第27話 “選ばれたのは、ハラヨワでした。”
牧紀男(39)、好きなものはラップ、EDM、クラブ、フェス、黒ギャル、ポーカー、ゴルフ、会社、酒、そして生徒。
夏には浴びるほどの日本酒とビールを飲み、地元の神輿も担ぐこのお祭り男であるが、さかのぼること約二十年以上、元々は総斎学園の生徒であった。
在りし日の自分を振り返るとき、紀男はいつも思う。
——総斎での日々があったからこそ、今の自分がある。
バカ話に休み時間を費やしたあの教室、あの夏の日差しのなか白球を追いかけた校庭、些細なやり取りに一喜一憂した甘くほろ苦い恋愛も、時には教科書から外れたしかし人生で大切なことを教えてくれる教師たち、どれも燦然と輝いている。
だがしかし、特に忘れられないのが一学期における一番の盛り上がりともいわれる仙葉学園との合同体育祭『通称仙総戦』だ。
両校の創始者が親友同士だったことで最初は野球部同士の定期親善試合から始まったといわれ、年を重ねるごとに規模や予算、全国知名度などが拡大の一途をたどった。今年の開催で第八十二回を数えるほど歴史は長い。
実際、歴史が長い学校につきものだが、一族みな同窓ということも両校においてはままあることであり、自分の親や子供もかつてセンソーで活躍したことを武勇伝や自慢話として正月に親族が揃った場で語ることもしばしばである。
さて、そんな高校生活三年間すなわち計三回を経験した紀男にとってのセンソーは『敗北』だった。
ためしに図書室なり校長室に忍び込むなりして校史をひもとけばすぐにわかる。仙葉のにはやや大きな字体で、総斎のには実にさりげなく記されている。
『V5』
一方には黄金期であり、もう一方には暗黒期である。
その意味するところはつまり、五年間、総斎は仙葉に負け続けたということに他ならない。
高一の紀男は入学前より憧れていたセンソーに胸をはせていた。自分が体育会系というのもあり、まさに晴れ舞台、ここで輝いてやると意気込んでいた。が、結果は負けた。
高二の紀男は前年の雪辱に燃えていた。去年の学年別リレーではバトンミスによりかなりの差をつけられて敗北したため、小遣いをはたき自前でバトンを用意し、二の轍を踏まぬよう対策を講じた。にも関わらず、負けた。
高三の紀男は焦っていた。まさか三年連続で敗北し、自分が現役のときに一回も勝ったことがないとかそんなの絶対嫌だと学校を巻き込んで強化合宿を計画したりもした。全校が気持ちを一つにしていたと今でも思う。それでも負けてしまった。
その後、悪夢はもう二年続いた。
大学に進学してもなお、後輩たちの応援に駆けつけていた紀男はさらにもう一年、計六年かけてようやく勝利の味を初めて知ったのだった。
その悪夢の五年は総斎卒業生たちにとっても恥ずべき期間だったという。たまに顔を見せに来たOBも口を開けばプレッシャーをかけてきた、親族が卒業生だったらたまらなかっただろう。
また面白いもので、センソーの結果とその年の受験生の現役大学合格実績は比例していたという。負けたという想いが潜在意識にでも刻まれたのか、勝った年に比べると負けた年は明らかに実績が振るわず浪人を選択する生徒が増えた。
だからこそ、忘れられなかった。
未来には希望しかないと思っていたあの頃に、人生には谷があると教えられたのだ。気づけば五厘刈りの野球少年も伸ばした髪を金に染め、享楽的な趣味嗜好にふけるようになっていた。
モラトリアムである大学生活が終わりにさしかかる時、周囲の意識高い系がやっていたことに影響され、紀男もやりたいことをノートとペンを持って考えた。
ペンは驚くくらいすらすら動いた。
——過ぎ去ってしまった日々を観客席からフェンス越しに応援するのではなく、自分もフィールド、ベンチにいたい。そして、勝ちたい。
ならば道は決まっていた。
そうして教員免許を取った紀男が母校に赴任して早十数年。四十路を前にするにあたり、勝利を味わった年はたしかにいくつもあった。勝利の美酒という言葉があるように、センソーの帰りにこっそり開ける500mlのビールの美味さときたらこの世に勝るものはないのだ。
ただそんなある意味夢を叶えたともいえる紀男の教師人生に問題があるとしたら、
ここ四年。
総斎は仙葉に敗北し続けていた。
× × × × × × × ×
五限の開始を告げる本鈴と共にブラックの缶コーヒーをゴミ箱へ放る。
教職者として褒められた行いではないが、物事には『流れ』というものがある。電車の乗り継ぎが上手くいったり、求める牌が回ってきたり、放り投げた空き缶が上手いことゴミ箱に入るかどうかというのもその類いだ。
ビン・カンと二つ開いた口の正しい方に吸い込まれたのを確認し、親指を立てて紀男は校庭へ出る。呼びかけと共に、集まってきた二年一組と五組の野郎たちを前にして思う。
——過去の二の舞には絶対したくないYO、と。
自分の目が黒いうちには、もう二度と生徒たちにあのような敗北感を持ってもらいたくないのだ。
人知れず決意を新たにして、ハンドボール投げを指示する。ほどなくして体育委員を中心とした係がカゴに詰まったハンドボールを運んでくる。肩もあたたまっていないのにいい記録が出るわけもない。
各人一個ボールを持つよう伝えてしばし個人練習の時間を与えた。
腕を組み、サングラスの奥で紀男は考える。
はたして今年の選抜メンバをどうするべきか。ここの人選は間違いなくセンソーを左右する。
学年ごとに人数枠は限られている。総斎は1学年あたり生徒が200名弱で5クラス存在するが、その5クラスの中から男女を5人ずつ選ばないといけない。
単純に体力テストの結果を持って判断するというのは一理あるが、圧倒的な身体能力を誇る生徒こそ稀で、となってくると第一群、第二群とあるといえどどんぐりの背比べと言えなくもない状況となり、なかなかどうして簡単にはいかない。
たとえるなら何かのスポーツで国を代表するチームの監督のようなものだろう。単純に活躍しているメンバーを招集したところで、戦略やポジションの交代要員、人間的な相性も考慮すると一概に結果につながるとは限らないのだ。
またもう一つ悩ましい理由を挙げるとしたら、このセンソーが規模を拡大してきた結果、運営委員会の方から内容にある程度のエンタメ性を持たせるように通達してきていることがある。
実際、地域振興イベントという側面もあるセンソーなのだ、資本主義の原則に従い、人が集まるところにはお金が動く。だが人を集めるためには、面白い楽しい目の保養など何かしらの価値を提供せねばならない。
特に参加する生徒も見に来る観客もあわせて楽しみにしている特別種目はユニークなこともあり、人気が非常に高い。配点も多く、最後の得点発表時にドラマ性をもたらしてくれる。そんな表と裏の事情もかんがみたときに、
ふと視界の端に引っかかった生徒がいた。
——真条基。
鳴り物入りで転校してきたクールボーイである。左手でポンポンとハンドボールを持ったまま、腕がかゆくなったのか右手で左の二の腕のあたりを触ると一瞬痙攣した。
すわ、急に発作でも起きたか大丈夫かYOと駆け寄ろうと思ったとき、
真条が投げた、利き手の右手に戻したボールで実に力の入っていないフォームで、振りかぶって、投げた。
ところまでは目で追えた。
——ボールが消えた。
紀男は最初そう思った。が、慌てて目を動かし少なくとも真条の投擲したであろうボールの軌跡をたぐれば、こう見えても視力はすこぶるいい紀男の目にはわかった。
ネットが揺れている。
しかも、さすがに少し目を凝らす必要があったが、
ネットに穴が開いている。
まさか、と思った。
そんなことあり得るのか、と思った。
鳥肌が立つ。確かめなくてはと足が動き、
「——先生、」
呼び止める声が先だった。
「すいません、計測まだだと思うんでちょっとトイレ行ってきていいすか?」
とんでもない投球をした真条本人だった。お腹をおさえて、端正な顔を強ばらせて、挙手していた。お腹でも弱いのかと思うがそんなことはどうでもよく、
「……いいYO、手早くな」
うっす! と早歩きで校内に向かう真条を背に、紀男も先ほどのネットを確かめに行く。緑のネットは確かにハンドボールがくぐれそうな大きさに破れていた。はたして、あのボールはどこに行ったのか。
「…………ッ!?」
何かに気づいた様子の紀男は、大回りするようにしてネットの向こう側へと向かう。
そこには、ケヤキの木が数本そびえており、そのうちの太さ直径1mほどの1本にそれはあった。
幹にめり込んだボールだった。
これが秋なら辺り一面には枯れ葉が散乱していただろう。幸いなことに新緑の季節だったからこそ数枚の葉しか落ちていないが、衝撃を物語っている。
「……Dope」
口笛を吹いてしまった。
この後の計測の結果などもうどうでもいい。認めよう。午前の握力測定とシャトルランといい、アイツはバケモノだ。そして何より、あのルックス。
運営委員会のおっさんおばさん、爺さん婆さん連中が望むエンタメ性そのものだ。
「……とんでもないタマかもな」
くだらない駄洒落を言ってなお、笑みが止まらない。
今年のセンソー。仙葉には吠え面をかいてもらおうじゃないか。