1.コンテニュー
現状の把握に努める。だけど、どんなに頑張ったところでどうやらそれは無理そうだった。
何せ記憶にある直前と「今」がまったく繋がらない。ぶつ切りだ。突然、まったく見ず知らずの場所に放り出された。感覚としてはそういう感じ。
参ったなぁ、と思う。豊かな自然に囲まれたここがどこなのか見当もつかない。だからどこに向かえばいいのかも見当がつかない。ただこうやって突っ立っているだけではなんにもならないと理解していても、現状打開の一歩目をどうやって踏み出せばいいものやら僕にはわからない。
四方八方、見渡す限り木々しかない風景に早々にうんざりし始めていると。
《あ、あー。テステス、マイクテス。聞こえてますかー?》
「………………」
ますます参ったなぁ、と思う。言った通り周辺一帯はぐるりと確認済みで、その上で途方に暮れていたのだ。つまり何が言いたいかというと、この場に頼れそうな人物はいないということ。僕は一人っきりなのだ、そこは間違いない。なのに声が……おそらくは女性のものと思われるそれが確かに聞こえてくる。念のためにもう一度辺りを見回してみたもののやはり自分以外には誰もいなかった。人影らしきものすら見つからない。
《無視ですかー? 私のこと無視しちゃいますかー? いいですけどね、別に。あなたがそれでいいならいくらでも無視してくれちゃって》
「………………」
どうしよう、すっごい怖い。頭の中から声が響いている。言うまでもないことかもしれないがこんな現象に襲われるのは生まれて初めてのことだ。気付けば見知らぬ場所にいたというのも不可解さで言えばどっこいどっこいだけど、この声はもっと直接的だ。明らかにこちらに対して語りかけてきている部分も含めて、背筋を冷水が這うようなゾッと具合がある。
《でもですね、無視なんてして困るのは私じゃなくあなたのほうなんですよ? 助言なしでやっていけるわけもないんですから》
やけにフランクな幻聴? が本当に頭の中からしているのか確かめるために立ち位置を変えたりなんなら耳を塞いでみたりもして、でもやっぱり明瞭に聞こえるそれに変化はなくて。嘆息しながら僕は諦めて返事を行なう。
「助言って?」
《あ、やっとこっちを向きましたね。助言は助言ですよ、ア・ド・バ・イ・ス。あなたのためになるアドバイスをしてあげるんです、この私が》
「えっと。君は僕を助けてくれようとしているってこと?」
《そう言っているじゃないかですか。そこはさっさと受け入れてくださいよー、まったくもう鈍いんだから》
顔をしかめる。本当にフランクだな、謎の声。妙に馴れ馴れしくて少しだけイラっとくる。おかげで怖さというか不気味さも少しは薄れてくれたけれど……。どのみち臆していても仕方がないので、ここは対話を重ねていこう。まずはこの声の正体を掴むこと。そうでないと助言なんて言われたって素直に従っていいものかどうかわからない。
「質問いいかな?」
《ひとつだけなら》
「ひとつだけ……」
なら回りくどい訊き方はできない。なので知りたいことをド直球に。
「君は君自身をどういうものだと認識している?」
《え、質問ってそれですか? もっと他に確かめなきゃいけないこといっぱいあると思うんですけど。──私はシステムですよ。あなたをお助けするシステム。そう認識しておいてください》
「僕を助ける、システム?」
《はい。あなたの生存をお助けします》
「…………」
《さしあたっての指示として、この場から離脱してください。来ていますよ》
「来ている? 何が」
《あなたの命を脅かすものが、です》
背筋の冷たさが増した。推定幻聴、自称システムさんの声の調子が変わらないだけに、軽々しく告げられた生存だとか命だとかのワードに僕は恐怖を覚えずにはいられない。それを信じるのなら僕は今、自分が思う以上に危険な状況下にいるということになる。
だけどそうだ、問題はそこなのだ。謎の声を信じるかどうか。これがただの幻聴ではなく意思をもってこちらに語りかけてくる何かなのだとすれば。その意思が善良なものとは限らず、あるいは悪意によって僕を陥れようとしている可能性も出てくる。声の通りに動くと余計に状況が悪化するかもしれない。そうなるくらいなら指示なんて聞かずに、当て推量でもいいから自分の勘を頼りに行き先を決めたほうがずっとマシだろう。
どうすべきか。
《うわちゃー。感じちゃいますねぇ、不信感。そんな場合じゃないんですけどね。ほらほら、考え込んでいる間にタイムアップです。後ろを見ましょう》
後ろ。そう言われて半ば無意識に振り返った僕の目に飛び込んできたのは犬……のような生き物だった。「のような」というのはそいつが一見して犬らしくはあっても決して犬ではない、何か別の生物だったが故の表現だ。
狼ともまた違う。犬にも狼にも額から角は生えていない。雑木林を掻き分けて覗かせた前脚にある爪も異様に大きくて刺々しい……僕は動物博士というわけじゃあないけれど、こんな犬種がいるはずもないことくらいは浅学な身だって判断がつく。
あ、ヤバい。これはマジで僕の命を脅かすものだ。
口元から滴る涎に塗れてぬめぬめとした光沢を放つ牙と、それを僕に突き立てる気満々としか思えない角犬の射貫くような視線。この状況がどれだけ危険であるかも自ずと、本能的に理解できた。
だから。
《走りましょうか。死にたくないのなら、命を懸けて》
否やはなかった。睨み合いを中断して角犬の反対方向へと全力で駆け出す。もう声の信用どうのなどと言っていられない。従わなければ死ぬのだから従う以外に選択肢はない。僕が背中を見せると同時、角犬も弾かれたように走り出したのが気配で伝わってきた。追ってくる。それ即ち、逃がす気はないということ。死が追ってくる。
《いくらなんでもゲームオーバーには早すぎますって。ひとまずこのまま真っ直ぐ駆け抜けましょうか。戦うよりはワンチャンあると思います》
戦うよりは? あの角犬と? そりゃそうだ、生まれてこの方まともに喧嘩だってしたことのない僕があんな狂暴そうな生物に戦いを挑んで無事に済むはずがない。それよりは追いかけっこのほうがまだ幾分か望みがある。……いや、あるのか? 生き残る望みなんて、本当に?
すぐにでも追いつかれて、ガブリ。そうなることを予感というか、覚悟しながら走る僕だったが。意外にも追いかけっこは伯仲の勝負を見せている。いわゆる火事場の馬鹿力というやつだろうか? 僕は自分でも驚くくらいの速度で走ることができていた。
だが、ここは森の中。おそらくは角犬の生息圏。地の利は向こうにある。声の言う通りにとにかく前だけを目指して走ってはいるものの、実際は足を取られそうな藪や木の根を避けたり飛び越えたりしながらのルート取りになる。その度にラグが生まれ、対する角犬は僕よりずっと上手にそういった難所をクリアしていく。全力で走りながらもそんなことがわかってしまうのは、段々と大きくなっているからだ。獣らしい荒々しい吐息が、刻一刻と近づいてくる──。
ああ、すぐ後ろにいる。あと一度でも走りに遅れが生じるとそれでアウト。僕の身体のいずこかに牙が食い込むだろう。滲む疲労とそれ以上の恐怖で心臓が張り裂けそうだ。また死ぬのか、僕は。
嫌だ。もう死にたくない。絶対に死にたくない。
《お……ラッキーですね》
文字通りに必死の僕とは裏腹に平坦な口調を崩さないまま、声がそんなことを言った。ラッキー。この場にもっともそぐわない言葉に聞こえて、死の恐怖よりも怒りが勝りかけた瞬間、僕にも見えた。前方、木々の間に見える影。人影。シルエットでしかなかったそれがはっきりと姿を取るようになってようやく声の言っている意味を理解した僕は、何を考えるでもなく自然と叫んでいた。
「たっ! 助けてください!」
あちらも既に僕に気付いている。こちらを向いた目が僅かに見開き、そしてすっと細められた。僕の背後にいるものを見てどういう状況かを察してくれたのだろう。慣れた動作で腰に帯びている剣の柄へと手をやっていた。
剣だ。およそ見慣れない、現代的ではない武装。そして要所を覆う革鎧。これがいきなり道端で出くわしたのだったら僕は彼女から一も二もなく逃げ出していただろうが、今はその物騒さが何よりありがたい。角犬を視認しても落ち着き払っている上に交戦の意思まで見せているのだから僕にとってその少女は女神以外の何者でもない。死の危機を取り除いてくれる可能性のある、最後の望みである。
柄の鞘の間から刃が覗く。抜いた、と認識した時にはもう彼女は僕の横にいた。すれ違いざま、まるで風圧に押されるようにして僕は転ぶ。片手と尻を地面にぶつけながら背後の様子を確かめた、ところで全ては終わっていた。
見えたのは剣が振るわれた軌跡だけ。その銀閃に沿って首と胴を泣き別れにさせた角犬が、あえなく崩れ落ちる。斬ったのだ。一瞬で距離を詰め、その勢いのままに一太刀で角犬を、死の脅威を仕留めた。それを成した少女の剣を振り抜いた後ろ姿は──とても力強くて、とても美しかった。
《コンテニュー、ですねぇ》
声がやはり平坦に、けれどどこか嬉しそうにそう言った。