146.拡域
これは予想できたことでもあったし、実際にライネは重々に警戒をしているつもりだったのだが、それを前提にしても「早過ぎた」。
術の起動と完成、その設置。一連の全てを魔力の過剰供給によって速度を上げているイオは、本来なら必要なはずの拡充術を扱うための間すらも潰している。そして拡充術でこの速度だというのなら、基本術である単体の引や斥なら更に完成までが早くてもおかしくない……とは、ならない。
何故ならどこまで早めたところで限界があるからだ。最低限必須の時間、術を使用するに至るまでの経過。拡充術の時点でそれを限界まで早めているのだから、負担の軽い基本術でもそこにかかる時間は同じ。どちらも「同等に早い」、それが答えだ。だからイオは外付けの魔力を全開にしてからはあたかも拡充術が基本であるかの如くに多用しているのだ。
同じだけの時間を使って得られる威力が違うのであればより高い方を選ぶのは当然の判断だろう。無論のこと消費魔力はその分だけ増えるが、自身のガス欠よりも先んじてライネを破綻させようと目論む彼女は消費の増大を問題視していない。
故に、もしもイオが今更単体の引や斥を使うことがあるとすればそれは「添え物」としての用途に限られる。つまりは重引や重斥というより破壊力を持った攻撃を確実に通すため、そこへ添えられる補助的な役割しか与えられないだろう。と、そう予想していたのだ。
実際に予想は的中していた。イオはまさに本命を通すための添え物として引を利用した──が、そのスケールにおいてのみライネの予想を大きく上回っていた。イオが通そうとした本命は拳に搭載した重引・重斥ではなく、腕力との融合がなくともそれと同等以上の威力を発揮できる最強の単発術である『転』。そして、それを「今度こそ」の気概を以て命中させるべく添えられたのはただの引ではなく、瞬時には正確な数を把握するのも難しいだけの無数の引であった。
ライネが予想を外した理由。読み誤っていた部分はまさにそこだ。単体の引や斥にもはや旨味はないと判じた点が、間違っていた。
魔力の過剰供給がもたらす単体術ならではの恩恵は、しっかりと存在していたのだ。それは速度面ではなく、ましてや掛け合わせの重引や重斥に絶対に適うはずもない威力面でもなく、同時生成の可能数という攻撃としての物量面。単体であるが故に起動の負担が軽く済む。それに加えて元より遅延術に頼るまでもない並行的かつ素早い術の活用が強みのひとつである【離合】の特性をこの上なく活用して生み出されたのが、この盤面。
とにかく同時に作れる限りの引の力場を、設置箇所の厳選もなくばら撒けるだけばら撒き、その発動に並行して組み上げた『転』を発射する。引に囲まれた敵対者は身動きのひとつも取れず、あるいは引の作用だけでも深刻なダメージを負いながら、ダメ押しとしての『転』を食らう。ライネが陥ったのはそういう布陣だった。
だが。
「……!」
まさしく完璧。ようやく【離合】最強の術がその真価を見せる……という待望を掻き消す、ライネのひどく冷涼な。それでいて力強い、確かな意志を感じさせる呟きがイオの耳朶を打つ。
「極点氷霧──『氷結領域』」
景色がガラリと様相を変えた。イオの力が渦巻き、席巻し、充満していたその場所を、書き換えるように。キャンバスに描かれた絵を上から塗り潰すかの如くに世界が色を入れ替えた。寒々しい白と青と銀に染められた耐え難い程に静謐な、ライネの声音よりもなお一層に寒冷な空気ばかりが支配する世界。
「なッ、んだとぉ!? こいつは……」
そこには冷気だけがあった。それまで、世界が色を変えるまで確かに満ち満ちていたはずのイオの力は。彼女が周囲一帯、空間中所狭しと並べ立てて溢れさせたはずの【離合】が生み出したエネルギーは──その凄まじき破壊の力はもう、どこにも存在していなかった。この穢れなくも厳粛な白の世界に追い出されたかのように、相応しくないものとして排他されたかのように。
全てが掻き消された。
──意味が、わからない。
ライネとの戦い。ここに至るまでも訳のわからない、不可解としか言いようがない現象には何度も遭遇させられた。おかげで混乱と付きっきりでの勝負となっているが、しかし見せつけられる奇妙さの何もかもはライネの技術と覚悟から為るもので。それがイオの目に脅威として映るのは偏にライネが研鑽し、積み上げ、己が持ち得る全てを打倒宿敵のために燃やし尽くさんとしているからこそ。
イオとてそこは変わらない。
五百体を超える魔人を用意したのだってテイカー協会を壊滅させるためというよりも、大事な決戦に他のテイカーが割って入ってこないようにする用心の意味合いがイオの中では強い。持ち主が持ち主なだけにコピーする難度の高い【離合】をそれでも欲したのは、勿論それが先々(・・)においても通用してくれる公算の高い唯術だから、というのも理由としてはあるが、その手前にある一大イベント。宿敵との戦いでも必要不可欠な武器になると直感していたからでもある。
そこに魔人たちから借り受けた外付けの魔力まで加えたのだから、我ながら行き過ぎている備え方をしたものだ……などとある種の余裕をもってライネと対峙したのも、もはや今は昔。
行き過ぎているという自覚をあっさりと踏み躙られた。それだけライネも入念な備えをしていた──そのこと自体はまあ、いいのだ。思った以上に実力が拮抗していること、対等に戦えていることは業腹でもあり、望んでいた状況でもあり。それに関してぐちぐちとケチを付けたいなどとはちっとも思わない。
遅延術も受け流しも一心化とやらも、厄介ではあるが認めよう。彼が今日のために研いできた牙として、磨き上げた技術の結晶として大いに讃えたい。感謝すらしたいと、本心からそう思う。
──だが、これは違う。
自分にはない巧緻な技の数々。工夫のひとつひとつ。
魔力の総量においても出力においても大きく劣るからこそ束ねたそれらで戦局を均衡させていた、ここまで披露されてきた何と比べても。
明らかに「これ」はおかしいだろう。
魔術という異常の事、超常の理が当たり前に存在するこの世界においても、今目の前に広がっている「世界」は異様なまでに異常であり、超常的である。
(氷霧、っつったよな? 確かに奴は「極点氷霧」と口にした。じゃあこいつは元の氷霧に何かしら手を加えたバージョン違いってことか──いや、だとしてもこの感じは)
イオは広範囲の斥のバリアを未だ切っていなかった。魔力の出力を全開にしている今となっては氷鳥も氷蝶も、あるいは氷龍であっても──魔力防御の質が高まっていることで──痛手とは決してならないが、それはそれとして。やはり飛び回る鳥やら何やらがダメージ源にこそならずとも鬱陶しいことは確かで、もうそれは充分に堪能したという思いもあってライネが再利用を試みないよう、広げた斥は常に展開し続けていた。
のだが、それすらも「消されてしまっている」この現状に、イオは言い表しようのない感覚を覚えていた。
「術が消えたと同時に魔力防御だけに集中。それも氷霧っていうワードに反応してご丁寧に体内まで守っている……反射でそこまでやれるのは流石だと言っておくよ。そんなにも的確だとこの術が予め露呈していたんじゃないかと不安にまでなってくる」
「……気に食わねえな、ライネ。その態度。不安なんぞと嘯きながら手の内が見抜かれているとはちらりとも思っちゃいねえ見下した視線。不愉快が過ぎるぜ」
下からライネをねめつけ、怒気を放ちながら、しかしイオは思考を休めず巡らせたままでいる。
見渡す限りの白、そこに混ざる青と銀の輝き。空間ごと氷の世界に閉じ込められたのは間違いない──そして世界の中心にいるのはライネだ。距離感が掴みにくいが、おおよその目算で彼の位置を基準として……半径五十から六十メートル程の広さの、巨大な氷球。展開されたそれの中にライネ共々閉じ込められているのが現状である。
だが読み取れるのはここまでだ。どうやらこの氷球の内部が氷霧よろしくライネに絶対有利をもたらす支配空間となっていることは察せられるものの、だからといって何故その展開と同時にこちらの術が消されたのか。自分でもいくつ生み出したかわからない引の群れも、そして圧倒的な破壊の力であるはずの『転』も……まるで更に「その上」から。もっと圧倒的な何かで圧し潰されたようなあの感触がなんなのか、イオにはまったく判じられない。
しかも混乱に拍車をかけるのが、氷霧のそれほどわかりやすい目印──視界を塞ぐ霧だとか、そこから発せられるライネの魔力だとか、そういった空間を満たす力の気配がここには一切ない。まったくの無風である……それが、耳に痛い程の静けさをイオが感じている理由だった。
とかく不気味だった。ライネはイオが咄嗟に防御だけに全神経を集中させている様を流石と言ったが、なんてことはない。イオにはそれ以外にできることがなかったという、それだけのことだった。しかしライネはおそらくなんの含みもなく素直に称賛しているらしいと伝わってくる。それが余計にイオの苛立ちを加速させる。
「──ユイゼンさんはこれ以上ないくらいの切っ掛けをくれた」
「あん?」
「年の功の一言で済ませていいものかどうか。とにかく、あの人がいてくれたおかげだよ。今こうして僕がお前と戦えているのは」
イオの片眉が吊り上がる。何をしてくるかと神経を尖らせているところにいきなり関係のない──としかイオには思えない──話題をライネが振ってきたのだからそういうリアクションにもなる。ひょっとして俺はおちょくられているのだろうか? と先の本心に思えた称賛すらも「ともすれば」と更なる怒りの材料となりかけた、そのタイミングで、ライネの口から気になるワードが飛び出した。
「氷霧は起点でしかない。この術の真髄はそこから成る唯術の拡域にこそある。魔術の深奥だよ」
「拡充じゃなく拡域……? それが魔術の深奥だと?」
「ああ。ユイゼンさんは『銀世界』という術を使う。その効力は、僕の氷霧の上位互換。なんだけど、ただの上位と下位の関係じゃなかった。なんと言えばいいか……そう、次元だね。銀世界と氷霧じゃ術としての次元が異なっていた」
「へえ、俺からすりゃお前さんも大概に達者だがね。氷霧だってとんでもなく冴えた術だ。お前自身もそう思っているから俺にも使ったわけだろ? なのにそんな言い草と来たら、その銀世界ってのはいったいどんだけ強い術なんだ。アレか、発動した時点で相手を氷に変えちまうとか?」
「強い、弱いじゃあないんだよ。言ったろう、術としての次元。完成度の話さ。氷霧には氷霧だけの良さもあった。性能だけで言うならそれも間違いじゃない。だけど、それを踏まえてもひとつの術として。魔術師の技として氷霧は銀世界の足元にも及んでいなかった」
「……見えてこねーな、何が言いたいのか。結局のとこユイゼンとお前の術は何が違うってんだ」
「氷霧は、その名の通り僕が魔力で生み出した霧を一定範囲に満たす術。『それだけ』の術でしかない……霧は敵の邪魔になり、僕には有利をもたらすけれど、それ以上のことは何もない原理的にはシンプルな代物だ。それに対して銀世界は──魔力じゃなく、唯術そのものが範囲を満たし、その空間を本当の意味で支配する。そういう術だったんだ」
「……はぁ?」
唯術そのものが……と耳にした文言を反芻してみるイオだったが、結果は変わらなかった。意味不明だ。ライネが何を言っているのか彼女にはさっぱりだった。
そしてここで重要なのが、彼女が力押しを好むあまり(それが彼女にとって最適解であるため)に精密な魔力操作だとか術のブラッシュアップだとか、そういった細部に目を向けてこなかった弊害──などではなく、根本からしてライネの口にする理屈についていけていないこと。それが何よりの問題だった。
前提としてイオは魔術の知識に明るい。魔人の肉体は人間のそれと違って物質と魔力が半々の構成で出来ており、その身そのものが魔力である分だけ人間の魔術師よりも魔術への親和性も高い。よって正しく言うなら知識というよりも体感として魔術を知っていると表すべきだろうが、ともあれ。力押しの戦い方を選んでいる都合上傍目にはとてもそうは見えないが、しかしイオは確かにライネにも劣らないだけの魔術的な見識を有している。これは事実だ。
そもそも「こちらの世界」でライネよりも先に生を受けた彼女には時間的なアドバンテージもある。それは人間であるが故に体系化された技術として魔力の扱いを学べるライネにも劣らない、イオに与えられた「権利」のひとつ。
なのにイオには、何もわからない。いや、わからずともわかることがひとつだけあった。それは──。
(野郎、吹かしじゃあないな。マジだ。俺は大マジに途轍もなくヤベエ状況に置かれている……!)
──自分が追い詰められている、ということ。




