テロリズム戦争
テロリズム戦争
21世紀を迎えた世界を混乱の渦に叩き込んだ2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件は、20世紀後半のアメリカ中東政策の論理的な帰結と言えた。
言葉を選ぶことを止めれば、飼い犬に手を噛まれたとも言えるだろう。
ワールド・トレード・センターに旅客機を突入させたイスラーム過激派テロリスト集団アルカイダを育てたのは、他ならぬアメリカ合衆国自身だったからだ。
イスラーム過激派が勢力を拡大したのは1980年代のことである。
勢力拡大に必要な熱意はイラン革命が、武器は専らアメリカ合衆国が用意した。
イランとアメリカという水と油がイスラム過激派というキメラを生み出したのは新冷戦(アフガニスタン侵攻)があったからだ。
イラン革命に驚いたアメリカはイラクのオサム・フセイン大統領に軍事支援して革命潰しに走りつつ、イスラーム勢力を利用したソ連のアフガン侵攻を泥沼化しようとしていた。
何やら精神分裂病的な行動だったが、イスラーム勢力も一枚岩ではなく、国家や宗派の違いからこの戦略は一定の成功を収めた。
特にパキスタンは、宿命的な敵国であるインドに対抗するため、アメリカ製兵器と引き換えに大量のムジャヒディンをアフガニスタンに送り込んだ。
ムジャヒディンの供給元は主にサウジアラビアで、アルカイダの首領であるビンラディソもサウジアラビア出身だった。
イスラーム勢力を敵視しつつも利用したアメリカは、ソ連がアフガンから撤退するとやや正気を取り戻し、ムジャヒディン支援から手を引いた。
しかし、既に十分な武器も金も手に入れ、さらにソ連を撤退に追い込んだという実績まで獲得していたムジャヒディンは、聖戦の矛先をアメリカに向けることになる。
ムジャヒディンがソ連への追撃ではなく、スポンサーのアメリカに牙をむいたのは湾岸戦争以後、サウジアラビアに駐留を続けるアメリカへの反感があった。
サウジアラビアにはイスラームの聖地メッカがあり、イスラームの土地に外国軍が駐留することは過激派にとって許されざる大罪だった。
また、パレスチナ問題で一方的にイスラエルに肩入れするアメリカの外交姿勢は端的に言ってフェアではなく、イスラーム勢力の怒りには一定の正当性があった。
だからといって、民間人の乗る旅客機をハイジャックして高層ビルに突っ込ませる大量無差別殺人を肯定することなどできるはずもない。
各国はこの蛮行に対して反テロリズム戦争で一致することになり、テロ組織の監視や資金源の根絶に向けて動き出すことになった。
何かと対立して慇懃無礼な罵りあいを日常とする日米が珍しく国連安全保障理事会で、まともな話し合いに応じたのだから、アルカイダの脅威は本物だった。
普段の国連安全保障理事会が、日米の新作嫌味発表会になっているのは有名な話で、日米の国連大使の最も重要な能力は、相手国の大使が身に着けているネクタイの柄やまつ毛の長さ、体毛の濃さから即座に新しい嫌味を考案する能力だとさえ言われるほど酷かった。
国連演説の長さで苦情がくるリビアのアラフィフ大佐でさえ、苦言を呈するほどである。
ちなみにラディソは山本五十六を崇拝しており、自分の行動は日本から支持されると考えていた節がある。
2001年時点で首相の座にあった石原新太郎は、右翼ナショナリストと知られており、対米強硬派だったが、ラディソからのラブコールをキャッチするほどイカれてはいなかった。
むしろ、素早く被害に遭ったニューヨーク市民を慰め、励ます談話を発表し、テロリズムを厳しく批判している。
アメリカのアフガニスタン侵攻にも賛成し、支持を表明した。
こうした日本の行動は、中東では意外と受け止められた。
中東では、日本はアメリカに立ち向かう誇り高いサムライの国というイメージがあり、日本がアメリカの味方をするとは考えにくかったからである。
日本はイランを伝統的な友好国としており、中東戦争では親アラブ派として、シリアやエジプトに様々な武器を輸出していた。
しかし、日本はアメリカの対テロ戦争には協力的で、普段の対立を棚上げして一時休戦状態になった。
アメリカ人のヘイトが他に向いてくれるなら、それにこしたことはないという現実的な対応だった。
問題は、アメリカ合衆国が特に証拠もなくアルカイダとイラクのオサム・フセイン政権を結びつけて、軍事侵攻すると言い出したことだった。
アフガニスタン戦争は、ラディソを匿ったタリバーンを打倒するための止む得ない戦争だとしても、フセイン政権がアルカイダと手を結んでいるという証拠はなかった。
むしろ、フセイン政権は世俗派独裁体制の国家であり、イスラム原理主義を掲げるアルカイダとは水と油の関係と言えた。
そこでアメリカは大量破壊兵器疑惑を持ち出してきたが、証拠不十分だった。
しかし、9・11からアメリカの国内は狂奔状態となっており、ジョナサン・W・ブッシュ大統領からは、
「イラク、イラン、マオイズム・チャイナは悪の枢軸だ」
という発言が飛びだした。
この発言は最後の枢軸国である大日本帝国を揶揄したものとして、日本政府は正式に抗議している。
後に枢軸を中心と言い換えるなど、ブッシュ大統領は発言を修正したが、当時のアメリカ人の平均的な対日意識とは、このようなものだった。
イラク・イランはともかく中華人民共和国が悪の枢軸として名指しで批判されたのは、90年代以降に同国が核兵器不拡散状態(NPT)に違反して核兵器開発を行っていることが判明したためである。
中華人民共和国は、一時は中華民国(国民党)を崩壊寸前まで追い詰めるなど、中華世界統一に王手をかけたこともあったが、1960年代以後は国情が安定しなかった。
中華世界唯一の共産主義国家として、1950年代はソ連の支援を受けることができたが、スターリンが死去し、日本との連携を重視するフルシチョフが政権を握ると中ソ関係は急速に悪化した。
さらに毛沢東主導の大躍進政策が破滅的な失敗に終わると、その責任を巡って激しい権力闘争(文化大革命)が勃発した。
最終的に毛沢東は、敵対者を全て粛清し(周恩来などの穏健派も含む)、中華人民共和国を毛沢東思想国家に改造した。
一応、共和制の体裁を取っているものの、国家主席は毛家の世襲であり、事実上は毛王朝だった。
90年代に集や中華民国は相次いで民主化を果たしたが、中華人民共和国は毛沢東思想を掲げて独裁体制を継続し、一切の改革・解放を拒絶して、ロシアからも愛想を尽かされて完全に孤立していた。
マオイズム・チャイナは体制護持のために秘密警察による恐怖政治と核兵器、弾道ミサイル開発に血道を挙げており、その資金集めのために覚せい剤製造や偽札づくりに手を出すなど、世界の敵として認定されるには十分だった。
まごうことなき失敗国家と同レベル扱いされたのだから、日本政府が抗議するのは当然と言えるだろう。
石原首相はタカ派のナショナリスト政治家であり、平和主義者とは言い難い人物だったが、アメリカのイラク攻撃には断固反対の立場をとった。
確かにフセイン政権は国連査察団の調査を妨害するなど、大量破壊兵器隠匿の疑いがあったが、アメリカ軍事侵攻によって中東全域が不安定化する危険を考えれば、武力以外の方法で解決を図るべき問題だった。
特に日本は山本五十六国家元帥以来の伝統として、原油確保・油価安定には細心の注意を払っており、中東の安定化に腐心していた。
80年代にソ連が市場経済導入のために経済特区を定めると、多数の日本企業が進出して、資源開発に従事することになったが、これも石油資源確保が目的だった。
ソ連崩壊後のロシアも経済再建の切り札として資源輸出を急いでおり、日露の利害は一致していた。
日本以外にロシアとフランスが国連安全保障理事会で査察継続を訴え、アメリカの武力行使に反対した。
特にフランスの反対はアメリカの強い反発を生んだ。
アメリカの国防長官ドナテロ・ラムズフェルドは「フランスは古いヨーロッパだ」と皮肉を述べ、アメリカ中のダイナーのメニュー表からフレンチ・トーストが消え、フリーダム・トーストに置き換えられた。
日露の反対に対しては大きな反発が生まれなかったが、それは年中行事のためである。
日仏露の反対によって、アメリカは国連決議なしでの開戦を決意し、アメリカに合わせて武力行使を積極支持したイギリス・ブレアウイッチ政権と共にイラク戦争へ突き進んだ。
2003年3月19日、アメリカ軍は「イラクの自由」作戦を発動した。
正規軍同士の戦闘は1週間程度で終了した。
もちろん、勝者はアメリカ軍である。
アメリカ軍は2003年時点でRAM(軍事情報革命)が進んだ軍隊であり、湾岸戦争の半分以下の戦力で殆ど一方的にイラク軍を壊滅させた。
イラク軍の指揮統制は空爆と巡航ミサイルの攻撃で殆ど麻痺しており、アメリカ軍は専ら麻痺状態のイラク軍を放置して前進し、バグダッドへと突き進んだ。
イラク軍はアメリカ軍を内陸や都市部に引き入れた上でゲリラ戦に持ち込む構えだったが、アメリカ軍の速度は予想を遥かに上回っていた。
その速度はメディア工作をおこなっていたイラクの情報大臣がバグダードの平穏を強弁しているその後ろをM1戦車が通過する、といった映像が放映されるほどだった。
日本軍は、イランにオフレコで展開した偵察機などでアメリカ軍の動向を監視し、情報収集を行っており、軍首脳部は改めて米軍の強大さを再認識させられたと言われている。
日本軍よりも酷いことになったのはロシア軍だった。
露軍はソ連崩壊後の経済混乱で、装備の更新が殆ど止まっており、80年代や70年代の装備が未だに現役だった。
それどころか、給料水準の低下で著しく士気が低下していた。
2000年にボリス・リエツィンから政権を引き継いだウラジミール・プルチノフ大統領は、軍備再建の必要性を痛感し、日本との兵器共同開発を拡大させることになる。
代表的な例としては、2010年から導入が始まったSuー37Jで、日米関係悪化で運用が難しくなったF-16を置き換える目的で日本空軍に採用された後にロシア空軍にも一定数が配備された。
カナード翼の追加や推力変更ノズル、大出力ターボファンエンジンによる超音速巡航など、ステルス性がないことを除けば、F-22に最も近い性能をもつされたSu-37Jは日露軍事協力の象徴とも呼べる戦闘機だった。
プルチノフ大統領が自らSu-37Jを操縦して来日し、日本空軍に売り込みを図ったのは有名な話である。
そのほかにもTu-160や、T-90戦車、潜水艇などもプルチノフ大統領は乗りこなしている。
こうした特殊技能は、彼がKGBのスパイだったときに身に着けたものである。
スパイが国家指導者になるのは日本においては奇異な印象を受けるが、ソ連においてスパイは国防を担う職種ということで尊敬されていた。
これはKGBのプロパガンダ作戦という見方もできるが、国防や国際政治において情報収集活動が重要なのは言うまでもないことである。
日本でも、諜報活動を担った国家自衛隊が、冷戦中にスパイを主人公にした「スパイ大作」というテレビドラマを放送していたこともある。
ただし、スパイ大作はスパイにしてはやたら爆発物を多用することや、美女に騙されるシーンが多く、安全ミサイルなどといった荒唐無稽な兵器を多用することから、本物のスパイからデマを拡散していると苦情が寄せられた。
物語終盤になると必ず採石場か演習場(他では火薬の使用許可が下りないため)にワープして、アメリカのスパイ組織の戦闘員と格闘戦になり、最後は敵の首領が装甲車両に乗って現れ、主人公に爆破されるのがお定まりのパターンになっている。
21世紀に入って放送された新スパイ大作では、CGを多用することで街中での戦闘シーンを実現しているが、敵の戦闘員と格闘戦になったり、敵の首領が装甲車両に乗って現れ、主人公に爆破されるパターンは踏襲されている。
話はそれたが、アメリカにとって本当のイラク戦争は、戦争が終わったあとに始まった。
各地でイラク軍残党が遺棄された兵器を手にゲリラ化したためである。
また、宗教指導者のジハード宣言によって、世界中からイスラム戦士が集まったことで終わらない治安維持戦が延々と続くことになる。
結局、アメリカという国はベトナムの苦闘を都合よく忘れてしまっていたと言えるだろう。
アメリカが開戦の根拠としたフセイン政権の大量破壊兵器の秘密開発やアルカイダとのつながりを示す証拠も見つからなかった。
開戦前に示された証拠がでっち上げであることが判明するとアメリカはイラクの民主化を開戦理由に掲げたが、あまりにも苦しい言い訳だった。
石原首相は、二転三転するアメリカの戦争理由について、
「民度が低いんだからしょうがない」
と皮肉を述べてアメリカのやり方に反感を抱いていた国々から喝采を集めた。
国内世論も、傲慢なアメリカのやり方に正面から物申す日本の指導者を支持した。
ソ連崩壊後のアメリカは、何かとグローバル・スタンダードの名のもとに、自国の正義や価値観を押し付けて回って反感を買っていた。
イラク戦争後、石油価格が高騰して燃料費が上昇したことも反米世論を加速させた。
日本と同様に中東から大量の石油を輸入していた中華民国、集、大韓帝国にとって、石油高騰は大打撃だった。
ただし、ロシアにとっては石油価格高騰は朗報で、イラク戦争によるエネルギー価格上昇を背景にロシアは大きく国力を回復させることになる。
日本もロシアからの石油輸入を拡大させ、イラク戦争後には石油輸入の3分の1がロシアからの輸入となった。
ロシアからの石油輸入が急増したのは、冷戦末期に始まった日本の経済協力が漸く成果を出し始めたことが大きかった。
日露経済協力の最大の成果は、シベリアパイプラインの建造で、シベリアの油田開発と満州・朝鮮半島を縦断するパイプラインが敷設された。
露・集・韓を結び、釜山までシベリア産原油を届けるシベリア・ストリームは2000年に完成し、原油の対日輸出はロシア経済の再建に大きな役割を果たした。
その他に北樺太の天然ガス開発(サハリンⅡ)事業も経営が軌道に乗り、日本の資金と技術で建設された天然ガスプラントが、日本が消費する天然ガスの2割を生産している。
さらにソ連時代末期に設置された経済特区の発展も著しかった。
1986年に設置された経済特区は、ナホトカ、ハバロフスク、リガ、オデッサだった。
ソ連崩壊直前には、カリーニングラードやレニングラード、ロストフ、ウラジオストクも経済特区に指定され、日本以外の外国資本も押し寄せた。
ボルガチョフと会談した田中国家元帥は、急進的な市場経済化はソ連の国営企業の私物化や大量失業を招きかねないとして段階的な市場経済化を実施すべきと指摘していた。
ボルガチョフはショックドクトリンで一気にソ連の市場経済化を進める意向だったが、最終的に保守派に配慮する形で、日本の協力を得て進める段階的な市場経済化に合意した。
ソ連の段階的な市場経済導入は、先にソ連が政治的に崩壊してしまったため未完に終わったが、後任のリエツィンに概ね継承された。
日本企業がロシアの市場経済導入に果たした役割は極めて大きいと言える。
2021年現在も今でもロシア最大のコンビニチェーンはサークルKで、最大のハンバーガーショップはDOMDOMであり、最大の運送業者がクロネコヤマトなのは偶然ではなく、ソ連末期に最初に進出を果たした企業が彼らだからである。
コンビニエンスストアのサークルKがソ連一番乗りを果たしたのは、ロゴマークが赤かったからというのは有名な話だろう。
また、迷信深い(宗教否定国家のソ連で迷信深いというのも変な話だが)ロシア人に対応して、クロネコヤマトがロシアでは不吉とされる黒猫を白く塗って市民権を獲得したこともよく知られた話である。
国産ハンバーガーチェーンのDOMDOMは、日本国内ではマクドナルドに圧されてマイナーなハンバーガーチェーンとなっているが、ロシアではなぜか成功したことから現地では日本のハンバーガーといえばDOMDOMと思われている。
日本国内ではDOMDOMバーガーを食べる機会はあまりないため、海外旅行の旅先でDOMDOMを見た旅行者がDOMDOMを外国企業だと勘違いすることがあるが、DOMDOMはれっきとした日本企業である。
日本経済における公的部門の割合は、ソ連のような特殊な例を除けば先進国の中で最も多く、電気、ガス、水道、鉄道、通信網などは概ね国営企業によって運営されていた。
雇用についても先進国の中では最も手厚く保護されており、民間企業の所有権は株主でありつつも、慣例として企業経営は経営者や労働者の意向が重視された。
ソ連末期に市場経済を学ぶために日本へ送られたソ連の官僚や留学生などは、各種税制の強固な累進課税によって、大企業の経営者や資本家がほどほどの生活を送っているのを見て、
「本当の社会主義は日本にあった」
と述べて賛辞を送っている。
アメリカに留学した者が、米国企業の経営者が使い切れないほどの報酬を受け取り、大都市のスラムでホームレスや不法移民が悲惨な生活を送っているのを発見して失意や軽蔑を覚えたのとは対照的な反応だった。
ソ連崩壊後のロシア人の出稼ぎ先といえば、日本か集、中華民国となっており、路頭に迷ったソ連の元スペツナズ隊員などが国際自衛隊に大量採用されたりもした。
日本経済を手本としたロシアの市場経済化は、ソ連時代の国営企業は基本的にそのまま継続しつつ、民間企業の新規参入や合弁会社の設立を認める方向で進展した。
こうした対応が可能だったのは、ソ連が日本からの円借款を受けられたことが大きかった。
ドイツや東欧では経済を立て直すために、IMFから資金を借りており、ワシントンコンセンサスの餌食となった。
ワシントン・コンセンサスとは、IMF、世界銀行および米国財務省の間で広く合意された米国流の新古典派対外経済戦略で、
財政赤字の是正
補助金カットなど財政支出の変更
税制改革
金利の自由化
競争力ある為替レート
貿易の自由化
直接投資の受け入れ促進
国営企業の民営化
規制緩和
所有権法の確立
という特徴をもっている。
日本でも一時的に議論された「小さな政府」「規制緩和」「市場原理」「民営化」というキーワードは、アメリカの対外経済戦略に由来するものだった。
もしも、ソ連がIMFから資金を借りて、前述の急進的な新古典派経済政策を採用していたら、経済が大混乱に陥っていた可能性が高かった。
試算によれば、1929年の世界大恐慌の方がまだマシというレベルだった。
その試算には高い信憑性があった。
何しろ、東欧やドイツでは急進的な市場経済化によって経済が大混乱となり、世界大恐慌の方がまだマシという経済後退が発生していたからである。
ロシア寄りの姿勢を維持したベラルーシやウクライナの指導者達が、
「あちらに行かなくてよかった」
と胸をなでおろしたレベルの酷さだった。
ロシア経済は経済特区の成功と原油高を背景に2004年以降は6~8%と高成長を記録するようになり、ロシア社会は漸く安定を取り戻すことになった。
日本もバブル経済の後遺症を乗り越え、安定成長に復帰して自信を取り戻し、冷戦後のアメリカ一極支配に対して物申す姿勢を鮮明にした。
強気姿勢の背景となったのは、日本の経済力がアメリカに並んだことが大きかった。
日本というよりも、日本・大韓帝国・集・中華民国という東アジア経済共同体は、GDPでアメリカを肩を並べるほどになっていた。
日本経済は安定成長期(2~3%)に入っていたが、大韓帝国・集・中華民国は経済の飛翔期を迎えており、高い経済成長が続いた。
こうした高成長を実現したのは、先進国ではペイしなくなった種類の産業が、賃金の安い韓・集・華に流出しているという事情があった。
特に集は日本語が第1公用語(第2は北京語)になっているので、言語障壁が低く中小企業でも進出しやすいこともあって、日本からの工場移転が相次いでいた。
さらに中華民国経済の発展が著しかった。
2000年代の中華民国を率いた総統は、安晋三だった。
彼が書いた「美丽的国家」は、日本語版も出版されており、日本でも知名度も高い政治家である。
安晋三が主導した中華民国の新経済政策「チンノミクス」は、大規模な金融緩和と財政投資、外資導入を特徴としており、中華民国経済は毎年10%を超える急成長を遂げた。
安晋三は中華民国発展の立役者であると同時に、中華民国の民主主義発展に尽くした。
中華民国は80年代末までは戒厳令政治が続いていた。
蒋介石は抗日戦争の指導者として徹底抗戦を主張しながらも日本軍に降伏し、戦後内戦で日本が分裂状態になると復権を果たして日本と軍事同盟を結ぶなど、機会主義がすぎるとして必ずしも世論の支持を得ていたとは言えなかった。
そのため政権維持には手段を選ばず、武力弾圧(白色テロ)が行われ、恐怖政治で南中国を支配した。
しかし、その内情は決めて複雑で、集が比較的早期に中央集権的な安定を見たのに対して、中華民国は軍閥の統制に苦労しており、政情の安定にはほど遠かった。
60年代でさえ軍閥の大規模な反乱があったほどだった。
さらに90年代まで、中華民国軍は大陸統一を掲げて過大な軍備を保有していた。
蔣介石は最後まで大陸統一の野心を捨てておらず、後継者の蔣経邦も就任当初は大陸統一には意欲的だった。
蔣経邦は、70年代に中華人民共和国が文化大革命で大混乱になると日本の制止を振り切って軍事介入を実施していた。
この介入には、林彪の手引きがあったとされる。
中華民国軍は難民収容を名目に四川省3郡を占領したが、中華民国軍は文革防衛を掲げて殺到する紅衛兵の人海戦術に悩まされた。また、期待していた反毛派の武装蜂起が失敗に終わり、林彪が逮捕・粛清されるなど介入は上手くいかなかった。
中華人民共和国への軍事介入は第三次世界大戦を誘発しかねないため、日米が強く警告したことから蔣経邦は軍を撤収した。
ちなみに林彪の武装蜂起によって、毛沢東は完全な政治的パラノイア状態となり、周恩来を含む中国共産党の幹部の9割が逮捕・処刑される大惨事となった。
蔣経邦は介入失敗後も大陸統一の機会を窺っていたが、集が日本からの産業移転などで急成長し、集と中華民国の経済力が逆転すると徐々に考えを変えていった。
何かと巨大な父と比べられる蔣経邦にとって大陸統一は、父の背中を超えるための手段であり、目的ではなかったのである。
父を超える手段として、蔣経邦が大陸統一に代わって掲げたのが中華民国の民主化だったと言える。
「中山(孫文)に帰れ」
という蔣経邦の言葉は有名だろう。
蔣経邦が民主化を掲げたのは、自分と同じ境遇の毛沢東の息子が世襲独裁者として中華人民共和国に君臨しているのを見て、わが身を振り返ることがあったという説もある。
残念ながら、蔣経邦の存命中に中華民国の完全民主化は叶わなかったが、没後の集団指導体制を経て、総統直接選挙制(2001年)が実現し、完全民主化が達成された。
孫文が理想とした民主中国は、21世紀になって漸く完成した。
民主化という国家体制の変動と経済成長に湧き上がる東アジアには強い求心力があり、これまで東アジア経済共同体と距離をおいていた東南アジア諸国も加盟に向けて動き出していた。
特に1997年のアジア通貨危機一髪が与えた影響は大きかった。
何やら海賊をナイフでめった刺しにする玩具のように聞こえるがれっきとした歴史用語であり、通貨危機に見舞われた各国にとっては死活問題だった。
アジア通貨危機一髪は、タイの通貨が固定相場制(ドルペック制)であることに着目した欧米のヘッジファンドが、タイ経済がドル高で輸出が減速気味だったにもかかわらずバーツ高のままで推移していたことを受け、バーツの空売りを仕掛けたことに始まった。
空売りで通貨を売り崩すことができれば、ヘッジファンドは通貨が安くなったときに買い戻せば巨額の利益が手に入る。
例え失敗したとしても、アジア諸国の為替レートが上昇していくため、損を被るという可能性は低いというマネーゲームとしては絶好の舞台と言えた。
標的にされたタイの中央銀行は、バーツ防衛のために買い介入を実施したが、7月には外貨が尽きてしまった。
タイ周辺のマレーシアやベトナムもバーツを買い支えたが、焼け石に水という状態だった。
そこで日本(日銀)が本格介入し、バーツ防衛に回った。
ヘッジファンドは戦線を拡大し、マレーシア、インドネシア、フィリピンの通貨(いずれもドルペック制の固定相場制)に対して大規模な空売りを仕掛けた。
これは同時攻撃によって日銀の対応能力を飽和させることを狙ったものだった。
しかし、日銀は24時間体制で淡々と各国の通貨を買い続けた。
最終的に1カ月ほどの攻防戦で約2000社ほどのヘッジファンドが倒産して、アジア通貨危機は去った。
アジア通貨危機一髪の黒幕とされたジョージ・オロスが主催するヘッジファンドが倒産し、出資者から詐欺でオロスが告発され逮捕されたことはよく知られた話である。
この時、タイの中央銀行では、年配の職員が空売りを潰されて狂乱状態の白人投資家達を見て、半世紀前に東南アジアから欧米列強を駆逐した神の軍隊の幻を見ていた。
「だいにほんていこく、ばんざい!」
と子供のころに教えられた日本語を思い出して叫ぶ職員もいたという。
なお、アメリカ政府は日本の為替介入について、不当な為替操作で自由な為替市場を歪めるものとして非難し、ヘッジファンドのマネーゲームを擁護する発表をしたため、東南アジア諸国を激怒させた。
アジア通貨危機一髪後、東南アジア諸国は通貨防衛のために日本と通貨スワップ協定を結び、東アジア経済共同体への加盟を検討するようになった。
それまで東南アジア諸国がEAECと距離をおいていたのは、EAECの参加が東アジア条約機構(EATO)への参加と同義語だったからである。
EAEC(経済同盟)とEATO(軍事同盟)は同時参加が原則だった。
経済の旨味だけをむさぼることは許さず、安全保障で日本と一蓮托生になることが求められたので、東南アジア諸国は二の足を踏んできたのである。
大戦後に独立した東南アジア諸国は基本的に日本寄りだったが、日米ソの核戦争に巻き込まれることを避けるために非同盟政策を採用してきた。
日本が通常兵器の不利を補うために核兵器を戦術使用することを公言していたので、下手に同盟に参加した場合、有事の際に戦術核兵器を自国内で使用されるリスクもかなり高かった。
しかし、冷戦が終結したことで核戦争のリスクが低下し、EATO参加へのハードルは大きく下がった。
日本軍も90年代に入ると戦術核兵器を大幅に減らし、海軍艦艇から撤去するなど非核化と通常兵器による代替を進めていることは、東南アジア諸国にとっては安心材料だった。
東南アジア諸国にとって、冷戦中の日本軍はあまりにも核兵器兇徒だったのである。
さらに日本の春で民主化が進み、軍事独裁国家色が薄れたことも好材料だった。
また、アジア通貨危機一髪は、もはや非同盟中立政策が経済という新しい戦争において安全を保障するものではないことを知らしめた。
中小国では経済を自主防衛することは不可能であり、経済においても同盟政策を追及するしかないという理解に至ったのである。
それなら頼るべきは、ハゲタカファンドの巣(アメリカ合衆国)よりも、義を重んじるサムライの国(大日本帝国)となる。
もちろん、日本も慈善事業で通貨防衛戦を実施したわけではなく、東南アジア諸国との同盟関係構築を進めるEAEC(EATO)拡大政策の一環だった。
同時期、NATOの東方拡大が進行中で、アメリカ中心の軍事同盟は冷戦後も拡大傾向にあった。
ロシアのアナリストは、冷戦が終われば存在意義を失ったNATOも解散に向かうと考えていたが、実際には逆のことが起きていた。
強大化する西側同盟に対抗するには、ロシアとの連携だけでは不十分で、EATOを拡大する必要があった。
また、日本の指導者(李東輝や石原新太郎首相)も、戦後内戦や冷戦対立で果たせぬままに終わった大東亜共栄圏構想を今こそ実現すべきときだと考えていた。
古参のナショナリスト政治家にとって、大東亜共栄圏構想(大アジア主義)の成就は思想的な悲願であった。
ちなみにタイは早くも1999年にEAEC(EATO)に参加している。
さらにマレーシアやベトナム、インドネシア(2005年参加)の同盟加入が相次ぎ、2006年にEAEC(東アジア経済共同体)は、AEU(アジア経済連合)に発展した。
同様にEATO(東アジア条約機構)も、APO(アジア条約機構)となっている。
経済力の回復と同盟拡大で自信を深めた日本は、アメリカを以前ほど恐れなくなり、イラク戦争への非難と対決姿勢を強めていった。
反対に、イラク戦争への支持と派兵へ突き進んだのがドイツだった。
ドイツはイラク戦争において最終的にイギリスを上回る兵力を派遣し、西側世界での立場を強化した。
ドイツは、冷戦中、東側世界では最も経済発展した地域だった。
ただし、それは東側世界での話であり、ドイツ革命後に民主化と市場経済化が進むと馬脚が露わになった。
東側時代の好調なドイツ経済を支えていたのは、同盟国価格で購入できるソ連の資源だった。
必要なエネルギー資源はソ連から幾らでも買えたことから、省エネルギー技術も発展しなかった。
そのため、東側から離反すると国際価格での購入を余儀なくされ、ドイツの貿易収支は急激に悪化することになった。
また、西側では当たり前になっている環境保護についても無関心だった。
工場からの煤煙で大気汚染が深刻になり、酸性雨でドイツの森の大半が死ぬという惨状を呈していたが、90年代まで何ら対策を講じることはなかった。
さらにドイツの市場経済化はあまりにも急激すぎた。
ロシアは日本からの助言で経済特区など、段階的な市場経済化政策を採用したが、ドイツは即時・全面的な市場経済化を選択した。
市場化を進めるための資金をIMFから借りたことで、ドイツ経済はアメリカ式の新自由主義経済の津波にさらされることになった。
ドイツは東側世界でも私企業の割合が多く、最も市場経済化が進んだ国だった。
それでも国営企業の占める割合は7割程度あった。
その殆どがIMFの指導で、即座に民営化されたことで、大混乱が発生した。
公営企業の大半は赤字経営だったことから、黒字化のために解雇や賃金切り下げが同時に進められ、失業率が激増した。
また、民営化しても採算悪化で倒産した企業も多かった。
民営化の手順も不透明な部分が多く、高給官僚が私物化していた公営企業が民営化する際にそのまま汚職官僚が経営者としておさまり、国家財産を横領していった。
この典型といえるのが、旧ドイツ工業省が中心となって民営化により形成されたガスリンデ・グループや、東側時代の三つの公営石油採掘企業から構成されたシュレーダーオイル・グループ、ドイツ化学省の看板がつけ変わったAGファーベンである。
所謂、オリガルヒである。
オリガルヒは、政治家や官僚と癒着して存在を拡大し、民主化の過程で影響力を拡大したマスメディアの支配を進めた。
ドイツの地方都市では、自治体よりも地元のオルガリヒが法律になっていることさえあった。
一方で、公的年金の引き下げなど、IMF主導で公的部門の支出削減が進められたことから、低所得者の生活不安が激増した。
そのため、民主化や市場経済化への期待は、急速に幻滅へ代わり、東側時代への回帰を望む急進左派政党が支持を拡大した。
また、東側時代に完全に根絶されていた右派勢力も社会不安の激増に伴って復活した。
自由になった祖国の現状が不自由だった時代よりも酷いものになったことが、革命の熱狂から落差を巨大なものにしたと言える。
また、西側のドイツ(ライン・ドイツ)が祖国統一を拒否したことも、冷戦後のドイツ社会に暗い影を投げかけた。
ライン・ドイツとしては、国家統合は人口比からしてライン・ドイツの吸収合併にしかならず、合併先のドイツが東側の優等生(笑)だったことが判明すると祖国統一の夢も急速に覚めていった。
ライン・ドイツは国土こそドイツの10分の1以下だったが、西側諸国の手厚い支援によりベルギーやルクセンブルクに並ぶ裕福な国となっていたのである。
敢えてその生活を犠牲にして、祖国統一の建前に殉ずるにはかなりの勢いが必要だったが、ドイツ革命が起きたのはベルリンであって、ライン・ドイツの首都ボンではなかった。
革命の勢いのままに祖国統一と考えていたドイツ人にとって、ライン・ドイツは裏切り者だった。それどころか、分かち合うべき富を独り占めする売国奴でさえあった。
ドイツのNATO加盟(1995年)が進められたのも、ドイツを孤立させると再び暴走する恐れがあったためである。
ドイツ軍は、冷戦中に持つことを禁じられていた参謀本部を革命のどさくさにまぎれて復活させるなど、ドイツ周辺国の警戒心を煽っていた。
しかも冷戦中に配備されていたソ連の戦術核弾頭のいくつかがドイツ軍に貸し出されたまま行方不明になっていたのだから、穏やかではなかった。
最終的に行方不明になっていた核兵器は、ドイツ軍の弾薬庫から「偶然」見つかったが、なぜそんなところに核兵器がしまい込まれていたのかは最後まで有耶無耶のままだった。
状況が変わるのは、2005年にアンゲラ・メーテルがドイツ初の女性首相に就任した後のことである。
ドイツ統一党を支持母体とするメーテル首相は、強いドイツの復活を掲げ、ドイツ軍の”防衛”の範囲を国家主権領域外まで拡大し、アフガニスタンやイラクへの派遣に踏み切った。
治安維持戦に必要な兵員不足で苦しんでいたアメリカはドイツ軍派兵を歓迎した。
ドイツ統一党が、ライン・ドイツの強制併合やオーストリアとのアンシュルス、さらにプロイセン領土の回復を主張する極右政党であることは無視された。
アメリカは、自国の戦争にも協力的で、NATOの軍事負担を積極的に受け持つメーテル政権を支持しない理由はなく、米独蜜月時代が続いた。
大抵のNATO軍派遣アメリカ将校にとって、何かと独自性を発揮したがるフランス軍や宗主国面するイギリス軍よりも、ドイツ軍の方がよほど付き合いやすい相手だった。
ただし、日本の軍事趣味者は、ドイツ軍が二度の世界大戦に敗北している経緯から、イラク戦争の行く末を米独軍の敗北と予想することが多かった。
そして、実際にそのとおりになった。
アメリカ主導の有志連合軍は、最終的に東欧各国軍さえ治安維持戦に投入したが、終わらない泥沼の治安維持戦に疲れ果て、次々にイラクから撤退していった。
イラクの武装勢力を支えたのは、イランの無尽蔵ともいえるオイルマネーと日露からの武器支援だった。
イラク戦争後の原油価格の高騰と経済発展著しい東アジアへの原油輸出でイラン経済は好調で、オイルマネーが有り余っていた。
イランはそのオイルマネーでロシアからは軽火器を購入し、イラク国内の武装勢力を支援すると共に日本からは重装備を購入して軍備近代化を推し進めた。
イ・イ戦争時代からイラン軍部と日本の軍事産業の繋がりは深いものがあり、イラン空軍のFー4などのパーツを供給したのは、日米蜜月時代の日本だった。
その関係は現在も続いており、イラン空軍のF-14の近代化改修に必要なパーツを供給しているのは日本の中島飛行機である。
中島飛行機は革命以前に入手したF-4やF-5、さらに日本から輸入したMig21Jなどの近代化改修にも無償で協力している。
見返りとして、イランは中島飛行機のNシリーズやMRJといった日本製旅客機を多数購入した。
イランの核関連施設防衛用に配備されているのは、日本製の63式地対空誘導弾(63式中SAM)で、射程距離以外はパトリオット・ミサイルやソ連のS-300を超えるとされる次世代型の中距離防空用ミサイルだった。
63式中SAMは、イラン・イラク国境地帯にも配備され、2009年にイラン領内に越境した米軍のF-16を撃墜している。
アメリカ軍は、イランからの武器支援を止めるために度々、越境爆撃を行っていたが、63式中SAMが配備されると有人機の爆撃を中止した。
代わりに巡航ミサイルやJSOWといった滑空爆弾を使用したスタンドオフ攻撃に切り替え、電子妨害機を投入して攻撃を継続したが、日本も技術者を派遣して63式中SAMに改良を重ねて対応し、日米電子戦争はいたちごっこが続くことになる。
イラク国内の戦いでも、ソ連製の新型RPGや対戦車ミサイル、歩兵携帯地対空ミサイルがアメリカ軍の戦車やヘリコプターを次々に撃破・撃墜した。
ゲリラの手に握られた銃は信頼と実績のAKで、ロシアにとっては冷戦中につくりすぎた軽火器の在庫処分セールだった。
旧式火器だけではなく、新式のAN-94やAEK-971なども供給され、実戦データの収集が行われた。
新式銃が供給されたバスラ周辺では、有志連合軍の死傷率が跳ね上がり、士気低下が深刻な問題となった。
業を煮やしてアメリカは日本やロシアをテロ支援国家と名指しで批判し、関係者や特定企業に経済制裁を発動した。
報復に日本や集、大韓帝国、中華民国が対米経済制裁を発動したので、アメリカ企業はサプライチェーンが寸断され、大打撃を受けることになった。
特に集や中華民国は、多数のアメリカ企業が進出していたことから、経済制裁の破壊力が高く、報復制裁の対象となったアメリカ企業の業績や株価が急落した。
90年代以降、世界経済の一体化が進む中で、東アジア地域は最も国際化が進んだ市場となっており、アメリカの一方的な経済制裁が通用する環境ではなくなっていた。
対露禁輸措置も、日本や集、中華民国が幾らでも必要な工業製品を天然資源と交換で輸出してくれるため、ロシアにとっては形ばかりの制裁にしかならなかった。
そして、マーリオ・ブラザーズ・ホールディングスが2008年9月に経営破綻したことにより、連鎖的な世界規模の金融危機が発生し、爆心地になったアメリカは戦争どころではなくなってしまった。
日本も金融危機に巻き込まれ、東証平均株価は46,000円から半分の25,000円まで下落し、経済がパニック状態になった。
西側金融体制から隔離状態のロシアでは金融危機は発生しなかったが、各国が金融不安から不景気になり、原油需要が激減したことで、財政危機に陥った。
イランもオイルマネーの減少から以前ほど気前よく武装勢力を支援することができなくなった。
大変皮肉な話だが、イラク戦争を決着させたのは、アメリカの株屋の経営破綻だったと言える。
危機的な経済状態のアメリカを引き継いだブラック・フセイン・オバマは、大統領選挙においてイラクからの米軍全面撤退を掲げ、2011年12月14日にはアメリカ軍の完全撤収によってイラク戦争の終結を正式に宣言した。