約束と涙
“来週の水曜日の4時、会えるのを楽しみにしているね”
たしかそんな言葉が綴られていただろうか。
丸みを帯びたようなほんわかした印象は感じさせない達筆な文字。
あぁ、何人辞めさせりゃ気が済むんだよ。どうせまた3日もすりゃ来なくなるのに。
それなのになぜだろう、あの時何かが胸の奥で引っかかった気がしたんだ。
10月10日 金曜日 午後2時過ぎ
居間ではグレーのスーツに身を包んだ長身の女性がソファーに浅く腰掛けている。
光沢のある細めのストライプのその袖元からすらっと伸びた手先は女性らしく、それでいてどこか逞しさを感じさせる。
キリッとした眼差しでその背筋はピンと伸び、片手にはコーヒーカップを持ち何かを考えているのだろう、時折沈黙が流れている。
そして凛とした表情で真っすぐ前を見つめたまま口を開き、目の前で自分の様子を恐る恐る伺う様子の相手に質問を投げかけた。
その口調はゆっくりと冷静さを保ったままだ。
その後に少しの間、部屋には再び沈黙が流れ時計の秒針を刻む音と、まだ仄かに部屋に残るコーヒーの香りだけが二人の間を取り持っているようにさえも感じられる。
対照的にその向かいには目線をテーブルの斜め下に落とし、どこか虚ろな目をした30代後半程の女が座っている。
やや猫背気味の所為もあるだろうか、表情は疲れ切っていて40代半ばだと言われても疑わない様な風貌だ。
女手一つで子育てをしてきた。
時折困ったように苦笑いをする時の彼女のその目尻には少し皺が寄るのが離れた場所からでもしっかりと確認できる。
母「もう最後だと思っているんです、私が甘やかしすぎたのがいけなかったんです。」
少しずつ絞り出すように発していく震えたような声はか細く、もはや力強さなどほとんど感じられない。
「今では私の言うことなんて聞こうともせず、家に帰って来るのも日が変わる頃ということも珍しくなく…会話もほぼしていない状態でして…」
教師「…なるほど。最近の中学生は手に負えないという話はよく頂きます。時代のせいということもあるのでしょう。どこも同じようなものなのでしょうね。ただ1つ気になった点は…」
母「…何でしょうか?」
教師「もう一度お聞きしますが、最後にお聞きした直近の4人目の家庭教師の方についてです。何が原因で辞められたのでしょう?」
母「それは……」
長い沈黙が流れた。
教師「大体のことは分かりました、引き受けましょう。」
察しの良い女性で良かったと母親は安堵した表情を見せた。
いや、おそらく察しがついたわけではないのだろう。
しかし、もしもこの相手が女子大生ともあれば途端に困惑した表情を浮かべ、今回は縁がなかったと申し訳なさそうに帰っていくのだろうと痛い程に感じていた。
そのようにこれまでを振り返り思考を巡らせかけた矢先、女教師は続けてこう言った。
「…ただし、一つ条件があります。それを認めていただけるのであれば…」
5分程の時間が流れただろうか。
相変わらず淡々と語る女教師のその口調にもはや慣れてはきたものの、聞いているうちに現実として実行するのは不可能だと思われるようなその条件を、まんざら受け流してはいない自分に母親は内心驚いていた。
実際のところ、息子に手を上げたことは一度もなかった。
生意気で他人の言うことなど聞く筈もないであろう、自分では到底手に負えない変わってしまった一人息子だ。
ただ、目の前の凛とした表情を保ち続ける自信に満ちたこの女性になら何か変えられるような気がしたのだ。
母「手がかかる子ですがどうかよろしくお願いします。」
教師「分かりました。では先程お約束した日時にまいります。」
帰り際、女教師は鞄から黒色のペンと手帳をサッと取り出し目の前のテーブルの上に並べた。
そして慣れた手つきで手帳を捲り、うっすらとコンピュータで「MEMO」と記されたページでその手を止めた。
側面にゴールドの真っ直ぐなラインが上品に光るペンの蓋をゆっくりと外すその口元には気のせいだろうか、少し笑みが浮かんでいるようにも思われた。
“ひかる君へ”
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10月15日 水曜日
朝から学校には行っていない。
今日はいつものメンバーで自転車で待ち合わせをして、少し遠いあの秘密基地に集まった。
ここにはまず大人が来ることはない。
地べたに座るとコンクリートのひんやりとした感触が今の季節は少し堪えるけれど、何もない静寂なこの空間が好きだ。
何度となく幾方向からカチッというかすれた音と共に、慣れた指先からスーッと細く、瞬く間に白く曇った煙が立ち込め、遥か向こうの高い天井に吸い込まれていく。
その天井からは硝子越しに太陽の光が一筋に差し込み、明かりがなくとも事足りるという環境は若干14歳の5人には有り難い。
甲高い話し声と入り混じる笑い声の中に身を置きながら、少し前に見たあの達筆な文字が一瞬だけ脳裏をよぎってすぐにまた消えた。
午後7時過ぎ
ずいぶんと待ちくたびれた。
まさか約束の時間を3時間以上も過ぎるとはさすがに予想外だ。
中学生の男の子の部屋にしては殺風景な方かもしれない。
ただ唯一脱ぎっぱなしの乱暴に置かれたままのスウェットの上下を除けば。
2杯目の緑茶に手を付けようとした時、階下で乱暴に玄関のドアを閉める音と足音と共に2人の会話が聞こえてきた。
会話というよりもむしろ罵声のほうが大きく例の母親の声は微かに聞こえてくる程度だ。
少し間をおいて階段を上がる足音がじわじわと近付いて乱暴にドアが開かれる。
少年の顔に驚きの表情が見えたのは明確だった。
荒々しく部屋に入った途端、しばらく動きが止まったその視点が信じられないとばかりに自分の身なりの上から下まで見渡しているのを女教師は表情一つ変えずに眺めている。
口元は笑っているように見えるが目は笑っていない。
「…誰あんた。」
彼女は凛とした表情を崩さずに答える。
「はじめまして。私は今日からあなたの家庭教師よ。手紙見なかった?」
まさかこんな時間まで自分の部屋で待たれているとは思っていなかった。
「あぁ、もう時間はとっくに過ぎてるよ。早く帰って。」
「それが問題なの。約束の時間は守らないし、まず第一に……」
「うるせぇなぁ、帰れよクソババァ!」
女教師はため息をつく。
ため息というよりも深呼吸といったほうが確かだろうか。
それが後の自分の運命を変える合図になるとはその時の少年はまだ知るはずもなった。
ゆっくりと表情一つ変えずに腕時計と指輪を外していき、腕捲りをする様子は手慣れているように見える。
「まずは口の利き方から教えないとダメかしら。でも君はどうやら口で言っても分かりそうにないわね。口で言って分からないような子は身体に教えるしかないわね」
何を言ってんだと思い次の言葉を口にする余裕もなく、ぐっと手を掴まれ、気が付けばベッドの上に座った女性の膝の上に腹ばいにされてしまった。
抵抗しようとする間もなく、ズボンとパンツを一気に膝のあたりまでおろされてしまう。
「な、何すんだこの変態!離せ!!」
「私は悪い子にはこうやってお仕置きするのよ。まずはちゃんと私の言うことが聞けるようにね。覚悟しなさい。」
お尻に置かれていた温かい手が離れたと思った次の瞬間、乾くような音と共に強烈な痛みが降ってきた。
パチーーーーーン
「い、何すんだ!」
バシッーーーー パチーーーーン
「何って悪い子にはお尻ぺんぺんのお仕置きよ」
「チキショー、離せ…」
お尻に覚えたことのない痛みが走る。
パチーン ピシャーーーーン
「今まで散々悪い子だったみたいだから」
ビシッーーーー バシーーーーンッ パチーーーン
「い、いて、ふぇ…」
一定のリズムで刻まれる止まらない平手に頭が真っ白になる。
「こんなお仕置きされるのも初めてでしょ?」
痛みと恥ずかしさで涙が出てきて止まらない。
逃げ出したくてもこの体格差ではいくら女性だといっても難しそうだ。
ガッチリと腰の辺りを押さえられてしまっている。
バチーーーン パーーーーーン ピシャーーーン
「
もうやぁ…いだっ…やだぁ」
不意に手が止まった。
だけどその手はお尻に置かれたままだ。
「やだじゃないでしょー。ちゃんと反省するまで終わらないよ。」
「もうしたからぁ…」
「へぇ、何が悪かったと思うの?」
相変わらず腰はグッと押さえられてもう片方の手はヒリヒリするお尻の上に乗せられている。
「ふぇ…約束の時間守らなかった」
「そうね、私からの手紙見なかった?」
「見た…かもしれない」
お尻に置かれていた手がスッと離れたのがわかった。
その瞬間、咄嗟に声を張り上げていた。
「み、見た。ごめん。」
なぜこんなに素直に謝らされているのか考えている余裕もなかった。
パシーーーーーンッ
「やぁ…もう許して…やだぁぁ」
「ごめんなさいでしょ?」
ピシャーーーーン パチーーン
早く膝から逃げたいのになかなか解放されない。
お尻は既にヒリヒリしている。
「聞こえないよ。許してあげようと思ったんだけどなぁ、まだ素直になれない?」
「……」
腰に添えられた手に力が入るのがわかった。
ピシャーン パチーン ピシッ
「やだぁ…もう許してよぉ」
しばらく連打された後に手が止まった。
「ごめんなさいは?」
この人はどうも本当に反省するまで許してくれないようだ。
「……」
パーーーン パチーーーーン ピシッ
乾いた音と自分の鳴き声が部屋に響き渡る。
その手は容赦なく、止まることはない。
「ご…ごめんなさいっ」
そう言った瞬間、涙が溢れて顔はぐちゃぐちゃで視界がぼやけて、もうこれ以上なにも考えられなくなっていた。
お尻は痛いし初対面の相手に膝の上でお尻を丸出しにして叩かれているのも恥ずかしい…
そんなことを考えでいると、ふわっと頭に手が置かれた。
さっきのお尻を厳しく叩く手とは違う優しい手だ。
「いい子」
僕の頭を撫でながら発するその声は優しい。
「だけどもしこれから私との約束を破ったりお母さんを困らせるようなことをしたら…」
涙を拭いながらまずいことになったと思った。
「今、この家庭教師は厄介だと思ったでしょ?」
不意を突かれて慌てた僕を見て、先生は笑った。
この日が僕と先生の出会いの日だったんだ