新冷戦の始まりと終わり
新冷戦の始まりと終わり
ソ連のアフガニスタン侵攻(1979年)から、マルタ会談(1989年)までの期間が一般的に新冷戦と呼ばれる時代になる。
日本は、ベトナム戦争(60年代)ではソ連と共闘関係にあったが、70年代以後はアメリカに接近していった。
アメリカ合衆国もベトナム戦争での敗北で、対日ソ2正面作戦の限界に突き当り、対ソ戦略に集中するため、日本との和解を必要としていた。
1978年に日米は完全な国交正常化を果たし、足並みを揃えてソ連のアフガニスタン侵攻を批判することになる。
米ソの70年代デタントは終焉を迎え、ソ連と日米連合という対立構図が浮上する中で、強いアメリカの復活を掲げて大統領に就任したのがレオパルド・レーガンだった。
レーガン大統領は
「ソ連は悪の帝国」
と名指しで非難し、「力による平和」外交戦略でソ連と真っ向から対抗する道を選んだ。
そうしたアメリカの戦略を全面的に支持したのが、日本の後藤田昌晴総理だった。
後藤田は田中角英国家元帥腹心の部下で、内務省や国家自衛隊の諜報部門を渡り歩いた危機管理のエキスパートだった。
総理になる前は、国家自衛隊長官を務めており、1970年代の共産テロ事件の対応にあたっていた。
日ソ中立条約破棄により日ソ関係は極度に悪化し、ソ連の指導を受けた左派テロリズムが国内外で頻発していたのである。
日比谷で武装蜂起して鎮圧された日本赤軍事件や、連合赤軍が人質をとって山荘に立てこもったあさくま山荘事件、田中国家元帥を狙撃した成田事件などが起きている。
これらの左派テロリズムに対して、幕府は国家自衛隊を投入して対応にあたった。
しかし、対テロ戦の準備不足から人質から犠牲者がでるなど問題も多かった。
日本の対テロ戦準備が整った後に起きたダッカ日航機ハイジャック事件(1977年)では、国家自衛隊内に編成された対テロ特殊部隊(零中隊)の活躍もあり、犠牲者なしでテロ犯を射殺して事件を解決し、国家としてテロリズムに妥協しない姿勢を示すことに成功した。
こうした強面の対応から、後藤田は外国の報道機関から黄色いヒムラーと揶揄されることもある。
新冷戦を迎えるにあたって田中国家元帥は、それまで兼務してきた総理の椅子を危機管理能力に優れた後藤田に譲って分業体制を整えた。
自分に権力を集中させるよりも、分業体制を整えた方が拡散して巨大化する冷戦構造に対応しやすいと考えたのである。
また、自分自身の健康状態悪化を踏まえた判断でもあった。
後藤田以外の総理候補には、対ソ強硬論者で元海軍将校として軍部の支持も厚い中曽根安弘も挙がったが、角英から支持されなかったため、総理になることはできなかった。
角英が中曽根を支持しなかった理由は、
「あれはレーガンのしっぽだ」
という言葉にあらわれており、中曽根がレーガノミックス式の改革を日本に持ち込もうとしていたのを嫌ったからだった。
中曽根は国家改造として国鉄や電電公社の民営化を打ち出しており、それが角英にとってはアメリカ式の自由主義経済志向に見えていた。
「アメリカの後追いなんかしても負けるよ。日本には日本の道がある」
というのは角英を後継者に指名した山本五十六国家元帥の言葉であり、角英は最後までこの言葉に忠実だった。
確かに国鉄は膨大な赤字を抱えていたが、角英は赤字を問題視しなかった。
むしろ、赤字であるからこそ、国家がその負担を担う意味があり、儲かる事業なら誰かがとっくの昔に商売にしていると述べている。
よって、国鉄は大赤字なぐらいが丁度いいというのが角英の考えだった。
これは電電公社や郵政事業、原子力公社についても同様で、国営企業の民営化といった1980年代に英米で流行したサッチャリズム、レーガノミックスに日本は背を向けることになる。
しかし、外交面ではソ連アフガン侵攻を非難すると共にアメリカと歩調を合わせてモスクワ五輪をボイコットするなど西側との協調関係を維持した。
ただし、イスラム革命後のイランと関係を維持するなど、アメリカの外交方針と一致しない部分もあった。
特にイラン・イラク戦争において日本がイランのセコンドについたことは、アメリカにとっては頭痛の種だった。
イランに攻め込んだイラクのオサム・フセイン大統領のセコンドにはアメリカが入っていたからだ。
アメリカはイラン革命がサウジアラビアに波及し、親米政権が倒れることを極度に警戒し、サウジとイランの中間にあるイラクの独裁者に軍事支援を与えていた。
幕府はアメリカとの関係を重視していたが、イランとの友好関係をイスラム革命だけで終わらせるつもりはさらさらなかった。
日本の中東外交におけるイラン重視は伝統的なものである。
山本国家元帥は、日本の石油供給が集の黒竜江油田やインドネシア油田に頼る状態を危険だと考えており、早くからイランの石油資源に目をつけていた。
これは戦前の石油供給がアメリカに依存していたことに対する反省で、1960年代の日ソ蜜月時代には、ソ連からも石油を輸入していた。
中東地域は膨大な石油資源が埋蔵されており、1951年にサウジアラビアでガワール油田の操業が始まっている。
ガワール油田の生産コストは極めて低く、水よりも石油が安い時代が始まった。
日本もサウジの石油鉱区を購入し、日の丸油田を持つことになった。
しかし、山本国家元帥はサウジのアメリカよりの外交姿勢から、価格が安くても石油輸入がサウジ1国に偏るのは危険だと考えていた。
いざというとき、サウジがアメリカに忖度して石油を止める可能性があったからである。
そこで日本は石油産業国有化を宣言したイランに接近した。
1951年にイランが石油産業を国有化するとイギリスは経済制裁を発動していた。
そのため、イランは石油輸出が途絶しており、外貨不足で生活必需品の輸入ができなくなるなど苦しい状態にあった。
イギリスの強硬姿勢に対して、日本は内政干渉であると非難し、イランからの石油輸入計画を発表して対決姿勢を打ち出した。
アジア独立の旗手として、日本はイランを手助けする道義的な理由もあり、日本はイランからの石油輸入に踏み切ったのである。
そして、日章丸事件が起きる。
出光興産の所有する大型タンカー日章丸は護衛の軽巡洋艦「酒匂」と共に日本を出発し、戦時さながらの隠密航海で、1953年4月10日にイランに到着した。
軽巡酒匂と日章丸はイラン国民から熱烈な歓迎を受けた。
イギリス政府は幕府に厳重抗議し、言外に戦争を匂わせて日本に圧力をかけた。
山本国家元帥は、
「元同盟国の戦艦をこれ以上沈めるのは遺憾である」
と煽り返して、イギリス人の血圧計を振り切れさせた。
マレー沖海戦やインド洋海戦で多数の戦艦を失ったイギリスは、復讐のため日章丸と酒匂を拿捕・撃沈すべくインド洋艦隊を出動させた。
日章丸と酒匂は、夜間に日程をずらしてアーバーダーンを出港し、情報攪乱のため酒匂が囮になる形で日章丸を単独航行させた。
日章丸はイギリス海軍の裏をかき、スンダ海峡を通過して南シナ海に入った。
南シナ海ではイギリス駆逐艦3隻が日章丸を追撃したが、空母大鳳を旗艦とする日本海軍機動部隊の到着によって、日章丸は無事日本に帰国を果たした。
この時、日章丸の船長は周囲を固める軍艦を見て、
「巡洋艦(最上)とはあんなにも強そうに見えるのか。駆逐艦(舞風)とはこんなにも大きい軍艦だったのか」
と感嘆し、後の制作された映画にもこのセリフが登場する。
ちなみに映画では、イギリス駆逐艦3隻が日章丸の背後まで迫り、砲を向けて威嚇するシーンがあったりするが、これはフィクションで実際にはそのようなことはおきなかった。イギリス駆逐艦は最後まで日章丸の所在を掴むことができずに終わっている。
以後、日章丸事件は司法の場に持ち込まれ、事前に周到な準備を整えていた出光興産の主張が認められた。
ただし、イランではクーデターで政権が転覆し、石油産業の国有化は白紙となった。
このクーデターは石油利権確保のために英米の情報機関が実行した謀略だった。
幕府はクーデター後のハーレビ・イランをサウジと同じアメリカの紐付きと見なしたが、イランとの石油取引は継続した。
イランの対日感情は良好で、特にイスラエルが強烈な反日国家であるという点が良性に機能していた。
敵の敵は味方というのは世界共通の法則だった。
シリアやエジプト、レバノン、リビアといった中東地域では、日本はアメリカに勝利した唯一の国という認識があり、明治大帝と並び山本国家元帥が尊敬の対象となっている。
日本にとっても中東諸国は、大量の日本製戦車や火砲、航空機を輸入してくれるお得意様でもあった。
特にエジプトは、多数の日本製パンター戦車を運用し、第4次中東戦争(1973年)でもシナイ半島での作戦に投入した。
ただし、用兵の問題から目立った戦果はない。
イスラエル空軍が、ナチス戦車の末裔を目の敵にして爆撃したという事情もある。
日本とイランの信頼関係が生きたのは、イランアメリカ大使館事件だった。
アメリカの代わりに、日本はイランと人質の解放交渉を担当した。
イランは人質解放の条件として、イラン・イラク戦争遂行に必要な武器援助を求めており、日本を経由してアメリカ製兵器の輸入を求めた。
イラン軍の装備は、ハーレビ時代に導入された西側兵器が多く、特に航空戦力は基本的に米国製機材で構築されていた。
その中でも最強戦力だったのがF-14トムキャットで、アメリカ海軍を除けばF-14を配備しているのはイラン空軍だけだった。
後藤田は石油確保の観点から、この密輸幇助に手を貸した。
似たような密輸幇助は同時期のイスラエルも実施しており、相当な額の裏金が動いたと言われているが現在に至るまで真相は闇の中である。
最終的に日本を仲介役とした交渉で、人質になっていたアメリカ大使館員は全員解放されて事件は解決した。
イ・イ戦争中、日本は一貫してイラン側のセコンドに入り、イラン製原油と引き換えに多数の兵器をイランに輸出している。
輸出された兵器は、ソ連との対決では使いにくいT-62JやMig-21Jなど、60年代に導入したソ連式の兵器だったが、レーダーなどの電子戦装備やミサイルや砲弾が日本製に換装されていて、見た目以上に性能が向上していた。
レーガン政権は、日本とイランの兵器ビジネスには良い顔をしなかったが、日本を西側陣営につなぎとめるために黙認した。
というよりも、日本以上にアテにできる味方がいなかった。
新冷戦を迎えた80年代においても、フランスは独自外交路線を貫き、NATOの軍事機構への復帰を拒否していた。
イギリスはフランスに比べれば頼りになる存在だったが、経済の不振から整備できる戦力には限界があった。
イタリアやスペインに頼るのは、最初から無謀だった。
レーガン政権が膨大な貿易赤字やイラン問題に苦しみながらも日本と手を組み続けたのは日本が膨大な軍事負担を引き受けていたからだった。
さらにレーガン政権は日本への最新兵器や技術輸出も解禁し、NATO加盟国とイスラエル以外には門外不出としていたF-16のライセンス生産を許可した。
F-16はベトナム戦争での教訓を踏まえて設計された昼間軽量戦闘機である。
胴体と主翼を一体成型するブレンデッドウィングボディやフライ・バイ・ワイヤなど、当時の革新的技術をふんだんに取り入れていた。
アメリカ空軍は高価なF-15と安価なF-16のハイ・ローミックスを主張しているが、これは議会向けの言い訳で実際にはF-16こそアメリカ空軍の主力戦闘機だった。
F-16に体験搭乗した日本空軍のパイロットは、
「ミグ21よりも軽やかに飛べるジェット機があるとは思わなかった」
と日ソ蜜月時代に導入したMigー21と比較して、F-16の運動性を絶賛している。
F-16の対日輸出はアメリカ国内でも反対が多く、日本国内でも異論がないわけではなかったが、Mig-21Jを置き換えるために660機のライセンス生産が決定した。
ライセンス生産を担当したのは三菱航空機で、ライセンス生産を通じて三菱は最新のアメリカの航空技術を学び取った。
海軍においても、日米友好の観点(あるいは対日貿易赤字の削減のため)から、イージス・システムが輸出された。
イージスは、アメリカ海軍がソ連軍の対艦ミサイル飽和攻撃に対抗するために開発したもので、防空システムのみならず海戦オペレーションを殆ど自動化するという80年代の技術的な限界に挑戦した意欲的なものであった。
米海軍はイージスの対日輸出に猛反対した。
第二次世界大戦以来、米海軍の心の主敵は日本海軍だったからだ。
イージス輸出は、敵に手の内を明かすことに等しいというのが米海軍の認識だった。
米海軍が発表した600隻艦隊構想でさえ、本当の敵は日本海軍というのが米海軍内部の偽れざる本音だった。
ちなみに日本海軍上層部は米海軍の大軍拡に対して、
「頭がおかしいのではないか」
という非公式にコメントしている。
米海軍が太平洋に配備しようとした兵力は、弱体化したソ連太平洋艦隊を相手にするには完全に過剰だったからである。
日ソが離反するとソ連海軍は日本海に閉じ込められる形になっており、各海峡は日本海軍の通常動力潜水艦と対潜ヘリで封鎖されていた。
艦隊をおいても殲滅されるだけなので、ウラジオストクのソ連太平洋艦隊は日ソ離反後は減少する一方だったのである。
ソ連海軍(日本海軍)を圧倒できるだけの船を並べようとするアメリカに対して、日本も精神安定剤として相応の規模の艦隊を用意する必要があり、新八八艦隊構想が発表された。
その骨子は、航空母艦8隻とイージス艦8隻を中心に対米7割の艦隊を建造するというものだった。
この発表に接したアメリカ海軍関係者は、
「あいつら頭がおかしいのではないか?」
と発言したというまことしやかな噂がある。
弱体なソ連太平洋艦隊を殲滅するにはどう考えても過剰戦力だったからである。
どっちも頭がおかしいという英仏海軍関係者のコメントや、標的にされたソ連海軍の悲鳴こそ真実を言い当てているというべきだろう。
新八八艦隊構想で整備が決まった航空母艦8隻のうち、既存の空母は大東亜戦争以来の武勲艦「信濃」と「尾張」と70年代に建造された飛龍・蒼龍の合計4隻だった。
信濃と尾張は度重なる改装で未だ第1線級の能力を維持していた。
大鳳や翔鶴、瑞鶴といった大東亜戦争時の空母は練習空母に格下げされており、ベトナム戦争時の軍拡で建造された飛龍と蒼龍を併せて実質的には4隻体制となっていた。
空母機動部隊を常時展開させておくには、ローテーションを組むために最低でも3隻が必要であり、4隻という数字は1隻分の余裕を見積もった数字である。
日本海軍は当初の計画では信濃と尾張を退役させて、新造空母で置き換える予定だった。
しかし、新八八艦隊計画の早期実現のため、信濃と尾張は現役続行が決まり、最後の大改装が行われることになった。
新造空母の方は、日本海軍初の原子力空母として鳳翔型4隻の建造が決まった。
鳳翔型は高濃縮ウランを燃料とする原子炉2基を搭載し、満載時は10万tに達する超大型空母で、原子力空母エンタープライズに匹敵する巨艦となった。
空母に随伴するイージスシステム搭載艦8隻のうち、2隻は既存の戦艦大和と武蔵に徹底的な近代化改装を施すことで入手することとなった。
この改装で大和型戦艦のマストは完全に作りなおされることになり、以前とは大きく印象が変わることになった。
印象の変化は賛否両論があり、伝統的な仏塔型マストが失われたことに対する嘆き節は多かった。
なお、撤去された仏塔型マストは呉の記念公園にそのままの状態で移築されて、21世紀現在でも誰でも見学することができるようになっている。
大和と武蔵は新聞や軍事情報書籍などではイージス戦艦などと呼ばれることになったが、艦種登録は戦艦のままである。
残りの6隻のイージスシステム搭載艦として、金剛型巡洋艦6隻が建造された。
金剛型戦艦(金剛、比叡、霧島、榛名)は大東亜戦争で活躍した武勲艦であり、次世代防空システム艦として、その名を引き継ぐには打ってつけの艦名と言えた。
5番艦「鳥海」、6番艦「高雄」も重巡洋艦として日本海軍を支えた武勲艦である。
金剛型は日本海軍にとって、久しぶりの巡洋艦建造(基準排水量10,100t)だった。
日本海軍においても排水量での艦種分類は形骸化しており、巡洋艦という艦種は艦隊の中枢を担う船として敢えて採用されたものであった。
艦隊の主力オブ主力である駆逐艦の磯風型も5,500tもあり、半世紀前なら軽巡洋艦に分類されていた船である。
磯風型は非イージス艦であったが、特徴的なマストに4面のフェーズドアレイ・アンテナを装備している。
これは、国産の40式射撃指揮装置を搭載しているためで、その名の通りの射撃指揮装置に留まらず、多機能レーダーなども統合された対空武器システムである。
固定式のアクティブ・フェーズドアレイ・アンテナによって全方向の半球空間を探索することが可能で、多目標の捜索・探知・追尾・武器管制を自動化し、リアクションタイムを従来艦に比べて大幅に短縮していた。
発想は米国製のイージスと全く同一のものであり、日本海軍は当初、艦隊戦闘システムを全て40式で統一して、イージス艦は不要とさえ考えていた。
しかし、政治の要求や性能試験で40式の能力がイージスに及ばないことが判明したため、イージス導入も止む無しと決まった経緯がある。
磯風型はその外見から、日本イージスやミニ・イージスと呼ばれることもあるが、純国産システム艦であり、イージス・システムは全く搭載していない。
なお、40式は後に45式FCSや51式FCSへと順次、発展型がつくられ、能力も米国製のイージスと遜色ないか、一部は上回る状態になったことから、日本海軍のイージス艦建造は金剛型6隻と大和・武蔵の2隻で打ち切られた。
最初からそのつもりだったといえば、それまでとも言える。
水中戦力も海峡封鎖のための通常動力型として山波型(2,500t)や原子力動力型の朝潮型(8,000t)が多数建造された。
朝潮型は日本型SSNとしては初めて静粛性が米海軍のSSNに並んだ船と言われており、発展性の高さから改良を重ねて21世紀現在も日本海軍潜水艦艦隊の主力として運用が続いている。
新八八艦隊計画は、毎年50隻ペースの艦艇新規建造が続き、1988年に鳳翔級空母4番艦瑞鳳が就役して計画を完遂した。
最盛期には455隻の艦艇がベーリング海からペルシャ湾までうろつきまわり、海軍戦力対米7割を確保した。
アメリカを仮想敵としてきた日本海軍にとって対米7割確保は戦前からの夢で、1988年になってようやく叶うことになった。
ただし、翌年には冷戦が終わり、日米は軍縮に転じることになるので、日本海軍が対米7割を確保していたのは、1988年と1989年の2年間だけである。
ちなみに日本海軍の対ソ戦構想は、開戦劈頭にウラジオストクへの戦術核攻撃でソ連太平洋艦隊を殲滅した後、ソ連の陸上基地航空隊の反撃を空母の迎撃戦闘機とイージスで防御しつつ、沿海州沿岸やオホーツク海に機動部隊で殴りこみASWを実施して、ソ連SSNをしらみつぶしにすることになっていた。
ここまでは海軍拡張のみを論じてきたが、対ソ戦の主役となるのは陸空軍であることは言うまでもないことである。
空軍は、日本列島不沈空母論を打ち出した。
計画の基本骨子は日本列島の各地に各種作戦用航空機3,000機を配備するというもので、シベリア・沿海州のソ連軍航空部隊を先制攻撃で完封することを目標とした。
前述のとおり米式では最新鋭のF-16の配備が進み、さらにFBー111Bを導入した。
F-111は、70年代に米空海軍の戦闘機を統一することでコストダウンを図るという画期的な、そして散々な失敗に終わった計画で生み出された機体だった。
失敗の原因は、戦闘機として使用するにはあまりにも機体が大きく、重すぎることだった。70年代に流行した可変後退翼技術もまた、機体重量の増加に一役買う結果となった。
FB-111Bはそれを戦闘機ではなく、爆撃機としてより完成度の高い機体に改修しようとする試みで、航空撃滅戦用の戦術爆撃機としては模範解答に近い機体となっていた。
ただし、米空軍ではB-1Bの取得を優先するために採用されず、日本空軍のみに採用され、中島飛行機でライセンス生産が行われた。
FBー111Bの主兵装は飛行場攻撃用の戦術核兵器で、熱核衝撃波によって駐機中のソ連機を地上撃破することを想定していた。
そのほかに最大11tまで、日米空軍のあらゆる爆弾や対地攻撃用誘導弾が搭載可能で、ソ連のSu-24に相当する機体だった。
海軍航空隊にもFB-111Bは配備され、最大6発の対艦ミサイルを搭載して超低空攻撃が可能な機体として重用された。
航空団司令クラスとして生き残っていた嘗て一式陸攻で航空雷撃を行った超ベテランパイロットたちでも、FB-111Bの飛行能力には満点をつけている。
日本製の戦闘機も60年代に配備された迅電の改良型が配備された。
80年代に生産された迅電は、設計変更で機体に複合材を使用して軽量化を図ったほか、デジタル・フライ・バイワイヤの導入や新式ターボファンエンジンへの換装でさらなる運動性の向上を図っていた。
武装も初期型の武装が機関砲のみという状態だったが、機載レーダーの換装によってBVRミサイルの使用が可能となっていた。
これらの各種作戦機3,000機に加えて、大韓帝国空軍がF-16を120機導入したほか、集空軍もF-16を300機、中華民国も250機も導入している。
日集華韓の東アジアだけで約1,300機のF-16が配備されており、ソ連空軍に対して質的な優位に加えて、量的にも十分に対抗可能な航空戦力が整備された。
F-16の傘の下で、シベリアのソ連軍に殴りかかるのが日本陸軍および集軍の機械化部隊の仕事だった。
1980年代の日本陸軍の総兵力はおよそ55万で、大半が満州に展開していた。
これは常備兵力で、3カ月の猶予があれば120万人まで動員可能だった。
さらに国家元帥直属の国家自衛隊の20万人が加わる計算になる。
総兵力は75万となり、集や大韓帝国を合算すれば、総兵力は100万に達したが、日本陸軍にとって重要なのは、国家自衛隊を上回る兵力をもつことを許されたことだった。
1945年以来、日本陸軍は近代幕府体制の冷や飯食いだった。
素寒貧になった日本陸軍に残ったほぼ全ての将校が、信頼というものの大切さを学ぶことになるほど、世論と大元帥から失った信頼は大きかった。
阿南陸相が一死を以て大罪を謝しても、失われたものはもとに戻らなかった。
1970年まで、日本陸軍の総兵力は15万まで削減されており、国家自衛隊の6割程度の戦力しかなかった。
陸軍に入るのは、徴兵されて仕方がなく義務で入るか、巷でまともな職にありつけない際どいものと相場が決まっているほどだった。
高架下の路地裏やドヤ街で、元気のいい若者をスカウトするのはヤクザか、日本陸軍の勧誘員のどちらかという時代が長く続いた。
共産主義者が、官憲の追及を逃れるために陸軍に入隊することさえ行われた。
4軍の中で、最初に女性将校を受け入れたのは陸軍だったが、そうでもしないとまともな人材が集まらないから行われた苦肉の策だったのである。
ただし、女性将校の登用は、際どいものだらけだった陸軍を更生する上で効果絶大と判定され、海空軍、国家自衛隊にも広がることになる。
60年代の日本陸軍がどれほど際どいものだったかといえば、精神修養として油がなみなみと注がれた金ダライに、火のついたロウソクを笹舟に浮かべ、タライの下を火で焚く「油風呂」、谷底に屈強な男たちが肉の組体操で橋をかける「万人橋」、頭に硫酸入りのティーカップを載せて座禅を組む「地獄禅」などが日常的に行われていた。
海外の報道機関は、日本陸軍の奇行をアトミック・ハラキリの予行演習とキャプションをつけて報道している。
それはともかくとして、日ソ中立条約を破棄して、西側に鞍替えした後でさえ、対ソ戦の地上兵力は国家自衛隊を拡充するか、海軍陸戦隊の増強で十分という議論があった。
そうした議論をさえぎって、日本陸軍を復活させたのは田中国家元帥だった。
というのも、田中国家元帥は軍部とは就任当初、微妙な関係だった。
特に海軍は、必ずしも田中国家元帥を支持していたわけではなかった。
軍事政権である幕府のトップには軍人を、という意識があり、山口多門海軍大将や源田実海軍中将を国家元帥に推す意見は多かった。
しかし、山本国家元帥が後継者に指名したのは文民の角英であり、軍部(特に海軍)としてはシコリが残る形になった。
田中国家元帥は海軍に含むところがあるわけではなかったが、軍部を掌握をする必要性から、日陰者だった陸軍に接近することになる。
対ソ戦の主役として組織拡大や名誉を回復する代わりに、自身への支持を求めたのである。
日本陸軍が、上から下まで諸手を上げて田中国家元帥を支持したことは言うまでもないことだった。
田中国家元帥と距離があった海軍も、陸軍と田中国家元帥の接近に驚き、競い合うように忠誠を示すことになる。
最後まで余計なことを考えていた源田実海軍中将が失脚して、角英は完全に軍部を掌握した。
復活した日本陸軍は、対ソ戦にあたっては全軍装甲化と空地一体の機動戦で臨むことになり、装甲車両20,000両構想を打ち出した。
これは年間2,000両ずつ戦車や歩兵戦闘車、対空戦車、自走砲などの装甲車両を生産して、装備劣悪な日本陸軍をリプレイスする計画だった。
60年代の日本陸軍は、歩兵の小銃が七式小銃だったら良い方で、一部ではボルトアクション式小銃が使われていた。沖縄や台湾の師団では九七式中戦車の改良型や92式重機関銃が現役だったりとソ連軍と戦える状況ではなかった。
これは再び日本陸軍が反乱を起こした場合に備えた措置で、国家自衛隊が反乱制圧を容易にするためだった。
これではとても戦争にはならないため、日本陸軍の近代化は急務だった。
しかし、装甲車両年産2,000両や歩兵装備の近代化は、とても日本だけの生産力では賄いきれなかった。
何しろ集や大韓帝国、中華民国の軍拡も同時進行であり、日本の兵器メーカーはどこも大規模設備投資をして生産力を拡大しても納品が間に合わない状態になっていた。
名誉回復後も、日本陸軍よりも国家自衛隊の方が優遇されていることには変わりがなく、国産新型装備は、国家自衛隊が最優先だった。
そこで不足分を補うためにアメリカから装備の輸入が行われた。
具体的にはM1戦車や、M113などの装甲車両、M16といった歩兵用小火器がアメリカに発注された。
日米和解の前から友好関係にあったフランスは、ここぞとばかりに火砲や装輪装甲車などを売り込み、共同兵器開発なども行っている。
日本陸軍の米式装備導入は、アメリカの貿易赤字是正政策という政治的な側面もあり、アメリカ政府から大いに歓迎された。
しかし、技術指導を行うことになった米陸軍にとっては迷惑な話だった。
西側世界(特に米国)では、日本陸軍は4軍の中ではもっともアニマルな人間が集まった組織と認識されており、そんなところに派遣されるのは誰もが願い下げだったのである。
派遣前にやたら高額な生命保険に加入した米軍将校や、遺書を家族にしたためて訪日したクライスラー社(M1戦車の製造元)の技師達は、思っていた以上に相手がまともな人間だったことにカルチャーショックを受けたという。
兵器の新造のみならず、日ソ蜜月時代に導入したソ連式装備も急速な軍拡のため、再利用された。
前線では友軍誤射の可能性から使いにくいT-62やBTR60などは、一部はイランや友好国のシリアやエジプトに輸出された他、自走砲や対空戦車、自走迫撃砲の車体に転用された。
大韓帝国陸軍のようにそれほど資金に恵まれていない陸軍では、ライセンス生産したT-62に爆発反応装甲を追加して継続運用している。
集陸軍は大韓帝国よりも資金に余裕があったので、イラン革命で宙に浮いた英国製のシール戦車の輸入やライセンス生産を実施した。
EATO軍がやたら軍の装甲化(特に戦車)に拘ったのは、各国の陸軍が亡命ドイツ軍人の経験から大きく影響を受けており、1940年のドイツ流電撃戦の再現を狙っていたためである。
そのため、EATO軍は砲兵には重きをおいておらず、火力支援は航空支援に依存し、火砲も直射火器が占める割合が極めて高かった。
ただし、これは砲兵火力を軽視しているわけではなく(むしろ日本陸軍は攻勢作戦において非常に火力を重視していた)、基本的に砲兵火力は戦術核兵器で発揮するという方針だったためである。
まず、戦術核砲弾を使用し、撃ち漏らした残敵を通常弾で攻撃するのがEATO軍砲兵の基本戦術だった。そのため、砲や砲兵がむき出しになる牽引式榴弾砲などは使用できず、全砲兵が密閉された戦闘室を有する自走砲で戦うことになる。
核兵器が生み出す大量破壊とEMPによってソ連軍の指揮系統を麻痺させ、その間に前線を突破してソ連軍の中枢や重要拠点に殺到するのが、EATO軍の基本戦略と言える。
シベリアの大地に積みあがっていく装甲部隊と戦術核兵器の山は、ソ連の悪夢だった。
根本的な国力差に加えて、シベリアというソ連の僻地オブ僻地に膨大な軍備を整えること自体が、ソ連にとって過度の負担になった。
寒さに強いロシア人といえども、シベリア送りになるのは政治犯や重犯罪者にかぎるのである。
ソ連が対抗上揃えてみせたシベリア軍団100万は、劣悪な住環境から士気低下が著しい上に、即応体制にある師団は17個師団しかなかった。
これはEATO軍の半分以下であり、戦後初めてソ連軍は数的劣位で戦うことを余儀なくされた。
40年代から60年代にかけて日本を恐怖させたソ連軍の劣位は、日ソの経済力逆転を反映していた。
さらにタナカショック以後、外国資本が入った集や大韓帝国は急速な経済発展を遂げており、日本に追いつけ、追い越せの勢いで経済を拡大していた。
1985年には集のGDPが中華民国を追い越し、中華世界で最大の経済力をもつようになった。
これは経済に優れた江南国家を自負してきた中華民国にとっては大きな衝撃だった。
中華世界の常識は、北の軍事力を江南の経済力が支えるというもので、経済力と軍事力も同時に持つことになった集は、蒙古の復活ぐらいに江南国家にとって恐ろしいことだった。
80年代の集は北京の玄関口である天津や大連・旅順を要する遼東半島にニューヨークや東京に匹敵する摩天楼が築かれ、国中が繁栄に湧きあがっていた。
それに対して、ソ連は計画経済の衰退が決定的となった。
国家が需要と供給を全てコントロールするという計画経済は、経済の実態には則しておらず、膨大な需給ギャップを作り出していた。
政府が翌年のパンや衣服の消費量を予想して、その予想に沿って国営企業がノルマにしたがって生産する計画経済は、完全な未来予想が不可能な以上、常に不足と過剰が発生する非効率的なものだった。
また、ノルマについても製品の出荷量をg単位で計測するため、ノルマ達成のために異常に重い製品が作られたりした。
近年ではノスタルジックなソ連製品の頑丈さをアンティークとして珍重する共産趣味者がネット上で散見されるが、ソ連製品の頑丈さはノルマ達成のための不必要な現場の工夫の産物であり、決して褒められたものではない。
また、資源供給が不安定なために闇市場が形成され、不適切な素材が間に合わせに使用され、ソ連製品の信頼性や生産性を下げた。
特にソ連製テレビの性能は酷く、消火器と一緒に購入することが推奨されるほどだった。
こうした状況を改善するための改革(市場経済化)は、共産党支配を脅かすものとして封印されており、80年代半ばにソ連経済の行き詰まりは決定的となった。
日本経済がそうならなかったのは、ファシズム体制であっても資本主義や市場経済が機能していたことが大きかった。
70年代には日米和解が進み、西側企業との競争の中で技術革新や技術交流が進んだ。
1980年代後半は日本経済のある種の絶頂期で、日集韓華の合計GDPがアメリカ合衆国に並ぶほどになった。
軍拡以外にも、ソ連は金のかかるアメリカとの宇宙開発競争を続けており、NASAがスペースシャトルを完成させると、対抗して独自のスペースシャトルを建造した。
アメリカは月世界競争で負けて失ったプライドをスペースシャトルで取り返そうとしており、異常なまでにソ連よりも先にスペースシャトルを完成させたことを喧伝していた。
先に月面着陸を成し遂げたソ連としては、アメリカの挑発を無視するわけにはいかなかったのである。
アメリカの4機よりも2機多いソ連版スペースシャトル「ブラン」は、1989年までに全機が就役して、ソ連初の宇宙艦隊を編成した。
ブランは新開発の超大型ロケット・エネルギアによって宇宙に送り出されたが、宇宙ステーション「ミール」に補給品を届けたりするぐらいしかやることがなかった。
それなら使い慣れたソユーズでも十分であり、満足なのは虚栄心のみという状態だった。
ブランとエネルギアのペイロードを使ってまでやらなければならないことが、もうソ連にはなかったのである。
ソ連が最後に完成させた衛星戦略核兵器は、冷戦終結によって無用の長物となり、一度も使われることなく、処分された。
日本の宇宙開発事業団は、米ソのスペースシャトル競争には参加せず、使い慣れたA10ロケットを淡々と打ち上げて減価償却しつつ、衛星の小型・軽量化に取り組むなど、使い捨て式ロケットのコストパフォーマンス向上を図った。
誰が最終的に正しかったのかといえば、2022年時点で国際宇宙ステーションの補給が専ら日本のA10ロケットに依存していることを考えれば明らかだろう。
アメリカと宇宙開発競争をしながら、日米に対抗するための軍拡競争を続け、アフガニスタンでムジャヒディンと泥沼の戦争をしていたソ連の経済が崩壊するのは時間の問題だった。
ブレジネフから泥船を託されたユーリ・アンコロモチノフ書記長は日本へ資源の同盟国価格での売却を提案するなど、資源外交で日米関係に楔を打とうとしたが、高齢のため病に倒れてソ連包囲網を打破できなかった。
1985年にミハイル・ボルガチョフが政権につくと、国内改革と軍事支出を削減するためにアメリカとの和解に動いた。
さらにソ連包囲網の片翼を担う日本への接近を図った。
1985年10月11日、ボルガチョフは日本に電撃訪問して田中国家元帥と会談し、ソ連国内に経済特区を設置、円借款の実施やシベリア核軍縮など、数多くの合意を取り付けた。
空港まで田中国家元帥がボルガチョフを迎えに現れたことは世界中の報道機関でトップニュース扱いとなった。
田中国家元帥は健康不安説を囁かれており、公の場から姿を消すなど、既に政務がとれる状態ではないと考えられていたのである。
日本のダーク・ジェネラルが表舞台に姿を現し、ソ連の書記長と熱く抱擁を交わす姿は、全世界にテレビ中継され一大センセーションを巻き起こした。
所謂、ボルガダイナマイトである。
ボルガチョフは、それまでの謎めいたソ連の指導者とは異なり、海外への露出が多く、日本ではボルガ人形になったり、コンピューターゲームの主人公や、アニメ作品で宇宙人に誘拐され人間爆弾に改造され、UFOから空中投棄されるなど、コミカルなキャラクターと書かれることが多いが、就任当初はまちがいなく鉄の歯をもつ切れ者で、日米連合に風穴を開けることに成功した。
ボルガチョフ訪日をテレビ報道で知ったレーガンは、
「ダイナマイトが爆発したみたいだ」
と側近に漏らしたことで、ボルガダイナマイトは歴史用語となった。
ボルガチョフは、アメリカの戦略包囲網を打破するために日本を東側にもう一度引き込むしかないと考えていた。
角英も日米連合がソ連を完全に追い詰めてしまえば破れかぶれになったソ連が核戦争に訴える可能性があると考えており、ソ連との再接近を模索していた。
また、貿易摩擦が激化して、デトロイトでは日本車の打ちこわしが起きるなど、日米関係が極めて悪化していたことも日ソ再接近を後押しした。
経済戦争で、日本は勝ちすぎていたのだ。
日米貿易摩擦の象徴とも言えるのが、1985年9月のプラザ不合意で、アメリカがドル高是正のために西側諸国に為替の協調介入を要請し、拒否した日本代表が席を蹴って退場した事件である。
1980年代前半の日本経済の好調は、専ら輸出産業の好調に支えられており、特に対米貿易は毎年黒字最高値を更新していた。
そこで、アメリカは為替に協調介入することで、ドル安円高に誘導し、日本に貿易黒字削減を迫ったのである。
しかし、輸出産業の雇用創出(特に自動車産業)を重視する日本は、自国にとって何の利益にもならないアメリカの提案を拒絶し、会議途中で退席することになった。
提案を拒絶されたアメリカは日本を為替操作国と認定し、相殺関税を課すなど日米関係は国交正常化以来最悪の状態になった。
そこにボルガダイナマイトが爆発することになった。
日米関係のさらなる悪化を予想してウォール街では株価が暴落した。
ロサンゼルスやシアトルでは、暴徒によって日本車が放火され、ソニーのラジカセやテレビが窓から投げ捨てられた。
対日融和政策を進めたキッシンジャーは、自宅に爆弾を仕掛けられている。
アメリカに進出した牛丼チェーン店には汚物回収車が突っ込んだり、反日暴動により日系ショッピングモールが襲撃され、略奪、放火の被害に遭った。
外務省は、邦人の安全確保のために奔走し、最終的に一時渡航禁止命令を出すことになった。大規模自然災害や戦争をしているわけでもない国(しかも最恵国待遇国)に渡航禁止命令を出すなど、なかなかある話ではなかった。
しかし、被害を完全に食い止めることはできず、反日思想をもつ米国人によって日本人留学生が射殺されるという悲劇が起きた。
アメリカ世論の発狂ぶりは、外交奇襲を仕掛けたボルガチョフも困惑させたほどだった。
米国は自国と結びつきを深める日本に対してどこか歪んだ感情を持っていた。
敢えて言語化するならば、
「日本のことなんて本当は大っ嫌いだけど、日本が頼むから仕方なく付き合っているだけで、日本からアメリカを裏切ることなんて、絶対にありえない」
といった奇妙な思い込みがあった。
大東亜戦争もベトナム戦争も日本に完敗したと言ってもいい国が、なぜそんなに上から目線なのかは不明である。
日本は別に国防や経済を米国に依存しているわけではなかった。
確かに自動車の対米輸出が止まるのは痛手であったが、日本は内需国であり、GDPの対米貿易貿易の占める割合は5%以下だった。
アメリカと貿易するよりも、急成長する集や中華民国、大韓帝国に工作機械や機械部品、産業用自動車を売る方が儲かるのだった。
特にEAEC(東アジア経済共同体)の枠組みで、通関手続きや入国管理が大幅に簡略化され、経済規格が共通化されていることは、東アジア圏内での商取引コストを大きく引き下げていた。
そのため、日本企業は人件費や労働条件の問題で国内でペイしなくなりつつあった事業を大陸へ脱出させつつあった。
集や大韓帝国は、公用語が日本語になっており、言語障壁が格段に小さいことも有利だった。
集の日本語(シージェイ語)や大韓帝国の日本語(ケージェイ語)は、癖が強く多少の慣れが必要だが、3か月程度で違和感がなくなる程度だった。
多民族国家の集では日本語以外にも北京語話者が多いが、日本語しか話せなくても北京で暮らすには何ら問題なかった。
今は別の国として独自の道を歩んでいるが、集も大韓帝国も元々は日本帝国の一部だった。
日米関係から70年代初頭の高揚感は既に失われており、貿易摩擦で険悪な状態だったから日本の変心は予想できそうなものだったが、アメリカは何の手当もしていなかった。
日本は軍拡と多少なりともアメリカの貿易赤字削減のためにイージスシステムやF-16、UH-60、パトリオットミサイルなどの米国製高額兵器を購入していたが、裏返せば日本がアメリカから買いたいものなど武器ぐらいしかなかった。
欲しいものがあれば国内で生産できる上に、価格でアメリカ製は日本製品に太刀打ちできなかった。
日本の弱点であったコンピューター産業や電子産業においても、アメリカの技術をキャッチアップして消化済みだった。
先行していたはずの半導体産業で追い上げられたアメリカは、日本に不利な半導体協定締結を迫り、拒否されると100%の報復関税を発動した。
金余りの日本企業は、貿易で稼いだ米ドルを持て余し、買いたいものがないので投機目的でマンハッタンの土地を買い漁ろうとして幕府から厳重注意されたりした。
バブル時代の日本は余った米ドルで世界中から贅沢品を無意味に買い漁り、JALパックの海外旅行で集団で観光地に押し寄せて、現地人から顰蹙を買ったりしたものだった。
東洋の狂戦士といった日本人像は影をひそめ、観光地を群れてうろつく首からカメラをぶら下げた出っ歯のチビが日本人のステレオタイプになったのも80年代以後の話である。
ただし、良い買い物も全くなかったわけではなく、ソニーが買収したコロンビア・ピクチャーズやマーベル・コミックス、マツダが買い取ったDMCは大成功だった。
さらにキヤノンのAppleとNeXT買収が東アジア経済に果たした役割はあまりにも多岐に渡るため、これは後述することとする。
ボルガダイナマイトで、既に亀裂が入っていた日米関係は完全に分断された。
ジャパンバッシングを放置していたアメリカ政府関係者は、
「ボルガチョフの手伝いをさせられた」
と苦々しく振り返ることになる。
日ソ間で合意されたシベリア核軍縮は、日ソ軍が積み上げていた戦術核兵器や投射手段(主に中距離弾道ミサイル)を削減するもので、最終的にINF全廃条約に統合された。
ソ連は、ヨーロッパとシベリアに高性能なSS-20ミサイルを配備しており、対抗して日本もRX-79などの新型中距離弾道ミサイルを増強していた。米国もパーシングⅡ弾道ミサイルを西欧に配備するなど、SS-20の存在は核軍拡を引き起こしていた。
INF全廃条約は、核軍縮のためにソ連がSS-20を廃棄する条件に、日米もそれぞれの中距離弾道ミサイルを廃棄する内容になっていた。
東京に、ボルガチョフ書記長とレーガン大統領、そして後藤田総理が一同に集まり、1987年12月8日に条約に調印したことから別名、東京核軍縮条約とも呼ばれる。
満面の笑みを浮かべるボルガチョフと後藤田に対して、渋い表情で条約にサインするレーガンの対比はテレビで繰り返し放送された。
レーガン大統領は強気な態度を崩していなかったが、日本の離反によってレーガンが思い描いた軍拡によるソ連圧殺が破綻したことは明らかだった。
逆に日ソによるアメリカ包囲網を警戒しなければならなかった。
しかし、全てがボルガチョフの思惑通りに進んだわけではなかった。
むしろ、ボルガチョフは徐々に事態をコントロールする力を失いつつあった。
上からの圧力で封印されてきた様々な社会矛盾が、グラスノスチ(情報公開)で一斉に噴き出していた。
特にチェルノブイリ原子力発電所事故の被害が明らかになるにつれ、月面着陸を成し遂げた科学立国ソ連という看板は一気に求心力を失っていった。
さらに情報統制の解除で、発展を続ける豊かな西側社会の実態が広まると、貧しい生活しか保障できない自国の高圧的な体制への不満が噴出した。
経済で西側とのかかわりが強いドイツでは、特に激しかった。
1989年11月にはドイツで、ソ連の改革路線に触発されて民主化運動が先鋭化し、71年ぶりにドイツ革命が勃発した。
ドイツ民主共和国は、国名からほど遠い独裁体制であり、以前から民主化勢力に対する政府の弾圧が繰り返されてきた。
ベルリンで民衆が議事堂に突入するとソ連の去就が問われたが、ボルガチョフは緊張緩和のために介入を見送った。
これは社会主義体制維持のためなら国家主権の制限、軍事介入を辞さないブレジネフ・ドクトリンからの明確な転換だった。
ドイツはライン川でワルシャワ・パクトとNATOと向き合う欧州冷戦の最前線であり、膨大なソ連軍が駐留していたが、彼らはドイツ革命を傍観することになった。
ソ連が動かないと知った東欧各国では、各地で革命が勃発し、社会主義政権が次々に倒れていった。
衛星国を失ったソ連の超大国としての地位は大きく揺らぎ、冷戦対決は無意味なものとなった。
1989年12月のボルガチョフ書記長とジョセフ・ブッシュ大統領のマルタ会談は、それを追認するイベントだったと言える。