第16話 “Grip!”
唖然。
白峰塔矢は、最初それを見た時、まさしくそうとしか表現できない顔をした。
総斎学園2年1組の神林孝四郎といえば、この学校界隈では名の通った存在である。
なんでも、一族には政治家に医者か弁護士、経営者しかいない。小さい頃はばあやに育ててもらった。バレて外国から怒られるまで家にトラがいた。自称エリーテスト(エリートの最上級)。生涯で負けを知らない男。天然文武両道。約束された勝利の将来。上級国民の鑑。などなど羨望の声が随所で聞こえる。さらに口癖も、
「スペェェェック!」
「ステェェェェイタァス!」
現在、己に喝を入れるかのように叫んでは頰を叩いている、神林本人の口からほとばしっている通り、自他共に認めるハイスペックな人間だったのである。
その神林だが、何故か噂の転校生、真条基につっかかってきた。ロースペックの人間にはほとんど興味を持たないともっぱらの評判であったのにも関わらずだ。
何故だろう、と白峰は考える。
おそらく、こうではないのか。
きっと根元には、1年の頃からその話はたびたび白峰の耳にも届いてた通り、神林孝四郎の「出る杭は叩き折る」という姿勢がある。超がつくほどエリート一族に育ったという神林にとって、そのお眼鏡にかない、将来的に自身の脅威となる可能性がわずかでもあるのならばその芽は摘んでおく必要がある。
事実、総斎学園において各学年の1組というのは特進クラスを示しており、勉学、スポーツ、課外活動などでズバ抜けた成績を残したものが年度始めに選抜される。
いわば、高スペックの人間ばかりが集められるわけだが、去年の最初の頃、すなわち入学早々に神林孝四郎は当然のように1組におり、そこで、
「ぼくが、このクラスの代表だ。なんでもいい、文句があるならかかってきたまえ!」
と、高らかに宣言したという。そして、自分がどうして1組に入ることが出来たのか、その理由に対して誇れるものがある者たちばかりが全国からこの名門に集まっているのだ。そんな自負ある者たちが、「はい、お前がナンバーワンです」と素直に従うはずもなく、反発は当然のように湧いてきた。しかし、
その全てを叩き折って、神林孝四郎は1組の代表として君臨した。
野球で挑まれれば野球で、水泳で挑まれれば水泳で、イラストで挑まればイラストで、囲碁で挑まれれば囲碁でもって、挑戦者に敗北の味を教えた。そして、自分の土俵という地に這う者たちには必ず手を差し伸べ、その才能と努力を惜しまず称賛した。
ほとんどの者たちはこれでコロッとまいってしまい、神林を頂点に据えた1組は個々の力にとどまることなく確固たるリーダーの元に動くハイスペック集団として、文武を問わず校内外にその名をとどろかせるようになった。
その今までの流れがあって、真条基は別クラスとはいえ神林の早めに叩き折っておくラインを超えたのだろう。
実際学年を問わず、賛否両論ではあるものの神林の存在自体はカリスマといってもよくシンパも多い。そのルートを通って、痴漢撃退や自己紹介の開口一番に「なにか文句あるヤツいるか」などなど基の衝撃のデビューが神林の耳にも届いたはずだ。
そして、遅れて体育館に登場してきた人間がその転校生であると知り、あの強烈な握手でどっちが上かを教えようとした。
例外など想定していなかっただろう。神林に限らず、周囲の誰もが、言ってしまえば白峰も、
無様に悲鳴を上げる基の姿を想像したはずだ。
しかし、
「よろしくぅっ!」
手を離し、膝をついたのは神林の方だった。
それだけでも信じられなかったはずが、おまけに、
「――相手は選べよ」
これである。
どれほど屈辱的だったのだろうか。それはさほど親しくない白峰から見ても、神林の形相が鬼のように変わるのがわかった。
その怒りの凄まじさを表すように神林が床を殴った後に、空気が緊迫したのをどこ吹く風と、基は華麗にスルーすると白峰に教室の鍵を返してきた。
――やっぱり只者じゃない。婚約者を探しに来るような人間は。
× × × × × × × ×
握力計測、である。
1組と5組、互いに向き合う形となってまず最初に誰が行くのかを目線だけでやりとりしていた。
だが、一人、そのやりとりを完全に無視して、進み出て来る者がいる。
神林孝四郎、だった。
5つ並んだ握力計のうち、真ん中のものを一人あげる。その所作だけで、1組一同は、うちの大将がまず行くのか――と生唾を飲み込む。
ならば、それを受けて立つのならば、同格のものでなければならない。必然的に5組の人間の目がある者に向けられる。その者も自覚はあったのだろう、チッと舌打ちをこぼし、針金のように硬い頭髪をボリボリとかきながら、歩み出ようとする。
「きみではない。生形」
「あんだと?」
位置につく前に制され、生形進之介は眉根を寄せる。
「きみとの勝負はまたいずれだ。今は、」
ゆら、という達人じみた動作で握力計を5組の集団へと向けると胸を張って神林は、
「真条‼︎ 出てきたまえ、きみに真剣勝負を挑む‼︎」
どよめきが走る。
――あの神林くんが、相手を指名した!?
――おいおい、こりゃ、あの転校生、死んだな。
――まったく、神林くんが出るまでもない。僕らで十分だというのにフフ。
――そう言うな闇野。さきほどのは何かの間違いであったと御大将自らが示すというわけだ。
――真条……、どうするよ、真条……あれ?
真条の姿が見当たらない。
どこに消えたと、クラスメイトたちは周囲を確認しつつ、一歩ずつ横にずれていき、後に残ったのが、
「校章二回って、ありえんでしょ。なぁーにがハイパーだよ、あほか、ヨーヨーじゃないんだからよ……パチこいてるとしか思え」
しゃがみこんで、ぶつぶつつぶやきながら何かしらのプリントを読み込んでいた基がいた。
「真条くんっ」
「はいっ! ……え、なになに?」
白峰に肩を揺さぶられ、ようやく自身の前に築かれていたはずの人垣がいつの間にか崩壊していることに気づいた様子である。
周囲に神林が握力対決を希望してきたと教えられ、男の色気すら感じさせる口元をひくつかせる。
5組一同は思った。
――こいつ、笑ってやがる。
なんと大胆不敵。先ほどの「相手を選べ」という発言を踏まえて、なおも噛みついてくるようなならば、相手がどんな相手だろうと関係ない。
こっから先は情け容赦は無用。
5組一同が一斉にツバを飲み込む。
――この男なら。
代表するように生形が、「へっ」と鼻をこすりながら基に問う。
「いけるか?」
「……誰に言ってんだ?」
愚問だと。
5組一同は受け取った。
ならば行け。新参者であることなど関係ない、このクラスの威信をこの男に託そうと。この表情を見ろ。信ずるに値するそんな表情だ。
誰ともなく、5組一同は頷きを交わし合い花道を作る。泰然と構える神林くんの待つ、対決の場へと導こうとする。
慌てた様子で広げていた紙をくしゃくしゃに丸めポケットに突っ込んだ基の背中を押して行く。頼んだぞ。そんな思いを乗せて。
「……逃げなかったことは、賞賛しよう」
無表情で対面に立った基を正視しつつ、神林が口を開く。
「先ほどのアレの原因を突き止めたよ。まだ筋肉が目覚めていなかったんだろう。……謝ろう、真条。アレは俺の本気ではなかった」
――お見せしよう。これが俺の本気だ。
神林がアナログの握力計を取り、針をゼロへとセットする。そして、深呼吸。
クワッと目を剥くなり、
「スペェェェェェェェック!!」
サバンナの獣とて身をすくめるような大声を張り上げる。握力計のある右腕に顔を向け、
「ステェェェェイタァス! ダァェンッ!!」
一気に全霊を込めて握った。瞬間的に針が半周し、限界である80kgに差し掛かり、
ピン、
という音と共に針がはじけ飛んだ。
うおおおおおおおおおおおという歓声が1組より沸騰する。「さすが神林くんだ!!」という賛辞を背に受け、振り返ることなく今度はデジタル式の握力計を左手で取ると、
再度、裂帛の気合いと共に握る。今度はそもそも存在しない針が飛ぶことなく、液晶にその数値が表示された。
煙でも出てきそうな勢いで息を吐き出しつつ、神林はその数字を読み上げる。
「92……利き腕でなければ、こんなものか」
ガタッと5組の須藤が倒れた。すぐに保健委員の柿内が抱きかかえると、
「む、無理だ、勝てねぇ、勝てっこねぇよ……」
5組の誰もが脳裏に浮かんだ言葉を、口に出してしまう。
重い沈黙が5組に広がる、対する1組は当然とばかりにニヤニヤ笑いを隠そうともしなかった。
超高校生級と手放しに褒める他ない神林の握力の前には、膝を屈するしかないのか。
悔し涙に腕で目をこする者も出始める。
「まだだ」
そんな中、生形は表情をゆるめていなかった。
だって、送り出したあの背中は、丸まってなどいなかったのだから。
「諦めるか、真条」
いささか落胆した様子で、神林は基に尋ねる。嘆息し、返事のないことに踵を返そうとして、
「待てよ」
基が動いた。
まるで日の丸を背負ったスポーツ選手のように、総斎の校章が刻まれた体操着の胸元をギュッギュッと掴む。その手と背中が一度、震える。
まさか今のでビビってるのではあるまいか、そんな心配が5組にわきかけた時、
「違う。ありゃ、武者震いだぜ」
生形は口の端をゆがめながらつぶやく。
「うん、それに真条くん、集中してる」
白峰の目にもそれが映っている。
そう、あれがビビっている男の表情なものかと。
デジタル式の握力計測を構えた基は、周囲の反応なども気にかける様子もなく、また気合いを言葉にすることなく、不意に力を込める。
――パキッ
一同の耳に一斉にそんな音が届いた。
そしてほぼ同時に、あそこらへんから今変な音聞こえなかった? と発生源と思しき位置に目を向ける。
おそらく、
おそらくだが、
「今の音、真条の手から聞こえたよな?」
誰かがこぼした言葉の証明のように、握力計に違和感があった。
まず白峰が動いた。
基の手から握力計を剥がし、絶句する。
「な、なにこれ……」
「どういうことだっ、って、マジか、よ……」
生形も白峰のただならぬ様子にすぐさま駆け寄り、それに気づく。
ヒビだ。
樹脂にヒビが入っている。
基の握っていたグリップのあたりから痛々しいほどに。
加えて、もはや握って数値を出すという本来の機構がアホになっており、二度と使い物にならなくなっていた。
そして、何より、
「か、貸してみたまえ!」
白峰から半ば強引に奪うようにして、神林はそれを見つけてしまう。
999.9kg
液晶に浮かんだその数字はどエラいことになっていた。
衝撃のあまり、めまいを覚えた神林はたたらを踏んで膝をついてしまう。
うわ言のように、
「ありえない、ぼ、ぼくの知っている数値ではない。カンストだと、ありえない……」
一体、何が起こったのだと最初は様子を見守っていた両クラスも神林の手からこぼれた握力計を確かめるや否や、先ほどとは正反対の反応をあらわにする。
「大将の……およそ10倍……だと」
「あーん、カン様死んだ! うぇぇぇん」
「おのれおのれおのれぇっ」
むせび泣く1組に、5組の面々はといえば、基を胴上げせんばかりの勢いで取り囲み、
「真条、お前まじで何モンだよ!」
「スタイルいいなって思ったけど、結構鍛えてんのな!」
「何食ったらそんなパワーが出んだ教えてくれ!!」
コメントに困っている様子の基に助け舟を出すように、生形が、
「お前ら、はしゃぎすぎだーっ!」
一番はしゃいでいた。
「俺らも負けてねーで、やるぞ」
士気の急激に高まった皆を鼓舞し、とっとと終わらせるぞと次々に計測させていく。みずからもその流れに加わる前に、
軽く基の胸を小突きながら、
「やるじゃねーか、基!」
そんな言葉を残され、基は隣にいた白峰に、
「いやあの、俺……、片手しかやってないんだけど」