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日本の春

 日本の春


 冷戦終結から湾岸戦争に至る流れは、超大国アメリカによる一極体制を決定付けた。

 湾岸戦争(1991年)は、イラク・イラン戦争の戦時債務を踏み倒すためにイラクがクウェートに侵攻(1990年8月)、併合したことで始まる。

 イラクの独裁者オサム・フセイン大統領は、西側諸国(特に米国)と長年に渡り友好関係を築いており、この程度の火遊びは黙認されるという読みがあった。

 実際、イラク・イラン戦争中だったら、黙認された可能性はあった。

 しかし、世界が緊張緩和に向かう中でフセイン大統領の侵略戦争は、あまりにも空気が読めない行動だったとしか言いようがない。

 また、イラクの軍事力はイ・イ戦争を通じて中東最大にまで拡大しており、軍事的に弱体なサウジアラビアにイラクが侵攻して、中東統一戦争を始めかねないという危惧があった。

 2度のオイルショックに苦しめられた先進国は、イラクの行動を容認するわけにはいかず、アメリカ主導の対イラク武力行使容認決議に賛成票を投じることになる。

 11月29日に対イラク武力行使容認決議である決議678を米ソは一致して可決したことは、マルタ会談とともに冷戦の終わりを象徴する出来事になった。

 フセイン大統領はソ連が拒否権発動か、最低限でも棄権すると考えていたが、再び読みが外れた。

 さらにアメリカと関係が悪化していた大日本帝国が、賛成票を投じてアメリカ主導の多国籍軍に加わるのは完全に想定外だった。

 中東全域で日本は反ユダヤ主義国で、アメリカとは一線を画すサムライの国と思われており、日本軍がアメリカ主導の多国籍軍に参加することはフセイン大統領以外にとっても意外な印象を与えることになる。

 派遣兵力は、国家自衛隊2個師団と支援部隊、さらに海空軍の作戦機が611機と空母3隻(鳳翔・龍驤・瑞鳳)を基幹とする大艦隊だった。

 この兵力はアメリカ軍に次ぐもので、ソ連軍が急速に縮んでいく中で、世界第2位の軍事大国に浮上した日本人の帝国にふさわしい戦力展開だった。

 日本がアメリカ主導の多国籍軍への参加に応じたのは、油供給体制をイラクが脅かすことを危惧したためである。

 また、悪化しつづける日米関係を幾らかでも改善することが期待された。

 共通の敵を持つことは国家間の連帯を高める常套手段であるからだ。

 ただし、この派兵はかなり性急に、しかも政治主導で行われたもので、軍部の激しい反発を買うことになり、後に大きな問題となった。

 湾岸戦争開戦初日(1991年1月17日)、日本海軍は空母3隻を集中して、ペルシャ湾沿岸にあったイラク軍の対艦ミサイル部隊や対艦攻撃機の展開していた航空基地を虱潰しにした。

 これはイラク軍の対艦攻撃戦力が日本の石油輸入にとって脅威になっていたためである。

 イランは中東における最大の対日石油輸出国で、イ・イ戦争中はイランのタンカーを護衛するために日本海軍の駆逐艦がペルシャ湾に派遣されていた。

 1987年5月17日には、駆逐艦時雨がイラク空軍のミラージュF1から発射されたエグゾセ空対艦ミサイルを2発被弾し、大破炎上している。

 幸いなことに命中したミサイルのうち1発は不発で、2発目は艦内で爆発したがヘリ格納庫内だったことから火災のみで致命傷には至らなかった。

 時雨事件はイラクが誤射を認めて謝罪し、賠償金を払うことで落着したが、イラクの対艦攻撃戦力が日本の海上輸送に対して脅威足りえることを証明することになった。

 そのため、これを機にしばらく戦力を再建できないように、日本軍は徹底的な空爆と艦砲射撃でイラク軍対艦攻撃部隊を破壊することにした。

 空母機動部隊の主力は、艦上戦闘機「烈風」だった。

 烈風はアメリカ海軍のF-14をベースに開発されたマルチロール・ファイターで、これが初の実戦投入ということで大いに期待されていた。

 21世紀現在でも、空軍型の烈電をはじめとして様々な改良型が空海軍の主力航空戦力となっている烈風だが、その開発経緯は政治に翻弄された数奇なものだった。

 当初、烈風は開発経費の削減や日米友好推進のため、日米共同開発体制が採用された。

 日米共同開発が発表された1980年は、まだ日米平和友好条約締結の高揚感が残っていた。

 開発のベースとなったのはF-14トムキャットで、アメリカ海軍としては高価なF-14を日本の金で改良するという目論見があった。

 ただし、日本海軍が考えていたのは、F-14をベースとしているだけで、外も中も完全な国産戦闘機だった。

 最初から微妙なすれ違いを抱えていた共同開発体制は日米貿易摩擦が激化すると徐々に破綻に向かっていった。

 アメリカは、F-14のフライトコンピューターのソース開示を拒否した上に、エンジンにアメリカ製のF100を採用することを要求した。

 日本側は既に主翼に採用する炭素繊維強化複合材の情報開示を行った後であり、アメリカの措置はあまりにも理不尽だった。

 また、F-14の主兵装であるフェニックス・ミサイルの情報も開示されなかった。

 これは情報開示によって日本経由で、イランへ情報が流出することを米海軍が極度に警戒したためである。

 この危惧は後に現実のものとなり、日本の技術で改良されたイラン・トムキャットが登場するので、米海軍の危機感は正当なものであった。

 しかし、「はいそうですか」と受け入れられるかどうかはまた別問題である。

 ボルガダイナマイトが爆発した1985年に共同開発体制は完全破綻し、日本は単独開発に切り替えることになった。

 なお、フライトコンピューターのソースが最後まで開示されなかったため、烈風は可変後退翼の採用を見送った。

 これを技術的な後退と捉える意見もあるが、実際のところ可変後退翼はパワーのあるエンジンがなかった時代の過渡期の技術で、思っていたほど運動性向上に資するものではなかったことが試験で明らかになったことが大きかった。

 F-14は可変後退翼のために複雑で重いギミックを搭載しており、戦闘機同士のドッグファイトでは重両面で不利だった。

 烈風は炭素繊維強化複合材製の後退翼とLERXとの組み合わせで、本家F-14よりも高い運動性とメンテナンスコスト低減を実現している。


挿絵(By みてみん)


 爆撃の仕上げには戦艦大和と武蔵の46センチ砲による艦砲射撃が行われた。

 大和型戦艦の実戦での艦砲射撃は大東亜戦争のハワイ攻略作戦以来のことで、大和と武蔵にとってこれが最後の主砲発射となった。

 この時、イラク軍は温存していた対艦ミサイルを全弾発射して、反撃している。

 イラク軍がより脅威度の高い空母ではなく、大和と武蔵を狙ったのは沿岸から離れている空母を狙っても迎撃されてしまう可能性が高いことや、戦艦という象徴的な軍艦を被弾・炎上させることで政治的な打撃を与えることを狙っていたためである。

 しかし、イラク軍のミサイル発射は早期警戒機によって探知されており、即座にイージス・システムによる全自動対空戦闘が始まった。

 大和と武蔵はソ連軍の対艦ミサイル飽和攻撃に対抗するために、大量の艦隊防空スタンダードミサイルを搭載しており、随伴の磯風型駆逐艦(島風、旗風)と共に100発近い誘導弾を発射した。

 飛来したシルクワームは33発だったが、全弾が艦隊外縁で撃ち落され、個艦防空ミサイルやCIWSを使用する場面は生じなかった。

 あまりにも一方的な展開だったため、


「ペルシャ湾の七面鳥撃ち」


 というイラク軍を舐め切った報道発表がなされたほどである。

 日本には七面鳥を撃つ文化はないため、上記の報道はアメリカ海軍を意識したものだった。

 アメリカ海軍は意地になって戦艦ウィンシスコンとアイオワにイージス艦タイコンデロガとバンカーヒルを護衛につけてイラク沿岸を艦砲射撃したが、イラク軍の対艦ミサイルの在庫が尽きていたため、ド派手なミサイル迎撃戦は発生しなかった。

 しかし、戦艦4隻が艦砲射撃を実施したことで、イラク軍はバスラ近郊へ多国籍軍が上陸する公算が高いと判断することになった。

 これは完全な判断ミスで、多国籍軍を率いるアメリカ陸軍のベープマッド・シュワルツコフ大将は、ペルシャ湾やイラク沿岸で日米艦隊を派手に動かすことで、イラク軍の注意を内陸から沿岸に逸らそうとしていた。

 シュワルツコフの狙いは、サウジアラビアの砂漠地帯を迂回して、西からクウェートに展開したイラク軍を奇襲することだった。

 日本海軍の海軍陸戦隊や米海兵隊は強襲揚陸艦に乗船し、敵前上陸作戦に備えていたが、これもイラク軍に対する陽動作戦だった。

 さらにサウジ国境から日本軍(国家自衛隊)と米海兵隊が、クウェート解放に向けて北上してイラク軍の防衛ラインに衝突するとイラク軍の耳目は完全にクウェート南側に集中することになった。

 多国籍軍の陽動作戦に参加した国家自衛隊第1師団「大日本」及び第2師団「髑髏」は国家自衛隊で最初に師団編成されたエリートの中のエリート師団だった。 

 そのため、装備も非常に優遇されており、両師団ともに日本軍最新鋭戦車の40式戦車を450両も保有する重師団編成となっていた。

 40式は60年代にT-62のライセンス生産で取得したソ連式戦車設計を日本の技術陣が独自にアレンジして送り出した日本初の第3世代戦車だった。

 40式戦車は、ソ連式設計をベースに複合装甲の採用や120mm滑腔砲、カセット式自動装てん装置、高度な日本製車載電子装備によって構成されていた。

 車載電子装備と砲塔安定装置の組み合わせによって昼夜関係なく自動照準と行進間射撃が可能となっており、砲の先に水を入れた紙コップを載せて走り、1滴も零さず演習場を駆け抜けたという都市伝説さえある。

 ガスタービンエンジンの採用で運用経費が高い車両になってしまったが、重量を42tに抑え込んだことは、対ソ攻勢作戦において極めて重要だった。

 ソ連は国土防衛ため同じ重量のT-72戦車を基準に橋梁を建設しており、シベリアに攻め込む日本軍にとって、戦車が軽いことは戦略・戦術機動性を担保する重要な要素だった。


挿絵(By みてみん)


 大日本師団及び髑髏師団は米海兵隊を相手にクウェート一番乗りを競い、イラク軍の防衛ラインを食い破って僅差で先着することに成功した。

 しかし、日本軍の派手な攻勢は全体の作戦計画においては陽動でしかなかった。

 このことは日本軍には知らされておらず、配布された作戦計画書においても微妙にぼかされていた。

 シュワルツコフは戦争の主役を自国軍にするため策を弄したのである。

 米軍を主力とする多国籍軍の奇襲攻撃は1991年2月24日の深夜に始まり、砂漠を迂回した戦車部隊がクウェートを時計回りに包囲するように展開した。

 注意を南から迫る日本軍に向けていたイラク軍は、まさか多国籍軍が何もない砂漠を走ってイラク方面(西側)から迂回攻撃してくるとは予想しておらず、大パニックに陥った。

 米軍は潰走状態になったイラク軍を一方的に撃破し、僅か100時間で地上戦を終えた。

 地上戦は一部の例外を除いて殆ど射的大会の様相を呈していたが、これはイラク軍がパニック状態だったことが大きく作用した。

 パニックを起こす以前のイラク軍は、少なからぬ損害を日本軍に強いており、極めて手ごわい軍隊だったのである。

 なにしろイラク軍はイ・イ戦争で実戦慣れしており、実戦経験という点では、多国籍軍のどの軍隊よりも経験豊富だった。

 冷静な状態のイラク軍が丁寧に構築した防衛線にまともにぶつかった日本軍が、少なくない損害を出したことはある意味、当然のことだった。

 しかし、そうした事情は西側マスコミに無視され、イラク軍を圧倒した強い米軍とイラク相手に苦戦した弱い日本軍という構図が作られた。

 航空戦においても、同様の構図が生じた。

 イラク軍の対艦攻撃部隊撃滅を第1とした日本軍の空爆は、有体に言えば地味だった。

 マスコミが喜びそうな絵になったのは戦艦大和と武蔵の艦砲射撃ぐらいなものだった。

 それに対して、米軍のトマホーク巡航ミサイルやステルス機(F117)を使用したバグダッド夜間空襲は、イラク軍の派手な対空砲火という演出も加わって、極めてマスコミ受けする絵になった。

 米空軍がリークしたテレビ誘導爆弾による夜間精密爆撃の映像は繰り返し報道され、テレビゲーム戦争という言葉を作り出した。

 日本軍も同じテレビ誘導爆弾を実戦投入していたのだが、放送されるのは米軍の攻撃シーンばかりで、日本軍はハイテク兵器を持っていないかのように誤解された。

 戦艦大和の砲撃でさえ、旧式兵器で戦う日本軍といった偏向した報道として利用された。

 アメリカ軍はベトナム戦争の反省からマスコミ戦略を極めて重視するようになっており、テレビから日の丸を消すことに成功したのである。

 反対に日本軍のマスコミ対応はまるで魔法が切れたかのように冴えなかった。

 湾岸戦争後、マスコミ戦略で何倍にも増幅したアメリカ合衆国の軍事力は、ソ連崩壊(1991年12月)によって世界で唯一のものとなった。

 ソ連のボルガチョフ書記長は、ペレストロイカとグラスノスチで祖国を救おうとしていたが、彼が権力を掌握した時点でソ連は既に手遅れの状態だった。

 日本との再接近も、大勢を覆すには至らなかった。

 日本企業が進出した経済特区は、多くのロシア人に市場経済のあり方を示すことに成功したが、その商品価格は一般市民の手が届くものではなかった。

 経済特区で日本の商品を買えるのは、ソ連の富裕層ノーメンクラトゥーラだけだった。

 一般市民の所得で買える品物は国営市場にしかなく、そして国営市場の商品棚は空っぽのままだった。

 また、ボルガチョフが導入した市場経済は、ソ連という国家そのものの正当性に疑問を投げかけることになった。

 この場合の正当性とは共産主義というイデオロギーである。

 いずれ全ての人が迎えることになる約束された世界(共産主義的理想世界)の正しさを信じていた人々にとって、全ての犠牲はそのための代価だった。

 その犠牲が全て無意味だったことを、その理想を喧伝してきた自国の政府から知らされた人々の虚無感を余人が想像することは難しい。

 強いて日本に当てはめるとしたら、大日本帝国が大東亜戦争に敗れて降伏し、昭和帝アラヒトガミが人間宣言をしたり、明治の歩みを帝国主義として全否定され、明日から民主国家日本になるような状態だと考えれば分かりやすいだろうか。

 もちろん、そのようなことは起きなかったので、想像することはやはり困難としか言いようがないのだが、ソ連社会の動揺は凄まじいものだった。

 イデオロギーの正当性を失ったソ連は膠がはげた革製品のように崩れ去ろうとしており、そこに湾岸戦争の衝撃が降り注いだ。

 イラク軍が使用したT-72戦車といったソ連製兵器が多国籍軍によって泥人形のように破壊される様子は、ソ連の「力」もイデオロギーと同様に虚偽の産物ではないか?という疑念を呼ぶことになった。

 ソ連軍上層部は、イラク軍の使用した兵器はモンキーモデルで、本国仕様とは異なると説明したが、そうした言い訳に耳を傾ける人々は殆どいなかった。

 崩壊を食い止めるために保守派が起こしたクーデタも悪あがきに過ぎず、却って崩壊を決定的にしただけに終わった。

 ソ連崩壊はアメリカ合衆国にとっては自国のイデオロギー的勝利だった。

 自由主義・民主主義・資本主義こそが普遍的な価値(真理)であり、アメリカ合衆国はその担い手として、真理を世界に広げる義務があると確信させた。

 ソ連崩壊に伴う国家機密の流出により、ソ連という体制がコミュニズムというよりも、軍部と共産党によるファシズム体制であったことが明らかになると、ますますアメリカのエスタブリッシュメントは自国の正義を確信するようになった。

 ナチス・ドイツに続き、ソ連というファシズムを打倒したアメリカが、次に倒すべき敵は最後の枢軸国・大日本帝国であることは言うまでもないことだった。

 強気のアメリカに対して、幕府の対応は混乱したものとなった。

 特に指導者の喪失、昭和天皇(1989年)の崩御と田中角英国家元帥(1993年)の死去は、近代幕府体制を動揺させた。

 特に昭和天皇の崩御と改元は、日本人を一種の虚脱状態にさせた。

 テレビ各社は報道特別番組を組み、昭和天皇の健康状態を分単位で報道するなど、総動員体制で現人神の最期を伝えた。崩御と同時に日本国内は喪失感情で覆われ、各地では祝い事や催しものが自粛され、国中が暗いムードに包まれた。

 現人神の死は、それほどまでに大きかった。

 逆に田中国家元帥の死は、その直前まで国民に知らされることはなく、突然発表されたのでパニックに近いことになった。

 田中国家元帥は、1990年の末頃から寝たきりに近い状態だったのだが、体制の動揺を恐れた側近達の手によって情報統制が敷かれていた。

 寝たきり状態の角英に代わって実際に国家元帥の職権を行使していたのは、角英子飼いの伊沢一郎だった。

 湾岸戦争への日本軍派遣を決めたのも角英ではなく、伊沢だったことが後に判明している。

 角英は湾岸戦争をアメリカの大義なき戦争として否定的だった。

 しかし、伊沢はアメリカとの経済交渉を有利にする外交カードとして参戦へ突き進んだ。

 伊沢は軍部に事前相談もなく参戦を決定したため、軍部の強い反発を招いていた。

 軍部は、近代幕府の真のオーナーは文民ではなく、武官であると自認していたからである。

 特に海軍は未だに大東亜戦争で参加した佐官クラスが元帥として睨みを利かしていた。

 彼らにとって伊沢は、


「角英の威を借る狐」


 程度にしか思われていなかった。

 実際のところ、伊沢には角英のようなカリスマ性は皆無だった。政治的な駆け引きには長けているものの、尊大な態度が鼻につき、強権的な政治手法のみが目立った。特に敵対するものに示す冷酷さはある意味、独裁者らしい独裁者だと言えなくもなかった。

 日本国と自己を同一のものに昇華して国家の発展に尽くした山本国家元帥ミリタリーアラヒトガミや、何もかも飲み込んで抱擁してしまう田中国家元帥カリスマスターの方が、独裁者としては異例の存在だった。

 それでも角英が存命のうちは伊沢の指示にも従った。

 軍部の意識では伊沢ではなく、角英の指示に従っているつもりだった。

 しかし、角英が死去し、さらに湾岸戦争参戦で少なくない犠牲を払ったにもかかわらず、対米外交が好転しないどころか、ますます悪化したことから軍部は伊沢に不信感を深めた。

 さらにマスコミ戦略の失敗から、無敵日本軍の看板が傷がつくことになり、こんなことなら湾岸戦争に参加すべきではなかったという意見さえあった。

 解放したクウェートから感謝されたものの、勝利したはずなのに敗北感を覚える結末に終わった軍部の不満は大きなものだった。

 軍部の態度に不安を覚えた伊沢は第3代国家元帥位につくと軍部への人事介入を繰り返したが、これが軍部長老との対立を決定的なものにした。

 また、幕府は汚職にまみれており、国民の支持を失っていた。

 冷戦末期、特に80年代は近代幕府体制の弛緩が進んだ時期で、企業と政府の癒着により多くの疑獄事件が発生していた。

 その中でも最大の疑獄事件がコンクリート事件で、多数の翼賛議員や官僚、企業人が逮捕されて世論の厳しい批判を浴びることになった。

 伊沢も賄賂を受け取った一人だったが、秘書の独断であるとして起訴を免れていた。


「権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する」


 とは、イギリスの格言だが、近代幕府も国家元帥の殆ど絶対的な権力ゆえに腐敗にまみれていた。

 角英の死の間際まで続いた列島改造計画では、膨大な国費がインフラ建設に投入された。

 そのうちの幾らかが政治献金として幕府高官の懐に収まったことは公然の事実だった。

 それでも経済が右肩上がりなら、政治の腐敗はある程度は黙認されていた。

 角英が産業のなかった地方にコンビナートや工業団地をつくり、インフラ産業へのテコ入れで経済を成長させたことは、現在でも高く評価されている。

 しかし、不動産や株式の暴落によって、日本経済に急減速がかかるとカリスマ性のない腐敗した独裁者に批判が殺到するのは当然の成り行きだった。

 日本のバブル崩壊は、1990年1月から10月まで続いた株価の断続的な下落に始まった。

 10月時点で、株価は20,000円を割って1月時点の最高値38,915円の半分にまで下落した。

 地価も1991年夏をピークに下落しており、土地を担保に融資を行っていた銀行は、担保価値が融資額を下回る担保割れの状態に陥った。また、融資を受けていた企業も未曾有の不景気で収益が減少して、巨額の融資が焦げ付くことになった。

 日本のバブル経済が崩壊した原因は、一言で言ってしまえば、冷戦が終結してしまったからだった。

 新冷戦において、日本は新八八艦隊計画などの大規模軍拡を進めた。

 この軍拡に必要な政府支出は、専ら新規通貨発行によって賄われた。

 誤解がないように敢えて記述するが、1989年に導入された消費税は軍拡の財源ではなく、インフレーション抑制を目的に導入されたことを明記しておく。

 そもそも消費税が導入された時点で、日本は既に軍縮に転じており、消費税が軍拡の財源と考えるのは時系列に無理がある。

 さて、国家による新規通貨発行は、幕府が国債を発行するところから始まる。

 幕府が発行した国債を購入するのは民間銀行である。

 この時、民間銀行に預けている国民の預金で国債が買われているというバカげた意見が散見されるので敢えて記述するが、民間銀行が預金で国債を買っているという事実はない。

 預金とは、読んで字のごとく預かり金である。

 あなたが友人から預かった金で勝手に飲み食いしないように、銀行もあなたから預かった金で勝手に国債を買ったりはしない。

 銀行預金で国債が買われていると主張する人は、


「あなたから預かった金で国債を買ってよろしいでしょうか?」


 と銀行からお伺いを立てられたことがあるのだろうか。少なくとも筆者にはそのような通知が届いたことは一度もない。

 民間銀行が国債を買うときの資金は、日本銀行(中央銀行)から借りてきたものである。

 では、日銀は銀行に貸し付ける資金をどこから調達するのだろうか?

 それは印刷所で、輪転機を回して新しいお金を印刷して用意する。

 実際には輪転機すら回っておらず、帳簿に貸し付けた金額(1兆円でも、10兆円でも、100兆円)を書き込むだけの作業に過ぎない。

 現代なら、キーボードで貸した金額をパンチして電子データで処理する。

 日銀は幕府の一機関であり、幕府(日銀)が新しいお金を印刷して民間銀行に貸し付け、そのお金で民間銀行が国債を購入し、その代金を幕府に渡す=幕府の新規通貨発行が成立する。

 稀に国債が国の借金という意味不明な珍説を唱えるものがいるので敢えて記述するが、国債は新しく発行したお金の法的根拠書類でしかない。

 お金が何の法的根拠もなく存在していて、お金そのものに価値があると勘違いしている人がいるが、それは金貨や銀貨を使っていたころの話である。

 現代の管理通貨制度において、お金の存在は法的根拠によって成り立っており、法的根拠がなくなればそのお金はただの紙切れでしかない。

 クーデタや内戦で国家が崩壊すると紙幣がケツ拭き紙になり下がるのはその為である。

 そもそも日本の国債は、償還義務があっても償還期限が存在しない。

 よって、


「返す…!返すが…今回まだその時と場所の指定まではしていない。どうかそのことを諸君らも思い出していただきたい。つまり…我々がその気になれば金の受け渡しは100年200年後ということも可能だろう…ということ…!」

 

 ということも可能なのである。

 こんな借金が存在するのなら、是非とも融資を受けてみたいものである。

 実際のところ、幕府は1945年の開幕以来、一度も国債の償還をしたことがない。

 しかし、何の問題も生じていない。なぜならば、前述のとおり国債=お金であるからだ。

 むしろ、国債を償還してしまうとお金が消滅してしまうのである。

 では1,000兆円でも、1京円でも新しくお金を発行して、好きなだけ軍拡をすればいい、税金を無しにしろという意見が出てくるが、それは不可能である。

 そのような大量の通貨発行を一度に行えば、激しい物価上昇インフレーションになり、経済を破壊してしまう。

 また、国債を償還する必要はなくとも、金利負担は毎年発生する。

 金利も新しい通貨を発行して支払うことになるのだが、そうすると新規に通貨を発行すれば発行するほど金利負担が増えることになる。

 金利負担が大きくなりすぎると、通貨の量が多すぎ(物価上昇)になるので、好ましいことではない。

 そこで幕府は金利負担を圧縮するために意図的に公定歩合を低く抑えていた。

 そうすることで金利支払いを回避しつつ、軍拡に必要な通貨を発行したのである。

 新冷戦中の日本の軍事費は毎年50兆円程度で、最も多いときでさえ単年度で65兆円だった。

 80年代の10年間で500~550兆円の新規通貨発行を行っており、これが国内に流通することで、バブル景気を生み出した。

 バブル時代に札束が乱れ飛び、庶民でさえ海外旅行やブランド品を買い漁るような贅沢が楽しめたのは、幕府が500兆円も新しくお金を発行して、国内企業にバラまいたからである。

 しかし、公定歩合を低く抑えたことで、流通した通貨が預金ではなく、利益率の大きい不動産投機や株式投機へと向かうことになった。

 特に地価は、日本列島改造計画によって毎年全国で上昇していたので、土地を担保に低金利で借金をして種銭を作り、土地や株式を買い、数年後に売却すれば十分にリターンが約束されていた。

 場合によって担保なしで借金(高金利)してでも、株や不動産投機を始めるものがいて、それが成功してしまったので、ますます手が付けられなくなった。

 しかし、冷戦が終結すると幕府は一転して軍縮に取り組むことになった。

 軍拡の終了で、新規の通貨発行が大幅に減った上に、インフレーションの進行を抑えるために急激に公定歩合の引き上げが行われた。

 しかし、この金利引き上げは性急すぎた。

 資金が株式市場や不動産市場から、安全資産である預金へと一気に移動したことで、株式市場や不動産市場の大暴落を引き起こしてしまったのである。

 また、消費税の導入で消費者心理に与えた打撃も大きかった。

 景気の急激な悪化に加えて、東欧革命やソ連崩壊によって政治改革を求める声が大きくなった。

 ドイツや東欧各国の一党独裁体制が崩壊し、民衆が自由を獲得する様は衛星放送で日本にも届いていた。

 それに触発された集では1989年6月4日に民主化を求める学生運動が頂点に達し、デモ隊が天安門広場を占領した。

 所謂、6・4天安門事件である。

 この事件は最終的に集政府がデモ隊の要求を受け入れ、段階的な民主化改革を進めることで決着した。

 6・4天安門事件は隣国の大韓帝国を大きく揺さぶり、日本の国内世論にも政治改革を求める声が高まった。

 晩年の角英は伊沢を後継者指名したことについて、


「あいつではおさまらんよ」


 という後の展開を予言した発言を残している。

 ちなみに田中国家元帥の実子である田中真子は国家元帥位の世襲を画策して、角英を激怒させ、集に政治亡命している。

 田中真子は、事実上のファーストレディとして公務に携わることも多く、露出が多いことや歯に衣着せぬ言動から国民的な人気もあった。

 当時の政治情勢からして世襲も十分に可能であり、伊沢よりも国家元帥位に近いと考えられていた真子の亡命は、現在では親の最後の愛情だったと考えられている。

 戦後内戦が生んだ近代幕府は、冷戦終結によって急速に幕末へと向かっていた。

 米ソの狭間で生き延びるために作られた高度国防国家体制は、冷戦が終わったことでその存在意義を急速に失おうとしていた。

 大政翼賛会の非主流派は翼賛会を離脱して、非翼賛議員と合流して国政改革を掲げる新生党を結成し、1994年の衆議院選挙で大勝利を収めた。

 新生党の勝利によって、大政翼賛会は少数与党に転落し、戦後内戦から続いた帝国議会の翼賛体制は崩壊した。

 海外メディアはこれを日本の民主化として大きく取り上げた、

 伊沢は議会で野党から集中放火に晒されることになり、答弁に窮することが多く、国家元帥の権威は株価のように急降下していった。

 伊沢は悪化していた景気を回復させれば、民意の支持はすぐに戻ると考えていた。

 しかし、阪神淡路大震災(1995年1月17日)が発生し、伊沢の無能力ぶりが示されると国家元帥の権威失墜は極まった。

 伊勢湾台風以来の大規模災害となった阪神淡路大震災で、伊沢は被害状況の把握がまるで出来ておらず、詳しい被害をテレビ報道によって知る始末だった。

 軍部は震災発生直後に写真偵察機を飛ばすなど、情報収集を図り、災害出動のための準備を進めていたが、伊沢からの指示がないためむなしく時間を空費した。

 災害出動が遅れたのは、情報収集・集約体制の不備が大きかったが、伊沢が軍部に対して不信感を持っていたのが最大の原因だった。

 伊沢は警察や消防で対応可能と考えており、軍の出動に否定的だった。

 湾岸戦争以後、軍との軋轢を強めていた伊沢は軍部に政治的な得点を稼がせたくなかったのである。

 結果として、多くの犠牲者が倒壊した家屋によって押しつぶされたまま大規模都市火災によって焼死(最終的な死傷者は約6,000人)することになった。

 海軍が待機させていた消防飛行艇が飛んだのは、神戸市がほとんど燃え尽きたあとのことだった。

 震災対応の失敗は、誰かがその責任をとらなければならなかった。

 軍部は糾弾会となった帝国議会において、災害出動が遅れた原因を伊沢に擦り付けた。

 擦り付けというよりは、事実をありのままに話しただけとも言える。

 これに対して伊沢が示したのは怒りだけだった。

 伊沢は議会で不利な証言をした福田定壱陸軍参謀総長を罷免した。

 理由は服務規程違反(副業禁止)だった。

 これに激怒した藤堂晋空軍元帥が、抗議のために国家元帥官邸に乗り込み、そのまま行方不明になったことで事態は引き返し不能点を越えた。

 3月危機の始まりだった。

 藤堂元帥に心酔していた空軍の各部隊は自発的に各地の航空基地で籠城態勢に入った。

 もっとも過激な反応を示したのは三沢空軍基地で、爆装したF-16Jが国家元帥官邸を爆撃するべく離陸した。

 これは爆撃直前に、藤堂元帥の無事が確認されたことから未遂に終わった。

 しかし、事態の平和的な収束させる手段はもはや失われており、伊沢は先手をとるべく東京第1師団師団長を予防拘禁した。

 さらに反政府ゲリラによって地下鉄にサリンが散布されたとして、国家自衛隊を治安出動させた。

 これは伊沢派の自作自演で、散布されたのは催涙ガスの一種(本物の毒ガスも用意された)だった。しかし、東京をパニック状態にするには十分だった。

 伊沢は戒厳令を布告し、東京各地の政府施設や放送局、皇居を国家自衛隊に占領させた。

 帝国議会は閉鎖され、東京にいた改革派の代議士の多くも逮捕、拘束された。新生党本部も国家自衛隊によって制圧されている。

 しかし、それが伊沢の限界だった。

 これが半世紀前なら伊沢派のクーデタは完全に成功していたかもしれない。

 しかし、角英の置き土産が伊沢の野望を阻むことになった。

 角英の死まで続いていた列島改造計画は、1993年時点でほぼ完成しており首都機能は全国に分散されていた。

 東京に残っていた中央官庁は、国家元帥府と内務省だけになっており、あとは皇居と帝国議会ぐらいだった。

 よって、東京を占領したぐらいでは、国家中枢を掌握したことにはならなかった。

 列島改造計画は、地方のインフラ整備によって工業地帯を分散し、国土の均一なる発展を目指したうえで、本土が米ソから核攻撃を受けることを想定し、国家機能を可能な限り分散化することで国家存続を図るものだった。

 その正しさは3月危機において完全に証明された。

 日本各地に分散された中央官庁は、東京との連絡を絶たれたあとも独自に行動を続け、国家機能全体が停止することを阻止した。

 むしろ、国家自衛隊によって直接占領された東京の方が通信途絶や物流の寸断で徐々に都市機能が麻痺していった。

 東京都内は当初こそ毒ガスの恐怖で恐慌状態になったが、徐々に落ち着きを取り戻した。

 そして、都市機能の麻痺が進むと怒り狂った民衆によるデモ(暴動)が発生した。

 デモ隊は日ごとに規模が拡大し、その速度は国家自衛隊の想定を遥かに超えていた。

 デモ隊組織の急拡大を可能としたのは、インターネットだった。

 1995年は、日本のインターネット元年と言えた。

 国家自衛隊は放送局や新聞社、さらに電話回線などを制圧しており、無線通信も妨害電波で無力化するなど情報遮断に万全を期していたが、インターネットの利用については無警戒だったのである。

 日本でのインターネットの利用はまだ黎明期で、国家自衛隊でも利用方法については研究途上だった。

 しかし、ネットへの理解度の低さが伊沢派を敗北へと追い込むことになった。

 デモ隊の指揮に有用だったのは、開設されたばかりの個人HPの匿名掲示板だった。

 「祭り」や「凸」、「タヒる」、「ぬるぽ」、「すくつ」、「希ガス」といったネットスラングは、国家自衛隊の監視からデモ隊の行動を秘匿するために生まれたものである。

 「祭り」はデモ活動を意味している。「凸」はデモ隊による自衛隊員への襲撃を意味しており、「タヒる」は死傷者が出たという暗喩である。「ぬるぽ」は暴行、「すくつ」はデモ隊の集合地点を意味している。「希ガス」は催涙ガスが使用されたという意味だった。

 当時の個人向け回線接続サービスの大半は低速なダイヤルアップ接続だったが、デモ隊を指揮した李東輝は匿名掲示板や電子メールをフル活用した。

 3月危機で一躍、時の人になった李東輝は、台湾出身の代議士だった。

 台湾といえば日清戦争以来、日本の南方植民地である。

 そのため、台湾出身者の被選挙権は長く認められておらず、李が代議士になったのは1978年のことだった。

 李を政界に引き上げたのは、田中国家元帥その人である。

 台湾総督府で行われた農政改革のプレゼンテーションで、農業技術者として新政策を提言した李を気に入った角英から一本釣りされたのである。

 その後は角英の側近の一人として、台湾と日本を往復する日々を送った李だったが、中央政界においては傍流の傍流でしかなく、権力闘争とは無縁の存在だった。

 李の立ち位置は、優秀な農業テクノクラートであり、周囲もそう考えていた。

 幕府体制の動揺や翼賛会の分裂を見ても、伊沢派が牛耳る大政翼賛会にとどまっており、保守派という評価を得ていた。

 そのため翼賛会分裂で人材不足気味になった伊沢から信頼を得て、3月危機の直前に農林大臣に抜擢されている。

 しかし、李は3月危機を日本民主化の好機と捉え、伊沢に反旗を翻した。

 李は過去に共産党に所属していたことがあり、警察に逮捕・拘留され取り調べを受けたことがあった。

 李と共産党の繋がりを証明する物証がなかったことや陸軍時代の同僚からの支援もあって、李はしばらくして解放された。

 しかし、凄惨な拷問を受けた経験から、李は幕府体制の転覆・民主化を志すようになり、その機会を静かに窺っていたのである。

 そのため、政治史の研究では李から角英に接近したと思われていたが、前述のとおり李を幕府中枢に引き上げたのは角英だった。

 近年、角英は李の密かな野望を知っていて、意図的に政権中枢に引き上げた可能性があることが情報公開によって示唆されるようになった。

 李が角英の側近になって暫くすると、国家自衛隊の身辺調査によって李が過去に共産党員だったことを示す物証が見つかり、逮捕状が請求されていたのである。

 なぜ、李が逮捕されなかったのかは不明のままである。

 李の周辺で国家自衛隊の逮捕状を握りつぶせるほどの権力を持っていたのは、田中国家元帥をおいて他に考えられない。

 70年代は日米和解の流れを受けて国内で凶悪な共産主義テロリズムが頻発した時期であり、幕府の中枢に共産主義者が存在するのは危険極まりないことだった。

 角英の真意は闇の中であるが、李はデモ隊にいち早く接触し、その組織化と主導権確立に成功し、3月危機の主役に躍り出た。

 李がデモ隊指揮に活用したのがインターネットとAppleのMacintoshPCだった。

 李とそのスタッフが、ネットとMacintoshPCを使いこなせたのは、台湾がコンピューター産業に力を入れ、Appleの本社を台湾に誘致していたためである。

 Appleがキヤノンに買収されたのは1990年で、バブル崩壊の只中のことである。

 そのため、Apple買収はバブル経済期における最後の大型買収劇となった。

 当時のAppleは創業者が社内権力闘争に敗れて離脱し、商品開発が迷走していた。

 さらにマイクロソフトとインテル連合に市場シェアを奪われ、業績が悪化し続けており、身売り先を探していたのである。

 キヤノンにAppleが買収されると反日感情からWindowsPCに乗り換えるものが続出したため、


「Appleは日本に行って死んだ」


 とさえ言われた。

 しかし、AppleがNeXTを買収し、創業者が復帰すると奇跡的に息を吹き返した。

 Apple奇跡の復活には、台湾への本社移転という名の大規模リストラと創業者の社内独裁体制確立も大きかった。

 台湾は日本の農業生産地帯で長く水稲や製糖が主力産業だったが、80年代末からコンピューター産業の集積が進んでいた。

 台湾経済界がコンピューター産業を選んだのは、従来型の産業(鉄鋼や機械、自動車)で先行する本州企業に歯が立たないためだった。

 李も田中国家元帥の側近として半導体メーカーの台湾誘致に尽力しており、Appleの本社誘致のために支援を惜しまなかった。

 しかし、Appleの台湾誘致の決め手となったのは、田中国家元帥の鶴の一声だったと言われている。

 キヤノンも社内史において、Apple買収について幕府からの強い指導があったことを認めており、Apple買収が国策だったことは明らかである。

 当時、落ち目だったAppleの買収に角英が執心した理由は不明だが、Appleの創業者がステファニー・ジョブズ(女)であると知った角英が、耳を疑う顔をして何度も性別確認させたことはよく知られている。

 話を3月危機に戻すと、李の指導によってデモ隊は数を日ごとに増やし、自衛隊を数で圧倒するようになっていった。

 3月25日には国家自衛隊がデモ隊に発砲して、デモ隊から初の死傷者が出た。

 3月27日には、空軍が李東輝支持を表明し、厚木基地の武器庫が開かれ、空軍の基地警備部隊とデモ隊が合流した。

 ここから東京都内で散発的な銃撃戦が始まり、市街戦の様相を呈することになる。

 3月30日にはデモ隊が国家自衛隊を自力で排除して東京都庁を再占領し、拘束されていた石原新太郎都知事を解放した。

 石原都知事は、翼賛会の古参ナショナリストで、伊沢派を除く翼賛会の代議士に結集を呼びかけ、石原新党(保守党)が結成された。

 李(デモ隊)・石原(保守党)の連合軍が結成され、伊沢派は追い詰められた。

 伊沢は保身のためにクーデタを起こしたが、事態を収拾する方法を見失っていた。

 伊沢の切り札は勅命講和だったが、平生帝は断固として伊沢の要求を拒否した。

 この時、平生帝は国家自衛隊員から銃を向けられていた。

 しかし、少しも動じず、泰然とした態度を貫き、伊沢の失政を厳しく叱責した。

 最後まで現人神だった昭和帝と異なり、平生帝は人間天皇への転換を志し、阪神淡路大震災では被災地を行幸して、被災者を励ますなど国民との距離を近づけようとしていた。

 そのため、伊沢は平生帝をどこか軽く見ていた節があった。

 武器を持って詰めよればどうとでもなると考えていた伊沢は逆に説教をされ、敗者のように宮城から退出すると自暴自棄となり、自棄酒を呷って泥酔状態になった。

 当初は、伊沢に忠誠心を示していた国家自衛隊だったが、伊沢の体たらくを見て小隊単位で職場放棄するものが相次いだ。

 彼らも自分たちのおかれた立場が極めて危ういことを察知していた。

 離反した国家自衛隊の40式戦車5両がデモ隊と合流し、戦車に李が上って国民へ抵抗を呼びかけると10万人以上の群衆が集まり、国家元帥官邸を包囲した。

 最終的に3月危機は、伊沢の拳銃自殺によって幕を閉じた。

 臨時内閣総理大臣に就任した李は、マスメディアを通じて国家元帥位の廃止と政治の民主化を発表した。

 3月危機から、民衆蜂起による日本の政治民主化に向かう一連の大転換を海外メディアは日本の春と報道することになる。


挿絵(By みてみん)


 日本の春の頂点は、1999年の帝国憲法の改正だった。

 1890年に施行され、近代幕府体制下で殆ど空文化していた帝国憲法を大幅に近代化した改正憲法は、平生帝の勅命を以て、改正案が帝国議会の決議に付され、3分の2以上の賛成によって可決された。

 改正憲法では、基本的な人権の尊重や言論の自由が確立され、大日本帝国や近代幕府で行われた拷問の禁止などが新たに追加された。

 さらに近代幕府(国家元帥)の法的根拠として濫用された勅令制度が廃止された。

 帝国憲法にはなかった内閣や首相(内閣総理大臣)の規定も盛り込まれた上で、首相は公選とすることが決まった。

 昭和初期に問題となった統帥権独立についても、天皇はその行使に当たって内閣総理大臣の輔弼を受けることになり、日本における軍政の近代化が漸く達成されることになった。

 軍に首輪を嵌めた新政府は、その牙を引き抜きにかかることになる。

 日本陸軍は大幅に軍縮を実施した上で、集に派遣していた在満日本軍(関東軍)や在韓日本軍(朝鮮軍)が縮小され、司令部要員を除いて日本本土に撤退することになった。

 航空戦力も同様である。

 新冷戦で大量配備されたアメリカ製のF-16などは、アメリカとの関係悪化で徐々に運用が難しくなっており、共食い整備などで徐々に姿を消していくことになった。

 海軍も軍縮となり、湾岸戦争で活躍した戦艦大和・武蔵も莫大な運用経費の問題から、正式に退役することになった。

 21世紀現在、それぞれが呉と横須賀で大和ミュージアム、武蔵ミュージアムとして一般公開されており、大東亜戦争から湾岸戦争まで、大和・武蔵がかかわった戦争の展示物を見ることができる。

 大和型戦艦の船体を流用して建造された空母信濃・尾張も退役したが、こちらは博物館として生き延びることができなかった。

 現役期間の大半を後方で予備艦同然の状態で送っていた大和・武蔵とは異なり、信濃・尾張は海軍主力として活躍していたことから船体の傷みが激しかった。

 そのため維持費の問題から海上博物館になることは断念され、解体されることになった。

 解体された信濃・尾張の艤装品は大和ミュージアムや武蔵ミュージアムで展示されている。

 海軍の軍縮はソ連崩壊で大幅に脅威が減じた陸軍に比べると比較的小規模に収まった。

 なにしろ、海軍の仮想敵はアメリカ海軍であり、日米関係の悪化に伴って冷戦中ほどではないにしろ、緊張度は高かった。

 そのため、空母6隻・イージス艦6隻の六六艦隊は維持された。

 国家自衛隊は、クーデタに参加したものを公職追放した上で、公安警察組織、対外諜報組織、憲兵隊を分離独立させ、国際自衛隊に組織改編されることになった。

 国際自衛隊とは、ソ連崩壊後に激増する民族紛争や宗教紛争、難民問題などに対応するために、国連主導のPKOやPKF活動に従事する海外派遣専門組織とされた。

 国家自衛隊は、国家元帥の先兵として海外派兵を繰り返してきた経験から、こうした任務に使用することが適当だと考えられた。

 ナショナル・セルフ・ディフェンス・フォースが、インターナショナル・セルフ・ディフェンス・フォースに代わっても、やることはさほど変わらなかったという評価もある。

 新生日本政府が軍縮を急いだのは、世論の影響や軍部の勢力を削減するという意味もあったが、経済再建という側面が大きかった。

 バブル崩壊以後、日本経済は低迷を続けており、近代幕府が崩壊したのも経済失政の要素が大きかった。

 基盤の弱い新政府としては、一日も早く政権を安定させるためにも経済再建は待ったなしの情勢だった。

 経済再建のために実施されたのは減税であり、そのための費用を捻出するための軍縮と言えた。

 特に消費税の廃止は、景気刺激策として極めて効果的だったと言われている。

 さらに新列島改造計画として、日本の春で大きな役割を果たしたインターネット(IT技術)インフラの整備に広範囲な政策投資が行われ、日本でもIT革命が花開くことになった。

 その恩恵を大きく受けたのが李首相の故郷である台湾だった。

 台湾人の李による我田引水と言えなくもないが、台湾は高い教育水準やインフラが整っており、本土に比べて工業化が遅れていたことから、新規起業に有利な環境だったと言える。

 新政府は減税、補助金で台湾でのIT起業を支援したことから、台湾は急速にアジアのシリコンバレーへと成長した。

 台湾に本社移転したAppleが、続々と発表した新製品(ⅰMac(1998年)、ⅰPod(2001))が、世界規模の大ヒットを飛ばしたことも大きかった。

 台湾は半導体の製造では本州企業を遥かに超える規模まで拡大し、2020年代には世界の半導体製造の半数を台湾が引き受けるほどになった。

 ITへの広範囲な投資と減税によって、1997年以降に日本経済は持ち直し、1999年には日経平均株価がバブル崩壊前の水準に復帰した。

 これは余談だが、経済対策を巡る議論の中で、アメリカ式の金融改革・雇用改革の採用が議論されたことがあった。

 日本の金融システムや雇用慣行は時代遅れで、より自由化・流動化を促進することで経済が活性化されるという理屈である。

 雇用の流動化を進めるために、企業の雇用を全て請負方式に変更することや人材派遣業の大幅な規制緩和が議論された。

 また、幕府の行政システムの多くが非効率で、行政組織の規模が大きすぎるという議論もあった。新政府発足にあわせて中央省庁を大幅に減らし、組織のリストラ(経費削減)を図るべきという意見も多かった。

 しかし、最終的には、この手の改革議論(新自由主義)は日の目を見ることはなかった。

 列島改造計画で、地方移転された中央官庁を各地方は絶対に手放そうとしなかった。

 地方帝大卒業者の最良の就職先が、その地方に移転した中央省庁というのはよくある話だった。

 地方(特に沖縄や東北地方、北海道)によっては、行政組織がその地方最大の雇用主ということもあり、中央省庁再編などは地元の反対が強く実現不可能だった。

 地方移転した省庁は、やたら地元密着型の政策を立案するようになっており、東京大学や京都大学卒業者による悪名高い学閥支配も下から崩壊に向かっていた。

 確かに幕府体制の中央省庁は膨大な人員を抱える世界第2位(1位はソ連)の巨大な官僚組織であり、硬直性と無縁というわけではなかったが、明確な目標がある限り、その豊富なマンパワーによる政策遂行能力は間違いなく世界最良だった。

 それを各地方に分散させることで、日本全体の底上げを図るのが列島改造計画の究極目標と言える。

 ある意味、列島改造計画は近代幕府という究極の中央集権体制(独裁体制)の自己破壊的な解体作業だった。

 実際、自衛隊のクーデタが失敗に終わったのは、列島改造計画によって分権化が進み、東京の制圧が国家中枢の制圧と同義語でなくなっていたからと捉えることもできる。

 また、新自由主義的改革案は「アメリカの真似」という理屈以前の致命的な欠点があった。

 80年代末から90年代のアメリカの高圧的な態度により、日本国内の反米感情は高まっていた。

 特にボルガダイナマイトによって生じたアメリカ国内の反日暴動は決定的だった。

 また、伊沢は自分自身のカリスマ性のなさを補うために大東亜戦争の勝利を誇張する歴史教育を強化しており、マスコミを利用したプロパガンダ作戦を展開していた。

 対米強硬論者の多い右派は伊沢の反米プロパガンダ作戦には協力的で、反米世論に迎合した漫画作品がベストセラーになったりした。

 傲慢主義宣言なる漫画で、真実に目覚めたと語る若者がにわかに増えたりもした。

 お笑い芸人の中にも、


「欧米か!」

 

 と反米、反西欧主義を煽って喝采を浴びる者も現れたほどだった。

 幕府が崩壊するとプロパガンダ作戦は中止されたが、90年代以後の国内世論は反米論が強く、新自由主義は世論の受けが極めて悪くなっていた。

 親欧米派は日本の民主化によってアメリカの敵視政策が転換することを期待したが、アメリカの外交姿勢に大きな変化はなかったので、ますますアメリカの真似事は嫌われた。

 天皇主権という帝国憲法の大前提が、アメリカ人にはファシズム体制の継続に映っていた。

 また、日本が民主化したところで、貿易摩擦問題が解決するわけでもなかった。

 東京が国家自衛隊に占領された日にも、日本製の半導体や自動車がアメリカ市場を占領しつづけていた。




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[良い点] ステファニー・ジョブズ(女)には驚いただろうなぁ。 [一言] イラク方面から攻めるのは友好度とかで日本がやれそうな手だったのに下手に西側と協調したせいで戦力すり潰されてますな。
[良い点] リアルチートキャラにチート能力(逆行)持たせた結果。 未来知識持ち田中角栄とかこの作品でしか許されない。
[良い点] 転生者なしの時代が描写されたこと。 [気になる点] 汚沢の命令とはいえ、陛下に銃口を向けたのか隊員。しかも大日本帝国で。 この後、当人の自決ぐらいで済むかな?
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