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小学六年生の時、京子は学校からの帰り道にある光景をよく見た。
「おい、トイレ!お前は戸井礼司、トイレイジだから略してトイレだ。きたねー」
数人が礼司を冷やかしながら、小突いている。
礼司は何も言い返さない。
「おい、トイレ、何か言ってみろよ。小便ひっかけるぞ!」
礼司に小便をかける真似をする。
「お前ら、何、やっているの!ふざけた事言ってんじゃねえぞ!」
京子はたまらず大声をあげた。
「お前ら、今度そんなこと言ってみろ。ブッ飛ばすぞ。早く散れ」
京子は追い討ちをかけた。
「うわー、怖!京子がきたぜ!逃げようぜ」
笑いながら、走り去って行った。
「大丈夫?礼司君」
「京子ちゃん、ごめんな。俺が不甲斐ないから言われるんだ」
「アイツら、ホント、ムカつく!」
京子が石を蹴った。
「ありがとう。京子ちゃん。俺は何を言われても平気だから」
こんなことが、何回も繰り返された。
京子は弱々しい礼司にも少しガッカリした。
冬休みが明けて、礼司は登校してこなかった。
担任の先生から、礼司は転校したと聞かされた。
礼司は母子家庭であったがその母親が急に亡くなり、親戚の叔父に預けられたとのことだ。
「トイレはいなくなったんか。なんだ、からかう相手がいなくなって寂しいのう」
いじめっ子が大きな声で笑いながら言った。
京子は、腹の底から怒りが湧いてきて、気がついた時には、そいつを教科書で頭をぶっ叩いた。
「おい、何するんだよー」
さらに京子はペットボトルの熱湯をそいつの制服にかけた。
「アッチい」
そこで、先生が止めに入った。
「両方とも後で、職員室に来い!」
京子はそんなことが昔あったなと思い出した。
「それでは、宴たけなわでございますが、お開きとさせていただきます」
しかし、まだ皆が名残惜しそうに、ところどころに集まり、話している。
礼司は昔自分をいじめていたグループと輪に入っている。
明らかに小学校の時と立場が逆転しているのが、ハッキリしていた。
礼司が和の中心で話して皆が頷いている。
何か頼みごとをしている者もいる。
礼司は和かに話していた。
京子も里佳子と話していたら、礼司がやってきた。
「京子ちゃん、久しぶり。俺のこと覚えているかな」
「当たり前じゃない。覚えているに決まっているよ。礼司君、見違えたね」
「そうかな。小学生の頃は、助けてくれてありがとう。忘れたことはないよ」
京子は微笑んだ。
「礼司君、私のこと覚えてる?」
「ごめーん、申し訳ない」
「浅田里佳子よ」
「ああ、里佳子ちゃんか。なんか雰囲気が華やかに変わって分からなかった」
「これから、三人で飲み直そうよ」
里佳子は提案した。
「いいね。じゃあ、俺がよく行く和食屋に行こうか。車で来てるから、それで行こう」
「え、飲酒運転になるじゃない」
京子は聞いた。
「俺の秘書が運転するから大丈夫」
「そうよね、レイカンパニーの社長だもんね。ここはお言葉に甘えよー」
里佳子がはしゃいだ。
車はラクサスクラスJだった。
とてもサラリーマンでは買えないものだと一目で分かった。
後部座席に三人で座った。
京子が真ん中になった。
「銀座の並木通りまで行ってくれるか」
礼司は運転する秘書に言った。
「はい。承知しました。社長」
秘書はまだ二十代だろうか。
しっかりした口調で答えた。
「京子ちゃんは、だいぶイメージが変わったね。昔はお転婆っ子だったよね。俺がよく泣かされいたのを助けてくれたね」
「覚えてるんだ。そういうこともあったよね。でも、いつまでもお転婆っ子じゃないよ。もうオバさんだよ」
京子は笑いながら答えた。
銀座の和食屋に着いた。
銀座に来たのは、何年振りだろうか。
そのお店は一軒家のお店だった。
銀座の一等地に一軒家で和の趣きがある贅沢な作りだった。
店に入ると和服を着た女将さんが待っていた。
「社長、お待ちしておりました。いつものお部屋をご用意しております」
丁寧にお辞儀をされた。
「今日は俺の小学校の同級生を連れてきたんだ」
「そうですか。仕事じゃないのですね。ゆっくりとお寛ぎ頂けますね」
部屋に通されて驚いた。
床の間には立派な掛け軸がかけてあり、おそらく年代物の壺がおいてある。
京子はそれらに詳しくないが一見して相当なものであることが分かった。
それから三人でワインを飲んだ。和食にもとても合うワインを礼司が慣れた感じで注文した。
「京子ちゃんは、家族は?」
礼司は聞いた。
「旦那はサラリーマン。日本太陽食品で働いているよ。息子は仕事でイタリアに行ったきり」
「じゃあ、旦那さんと二人っきりなんだ」
「いや、旦那は、平日は遅いし、土日も接待だかなんだかでいないことが多いから、独身みたいなものよ。礼司君は?」
「俺は、ずっと独身だよ。なんか、仕事ばかりしてたかな」
「私も独身よ」
里佳子が少し酔ったように話に入ってきた。
「礼司君の会社って、輸入雑貨も取り扱ってるよね。今度、いろいろと教えてね」
里佳子が甘えるように言った。
「こちらこそ、よろしく」
礼司は和かに応えた。
その後も三人でワインを飲んだ。
京子は久しぶりにかなり飲んだ。
小学校の同級生は何十年経っても、小学校の頃に気持ちが戻る。
「さあ、帰ろうか。里佳子ちゃんは青山、京子ちゃんは目黒だよね。俺は世田谷なのでタクシーで送るよ。秘書はもう帰したんだ。LINEを交換しよう」
三人でLINEを交換した。
里佳子は酔っ払っていた。
タクシーのなかで「礼司君。今度デートしよう」と何回も言ってた。
礼司は、それに対して、笑みを浮かべるだけで、何も応えなかった。
里佳子を青山で降ろし、礼司と京子の二人になった。
「里佳子ちゃん、酔ってたね。いつもそうなのかな」
「楽しかったから、飲み過ぎたんだね。私も少し酔ってるわ」
「京子ちゃんには、ずっと感謝の気持ちがあった。小学校の時、助けてくれてありがとう。あれがなければ、俺はイジケた性格になっていたと思う。お礼をずっと言いたかったんだ。それで今日の同窓会に参加したんだ。もしかして京子ちゃんに会えるかなと思ったんだ。また会ってくれるかな」
京子は驚いた。
そんな風に思ってくれてたとは、全く考えていなかった。
京子は嬉しい気持ちになった。
自宅近くの交差点でタクシーは止まった。
「礼司君、こちらこそ、そんな風に私のことを思っててくれてありがとう。今日はごちそうさまでした」
京子はそれだけ言って、タクシーを降りた。
すぐに京子は次に会う約束をしなかったことに後悔した。
しかし、自分は結婚して夫がいるので仕方ない。
次の角を曲がると家が見えてくる。
曲がるとタクシーが止まっている。
中に男女がいる。
あの後ろ姿は夫だ。
タクシーのドアは空いているのに名残惜しそうに親密に話しをしている。
手は繋いだままだ。
相手は以前見た女性だ。
京子は電信柱のかげに隠れた。
タクシーは去り、夫が見送っている。
そして、マンションに入って行った。
京子はすぐに家に帰る気がしなくなった。
なんだ、やっぱり旦那は浮気をしているんだ。
思わず礼司のLINEに電話した。
「どうしたの、京子ちゃん」
「うん、もしよかったらもう少し飲まない?」
京子は言った。
すぐに礼司は戻ってきた。
そのままタクシーで近くのバーに行った。
京子はかなり飲んでしまった。
礼司もそれなりに飲んでいたが酔ってはいなかった。
いろいろな話をした。京子は夫の愚痴をつい話してしまった。
それを礼司は黙って聞いていた。
「京子ちゃん、さあ、そろそろ帰ろうか」
「もう少しいいじゃない」
京子はグラスに残っているワインを飲んだ。
「家まで送るよ」
「礼司君、一人なんでしょ。今日は礼司君の家に行きたい」
京子は酔った勢いで言った。
そして、礼司は大きく息を吐いた。
「京子ちゃん、酔ってるよ。また今度飲みに行こう」
「そう、分かった。また今度か。今度って来ないんだよね」
京子はいじけた。
マンションの前まで、タクシーで送ってもらい、別れ間際に京子は礼司に抱きついた。
「絶対、また今度だよ」
京子はそう言いタクシーから降りて、走ってマンションに入って行った。