第4話 “やってみなはれ”
とんでもないことになった。
――公私共にサポートする。
おいおいどういうことだい。それはどういう意味で言ってるんだい。こんな言い方したら簡単に男は勘違いするからね。まったく最近の子は困っちゃうわ。
……ちゅーかですね。本当に、ハーレム作れとか正気で言ってるんだろうか。考えるのがこわい。
しかし、嘘だろとは思っても夢ではなさそうだ。
夢ならそもそもこの生まれ変わった人生こそが夢であるべきなのだから。
「ろ、……ロッカー!! はい、次、巡」
「かんりふゆきとどき」
「巡さん、そのお年で凄いですねぇ。では、キャラメルでどうでしょう」
「キャラメル……、る、ですよね……」
恐るべき速さで妹たちと打ち解けていっている様子の麻倉さん。なんというか物怖じしなさそうで、コミュ力の塊といったオーラが伝わってくる。うわっよぃ。
スクールカーストでも日頃はてっぺんに住まう天上人なのに、下々のオタとも普通にコミュニケーションを取ってくれてしまうが故に勘違い発生装置となっている光景が容易に想像できる。いいですか、こういう子をオタクは簡単に好きになってしまうんです。でも結局付き合うのはサッカー部とかヤンキーなんです。俺にはわかるんです。
くいくいと、袖を引かれる。
「どした、巡?」
「お兄、キャラメルっておいしい?」
小首を傾げながら訊かれると、俺は言葉をなくしてしまう。かろうじて、
「あ、ああ……おいしいよ。甘くて。いい匂いでさ」
「ふーん」
甘くておいしいという言葉にぱぁーっと顔を輝かせたのに、すぐに何でもないという顔に戻る。
どうしてだ。
それだけで、俺はこの下の妹を抱きしめたくなる。
まだ小三だぞ。そんな年で気の使い方なんて知らなくていいんだ。我慢なんてものを覚えなくていいんだ。
食べたいという我がままにもならないような言葉を、引き出してやれない。
情けない兄貴で申し訳ない。
唇を噛みしめ、その小さな頭を撫でてやる。すると
「お兄? ついた」
「ああ、ついたな」
我が家が見えてくる。
それは、明らかに周囲の家々と比較しても浮いている。半世紀の時を経てなおも、現存するアパート。
ノギワ荘である。
ちなみに名前が似ているが、漫画家たちは住んでいない。
全体的に薄汚れて黒ずんでいるせいで、夜になるとステルス性が高まったり、無音で上がることが不可能な階段のおかげで、防犯性も高い。というかそもそもこんなとこで暮らしている人間を泥棒は狙わない。すごいぞ、ノギワ荘。
誰にも聞こえない心のため息をつくと、俺はそれに気づき、歩みを止める。
「あっそだ。茉菜花、巡、麻倉さん、ちょっとそこのコンビニでお菓子買ってきてくれ」
「え、無駄遣いになっちゃうよ……?」
「お兄、そうだぞ」
「大丈夫、いらない心配すんな。この程度、兄ちゃんがなんとかする」
ガマ口の小銭入れから100円玉を3枚取り出し茉菜花に手渡す。
「どしたんです?」
「ちょっと二人、お願いします。あ、コンビニはほんとすぐそこなんで。あっちっす」
不審がられるのも承知で、決して身体に触れないようにエアーで押す動作を繰り返すと、
「まぁ構いませんけど……」
妹たちの手を取ると、さぁでは一緒に行きますかと麻倉さんは先導してくれる。助かったと思いつつその背中を見送ると、俺は手のひらに浮かんだ汗をズボンで拭い、小走りでそこに近づいていく。
――な、なんでだ。なんで、いる。今月の支払いはまだ来週のはずだ。
「どっ、どうもです」
裏返りそうになった声を必死にごまかし、軽く頭を下げた。
「こんばんは。基ちゃ~ん」
野太い声で、ちゃん付けされても鳥肌が立つだけだが、そんな抗議を出来るわけもない。
黒のスーツと一方は真っ赤なシャツ、そしてもう一方は大阪のおばちゃんともタイマン張れるヒョウ柄のシャツという出で立ちの二人組が煙草を吹かし、そこにいた。
街灯に照らされる範囲へと、ノギワ荘の向かいの細道である暗がりから出てくると、
「あんれー、今日は妹ちゃんたちいないんじゃん?」
まずは、若い方の赤シャツが口を開く。正直、下品な感じに染められた金髪と相まって確実に繁華街では近づいていけないタイプの兄ちゃんだ。俺も本当ならうつむいて足早に通り過ぎたい。
「いや、あのあれですね。は、はい、俺一人で出かけてたんで、はは」
やばい、早くも喉がカラカラだ。
「兄貴、どうします?」
「……おう」
次は兄貴と呼ばれた虎柄の男だ。前の若い方は街のチンピラとかホストとかでも済むだろうが、こっちはもう完全にそっち系のスジの人。法律をアウトしているお方。
何度会ってもこの二人怖すぎる。いつドスを持ち出されるかと思うと、心臓が飛び出しそうだ。
吸い終わった煙草を几帳面に携帯灰皿にしまうと、
「……シゲ、話せ」
顎で何かを促す。
「うす。あのね、基ちゃんさ。毎月毎月お金払ってくれてるじゃん? うちらにさ」
「は、はい……」
肩を組まれ、親しげに話してくるシゲといつも呼ばれている男の口臭に顔を背けたくなるのをグッとこらえる。こいつたぶん昼にレバニラ食ってやがる。しかもそれが煙草と合わさって不快指数がマックスだ。
「あれ、もうちょっと頑張れるよね?」
「はい……?」
何を頑張れると言ってるのか、わからず、俺は間抜けな声を上げる。
「ほらほら、世の中不景気ってゆーかさ。デフレインフレリフレ? うちも最近ふところ厳しいんじゃん。だから、基ちゃんのとこの毎月の返済額、もうちょっとアップしてもらおっかなって」
心臓を鷲掴みにされたように、息が止まった。次いで胃の底に鉛をぶちまけられたような嫌な重さを感じ始める。
つばを飲み込み、
「……む、無理です」
「んー? なに?」
無理だ。今でさえカツカツで、どうにかこうにか生きるのに最低限必要なお金だけ確保して、後は全て返済に回しているようなもんなのだ。これ以上、そちらにお金を回したら、間違いなく俺たち三人は路頭をさまようことになる。
「いやいや、大丈夫だって。バイト紹介してあげよっか。基ちゃんなら簡単に稼げんよ。そのツラじゃない」
頬を人差し指でつつかれるが、顔が強ばっているせいで痛かった。
「うちの組にも、あんだよね。そういうとこ。ほらあれあれ、夜の帝王とかさ、そーゆーヤツ。あ、それとも、もっと稼げるやつにしとく? あるよ、お金持ちのオバサンたちの身の回りのお世話を諸々コミコミでやったげるのとか。それともオジサンにしとく?」
諸々コミコミという言葉にゾッとする。身の回りのお世話と称して、何をどこまでやらされるのか、想像もしたくない。ましてや、オジサンて。
「だから、ほーら、無理じゃないじゃんね? それとも基ちゃんがどーしても無理っていうなら、あれだ、妹ちゃんたちに頑張ってもらう? まだちっちゃいけどね。でもかわいいよねー二人とも。そういうのも好きな人たちもいっぱいいるからさ」
ゾッとした。たとえ冗談でも絶対に想像したくないことが脳裏をよぎる。
「や、やめてください……っ。そ、その、妹たちは関係ない……ですよね」
「もちもち関係ないよ。お兄ちゃんが頑張る限りはね」
なんだそれ。世界は理不尽で、いつも唐突だ。なんの前触れもなくバットを振り下ろし、不幸を押しつけてくる。そしてそれに抗うことすら許されない。
顔がいいからなんだというのだ。この仕打ちでもって神様はバランスを取ってるとでもいうのか。それともあれか、俺が前世で人生を無駄にした罰なのか。
――ごめんね、基、二人をお願いね。
だけど、どうしようもなくても、俺はあいつらの兄貴だ。だから、あいつらにこれ以上、過酷な生き方をさせる訳にはいかない。
たとえ、俺がどんなに泥をすすったとしても。大事な家族を守れるのはもう、この世に一人しかいないのだから。
だから、仕方ないのだ。
「な、何を、すれ……」
割って入る影があった。
「あ、どもども。ふみまふぇんねー、ちょーっと失礼」
堪忍堪忍と手刀を切りながら、口に何かを含んだ、麻倉さんだった。
呆気にとられる俺たちの真ん中に立つと、俺に小箱を差し出す。
「おひろつろーれす? ひんじょーさん」
山吹色のパッケージは、見慣れたロングセラーのキャラメル。それと麻倉さんの顔とを目が行き来する。
「い、や、あの……」
何をしに現れたのか。というか、三人でコンビニ行かせたよね。茉菜花と巡はどうした。
疑問を口にしかけ、唇が開いた拍子に、もう片方の手を突っ込まれる。
「!? もごっ」
「では、遠慮無くどうぞ」
遠慮もくそもなく、口内にダイス状の何か、キャラメルの甘さが広がっていく。
というか、前歯に当たったせいで痛いわ。麻倉さんも指を切ったりしたんじゃないか。
「知ってます? 人生はキャラメルの箱みたいなものだって」
どっかで聞いたことのあるような言葉を若干赤くなった手をひらひらさせながら麻倉さんは続ける。やっぱりじゃん、ごめんなさい。
いや待て待て、とにかく、俺の記憶じゃ、キャラメルじゃなくて、チョコレートの箱だった気がするんだけどそれ。そして、続く言葉は、
「た、食べてみるまでわからない。ってやつですか」
「いえいえ、あれはきっとこう言いたかったんでしょう。幸せは押しつけることも出来る——と」
なんだそれ、いや絶対違うと思う……なんてつっこめる余地もなく、言い切って、
「おいくらです?」
男たちに向き直る。
ぽかんと成り行きに任せていた連中も、あ? と眉間にシワを寄せる。やばい、これはマジ切れしている。一度、ひどい目に遭ったからこそわかる。こういう連中は男女の性別なんて関係ない。その時のことを思い出し、膝が勝手に笑い出す。
逃げないと。逃げないと。所詮、知り合ったばかりの他人だ。見捨てても良心の呵責だけで済むじゃないか。見捨てろ。それが無難だ。それが得策だ。基、いつも後悔してるだろ。お前は、いつも見捨てないからこそ後悔ばかりだろうが。
「すっ、すみません!! こ、この人、俺の知り合いで、ちょ、ちょっとノリが軽いといいますか、アレだな……って感じなんですけど、悪気はきっとないというか、いやないんです。だから、ホント、そのええとですね。どうか俺だけで勘弁して——」
衝撃が全身を襲った。
急激に押されたせいで、胃が逆流する。大して詰まっていなかったお陰で、辛うじてツバくらいで済んだが、久し振りの膝に耐えられず、身体をくの字に折って地面に転がってしまう。
「ぅおぇっ、ず、ずみまぜん……」
出来るだけ、みじめに這いつくばったまま、頭を地面にこすりつけ、相手の優越感にこびる。頼むから、これだけで手打ちにして、
「おいくらです?」
耳を疑った。こいつ正気かと思った。思わず、顔を見上げればこちらを一瞥もせすにシゲという男を麻倉さんは正視している。俺のことは見捨ててくれていいから、この場をもう荒らすなと、
「てめぇさ。わかってないじゃん? 今の見たでしょ?次は——
「508だ」
その時ようやく今まで沈黙を保っていた虎柄のシャツの男が、端的に数字だけを述べた。
「……また微妙な数字ですねぇ。まぁいいですけど」
麻倉さんが肩をすくめると同時に、あってはならない声を俺の耳が拾う。
「お兄ちゃんっ!! だ、大丈夫っ!?」
悲鳴のような声の主は、間違えることのない茉菜花で、ダメだこっちに来るなと静止する間もなく、既に俺を助け起こそうと駆け寄ってきていた。
「な、……何しに来たんだ茉菜花っ!?」
焦りのあまり怒鳴る形になってしまい、茉菜花の肩がビクッと反応する。
「ご、ごめんなさい、で、でも葵お姉さんが」
反射的に麻倉さんを見やれば、
「そりゃ悪党成敗のシーンは全員集合と相場が決まってるじゃないですか」
何を言ってるんだ。妹たちを巻き込むな――と、待て? 巡はどうした。と血の気が引いた時、
「……集めてきた。これっ」
肩で息をしている巡が麻倉さんの隣にいた。
「おぉ、お疲れ様でーす。流石ですね巡さん。今回のMVPはきっと貴方です」
おい、あれ、まさか。
それなりの厚さを持った封筒を巡から受け取ると、麻倉さんは俺へと顔を向けにこりと、
「手持ちじゃ少し足りなかったんで、巡さんに、少しおろしに行ってきてもらってました」
は? いや、え? なに? おろすって、……金?
ちょ、ちょちょ、う、うちの妹に何やらしてんのこの人?
麻倉さんは見るからに分厚い封筒を二枚、自分のコートの内側から取り出し、子分連れて諸国漫遊している将軍家のジジイの紋所よろしく、
「耳を揃えて、今、この場で、お返しします」
男たちに突きつけた。
あ? と無論事態についていけないシゲがガンをつけてくるが、虎シャツの男の動きは早かった。
麻倉さんの手から封筒を奪い、中から、俺が前世含め今まで見たことのないような、本物の札束を出す。ゴクリと、思わずこちらの喉が鳴る。パラパラと手慣れた手つきで確認し始め、程なくして、
「シゲ、帰るぞ」
「は? ちょ兄貴?」
「全額回収した。次行くぞ」
踵を返し、歩みだしてしまう虎シャツに動揺を隠せないままシゲは、舌打ちし、その後を追おうとして、
「待ってください。そこの場末のポン引きみたいな人」
この期に及んで喧嘩を売るのかと血の気が引きかけ、
「この人はアダムスプログラムの対象者なので。あまり周知されてませんが、特別保護の対象です。なので、さっきみたいな傷害を起こされると、檻から出てこれなくなります」
あくまで事務的に、
「次はない。以上です」
案の定、逆上しかけているように見えたが、虎シャツが早く来いと怒鳴ると舌打ちだけを残し、去っていった。
やがて何事もなかったかのような静寂が戻ってきて、
「お兄、無事?」「そ、そうだよ、大丈夫お兄ちゃん⁉︎」
すぐさま破られた。
「あ、ああ……大丈夫。ありがとな。それとさっきはごめん」
怒鳴ったことを謝罪しながら、二人の頭を撫でる。嘘だ。正直、まだ腹はズキズキ痛んでいるがやせ我慢をしている。だが、我慢しないことには二人は泣いてしまうだろう。兄ちゃんは知ってるのだ。
「高楊枝も程々にですよ」
極力、腹に刺激を与えないように立ち上がろうとすれば、麻倉さんが肩を貸してくれようとする。
が、女子の身体の柔らかさを感じた瞬間、反射的に勢いよく起立してしまった。いや、特定の部位じゃなくて、全身でですけど何か?
「おお、……意外と元気ですね」
いや、免疫がないだけですとはとてもじゃないが言えず、ごまかすように腹をさする。さておき、まずすべき事をしないといけない。
「あの、あ、ありがとうございました」
頭を下げる。普通はピンチに颯爽と現れるのはイケメンの役割だろうに、立場が完全に逆だ。あー情けない。やっぱり、顔だけの中身の足らない男だよ。俺は。
その上で、まだどこか期待していたのだろう。軽い調子でお気になさらずー、なんて返してくれるのではないか、と。
「――辛くても、よくがんばりました」
ぽつりと、雨の滴のように降ってきた。
その言葉は、凡百の同情の言葉だったのかもしれない。でも、気づけば、雨は俺の足元にだけ降り出した。
頼れるもののいない現実。か弱いものを守らなければいけない責任。お金という常に付きまとってくる無情な数字。顔がいいと勝手に上がるハードル、身に覚えがないのに勝手に訪れる嫉妬。
不登校からの引きこもりで人生を終えた人間にはどれもこれもが重すぎた。
なんでも背負える、スーパーマンなんかじゃないんだ。無理だよ。
何度、思ったかはわからない。もう一度、 前みたいにあっさり終わってしまえば楽なんじゃないか。いつも心の片隅には転がっていた。
でも、出来なかった。初めて、生まれたばかりのその小さな身体を抱きしめた時、どんな人間であろうと無条件でお兄ちゃんと慕ってくれるその純粋な好意に触れてしまった時、心の底から大切なものだと思ったんだ。
せめてこの尊いものだけは、俺が何をしてでも守らないといけない。
守ってきた、守ってきたつもりだ。
弱音を吐かないのがカッコいいことだと盲目的に信じた。どんな時でも笑いを取りに行くような余裕を持っているフリをした。そんなことをサラッとこなせるような、昔、漫画やアニメやゲームで見たことのあるような憧れのイケメン主人公ぐらいしか知識としてなかったから。
当然、無理があった。
外側がいくら良くても、中身が伴っていないのだからそりゃそうだ。ああいうのは天然ものだからこそ価値がある。狙ってこなせば粗も生まれる。
そんな日々はやっぱり、やっぱり辛くて。
たとえこちらの事情なんてわかってもらえないとしても、せめて誰かに、
俺は、認めてもらいたかった。
腕で乱暴に顔を拭って、
「あ、あの、さっきのお金、絶対にお返しします。……今すぐに、って訳にはいかないですけど。……少しずつでも。絶対に全額払います」
頭を下げたまま、固く誓った。
「お気になさらずー、と言いたいところですけど……それなら何百回でも、何千回払いでも構いません。いつかきちんと返済してくれるのをお待ちしてます」
そして、ようやく、頭を上げ俺は麻倉さんと、向き合う形になる。
「なんで、ここまで、してくれたんですか?」
どうしても聞きたかった。
「さっき言いませんでした? 幸せは押しつけることもできるって。それに、公私ともにサポートするとも」
これだ。
「まぁ要するに、お節介焼きなので、私」
俺は、こういうカッコいい人になりたい。
「……俺には顔しか取り柄がありません。それでも、大丈夫なんですかね。……こんな俺でも、本当の意味でカッコよくなって、……顔だけじゃなくて中身も全部含めて、誰かに好きになってもらえるんでしょうか」
「これも言ったはずですよ。私がついてますし。真条さん。素質はあります」
なら、