは知れないが、いずれにしろ時が経てば。そしてそこまで遠からずに氷結領域は自ずと解除される。そう見て間違いないはずだ。こちらも長くは持たないという理由で──それはガス欠を気にするというよりもライネとの勝負を長く楽しみたい気持ちが強かったが故の選択でもあったが──外付けの魔力を全開出力で使うことを控えていた彼女なだけに、ライネの心情は透けて見えるようだった。
(中の一人と一心化を果たした上でタイムリミットを抱え込んで初めて武器として使える、それが氷結領域か。唯術で世界を上書きするとんでもねー荒業なんだからそれくらいの制約は出てくるわな)
きっとオリジナルであるユイゼンの『銀世界』にも似たようなリスクが盛り込まれているはずだ。そちらの面までライネは引き継いでいるのだ──継承にはそういった負の側面もある。無論、長い時をかけることで、あるいはどこかの時点でブレイクスルーが起きればデメリットを打ち消してメリットだけを享受できる。それこそが継承の最たる正の面。
しかしユイゼンからライネへの一代だけの継承では、さしもの特別製たるライネでも──彼の中にいるシスにも技術的な革新や革命は望めなかったらしい。いや、ユイゼンのそれよりもひょっとすればリスクを軽く小さく、各段に収められてはいるのかもしれないが、けれども氷結領域は最強の術ではあっても無敵の術ではない。それがイオの出した答えだった。
で、あるならば。
(時間いっぱいをいなせば俺の勝ち。ってことだよな。んでもってそれを狙うのはたぶんそう難しくない──)
立場が逆転した。さっきまでは外付けの魔力が尽きるまでライネがいなせば勝ち、いなせなければ負け。そういう構図だったのが、ライネも時間制限を背負ったことで、むしろ時間の経過はイオの味方になった。氷結領域の維持はどんなに長くとも十分そこらが限界。とイオは術の出来から逆算しており、また彼女自慢の根拠を介さない直感も同じ回答を寄越している。
ライネにも言うほどの余裕はない。飽和攻撃は術の精度が落ちていることもあって今のイオでは綺麗に対応しきれるものではないが、けれどここから「勝つ」のではなく「十分だけ負けない」のであればやりようはある。現にこうして傷まみれになりながらも生き延びているのだから、この状況を長引かせることくらいは十分どころか十二分に叶えられる。そしてそれは紛れもなく勝利への最善手であると、これもイオの直感は確信的にそう告げている──だが。
(逃げ続けること。まともに戦おうとしないことが、最善手? ハッ)
イオは笑う。
凄絶に嘲笑う。
そんなものが最善であるはずがない。戦闘における選択肢、その是非はともかくとして──自分が選ぶ道にはちっとも相応しくない。
(ライネだってそれを選んだってのに俺が日和っちゃ意味がねえ──意味が、なくなっちまう。この勝負が価値のないものに成り下がっちまう。んなの真っ平ご免だぜ)
だから。
「真っ向勝負だ。魔術の深奥、正面からぶち破らせてもらう」
ぎちりとイオの腕が鳴る。拳が鳴る。そこに握られた力が鳴り響く──そして炸裂。打突と共に解放されたそれは、その方向にいた三体の氷龍をまとめて吹き飛ばした。
「……!」
ライネが大きく目を見開く。まるで信じ難いものを見たと言わんばかりに……当然だ、今のイオには出せるべくもないこの威力。この一打は、ライネの【氷喚】に支配された空間内で出せていいものではなかった。慮外の出来事。しかして当の本人はその戦果に対して不満を隠しもせずに鼻を鳴らしていた。
「ちゃちいな、込めた魔力にちっとも釣り合っちゃいない……だがまあ、なんとか使えるだけの火力になってるのを喜ぶべきか。何せ破壊力だけを求めればよかったさっきまでとは違って、別の部分にも多量のリソースを割いてんだからな」
二人の目が合う。まだ残っている氷龍たちを一旦停止させたライネに、イオも彼の意図がわかっているとしか思えない落ち着きようで言葉を続けた。
「大方察しもついてんだろう? 全開にした膨大な魔力の出力。それで得られるのは何も一撃ごとの威力だけじゃねえ……お前さんが【離合】対策で氷霧へ『その場に留まる』性質を強めるための細工を施したように、俺だって同じことができる。いや、過剰供給がデフォの今ならそれよりもずっと強烈な改造ができるぜ」
「──斥に『他の術理で消されない』性質を加えた……いや、それが特性になるくらいに強化した。そういうことだね」
そもそも術理と術理は反発し合うものだ。異なる術がぶつかり合ってどちらが優先されるか、それこそが術の強度を表す。もちろん唯術の系統や相性によっても左右されるために一概に術的強度だけが衝突時における趨勢を決定するわけではないが、しかし優れた唯術や術師が扱う術は尽く強度にも優れているもので。故に魔術師同士の戦いは唯術の相性だけで決まらず、地力も同じだけ重要になってくる──ただしイオは。
「【離合】に術的強度が欠けてる、なんてことはねえ。この唯術はちゃんとそこも強い。付け焼刃の俺でも本家に及ぶくらいの強度は確保できているし、魔力の過剰供給はそれ以上のもんをもたらしてくれている……はずだったが、それすらお前が支配した空間の中じゃ大した保証にもならねえみたいだからな。そーいうわけで『作り変えさせて』もらったぜ」
名付けて剋斥。
と、イオはたった今編み出したものに名称を与えた。そうして名も無き技術は新たな術として誕生する。
「剋斥……」
「おうよ、とにかく消されねーことへ力を割り振った。お前さんが氷霧にやったもんの猿真似と言われればそれまでだが、ま。悪くはねーんじゃねえの? 追い詰められ際の閃きとしちゃな」
上へと立てられたイオの腕、伸ばされた人差し指。その指先に力が集う。距離を隔てたライネの位置まで確かな存在感を届けるそれは、たった今名を持った剋斥と同じく氷結領域内においても術としての形を崩さない強固な理を有するもの。
「剋引」
動きを止めたまま様子を窺わせていた残りの氷龍がまとめてそこへ吸い寄せられる──否、吸い潰される。指先の一点という極小の範囲に収まりきるわけもない質量がしかし強引に収められてしまったからには、押し込められてしまったからには待っているのは瓦解のみ。氷結領域によるバフを受けて氷霧下のそれよりも遥かに頑丈に、堅牢に作られているはずの氷龍はいとも容易く十体が揃って砕け散った。その破片がダイヤモンドダストの如くに光を振り撒きながら降り注ぐ中で、イオはからりと満足そうに笑い声を立てた。
「おっ、今度はちったぁマシな威力になった。慣れればもう少し上げられそうか……だがそっちに意識を回し過ぎると維持力が削れちまいそうで怖ぇな。せめて息を吸うように剋斥も剋引も操れるようになるまでは辛抱しとくとしよう。情けねえ話、お前みたいな器用さが俺にはないもんでね」
「……よく言う」
猿真似などと安く言うイオだが、彼女のそれは即興だ。ライネは術の進化をそのように仕上げたことなどない。じっくりと時間をかけて、シスの手も多分に借りながら、自分自身と向き合うことで彼は現在の己を形作った。氷霧に強い維持力を盛り込むのだって言うほど簡単にできてはいない──それをイオは、その場の閃きとセンスだけで模倣してみせたのだからその腕前は、器用さは本人が卑下するほど程度の低いものではなかった。
いくら今だけ使える豊富な魔力が術の性能を後押ししてくれると言っても……いや、その強大に過ぎる力で溢れているだけに余計、繊細に自身の術へ触れることは難しくなってもいるはず。ともすればとにもかくにもパワーの方面にのみ振り切れてしまいそうになるところをイオは見事に制御しながら、目当ての改造を。それも飽和攻撃にズタボロにされながらも成し遂げたのだ。
途轍もないことである。仮にそれと同じことができるかと問われても、ライネとてすぐには頷けないくらいには。
確かに差はある。どちらがより技巧派かと言えば間違いなくライネの方だ。同等の才能を持たされていながらも種族の差、環境の差、補助の差、何よりも生来の性格による向き不向き。それらの違いから鏡映しの存在としてこの世界に生を受けていながらも両者は必ずしも同等ではない。
相手にできて自分にはできないこと。自分にできて相手にはできないこと。互いが互いに対しそれを見出している。ライネは、そしてイオも、言葉にすれば非常に奇妙なことに──「だからこそ」この戦いは一筋縄ではいかず、「だからこそ」勝てると。共にその確信を握り締めて向かい合っている。
「そもそもが【模倣】で真似しているだけの他人の唯術だ。それで僕と同じことを咄嗟にやれてしまうんだから大したものじゃないか。そう自分を下げなくていいんじゃないかな? まるで負けた時の言い訳を今からしているようで格好悪く聞こえるしね」
「──はん、そうかい。だったらそのお褒めの言葉をありがたく真に受けさせてもらうとして、称賛ついでにもひとつ見てくれや。俺の領域破りの第一を……!」
激しく跳ねる。中空を躍るような所作で飛び退いたイオはそのままぐんぐんと奥へ体を運び、ライネから見て反対側の氷球の壁面へと足から着地。そして両腕をこれ見よがしに大きく引いた。
「区切りがあるってのは重要な事実だ。そいつは支配空間にも限りが、限界があるってことを意味するもんだからな。この氷球は俺を閉じ込める檻でもあり、ライネ。お前の手の届く精一杯でもある……! ってことは壁を壊しちまえば! 氷で仕切られた空間を開放しちまえば、区切りがなくなって術は術としての体裁を保てなくなる! そうだろう!?」
片手に剋引、もう片方の手に剋斥。引×斥で生まれる『発』のように、あるいは拡充の重引や重斥のように混ぜ合わせているわけでもなければ掛け合わせているわけでもないが、このふたつを同時に同対象へただぶつける。それだけでも破壊力は充分。別の唯術によって支配された空間内で作り出される威力としては破格の、比類なきものとなる。
世界を模るが如き氷球の壁がどれだけ分厚く出来ているのかはイオとて存じないが、しかしその一部を貫くことくらい【離合】が持つポテンシャルを正しく引き出すことさえ叶えば造作もないと。
己にならばそれができるという自負を以て、彼女は最高出力の二種類の術を掌打と共に振るった。




