140.二割
またギアが上がった。ただの踏み込みで地を割り砕く驚異にして慮外の脚力を目の当たりとしたライネの胸に浮かび上がった感情は、恐怖や戦慄ではなくて。
それを一言で表すならば歓喜こそが相応しい。
明らかに過剰な力の入れ様。直近の会話にそれだけ昂るものがあったのかそれとも、一進一退の停滞する戦況をじっくりと楽しんでいるようでいてその実、イオも焦れていたのか。
いずれにしろ今までのように肉体と唯術、どちらの性能も存分に活用しての機動力での攪乱──という戦法を続けるつもりであるなら初めの一歩をここまで派手にする必要はない。足場を踏み砕かない程度のほどほどの力で、緩やかに最高速へ達しながら周囲を跳ね回る。こちらの捕捉を振り切るつもりならそうすべきだし、実際に彼女はそれを実践していた。
そうでなくなった、ということは。
全身全霊の攻撃。落下の速度も乗せて、イオの全力からすれば微々たる割合にしかならない重力すらも余さず駆り立てて。捕捉ではなく対応を振り切る方向へと舵を変えて、迫りくる。刹那にも満たない時間の中でそれを知ったライネは、否、彼の体はもう動いていた。
脳の処理待ちという遠回りを避けて反射だけでイオの突撃速度を、その精度を落とすべく後退の姿勢を取りながら今ある遅延術の全てを解放。と同時に、その間浮いた脳のリソースでライネが考えていたのは──行っていたのはカウンター。絶好の確殺の機会を逃さないこと、そのための準備だった。
氷鱗を総移動。直撃を避けてなお受けるであろう被害は最低限の魔力防御だけで抑え、傷を負ったとしても必要経費として割り切り、守りの要として用いてきた氷鱗を武器である凩とそれを握る右腕のみに集中展開。それを振り切ることのみに、イオの首を断つことのみに意識も集中させる。
そしてイオはライネの手前へと着弾。狙いを僅かに誤ったその位置はまさしくライネの狙い通り。恐るべき天空蹴りの威力で二人の足元は共に大きな亀裂と振動によってずたずたになったが、しかしライネはまるでそれの影響を一切受けていないかのように体勢を崩していなかった。その様をイオが確かめる、よりも先に彼女の首筋へ吸い込まれていく刃。
「なんッ……」
氷鱗とは言わば自在に展開部位や厚みを変えられる強化外骨格のようなもの。もたらすものは防御力のみにあらず、氷鱗自体が術者の動きを助けることで速度が上がり、またそれは攻撃力にも転じる。当然に強化幅は氷鱗が厚ければ厚いほど上がる……つまりは全身へ均等に纏うよりも一部位へと全てを固めた方が大きくなる。
ライネがイオに氷鱗の視認を許さなかったのはその仕組みを可視化させないため。振り幅の落差とそれをどこへ割り振っているかを理解させないため──この瞬間のための努力であった。
斬る。イオの予想を数段超えて、彼我の小さな距離を飛び越えて。本来それにかかるはずだった数瞬を一瞬以下に縮めて描かれた刃の線は、その途上を確かに赤く染めた。それは血の色、血液の漏出。横凪ぎに通り抜けた硬質の軌跡をなぞるように追いかけた柔らかく温かい赤は、
(浅い……!)
薄く、狭い。凩の先端。イオの首を切ったのは刃の切っ先部分、そこのみ。本来なら断頭の一撃となるはずだったものがそうならなかった。原因は、ライネの手元が狂ったわけでもなければ目測を誤ったわけでもない。イオだ。彼女が自らの意思でライネより遠のいた、その一歩分が文字通りに首の皮を繋ぎ止めたのだ。
間に合うはずもない回避を、しかし間に合わせてみせた。ライネが完璧に捉えた絶好の機会を力尽くで覆してみせた──彼女の身体能力と、己が危機を感じ取る優れた直感がそれを叶えてしまった。喉元を掻き切られた痛みか焦りか表情を歪ませるイオ以上に、ライネこそが顔を顰めたい場面。だが、彼に動揺はなかった。
機会はまだ続いている。首の傷は半端であり即死させられなかった以上は──そしてあのときのライオットのように魔力切れにまで追い込めてもいないからには──イオは通常であれば致命傷となって然るべきその傷も滞りなく治すことだろう。これもまた魔人だからこそ可能となる人知の及ばない超高速の治癒術で、難なくと立ちどころに傷を消し去ることだろう。
だがそれはイオにとって必至の急務。いくら魔人の肉体が人のそれを超越して頑丈だからとて、生物であるからには首の半分を切られたまま戦闘など行えるはずもないのだから、他のどんな手間を惜しんででも後回しとしてでもこの傷を癒すのは「絶対に避けられない」こと。
つまりは隙に他ならない。
狙うべき「今」は終わっていない。好機は途切れていない。いくら魔人の肉体が人を超えていようと、治癒に著しく秀でていようとも、治癒そのものに多大な魔力と意識を割かねばならないことに変わりはないのだ。確かに一般的な魔術師が費やすそれよりもずっと安上がりなのだろう、が、あくまでその安さ、手間のかからなさは人と比べての相対的なもの。魔人の感覚だけで言えば、彼らが彼らなりに少なくない労力を治癒に使っていることもまた確かであるはずなのだ。
トリータやティチャナが本部屋上での戦いで手傷を負った際、それなり以上の警戒をしながら傷を治していた場面をライネは見ている。あのときの態度、魔力の動きからしてこの推測に間違いはない。ということはイオもそうなのだ。彼女は魔人の中でも特別製、三部下よりも更に魔人らしい特徴が際立った存在なのかもしれないが、だとしても原則から大きく外れてはいないはず。
(氷鱗駆動)
致命の傷を致命でなくさせるために急速の治癒が求められる。そこに魔力と意識が費やされ、必然的に他のこと。戦闘のための行為の全て、それを支える魔力の出力や思考力がある程度は落ちる──その隙へ付け入る。
前述の通り氷鱗の果たす機能は防御だけではなく、外骨格として氷鱗自体を動かすことで動作の補助・向上も行える優れものだ。だからこそ、可能となる。全力で振り切った刀を返し、すぐさまに戻す。描いた軌跡を逆に引き直すように、それをイオが離れた分の距離を詰め直しながら行なう。通常なら一旦の停止と再加速というあってはならない「間」がなければ叶わないはずの挙動を、しかし氷鱗で無理矢理に腕を動かすことで間を潰す。
結果として全力の一閃は二連撃となり。確殺の意志が込められた断頭の二刀目が間髪すら置かれずに再度イオを襲った。
決めの攻撃を外した直後、にも劣らない無防備を晒している彼女にこれを躱すことはできない。半分だけ斬れた首の、残り半分を断ち切る。ここで仕留めてみせる。その気概は達成の見込みと共にライネの内部で猛吹雪の如き激しさで猛っていたが──けれどもそのとき、信じ難いことが起こった。
「くォッ──重斥、だぁ!」
「……!」
今度はライネが目を見開かされる番だった。これまでで最高の威力。そう思えるだけの引き離す力が、イオと自らの間に弾けた。爆発にも似た脅威的なそれの矢面に晒されながらもライネは構わず、死に物狂いの気迫で刀を振ったが、その軌道。狙いは僅かに逸れてしまった。
イオの全身全霊の一撃に対して彼がそうしたように、イオもまた彼の全身全霊の一撃に対して「咄嗟の高出力術」のぶっぱによって瀬戸際の回避を無理くり実現させたのだ。
額の表面に真一文字の新しい傷が刻まれたイオ。賭けに勝ったことを口角の上がり具合で示す彼女の憎たらしい顔付きを見ながら、既に傷跡が消え始めているその首元を見つめながら、ライネの胸中は愕然とした驚愕に彩られる。
──あり得ない。これは、どう考えてもおかしい。
あの瀬戸際に拡充術の重斥を差し込むことで生存の目を拾った、それはいい。それ自体は自分も同じようなことをやった後なのだからまだ納得できる。だが。
どういう訳かイオの出力が桁外れであることは、吞み込んだ。そういうものとして理解した。そしてそれを踏まえた上でライネは仕留めにかかったのだ。咄嗟の悪足掻きで邪魔をされることも、出力の高さも想定を済ませた状態で、その上で殺し切ってみせると決意していた。
なのにどうしたことか、この出力は──明らかに悪足掻きで出せる範囲を超過している。
致命傷を癒しながら、限られた時間の中で、まさしく反射の域で繰り出せる威力ではない。
歯噛みしながらライネは下がる。殺し損ねたからには、そしてイオも傷と体勢を立て直したからにはこれ以上の追撃は無意味。どころか危険行為だ。遅延術の仕込みと先のイオの攻撃の余波で負った軽い傷の治癒を忘れず、また警戒も怠らずに構え直した彼は、しかし体面を整えるのとは裏腹に謎と疑問で一杯になっている。
とことん釣り合いが取れていない。さっきまででも充分にイオの出力、魔力の使用量はおかしかったが、今のはいよいよもって整合性の欠片も見つからない異常な出来事だった。どうやってこんな真似を、さも当然のように叶えているのか。
そもそも、まだしも出力の方は【模倣】に秘された力で実現しているものだと仮定したとしても、高出力を維持し続けられているのはどういう理屈なのかまったくもって不明である。イオの魔力総量は部下たちと同等か僅かに上か、という程度だ。これも屋上での戦闘を目安に打ち立てたライネの試算であり、また同様の光景を目にしていたシスの見解とも一致するものでもある。
総量もまた人の平均を大きく超えている、のは前提として。だとしてもここまで魔力をじゃぶじゃぶと消費してはさしものイオでもガス欠は遠からず訪れる……いや、もう既に枯渇していて当然である。自然回復による自己補完の範疇から逸脱し過ぎないように注意深く立ち回っているライネと違ってイオにその類いの慎重さや工夫など皆無なのだから魔力が底をつくのは自明の理。のはずが、そうなっていない。
意味がわからない。いくら考えても、シスと共にどれだけ知恵を振り絞っても謎が解けない。──彼の内部だけで行われる侃々諤々の議論を、まるで聞き取ったかのように。
「理不尽とでも言いたげな面だな」
イオが嗤って、額と首にこびり付いた自身の血の跡を拭いながら言った。
そこにもう傷はない。
「不思議でしょうがねえんだろ。まだ【離合】を身に着けて間もねえ俺が本家を上回るような威力と速度でぶん回している現実を、おかしなものに感じてんだろう? ──まあお前さんも察している通り、その原理は単純。本家をぶち抜くように馬鹿みたいに魔力を注いでいるから成せることさ。技じゃねえ、技量でもねえ。効率度外視。とにかくパワーとスピードを出すためにじゃぶじゃぶとエネルギーをぶち込んでるっていう、それだけのことだよ。電気やガソリンじゃこうはならねえが魔力ならそういうこともできる、ってのは大きな利点だよな」
「…………」
「あーあー、言いたいことはわかる。そんな魔力の使い方しちゃ一発でぶっ倒れるってんだろ? そりゃあそうだ。人間の魔術師はもちろん魔人からしたってそこは変わらねえ。大量の魔力を動員できるだけの出力があったとしても、考えなしに最大値をぶっ込んじまえばどんなに総量に恵まれてたって数分と持たないわな」
「…………」
「んで、どうして俺が持たないはずのそれを『持たせられているのか』って話だよな。まーそこんとも理屈としては単純さ。──魔人兵、弱かったろ」
「何?」
話題が明後日の方へ飛んだ。そう感じられて眉間に皺を寄せたライネだったが、彼の中で相棒がハッとした気配を見せたので、彼女が何かに勘付いたこと。つまりはイオが決して無関係な話をし始めたのではないと察し、目線だけで続きを促してみれば。
「思わなかったとは言わせねえぜ? 被害の少なさを意外だと。テイカー共の抗戦ぶりを想像以上だと。そう感じなかったとは言わせねえ。お前さんの見る目は確かなはずだ、俺と一緒でな。だからこそ違和感も強烈だったろう? 満を持して攻め込んできた割にはそこまででもねえなってよ」
「……だからどうした」
「や、そりゃそうだってことよ。なんせ魔人兵は魔力を二割方オミットされちまってんだから。残りの八割でしか戦ってねえんだから『思ったほどは強くない』と肩透かしになっちまうのも止む無しって話さ」
「──まさか」
魔力の総量の、二割。魔人兵が失ったそれが、ではどこへ行ったのか。なんのためのオミットであるのかと思考を巡らせたことで、シスに遅れてライネも、イオが言うところの「理屈」に思い至った。
それをイオは肯定する。相も変わらずの、勝ち気な笑みで。
「そうさ。俺だ。五百体超の魔人兵から頂いた魔力は、俺の身体で息づいている。それが理不尽の正体だよ」




