閃光の角英
閃光の角英
1970年代は日本にとって転換点になった時代だった。
パリ和平協定(1973年1月)によってベトナムからアメリカ軍が撤退した。
さらに同年に発生した第4次中東戦争によって、湾岸諸国が石油戦略を発動し、オイルショックが世界経済を襲った。
日本経済には、オイルショックの直接的な混乱は殆ど生じなかった。
しかし、世界経済の減速で輸出が滞り、日本の高度経済成長時代は終焉を迎えた。
オイルショックが日本経済にとってそれほど深刻な打撃とならなかったのは、原油調達先の分散や石油備蓄を大規模に行っていたことが大きかった。
特に石油備蓄は1940年代からの国是となっており、その指導を行ったのは山本五十六国家元帥だった。
山本国家元帥は、戦前から海軍燃料の備蓄を熱心に行っていたが、戦後はそれを国家経済全体に適用したのだった。
また、原子力発電の推進など、石油に頼らないエネルギー資源開発にも積極的だった。
日本の商用原子力発電は1957年から始まった。これは米国とほぼ同時期である。
その後の建造ペースはアメリカの商用電源開発を遥かに凌いでおり、21世紀現在も日本の総発電量の7割は、原子力が占めている。
これはフランスの8割に匹敵する数字であり、日本は世界有数の原子力発電大国となった。
これほど原子力発電の割合が高いのは、発電に石油を使用しない点が山本国家元帥から高く評価されたためである。
また、大量のプルトニウムを生産することで、戦術核兵器を量産化するという意図もあった。
ただし、山本国家元帥は野放図な原子力利用には批判的で、原子力発電所の建設には高い安全・運用基準を設けた。
厳しい規制によって商用利用の採算性が悪化したことから電力業界から不満が出たが、軍神の命令に逆らえるものはいなかった。
山本国家元帥の正しさは、2011年3月11日の東日本大震災において証明された。
20mを超える津波が東北地方の沿岸部を襲ったが、各地の原子力発電所は無傷で津波の被害に耐えている。
1960年代に建設された福島第1原発でさえ、地震と津波に耐えて早期に運転を再開することができたほどだった。
そんな遠い未来まで見通していた軍神も1970年にこの世を去った。
山本国家元帥は1969年末ごろから体調を崩しており、70年半ばには立ち上がることができなくなっていた。
それでも大阪万博の開会式には昭和天皇と共に出席するなど、健在ぶりをアピールしていたが、軍神の体を蝕んでいたのは癌で、医者も手の施しようがなかった。
国論の動揺を恐れて、幕府は病症を隠し、疲労や貧血といった嘘の発表をしていた。
山本国家元帥本人にさえ政治判断で本当の病名を知らせていなかった。
しかし、山本国家元帥は症状を自覚するとテレビ放送で自らの病名を全国民に発表した。
山本国家元帥は正確な情報を知らせない方が国論の動揺を増幅させると考えており、自らの死期が近いことを国民に知らせ、自分の死を乗り越えて日本が発展していくことを望んだ。
一般的に独裁者は体制の動揺を回避するために自らの死期を悟っても国民に告げることは稀で、山本国家元帥の対応は異例中の異例と言える。
山本国家元帥の死後、日本では本人への癌告知が一般化するが、これは山本国家元帥の発表が国家レベルの動揺を抑えこんだという先例があるためである。
ただし、山本国家元帥が
「私の病名は癌です」
と発言した直後、日本の政情不安を予想し、世界各国の株式市場は大暴落した。
ウォール街ではこの大暴落をセカンド・パールハーバーと呼んで、トレーダーたちは頭を抱えた。
しかし、株価が暴落しても近代幕府体制が揺らぐことはなかった。
山本国家元帥は、テレビ放送で自ら後継者を指名し、生前から権力の移譲は速やかに行われたからである。
次代の国家元帥に指名されたのは、田中角英だった。
第2代国家元帥として日本を背負うことになった角英は、1918年に新潟県刈羽郡二田村(現:柏崎市)に生まれた。
山本国家元帥の故郷である新潟県古志郡長岡本町(現:長岡市)の近傍ということもあって、角英が山本国家元帥の知遇を得たのは早かった。
角英が山本国家元帥から厚い信任を得るきっかけとなったのは、1943年のハワイ焦土化作戦だった。
ホノルル停戦条約で大戦終結までハワイを保障占領した日本軍は、撤退前にハワイの軍事機能を破壊することで、アメリカの対日復讐戦争計画を阻止しようとしていた。
特に重要なのは真珠湾の港湾機能を破壊することだったが、そのためには大規模な土木工事を極秘に、しかも短時間で遂行しなければならなかった。
情報が漏洩した場合、焦土作戦阻止のためにアメリカ軍が攻撃してくる可能性が高かった。
角英は無謀ともいえるこの計画に軍嘱託の身分で参画し、港湾の浚渫工事を装って逆に埋め立て工事を行うという奇策を成功させた。
軍事施設の爆破も完璧に実施され、真珠湾の軍事機能はアメリカ軍到着の僅か1時間前に完膚なきまでに破壊された。
ダイナマイトを使用したコンクリート建築物の爆破解体は日本では殆ど施工例がなく、角英にとっても初挑戦であった。
角英は占領したハワイの英語文献を読み漁り、現地の施工業者から聞き取りするなど短時間で技術を取得し、見事に爆破解体を成功させた。
アメリカ政府は日本の焦土作戦に対してホノルル停戦条約違反として厳重に抗議したが、戦争ではなく言葉による抗議を選ばせた時点で角英の任務は完全に成功したと言えるだろう。
困難な任務を成功させた角英は一気に名を挙げて、山本国家元帥の重用もあって近代幕府において出世街道をひた走ることになった。
戦後は、幕府において農地改革を担当した。
農地改革は戦前からその必要性を認められながらも、地主層の政治力から断念されてきた経緯があり、近代幕府の独裁体制下で漸く実現にこぎつけた。
この改革は地主層に強硬な反対に遭ったが、角英はインフラ整備の飴玉と国家自衛隊による弾圧という鞭を巧みに使い分けて改革を断行した。
小作人制度の解体や農業機械化によって、日本の農業生産は飛躍的に拡大し、米の100%自給化が達成されたのは1960年のことである。
農地改革を成功させたことで、角英は政治基盤を確固たるものとした。
特に農地解放の恩恵を浴した農村部の角英に対する支持は絶対的なものがあり、殆ど個人崇拝の域に達した。
今でも日本の農業地帯には角英の巨大な銅像があちこちに残っており、観光資源として活用されている場合もある。
角英は農地改革に次いで、新幹線や高速道路建設などの国土開発にも手腕を発揮し、
「日本のフリッツ・トート」
と称されることになった。
しかし、トートの右腕で日本に亡命していたフランツ・クサーヴァー・ドルシュからは、
「彼は日本のシュペーア」
と評されている。
ドルシュはシュペーアをトートの成果を横取りした簒奪者と見なしていたが、角英はそのことを知らなかったので、有能なドイツの軍需大臣に譬えられたことを素直に喜んだという。
実際、角英は部下からの優れた提案があれば、殆ど丸呑みして自分の手柄にしてしまうところがあった。
しかし、丸呑みされた部下は、角英に自分の意見が採用されたことに舞い上がってしまい、ますます角英にのめり込んでいくという不思議なカリスマ性があった。
最終学歴が小学校でありながらもその能力と優れたリーダーシップ、カリスマ性でのし上がった角英は今太閤と称され国民からの人気もあり、それが後継者指名の決め手となった。
ちなみに件のシュペーアはアウシュビッツ強制収容所の建設や大戦中の非人道的な捕虜の強制労働計画を進めるなど、明確な戦争犯罪に手を染めており、ソ連主導のニュルンベルク裁判で死刑となっている。
決して民主的とはいえない権力の継承が世論から支持されたのは、角英のカリスマ性もさることながら、幕府体制に対する国民の信頼が極めて厚いものだったからと言える。
山本国家元帥の指導のもとで日本は大東亜戦争を圧勝で終わらせ、東西冷戦をしのぎ、ベトナム戦争にも勝利した上で、国家経済の奇跡的発展を実現した。
確かに政治手法は独裁・強権的であったが、困難な時代において日本が生き延びるためには致し方ないものであった。
21世紀現在に至るまで山本国家元帥の評価は「正しい独裁者」である。
日本国内において、山本国家元帥が明治大帝や昭和大帝に並ぶ国父として敬愛されることには何の疑問も持たれていない。
国家元帥が昏睡状態に陥ると報道関係者にはXデーに備えた原稿が配られ、テレビ各局は報道特別番組を用意していた。
軍神の死の第一報を伝えたのはNHKで、直ちに勅令によって国葬が決定した。
山本国家元帥の国葬は全世界から弔問の使者が訪れ、弔問外交の舞台にもなった。
最終的な参列者は20万人にも上り、この記録に並ぶ国葬はユーゴスラビアのチトーぐらいなもので、昭和天皇の大喪まで破られることはなかった。
国葬の葬儀委員長を務めたのは角英だった
葬儀終了後、昭和天皇から角英は国家元帥の大命降下を受けた。
ちなみに、角英以外の有力候補者としては山口多門海軍大将がいた。
山口海軍大将は山本国家元帥のあとを引継ぎ連合艦隊司令長官を務めるなど、その能力を高く評価されており、軍部の支持も厚かったことから後継者指名に最も近いと思われていた。
本人もそれを意識した発言をしていたが、実際に選ばれたのは文民の田中角英だった。
軍人政権である近代幕府のトップに文民の角英が立ったことは、近代幕府の在り方を徐々に変質させていくことになる。
角英は国家元帥に就任すると総理大臣と兼務し、強力な直接指導体制を敷いた。
山本国家元帥は基本的に実務は内閣に委任していたが、角英はその前例を継承せず、権限を自分に集中させるスタイルを好んだ。
これは持論である日本列島改造計画を断行するための前準備だった。
日本列島改造計画とは、山本国家元帥が手をつけた経済インフラ整備をさらに拡大発展させ、日本全体の均一な発展を実現するものだった。
1950年代から60年代にかけて日本のインフラ整備は急速に進んだが、その整備は太平洋岸に偏っていた。
戦後日本の工業化は、京浜、中京、阪神、北九州という太平洋ベルトに集中しており、その中でも最大規模は北九州、ついで京浜工業地帯だった。
北九州の工業化が進んだのは、日本経済が集や中華民国、大韓帝国と密接にかかわっており、大陸の窓口である北九州に工場を集中させるのが有利だったからである。
これはエネルギー資源が石炭から石油に代わっても基本的に変化がなく、集の黒竜江油田から最も近い日本の工業都市は北九州市と博多だった。
古代から博多の繁栄は大陸との交易によって成り立っており、戦後はさらにそれが拡大、発展していった。
しかし、その繁栄は公害病と表裏一体であり、北九州市や博多では大気汚染が深刻化し、光化学スモッグで空が七色に輝くようになった。
海の色は黄色く染まり、迷い込んだ魚が数分で死亡するほど汚染された。
各地で公害病が深刻化すると公害対策基本法が施行され、企業に公害対策が義務付けられるようになったが、公害対策が進んでも過密問題は解消されなかった。
そこで角英は地方に工業団地を造成し、工業地帯を日本全国に分散化して過密問題を解決すると共に地方の雇用を改善して、国土の均一な発展を目指した。
日本列島改造計画は、1992年までの20年計画で高速道路14,000kmを整備し、日本の諸都市を全て連結して、国土の隅々まで有機的な高速道路交通網を作り上げることを目標にしていた。
さらに新幹線計画を拡大発展させ、東北新幹線、北海道新幹線、四国新幹線、九州新幹線を20年かけて建設して、日本全土を新幹線と高速道路で結ぶことになっていた。
道路と鉄道に偏っているように見える日本列島改造計画だが、羽田空港の大改造や全国の地方空港整備も進み、今日の日本の空が形作られていった。
MRJという日本独特の旅客機が生まれたのも70年代のことである。
それまで軍用機(特に戦闘機や攻撃機など)を作り、それで良しとしてきた三菱だったが、ライバルの中島飛行機が戦略爆撃機の設計技術をスピンオフしてNシリーズなどの大型旅客機をつくり、大成功を収めて世界規模航空機メーカーになると流石に焦りを隠せなくなった。
今日でも、飛行機のNBAといえば、プロバスケットボールリーグではなく、中島・ボーイング・エアバスの世界三大メーカーを意味している。
ベトナム戦争が終結に向かうと軍需も下火になり、業績が悪化した三菱は中島飛行機が等閑視していた日本国内路線に着目した。
中島飛行機は国内航空路線は鉄道や高速道路の整備から採算が合わないと考えており、専ら国際路線向けの大型機に注力してきた。
国内向けの航空路線は、旧型機の転用で十分というのが中島の結論だった。
中島が放置していた国内航空路線需要を掘り起こしたのがMRJだった。
MRJのライバルは新幹線で、国内の地方空港を短時間で結ぶために高出力ターボファンエンジンとSTOL性を確保するために大面積のフラップを採用できる上翼配置を実施した。
結果としてMRJはまるで軍用輸送機のようなスタイルとなったが、高出力ターボファンエンジンによる高速巡行と戦術輸送機並みのSTOL性能、軍用機並みの頑丈さと整備性の高さから世界的な大ヒットとなり、MRJは三菱航空機のドル箱になった。
国際規約改正後は朝鮮半島や集を結ぶ中距離海外路線にもMRJは就役することになり、胴体をストレッチしたMRJ70やMRJ90に発展している。
逸れた話を戻すと、オイルショックがあった1973年やイラン革命による第二次オイルショックがあった1979年を除けば、日本列島改造計画は国家の最上位目標として角英の死まで続くことになる。
こうした大規模な公共事業計画は、それに付随して工事発注に関する汚職を蔓延させることになった。また、インフラ投資によって土地の値段が上がり続けたことは、土地神話を生み出し、やがて実体経済を遥かに超える土地投機(バブル経済)を生み出すことになる。
しかし、長期にわたって政府支出が保障されることで企業が経営計画を立てやすくなり、設備投資しやすい環境を作りだすことになった。
毎年、発行される建設国債によって供給される潤沢な通貨は、民間金融資産として蓄積され、一般家庭の子息でも大学に進学できる時代になった。
中小企業のサラリーマンが、マイホームと車をローンで買って、子供2人をなんとか大学に入れてやれるようになったのは、1970年代以後だった。
70年代や80年代は山本時代に比べると経済成長は鈍化したものの5~6%の安定成長が続き、外交方針の大転換もあって日本経済は拡大を続けた。
外交方針の大転換とは所謂、タナカ・ショックである。
田中国家元帥は1971年7月15日に、それまで極秘で進めてきた日米交渉を明らかにして、ニチャード・クニソン大統領の訪日を突然発表して世界を驚かせた。
また、予告なしの電撃訪米を敢行し、ホワイトハウスでクニソン大統領と握手して、対立関係の終了と段階的な日米国交正常化、さらに日ソ中立条約の破棄を宣言した。
日ソ中立条約は、1941年から続く戦後日ソ関係の基礎ともいえる条約であり、その破棄は日ソ蜜月の終焉のみならず、ソ連にとって安全保障環境の大変化を強いるものだった。
田中国家元帥の発表に接したレオタード・ブレジネフ書記長は、普段の冷静さをかなぐり捨てて駐ソ大使を呼び出して真意を問いただしたが、当の駐ソ大使も報道で中立条約破棄をテレビで見て知ったばかりという有様だったことは有名である。
アメリカが日本と和解を図ったのは、ベトナム戦争の円滑な終戦と対ソ包囲網を再構築するためだった。
大統領補佐官のジャームズ・キッシンジャーは、ベトナム問題を解決するには日本との妥協が不可欠という認識をもっていた。
それは言い換えれば、アジアにおける日本の地域覇権を認めることだった。
戦後アメリカの対日外交の柱は復讐と日本の地域覇権の否定だったが、キッシンジャーはそれを否定し失敗を認めるべき時が来たと論じた。
そして、対ソ封じ込めと対日復讐は両立しえないと断じた。
日本の地域覇権を破壊するために、アメリカは50年代から60年代かけてインドシナ半島情勢に介入し、南ベトナムをアジアにおけるイスラエルに育て、日本の勢力圏に楔を打ち込もうとした。
結果として、それは散々な失敗に終わり、ベトナムの泥沼にアメリカは首までどっぷりと嵌りこみ、超大国の威信を大きく傷つけることになった。
日米の対立は、日ソの接近を生み出し、60年代の日ソ蜜月によってアメリカの対ソ基本戦略である封じ込めは形骸化するという失敗に終わった。
また、アメリカ主導のNATOは、領土問題で対立するトルコとギリシャを同時加盟させるといった愚行やアメリカと距離をおいて独自外交を推進するド=ゴーン・フランスの暴走などもあって機能不全に陥っていた。
フランスの栄光を掲げるド=ゴーン大統領は、1965年に米国主導のNATOから脱退し、フランス独自の全方位外交を進め、ドイツ敵視外交を終わらせ独仏友好条約を締結した。
NATOから脱退したと言っても、実際にはアメリカの戦時指揮権から離脱しただけで、その後もフランスにはNATO軍(米軍)が駐留していたし、フランスの国土防空はNATO頼みという状況は変わらなかった。
フランス人は妙なところで現実主義的で、自主防衛は不可能なことは理解しつつも、超大国アメリカに対等の立場で物申すという幻想を追い求めていた。
一応、それは一定の成功を収めたが、外部から観測するかぎりNATOの機能不全という言葉しか見つからない事態を引き起こした。
特にベルギーとオランダの動揺は深刻で、有事の際にフランスが自国だけ生き延びるために、軍の出動を拒否するのではないかという疑心暗鬼が生じた。
何しろ、ライン川の向こうには完全に復活した赤いドイツ軍が布陣しており、独ソ連合軍という悪夢の光景が広がっていた。
第二次大戦において戦略爆撃と本土決戦、さらにソ連による産業破壊で焼野原になったドイツだったが、70年代までに欧州随一の工業国として復興していた。
「なぜ我々が全てを奪ったのに、テレビも冷蔵庫も彼らの方が上手くつくれるのか?」
とブレジネフが嘆く程度にドイツの工業生産はソ連や東欧諸国にとってなくてはならないものになった。
ドイツ経済を復興させたのは、東西冷戦だった。
大戦終結直後、スターリンはドイツはジャガイモ畑だけあれば十分だと考えていた。
ナチス・ドイツ軍を支えたドイツの重工業が徹底的に解体されるべきで、爆撃から生き残った産業施設は全て解体され、ソ連に持ち去られた。
ドイツの非工業化は、戦時賠償やソ連の復興政策という側面もあった。ドイツ軍の焦土作戦で壊滅したベラルーシやウクライナの急速な復興は、ドイツからの略奪なくしては考えられない。
1945年に、ドレスデンのとある孤児院からは、ソ連軍の手によって空襲孤児が路上に追い出され、毛布やおもちゃ、食器など全ての生活資材が全て奪われた。
それだけ切り取ればソ連軍の蛮行としか言いようがないが、そのドレスデンの孤児院にあった備品は全てウクライナの孤児院からナチス親衛隊が奪い去ったもので、元の持ち主のところに戻っただけだった。
ちなみに親衛隊は孤児院に放火して、スラブ人やユダヤ人の孤児達を全て”処分”しており、ドイツ人の孤児を路上に追い出すだけで放免したソ連軍の方が幾ばくか人道的と言えなくもないのが、敗戦終結直後のドイツという場所だった。
ソ連の過酷な処置や急進的な社会主義化から逃れるために、1953年までに900万人のドイツ人が国を捨てて難民化した。
そのうち半数が、フランスやオランダの難民キャンプに収容され、露天に放置されて餓死したと言われてるが、正確な統計がないため詳細は不明である。
この900万人には、戦時中に捕虜となったドイツ兵の数字は含まれておらず、1945年時点でおよそ200万人の捕虜がシベリアやウクライナで強制労働中だった。
ドイツ難民問題は深刻な人道危機で、アメリカはガリオア資金を創設して難民救済にあたったが、問題の根本であるソ連のドイツ非工業化政策は支持していた。
特にフランスはソ連の政策を熱烈に支持していた。近代に入ってから3度もドイツの侵略に晒されてきたフランスの復讐感情は強烈なものだった。
ちなみに日本へ流れた亡命ドイツ人や戦後のドイツ人難民の総数は150万人に登り、戦後の在日ドイツ人社会を形成した。これは在日韓国人人口の10倍であり、21世紀現在でも日本国内における最大の外国人コミュニティとなっている。
東西冷戦の進展に伴い、スターリン・プロトコルは徐々にトーン・ダウンし、スターリンが死去した1953年には完全に停止された。
それでも、ドイツ社会主義統一党の一党支配に基づく社会主義体制に不満を持つ人々の西側への逃亡が相次ぎ、ベルリン暴動(反乱)が発生した。
ベルリン暴動は、ソ連軍が出動して鎮圧された。
なぜソ連軍が出動したかといえば、当時のドイツにまともな軍備がなかったからである。
スターリンがドイツに許した軍備は、難民流出を阻止するための国境警備隊レベルまでだった。それも警察扱いであり、表向きは軍隊ではないとされた。
こうした中途半端な対応は、スターリンがドイツを東西冷戦の中でどのように位置づけるのか明確な結論を持っていないために生じた。
スターリンとスターリン後に一瞬だけ権力を握ったベリヤは、西側にドイツの統一非武装中立化を提案していた。
これはライン・ドイツの反対やスターリンの死去、ベリヤの失脚(処刑)によって実現しなかったが、ドイツを統一した上で、非武装中立地帯化して東欧と西欧に間に壁をつくり、相互不可侵領域をつくる試みだった。
非武装化は軍備の基礎である重工業の否定であり、スターリン・プロトコルの完成だった。
ベリヤは非武装中立化したドイツが社会主義政権でなくてもよいと言い切っていた。
この提案は、フランスで真剣に検討され、承認寸前までこぎつけたが、スターリンが死去したことでご破算になった。
冷戦におけるドイツの位置づけを明確にしたのはフルシチョフだった。
東西の対等な平和共存を掲げたフルシチョフは、経済でアメリカに並ぶために経済投資資金確保を目的として軍備縮小(核兵器での代替)を推進した。
その文脈で、ドイツの再軍備を容認し、ソ連軍が縮小した穴を新生ドイツ軍で補填した。
再軍備のため、ドイツでは重工業が再建されることになった。
フルシチョフもドイツを信用していなかったが、社会主義の未来を信用しており、社会主義化したドイツがソ連と共にあることを自明のことだと考えていた節がある。
しかし、再軍備と工業化が進むとドイツとソ連の関係には温度差が生じるようになった。
スターリン批判後は、反抗的な一部の住民に対する弾圧は行われなくなり、生活水準を上げる経済政策が始まった。
1960年代からドイツでは急進的な経済の社会主義化が、国民の拒絶反応を引き起こした経験から、計画経済内での私企業の自由裁量を認める新経済システムが採用された。
国外に逃亡しようとしていた人びとは、この新しい状況のなかで、生活水準を可能な限り高めるよう模索するようになった。
このような態度は、毎年5~6%の経済成長を達成する結果を生み出し、それによって物質的豊かさが改善され、反体制的な意見も減少に転じた。
難民として流出した労働力は、ソ連やポーランドやチェコ、ルーマニアといった国々からの移民によって補われた。
特に軽工業の分野においては、私企業の自由裁量が大きく、裕福なソ連政府高官はこぞってドイツ製の贅沢な衣料品や生活用品を買い求めた。
経済成長と軍備負担によって発言力を増したドイツは1960年代半ばから、ド・ゴーンフランスと接触を重ね、独自の西方外交を推し進めることになる。
ドイツ西方外交の最初のステップは東西ドイツの相互国家承認だった。
ドイツ(殆ど認識されていないが)は、分断国家だった。
分断国家といってもドイツの分断は極めて小さく、ライン川の西岸沿岸地域のみが西側国家ライン・ドイツとなっていた。
東側の認識ではライン・ドイツはフランスの傀儡国で、この状況を放置していてはいずれフランスに併合されかねない危機感があった。
ドイツがライン・ドイツを国家承認したのもフランスに併合されるくらいなら国家承認して対等に付き合った方がマシだと判断したからだった。
西方外交にはドイツにとって外貨獲得という重要な側面があり、ライン・ドイツと通関協定を結ぶことで、ドイツ製品が西側世界にも輸出されることになる。
また、独仏友好条約によって、ライン川の河川交通が再開したことは、ルール工業地帯にとって重要だった。
ライン川は古くから沿岸地域の交通の大動脈であり、河口から上流までは全く滝がなく水量も多いため、船舶の航行が可能だった。
特にドイツにおいてライン川水運の重要性は高く、戦前のドイツの内陸港湾の総貨物取扱量の3分の2がライン川水運によって占められていた。
しかし、ライン川が東西冷戦の最前線となったことで、戦後ライン川水運は壊滅状態となり、ルール工業地帯の再建もままならなかった。
ドイツの西方外交でライン川水運が復活し、ルール地方やライン川沿岸の経済発展に弾みがつくことになる。
ライン川河口のオランダ・ロッテルダムがヨーロッパ最大の貿易港に発展するのもドイツ西方外交が成功した後のことである。
ドイツ西方外交や新経済システムは、モスクワとベルリンの間に微妙な緊張関係を生み出したが、西欧正面でドイツが担う軍事負担を考えれば、許容範囲内だった。
1970年時点で、ドイツ軍の地上戦力は53個師団(47万)に達しており、これはWPO軍の第1線戦力の約半数だった。
ただし、ドイツ軍は独自の参謀本部をもつことは許されておらず、平時も戦時もWPOの指揮監督を受けることになっていた。
装備もソ連からの輸入品か、ライセンス生産品であり、兵器の独自開発は厳しく禁じられていた。
それでも再建されたドイツ軍の高い練度は、ソ連軍と同等かそれ以上と見積もられていた。
ドイツの経済・軍備の再建は、ヨーロッパの軍事バランスを東側優位で固定することになる。
さらにフランスのNATO脱退とベトナム戦争の敗北は、アメリカの世界戦略にとって大きな挫折だった。
そこで新たな戦略として日本との交渉・関係再構築が進められた。
日米の秘密交渉を担当したキッシンジャーは後に、
「レクター博士との会食」
と反日右派から集中砲火を浴びることになるが、行き詰まりの対ソ戦略を再構築するには、日本との和解が不可欠だった。
日本にしても、ベトナム戦争を終わらせるにはアメリカとの交渉は不可避だった。
また、アメリカとの通商拡大はアジア経済のさらなる発展につながると考えられた。
日本経済は高度経済成長を実現したが、集や中華民国、大韓帝国といった日本の同盟国の経済は伸び悩んでいたのだ。
最大の問題は投資資金の不足だった。
資金があるのは日本だけだったが、日本は内需拡大のために国内に投資しており、民族資本が未熟な集や大韓帝国では発展に必要な資本が不足気味だった。
集は60年代になると日本への資源輸出に偏ったモノカルチャー経済の弊害が露わになり、国内の製造業が衰退気味になっていた。
黒竜江油田の利益で、国家経済が回ってしまうため、製造業への投資が疎かになっていたのである。
また、技術革新についても自主努力やドイツから流出した技術の消化だけでは限界があり、さらなる経済発展のためには西側の先進技術にアクセスする必要があった。
特に重要なのは有機化学分野で、省エネルギー技術の本命としてオイルショックの影響が直撃した西側諸国で発展著しい分野だった。
もともと資本主義経済の日本がアメリカと敵対していたのは、アメリカが日本を一方的に敵視していたからであって、アメリカが敵視政策を止めて日本の地域覇権を受け入れるのなら妥協の余地があった。
しかし、国内の幕府関係者のみならず、諸外国の外交筋でさえ、角英がアメリカと手を結ぶというのは殆ど想像することすら困難だった。
クニソンと角英が握手するシーンをテレビで見た者などは、
「これは偽の映像で、何かの大規模な謀略ではないのか?」
と疑うほどであった。
角英のアメリカ嫌いは知らぬものなどいない公然の事実だった。
まるでアメリカの陰謀で最高権力者の座から引きずり下され、濡れ衣を着せられて刑務所にぶち込まれたことがあるかのように角英はアメリカを忌み嫌っていた。
アメリカもそれを承知しており、「カクウェイが訪米した」という政治的なサプライズ・アタックを意味するポリティカルタームが作られたほどである。
後に角英は日米国交正常化は山本国家元帥の遺言だったことを明らかにしている。
真珠湾を焼き払った自分が生きている間は不可能だとしても、ソ連の凋落は時間の問題で、日ソ蜜月などは何の利益にもならないと山本国家元帥は角英を説き伏せ、死の間際に日米国交正常化の筋道をつけていた。
実際、ソ連は内政の失敗から社会の停滞が著しかった。
フルシチョフ時代の農業政策の失敗から、国内で食料の自給自足ができなくなっていたソ連はドイツやカナダからの小麦輸入が必須となっていた。
広大なウクライナの穀倉地帯を持ちながら、食料の自給自足ができないというのは悪い冗談としか思えないが設備の老朽化、そして悪平等的な労働者の士気低下や非効率な流通システムと計画経済に長老政治が組み合わさるとソ連のような喜劇的な状況が現出する。
それでも表面上、ソ連はアメリカと対等の軍備を揃えてみせていた。
特に海・空戦力やICBMは、ドイツ軍再建で陸軍削減が可能になった分、予算配分が増えており、ソ連海軍は続々と原子力潜水艦を建造し、空母保有さえ視野に入る情勢だった。
日本が中立条約を破棄して、アメリカと手を組んでもソ連は膨大な核軍備を背景に余裕のある態度を示していた。
しかし、内実は途方に暮れている状態だった。
ライン川よりもさらに広大なシベリア国境を守るために、膨大な軍備が必要となったからである。
しかも相手はどこを向いているのか分からないフランス軍ではなく、第二次世界大戦でアメリカ軍を圧倒し、今や世界第2位の経済大国に浮揚した大日本帝国だった。
日本を西側陣営に引き込んだキッシンジャーの外交手腕は、フランスのNATO脱退とベトナムの敗北で傷ついたアメリカの世界戦略を見事に立て直したと言える。
1970年代の米ソのデタントは、日米和解という冷戦構造の大転換がもたらした小休止期間と表現することができるだろう。
また、タナカ・ショックから1か月、クニソンはドルと金の兌換を一時停止すると宣言した。
所謂、クニソン・ショック(ドル・ショック)である。
ドルは戦後唯一の金兌換紙幣であり、ドルの金兌換停止は旧IMF体制(アジャスタブル・ペッグ制)の崩壊を意味していた。
二つのショックでアメリカは、外交と経済の分野で、それまでには無かった新しい基軸で動くことを内外に示したと言える。
アメリカは日米・米ソの緊張緩和を図り、欧州やアジアの双方で従来の政策を遂行していくための費用をもはや負担しきれないことを認めたのだった。
クニソンドクトリン、戦略兵器削減、ベトナム戦争停止、輸入制限、新経済政策などは、いずれもアメリカが相対的衰退の時代に入った証拠と言えた。
ちなみに、日本の為替取引はドル・ショックを受けて直ちに変動相場制に移行した。
結果として大幅な円高になり、安い円を武器に対米輸出拡大に期待していた輸出企業から不満がでる結果となった。
しかし、金融政策の自由度が高まり物価の安定化に繋がったことと資本の自由移動によって、外資導入や日本企業の海外進出が容易になったことで、日本経済はさらなる発展を遂げることになった。
日本企業は現地法人を多数設立して北米市場に進出し、それまで第3国経由で入ってきていた日本製品が直接、市場に流通するようになった。
日本製品、特に自動車は北米では基本的に趣味者が物好きで買うようなものだったが、価格競争力と性能で市民権を急速に獲得していった。
電化製品も同様でソニーのラジカセやテレビが高性能、低価格の代名詞となった。
また、価格や性能もさることながら、日本製品は異様に耐久性が高かった。
HONDA製のスーパーカブなどは崖から突き落として、エンジンオイルの代わりに天ぷら油をつめて動くかどうか実験するテレビ番組が放送されたほどだった。
日本製品の高耐久は、規格基準が日本列島の風土にあわせて作られた結果と言える。
夏は30度を超える高温多湿化し、冬の北海道ではー20度の極寒に至る日本列島は電化製品や自動車にとって極めて過酷な環境である。
電池一つとっても、そんな温度変化の中で使う製品を設計、製造することはそれ自体が大いなる技術的な挑戦と言えた。
そうした環境でトライ&エラーを繰り返して性能向上を果たしてきた日本製品を外国に持ち込むと何をやっても壊れない異常な耐久性をもつことになる。
欧米のマスコミは日本の風土事情に通じていないため、
「日本は軍国主義国であるため、全ての製品がMILスペックで作られてる」
などという大誤報を飛ばした。
現在でも日本製品は全てMILスペックで作られていると誤解している人が海外には多い。
一部の民生品はMIL規格よりも高性能かつ高耐久だったので、金のない途上国の軍隊などは装備の一部を安い日本の民生品に切り替えたほどだった。
70年代の日本経済は輸出産業が躍進すると共に、外国資本の参入が相次いだ。
アメリカ文化の代名詞でもあるマクドナルドが日本進出を果たしたのも70年代だった。
アメリカからフランチャイズ権を獲得したマクドナルド子会社・日本マクドナルド株式会社が設立され、銀座に一号店がオープンすると物珍しさから長蛇の列ができた。
その後、全国展開したマクドナルドは日本でコカ・コーラが飲める場所として、コーラを目当てに多くの若者が集まることになる。
なにしろ日米和解まで、日本ではコカ・コーラは敵性飲料として販売が禁じられていた。
そのため、既存の秩序への抵抗から密輸された闇コーラや、コカ・コーラを自作して飲むことが若者の不良文化として成立していた。
学校によっては、隠れてタバコを吸っても停学にしかならないが、コーラを飲んでいることが発覚した場合、退学になる場合があった。
50年代に書かれた若者向けの小説には、清楚な幼馴染が隠れて闇コーラを嗜んでいることを知った青年が、幼馴染への密かな情愛からやむにやまれぬうちに秘密を共有するようになり、堕落していくというストーリーが展開し、敵性文化を称揚しているとして当局から発禁処分されたりもした。
闇コーラの多くは、比較的親米派だったフィリピンからの密輸品だったが、偽物のリスクがあり、日本で生産されていたファンタに松脂と色粉を混ぜた粗悪品が出回っていた。
本物のコカ・コーラを飲んだことがない若者は簡単に騙されてしまい、マクドナルドで本物のコカ・コーラを飲んで、あれは偽物だったと気づくことになった。
ちなみに、日本にファンタのレシピを持ち込んだのは亡命ドイツ人で、ファンタは戦争でコカ・コーラ原液が入手できなくなったコカ・コーラドイツ法人がコーラの代替品として開発したものである。
その後、ドイツはソ連に占領され、コカ・コーラドイツ法人も生産設備を接収されて消滅し、ファンタを生産しているのは日本だけになったことから、ファンタを発明したのは日本人という誤解が広まることになった。
日本でファンタの生産が始まったのは1946年で、亡命ドイツ人居留地が開設された神戸で販売されたのが日本におけるファンタの始まりである。
さらに余談だが、ソ連に持ち去られたコカ・コーラドイツ法人の生産設備が戦後に生産したのは、ソ連でライセンス生産されたペプシ・コーラである。
食文化に続いて段階的に映画や音楽などの輸入が許可された。
70年代以前の日本ではハイウッド映画や英米のヒット曲などは敵性文化として販売や所持が法律で禁止されていた。
もちろん、世の中の風潮に逆らって非合法で入手したビートルズのレコードを耳コピーして演奏する若者グループもないわけではなかったが、一般的に少数派だった。
若者衣料のTシャツやGパンも敵性衣料として70年代まで販売や所持が禁止されていた。そのため、日本の反体制派のルックスといえば、TシャツとGパンであった。
日ソ中立条約破棄に反発した連合赤軍が武装蜂起し、人質をとって山荘に立てこもったあさくま山荘事件(1972年2月)でも、制圧・逮捕されたテロリストは2月の長野県山中(摂氏-15度)であるにもかかわらずGパン・Tシャツ姿であった。
逮捕された犯人は、催涙ガスよりも放水攻撃の方が辛かったと供述している。
ちなみに事件そのものは短時間で解決したものの、装甲車両など過剰な火力が投入され、人質から犠牲者がでるなど、残された問題は多かった。
あさくま山荘事件の失敗から、国家自衛隊は対テロ特殊部隊を編成することになるのだが、それはまた別の話である。
アメリカ文化が解禁されると日本では遅れてやってきたビートルズ・ブームが巻き起こり、雨後の筍のようにコピーバンドグループが生まれた。
ビートルズ来日公演も日本のレコード会社が尽力で実現にこぎつけ、1977年に武道館ライブが開催されている。
来場数は1万人に及んだが、混乱を回避するために国家自衛隊が配備され、厳重警戒だったことから大きな混乱は生じなかった。
幕府関係者はビートルズの来日が、若者の暴動を呼び起こすのではないかと警戒したが、それは杞憂に終わった。
ちなみにビートルズ来日公演の際に、武道館に飾られた山本国家元帥の巨大な肖像画をどうするか議論になったが、遺族の要望によりそのままとされた。
この対応は不可解なもので、右派から強い批判に晒されることになったが、後の情報公開によって、その理由は判明した。
山本国家元帥はビートルズの隠れファンだったのである。
生前に、山本国家元帥は一度でいいから生演奏が聴きたいと側近に漏らしていたが、国家元帥の権威を保つためにそれは不可能だった。
ちなみに1970年にビートルズは一度、解散の危機に迫ったことがある。
山本国家元帥は既に重篤な状態だったが、
「ヨウコは始末しておいたから大丈夫だ」
と側近に謎の言葉を残している。
ビートルズは、仲たがいをしていたボール・マッカートニーとジョン・レモンが和解したことで解散の危機は去ったが、山本国家元帥の言葉との因果関係は不明である。
また、ビートルズに関して山本国家元帥は、
「チャップマンは死んでいる」
という謎の言葉を残している。
ちなみにビートルズは、2001年にジョージ・アチソンが癌で他界して解散となったが、マッカートニーとレモン、オレンジ・スターは現在も健在でソロ活動を継続している。
それはともかくとして、日本へのアメリカ文化の流入はやや慌ただしく行われた。
これにはアメリカ側の思惑もあり、民主主義国の文化や芸術をファシズム国家に持ち込むことで、その体制を下から揺さぶることを意図していた。
キッシンジャーも、
「その国の文化と精神は政治制度と不可分である」
と述べており、アメリカの民主主義と密接に連結したアメリカ文化の輸出によって、日本の下からの民主化を狙っていた。
日本の地域覇権を認めて日米の和解を図ったキッシンジャーでさえ、日本のファシズム体制は最終的に打倒されるべきだと考えていた。
実際、日本が最後の枢軸として近代幕府というファシズム体制下にあり、それが国民の支持を受けて存続しつづけるのはアメリカの民主主義にとって重大な挑戦と言えた。
たった一人の独裁者が、民主主義よりも正しく、結果を出していることなど、アメリカ合衆国の沽券にかかわる話だったと言える。
抑圧的なファシズム体制でありながら、東欧やソ連で頻発する暴動と弾圧とまるで無縁のまま(実際にはそうではない)政治・経済・文化、あらゆる面で拡大と発展が続く日本という国家は、民主主義の存在意義を問うことになっていた。
キッシンジャーは、山本五十六の死が近代幕府を動揺させると考えていたが、角英という新しいカリスマが現れることでその予想は空振りに終わった。
ただし、アメリカからの働きかけもあり、1978年に1945年から続いていた国家非常事態宣言は解除されることになった。
国家非常事態宣言の解除に併せて1942年以来久しぶりの衆議院選挙が開催された。
無選挙期間が30年近く続いたことで、多くの議員が高齢になるか、死亡しており、帝国議会は欠員状態が深刻化していたためである。
選挙の結果、翼賛会が全議席の8割を確保し、近代幕府が盤石であることが改めて示されることになった。
ただし、残りの2割は非翼賛議員が占めた。
非翼賛議員は、幕府体制を刺激しないために全員が無所属、非政党議員となっていたが、帝国議会に野党勢力が生じたことは後に大きな意味をもつことになる。
アメリカが画策した日本のアメリカ化は一部成功したと言えるかもしれない。
しかし、日本がマクドナルドやディズニーランドを受け入れたように、日本に訪れたアメリカ人もまた光の国から来た巨人や、変形合体する巨大ロボット兵器、原子力で動く少年ロボットや宇宙空間に進出を果たした大和型戦艦を本国に持ち帰っており、本当に影響を受けてしまったのはどちらなのかは議論の余地がある。
文化とは基本的に相補的なものであり、どちらかが一方的に伝播するものではないというのが筆者の立場である。
日本では反核的として放映禁止になった放射能怪獣映画が、アメリカで上映されて大好評となり、ハリウッド映画として日本に逆上陸を果たしたのも文化の相補性を示すものと言えるだろう。
ただし、ハリウッド版の放射能怪獣映画は、主役の主食が放射性物質ではなく、マグロに変更されるなど、やや改悪と呼べる内容となっている。
その後、日本人の手によって再構築された新作が2016年に日本で放送され、核技術に対する恐怖と希望を巨大不明生物を通して描き切ったことに筆者は敬意を評するものである。
日本の一部民主化に成功したアメリカだったが、クニソン大統領はスタインズゲート事件で辞職に追い込まれ、次の大統領のフォールドは一度も大統領選挙の洗礼を受けることなく1期で終了、ジミーナ・カーターも見るべき成果が得られず、1期のみで終わっている。
米大統領の任期は2期8年までと決まっており、1期しか務められないのはよほど能力か、人品の問題がある場合である。
途中で辞職したり、そもそも選挙に出ていない人物などは論外だった。
当時のアメリカ大統領はそんな人物ばかりだったのである。
アメリカの復活は、フロリダからやってきた幸運な男、レオパルド・レーガンの登場を待つことになるのだが、それはまた別の話である。
日米友好の機運は1978年の日米平和条約締結による国交の完全正常化でピークに達した。
翌年には、イラン革命が勃発し、ソ連がアフガニスタンに侵攻してデタントの時代は終焉を迎えることになった。