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赤い月とベトナム戦争

 赤い月とベトナム戦争


 1960年代、真に奇妙なことながら、米ソはベトナムのジャングルで戦争をしつつ月世界を目指していた。

 東西冷戦時代、米ソは軍事力以外にも様々な分野で競争関係にあった。

 政治・経済・技術・文化・娯楽・スポーツも国家の威信を賭けた競争の対象だった。

 その優越が、自国のイデオロギー的優秀さを表す指標であると考えられたのである。

 その中でも特に宇宙技術はシンボリックでわかりやすい科学力の誇示だった。

 また、現実政治に応用可能な成果として、偵察衛星や通信衛星などインテリジェンスの分野で大きな優位を獲得できる可能性があった。

 ソ連は通常の航空技術でアメリカに劣るところが多く、アメリカの高高度戦略偵察機による領空侵犯偵察に対抗できる有効な戦略的航空偵察を展開できていなかった。

 そこでアメリカに対してアドバンテージのあるロケット技術によって宇宙からのスパイ活動ができないかと模索していた。

 また、宇宙ロケットは到達先を宇宙から地表に変更して、衛星の代わりに核兵器を搭載すればICBMとして使用可能であり、戦略爆撃機戦力でアメリカに劣るソ連にとって魅力的だった。

 フルシチョフ書記長は戦車や戦闘機といった通常兵器を縮小して、国防の要をICBMと核兵器に切り替えることで、軍縮を実現して経済発展に資金を集中したいと考えていたことから、ロケット開発に多額の投資を行った。

 その具体的な成果が、1957年10月4日の「スプートニク1号」を搭載したR-7型ロケットの打ち上げだったと言える。

 スプートニクの成功で、ソ連は世界で初めて人工衛星を地球周回軌道へ送り込んだ。

 ちなみにスプートニクはロシア語で「付随するもの」という意味で、それが転じて衛星を意味する言葉となった。よって、直訳すれば衛星1号となる。

 記念すべき衛星第1号はコンスタンチン・ツィオルコフスキーの生誕100年と国際地球観測年にあわせて打ち上げられたものだった。

 フルシチョフはアメリカに東西融和を呼びかけるためにまず自分の力(ICBMと核兵器)を誇示して対等の立場に立つことが必要だと考えており、スプートニクによってアメリカに揺さぶりをかけた。

 実際のところ、スプートニクやR-7はさほど実用性もないものであり、米ソの国力や戦力差を覆すような力はなかった。

 しかし、アメリカ世論はそうは考えなかった。

 ソ連の宇宙一番乗りで世界一の科学技術力を自認してきたアメリカ世論は騒然となった。

 所謂、スプートニク・ショックである。

 当時のアメリカの狂奔は凄まじいものであり、テレビ番組や雑誌などは宇宙やロケットに関する話題で席巻され、世論はテクノロジー礼賛一色に染まったほどだった。

 幼児向けの初等教育プログラムまで科学技術重視に切り替えるなど、アメリカは国家をあげた対抗策を打ち出した。

 結果として、ソ連は政治力学的にアメリカの挑戦を無視するわけにもいかなくなり、宇宙開発は投資ほどのリターンがないにもかかわらず、多額の国家予算を浪費しながら続くことになる。

 フルシチョフは成功しすぎてしまったと言えるだろう。

 アメリカが人工衛星打ち上げに成功したのは、1958年1月31日のエクスプローラー1号のことである。

 アメリカ政府はエクスプローラーの成功を誇示して世論の沈静化を図ったが、2番手は2番手でしかなく、アメリカの威信は大きく傷ついたままだった。

 アメリカの成功を嘲笑うかのように、ソ連は1961年4月12日、ボストーク・ロケットで世界初の有人宇宙飛行に成功した。

 人類初の宇宙飛行士となったユーリー・カガーリンは、


「私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」


 と述べて、アメリカよりも先に人類を宇宙空間に送り込んだ共産主義の優位性をアピールした。

 ロケット開発に伴うICBMの進歩は、冷戦構造そのものを大きく変えていった。

 1940年代にアメリカ空軍は完璧な国土防空と戦略爆撃機による先制核攻撃で、ソ連と日本を抹殺する戦争計画を立てていた。

 完璧な防空システムがあれば、反撃の核爆撃機を全て撃墜してソ連と日本を完封することができると考えていたのである。

 そのために膨大な国費を費やして北米大陸の隅々までレーダーサイトを張り巡らせ、半自動迎撃管制システム(SAGE)や迎撃特化した戦闘機群センチュリーシリーズと空対空核ロケット弾を用意してきた。

 空対空核ロケット弾は冷戦の狂気に近い兵器で、日ソの核爆撃機を確実に抹殺するために小型の核爆弾を空中で炸裂させるというものだった。

 ちなみに使用するのはもっぱらカナダ上空で、緑豊かなカナダの大地を容赦なく死の灰で汚染することになる。

 しかし、シカゴやニューヨークに核爆弾が落ちるよりはマシという理屈だった。

 狂気といえば、核攻撃で焦土化した日本列島にコバルト爆弾を投下し、日本という国家を完全消滅させることさえ、計画されていた。

 それがICBMによって、完全に無意味となった。

 マッハ27で落下するICBMは迎撃不可能だった。

 21世紀現在でも、迎撃可能なのは中距離弾道クラスまで、ICBMで打ち上げる大質量核弾頭の迎撃は困難で、未だに絶対的な兵器である。

 ICBMの登場により、核戦争を無傷でやり過ごすというアメリカ空軍の目論見は瓦解することになり、核戦争の相互確証破壊がより完璧なものに近づくことになった。

 1950年代後半から、米ソの雪解けが進んだのは相互確証破壊の確立によってお互いを認め合うしかないという現実認識の拡大があったからと言える。

 そして、この流れに乗り遅れまいとしたのが大日本帝国だった。

 通常兵器で米ソに圧倒的に劣勢な日本としては、核兵器はその格差を埋める唯一の手段だった。

 ソ連も通常兵器でアメリカに劣っている部分を核抑止で補っていたが、日本の場合はその割合がさらに大きかった。

 核兵器の投射手段として、もっとも効果的な方法は、迎撃不可能な弾道ミサイルであり、優れた弾道ミサイルを保有することは、核兵器の価値を何倍も高めることに繋がる。

 日の丸ロケットの基礎となったのはUボートで逃亡してきたナチ軍人の齎したV2ロケットだった。

 彼らは身の安全を保証してもらう代わりに、V2ロケットの設計図面、技術資料や現物を日本に差し出したのである。

 山本国家元帥は、V2ロケットのフルコピーを指示したが、V2は当時のハイテク兵器であり、現物や設計図があっても容易にコピーできるものではなかった。

 特に真空管を利用したアナログコンピューターの慣性誘導装置が、当時の日本の技術力では再現が困難で、開発初期は制御不能になったロケットがあらぬ方向へ飛んでいくのは日常茶飯事だった。

 中には熱海温泉の女湯に落下して爆発したロケットもあり、エロ爆弾という不名誉な仇名がつけられる始末だった。

 幸いなことに死傷者は出なかったが、それで済む問題ではなかった。

 国家賠償は当然のこととして、エンジニア達はせめてもの罪滅ぼしとして、ロケットの弾頭部分に反省文などを書き込み、遺憾の意を空に打ち上げた。

 日本がV2ロケットをフルコピーしたA1(アグリガット・アイン)の実用化に成功したのは1952年のことである。

 ちなみにA1ロケットの打ち上げを担当したのは日本海軍だった。

 空を飛ぶものを海軍が管理したのは、ロケットは戦艦の艦砲のような大口径砲弾の一種であるという考え方に基づいている。

 本家のV2ロケットの打ち上げは同じ理屈でドイツ陸軍が管轄したが、日本の場合は海軍が管理した。

 また、山本国家元帥は早期から弾道ミサイルと核兵器は一つものと考えており、核兵器の管理を反乱をおこした陸軍に預ける気はなかったのである。

 日本海軍では、A1を潜水艦に搭載してアメリカ本土を奇襲攻撃する構想を立て、戦時中に建造した伊号400型潜水艦3隻を改装して世界初の弾道弾潜水艦としている。

 発射の手順としては、特殊攻撃機晴嵐の格納筒を弾薬庫に改装し、浮上後に弾薬庫からレールでR1を船外に引き出し、90度起立させてから発射するというものだった。

 アルコール燃料と液体酸素の注入は船内で行うことになっていたが、これは非常に危険で爆発事故の可能性を孕むものであった。

 もちろん、海が荒れているときは発射不可能である。

 しかし、発射の映像や写真はプロパガンダで誇張されつくした形で発表され、アメリカ海軍に強い危機感をもたせたことから、情報・心理作戦としては大成功と言えるだろう。

 弾道弾潜水艦はすぐに米ソ海軍に模倣され、核抑止を構成する3本柱(核爆撃機・ICBM・SLBM)の一つとなった。

 さらに日本海軍は原子力潜水艦の開発も世界各国に先行し、1954年に伊号500型潜水艦が就役し、世界初のSSN保有国となった。

 アメリカ海軍も同年に原子力潜水艦ノーチラスを就役させており、世界初の原子力潜水艦のタイトルは僅か2週間の差で日本の手にすることになった。

 もっとも、その後の歩みは経済力の差からアメリカ海軍の先行を許し、命名規則変更後に就役した朝潮型原子力潜水艦までは日本製SSNはアメリカ海軍の後塵を拝すことになってしまっている。

 話を日本の弾道弾開発に戻すとA1は初期型のA型から構造を洗練させたD型まで作られ、弾頭切り離しが可能となったA2や、2段式のA4に発展した。

 スプートニクショックを迎えた1957年では、日本は中距離弾道ミサイル(2,000km級)のA9ロケットのジンバル制御問題が解消できず、打ち上げは失敗続きだった。

 日本初の人工衛星打ち上げに成功したのは、A10ロケットによるもので、1962年7月のことである。

 スプートニク1号から遅れること5年目の成功だった。

 A10ロケットは3段式の液体燃料ロケットだった。

 全長は30mで、燃料は液体酸素とケロシンを使用し、1段目に固体燃料の補助ブースターを4本配置している。

 これはソ連のR-7と同じ発想に基づくものだが、日本独自の固体ロケット技術を上手く活用して出力向上を果たしている。

 1962年8月11日に、新設された嘉手納宇宙基地から打ち上げられたA10ロケットは地球の重力を振り切って、日本人の手による衛星軌道への人工物投射に成功した。

 この成功は米ソに次ぐものであり、第3世界の大国である日本の面目を保つものであったと言える。

 もちろん、ICBMとしても使用可能であり、ペイロードを核兵器に換装すれば、沖縄からアラスカの一部やシベリア各地を攻撃可能だった。

 ただし、A10はソ連のR-7と同様に30m級の巨大なロケットで、しかも専用の発射台が必要という欠点があり、嘉手納宇宙基地からしか打ち上げできなかった。

 また、射程が不足しており、アラスカ以外のアメリカ本土は攻撃不能だった。

 ロシアは国家予算の5%という巨費を投入して、シベリアの各地に発射場を建設したが、その手の力技は日本では採用できなかった。

 人が住んでいない土地が北海道のような一部例外を除いて殆どないからだ。

 よって、日本のICBMは先制核攻撃で嘉手納宇宙基地が破壊されれば即座に使用不能になるため、実用性は極めて低かった。

 A10以後の大型ロケット開発は新たに編成された宇宙開発事業団に引き継がれ、平時の民生利用として開発に主眼が置かれることになる。

 民生利用として特に急がれたのは通信衛星の打ち上げだった。

 1964年の東京オリンピックにテレビの衛星放送を間に合わせるために、A10ロケットが毎月のように打ち上げられた。

 戦術用の短距離弾道弾やシベリアやグアム島攻撃用の中距離弾道弾の開発は継続したものの、戦略核抑止としての弾道弾は潜水艦搭載弾道弾(SLBM)に集約された。

 これは降雨が多く居住可能面積の小さい日本では、米ソが建設しているような硬化ミサイルサイロを建設することが難しいことや、移動発射システムもICBMクラスになると道路事情の悪さから本州に配備することが難しいという事情によるものである。

 北海道なら条件が緩和されるものの、米ソのように大量のICBMを維持することが難しい日本では核抑止を維持するためSLBMによる報復戦略に舵を切った。

 話を米ソの宇宙開発競争に戻すと、1961年5月にはアメリカ合衆国大統領ジョナサン・F・ケネディがアポロ計画を発表した。

 アポロ計画は1960年代中に人類を月に送り込むというもので、宇宙開発競争でソ連に先行されたアメリカが逆転を狙って仕掛けた大計画だった。

 問題は、この大計画を実現するために必要な人材が欠いていたことだった。

 アポロ計画は当初こそ順調な滑り出しだったが、巨大計画であるがゆえに様々な政府機関からの横槍や軍部の思惑、さらにホワイトハウスの介入などで計画が迷走していった。

 計画を統括する中心人物がカリスマ性や才覚を発揮して指導力を発揮ができたらアメリカ流の組織は上手くいくのだが、そうでない場合は悲惨だった。

 最終的にアポロ計画はアポロ11号が1969年11月18日にケネディの公約を守るために無謀な月面着陸を試みて失敗し、宇宙飛行士3名が死亡したことで失敗に終わった。

 アポロ11号の爆発事故は着陸船の低レベルな工作不良だったと言われており、着陸と同時に船体が崩壊し、月面で爆発四散した。

 死亡した3名の宇宙飛行士の遺体を回収することは不可能で、現在でも月面で無残な姿を晒すことになっている。

 致命的な失敗で世界に恥を晒すことになったアポロ計画は中止された。

 ソ連は、1970年2月23日にルナ20号が月面着陸を成功させ、アンドレイ・レオーノフが人類で始めて生きて月面に降り立ち、月面に赤旗を打ち立てた。

 月面に立ったレオーノフは、


「これは人間にとっては小さな一歩だが、共産主義にとっては偉大な跳躍だ」


 と述べて、コミュニズムの勝利を謳い上げた。

 アメリカのマスコミは、真空の宇宙で国旗がはためくはずがなく、巨大なセットで撮影した偽の映像であるとデマゴーグを拡散した。

 そんな惨めな方法でしかソ連に対抗できないアメリカは、全世界に向けて恥の上塗りを重ねただけだった。


挿絵(By みてみん)


 米ソの宇宙開発競争は、最初からソ連がリードして、そのままリードを維持して、ソ連が逃げ切ったと言えるだろう。

 しかし、逃げ切りでも勝利は勝利だった。

 アポロ計画の失敗は、ベトナム戦争の敗北と共にアメリカの凋落を決定的にした。

 ベトナム戦争にアメリカが深く関わるようになったのは、1955年ごろのことだった。

 それ以前の主役はフランスで、1945年4月に第2次世界大戦が連合国の勝利で終わるとフランスはインドシナ半島の再植民地化を図った。

 第2次世界大戦中のインドシナ半島は、ヴィシー・フランス派の植民地政府の管理下にあった。

 1940年の仏印進駐協定に基づき、日本の経済的優先権および軍事的便宜を得る見返りとして、インドシナにおけるフランスの主権とインドシナの領土保全を相互承認していた。

 この関係は大東亜戦争が日本の勝利に終わってホノルル停戦条約が結ばれても基本的に変わらなかった。

 状況が変化するのは、1944年9月に連合国軍がノルマンディーに上陸し、ドイツのフランス失陥が決定的になってからだった。

 ヴィシー政権に与していたインドシナ植民地政府は自由フランスへの鞍替えを図り、仏印進駐協定の無効化を宣言し、日本軍に撤退を要求した。

 日本が軍事力で植民地政府を打倒することは簡単なことだったが、アメリカの介入を招く恐れがあった。

 既にイタリアが降伏し、ドイツの敗北が決定的な状況だったため、日本は撤退を受け入れ、1945年2月までにインドシナから軍事力を撤収した。

 ただし、撤退に際しては武器弾薬を遺棄(譲渡)するなど、裏ではベトミン(ベトナム独立同盟)を支援することも忘れていなかった。

 日本軍の遺棄兵器を入手したベトミンが武装蜂起し、1945年8月には20万人のデモ隊がハノイを占拠して、ベトナム8月革命を成し遂げた。

 フランス植民地政府は日本軍さえ追い出せればそれで良かったのだが、日本軍という重しが外れたことで革命を招き、自滅したのである。

 自力で植民地政府を打倒したベトナムの快挙は、インドネシアやマレーシア、ビルマやインドといったアジア諸国に独立の勇気を与えることになった。

 フランス本国は8月革命を植民地の反乱と定義して、本国から鎮圧軍を送り込んだことで第1次インドシナ戦争が始まることになる。

 第1次インドシナ戦争において、当然、日本はベトミンのセコンドについた。

 アジアの独立と解放は、近代幕府にとって国是のようなものだった。

 日本以外には、ソ連がベトミンを支援した。

 ソ連は味方を増やすために植民地独立の気運に乗る形で、アジアやアフリカ諸国に武器とマルクス主義をばらまいていたのである。

 アメリカは資本主義陣営の盟主だったが、英仏の植民地帝国には元植民地人として嫌悪感しかなく、ソ連の第3世界への浸透を防ぐにも穏便な植民地の独立を求めていた。

 しかし、英仏はアメリカの意見をまともにとりあわなかった。

 英仏にとって植民地は既得権であり、「はいそうですか」と簡単に手放せるものではないからだ。

 イギリスは穏便に植民地を独立させ影響力を残す方向にシフトしていったが、フランスはライン川でソ連軍と向き合っているにもかかわらず、アメリカから受け取った援助兵器をアルジェリア紛争やインドシナ戦争につぎ込む始末だった。

 フランスは、マーシャル・プランで多額の復興支援を受け取っていたが、懐に入った金の使い方をアメリカに指図されることは拒絶した。

 それでも、NATOの要であるフランスを見捨てることができないアメリカは、まずは戦費を負担する形でインドシナ戦争にかかわることになる。

 日ソ相乗りの形になったベトミンだが、彼らの受け取った支援は僅かなものだった。

 幕府には、オー・チ・ミンを共産主義者として危険視する意見があったからである。

 同時期は中華動乱が最高潮を迎えており、中華民国の南に社会主義政権ができた場合、安全保障上の脅威になる可能性があった。

 そうした意見を抑えてオー・チ・ミンを擁護したのは、山本国家元帥だった。

 山本国家元帥は、イデオロギーは国益を優越するものではないとし、欧米列強のアジア再進出を阻むために、共産主義勢力と協調することも厭わなかった。


「何色であっても、ネズミを捕る猫がよい猫だ」


 という言葉は山本国家元帥の現実主義外交の最たるものと言えるだろう。

 オー・チ・ミンもアジア独立の旗手として日本に頼むところが大きく、独立後最初に訪問したのは思想的同盟国のソ連ではなく日本だった。

 ちなみに、訪日した山本国家元帥と会談したオー・チ・ミンは記念サインを求め、ホテルに帰ると枕元にサイン入り色紙を飾って眠った。

 このことがスターリンの耳に入り、オー・チ・ミンはソ連に訪問した際に嫌味を言われている。さらにスターリンはスパイを使って山本国家元帥のサインを盗ませ、自分のサインと差し替えるなど、オー・チ・ミンを苛めた。

 しかし、インドシナ半島への勢力浸透のため、ベトミンへの支援は続けた。

 日ソのベトミン支援は徐々に拡大し、中華動乱が峠を越えた1950年には、不要になった戦車や軽火器、火砲や武器弾薬がベトミンに譲渡された。

 フランスは泥沼の戦いを続けた末にディエンビエンフー要塞陥落によって敗北を認め、1954年7月21日にジュネーヴ休戦協定を締結した。

 この協定でベトナムは南北に分割して独立することになった。

 この決定はベトナムにとって不満だったが、1年後に再統一のために選挙を行うことになっており、ひとまずインドシナから戦火は去った。

 しかし、フランス撤退後のベトナム国はベトナム共和国に名を変えて共産党弾圧に乗り出し、統一選挙を定めた休戦協定を反故にした。

 フランスの後釜にはアメリカが座った。

 アメリカは、南ベトナムを東南アジアのイスラエルになりえると考えていた。

 1948年5月14日に独立宣言したイスラエルは、周囲のアラブ諸国全てを敵に回した第1次中東戦争に勝利し、中東に確固たる地歩を得ていた。

 もちろん、アメリカがイスラエルに強力な財政支援をしていることがその背景にあったが、同じことがインドシナ半島でも可能だと考えられた。

 また、インドシナ半島南部は、東南アジアにおける軍事的な要衝でもあった。

 日本軍も大東亜戦争において、仏印からマレー半島、ボルネオ島への上陸作戦を行った。

 陸上基地から航空戦力を展開して英東洋艦隊を壊滅させるなど、仏印を軍事拠点として大いに活用した。

 アメリカも同じ発想で、日本の勢力圏の中心に楔を打ち込むため、南ベトナムに手を伸ばしたのである。

 南ベトナムのイスラエル化を推進したアイゼンハワー大統領は、


「ともあれカルタゴは滅ぶべきであると考える次第である、だね」


 とオフレコで発言し、日本に対する復讐と勝利を希求する態度を強めていった。

 アメリカの南ベトナム進出に対して山本国家元帥は、


「ローマとアメリカは決して変わらない」


 と発言しており、アメリカに対する反感と敵意を露わにした。

 アジアの盟主として、日本はアメリカとのリターンマッチに臨むことになる。

 日本の支援を受けて北ベトナムは、1960年12月に南ベトナム解放民族戦線を結成し、ジュネーブ協定を無視した親米政権打倒に向け武力闘争を開始した。

 解放戦線のゲリラ戦に対して、南ベトナム政府は弾圧を強化し、数万人の反政府勢力を逮捕、虐殺するなど泥沼の戦いとなった。

 ベトナム戦争の特徴は、ゲリラ戦によるジャングル内や都市部での突発的な近距離戦闘だった。

 それまでの戦争では、歩兵の死傷は大半が砲撃によるものだったが、ベトナム戦争では歩兵の小火器による死傷が7割も占めることになった。

 解放戦線に供与された七式小銃は中華動乱でも活躍したStg44のコピー品で、新式の6.5mm弾を使用することでフルオート射撃が容易になっており、近距離戦闘の多いジャングルの戦いに適していた。

 アメリカ軍が持ち込んだM14はフルサイズのライフル弾を使用するため、咄嗟の射撃が多いジャングル戦では苦戦を強いられた。

 ソ連から送られたAKー47やAKM、さらにSKSといったアサルトライフルもジャングル戦に適しており、日ソのアサルトライフルに苦戦を強いられたアメリカ軍は、小口径高速弾を使用するM16の採用に踏み切ることになる。

 ソ連はM16に触発されて小口径高速弾を使用するAK-74の採用に踏み切るが、日本軍は慎重な検討の結果、6.5mm弾の使用を継続した。

 小口径高速弾は空気抵抗による減速が早く、有効射程が短くなりすぎると判断されたためである。

 ただし、1975年に採用された35式小銃は、プラスチックやポリマーを多用したḾ16の設計に多大な影響を受けている。しかし、内部構造はAKに近いもの(分割ロングストロークピストン式ガスオペレーション)となっており、ベトナム戦争の戦訓を反映した小銃と言える。

 話をベトナムの戦いに戻すと解放戦線の攻勢に対して南ベトナムはアメリカの支援を仰ぎ、ケネディ政権は軍事顧問団の増派で応えることになった。

 アメリカの援助は次第にエスカレートし、1962年には南ベトナム軍事援助司令部 (MACV) を設置、爆撃機やヘリコプターなどの航空戦力や戦車などの戦闘車両や重火器が送り込まれ、事実上の正規軍派遣となった。

 日本も対抗する形で、国家自衛隊を北ベトナムに派遣した。

 3軍に先駆けて国家自衛隊が派遣されたのは、国家自衛隊が国家元帥直属組織で、3軍に比べて動かしやすい組織だったためである。

 指導者の動かしやすい軍事組織という点では、南ベトナムに展開した米海兵隊と似ていると言えるだろう。

 国家自衛隊は、解放戦線の作戦指導にかかわり、軍事教練の実施やベトナム兵では運用が難しい地対空ミサイル部隊の運用を担当した。

 また、砲兵や戦車部隊を教導し、北ベトナム軍の戦車部隊を鍛え上げた。

 ちなみに日本が供与した戦車はパンターⅡで、T-54と同世代の戦車となるが、長砲身100mm戦車砲が障害物の多いジャングル内での運用に適しておらず、エンジンもアンダーパワー気味で北ベトナム軍からの評価は今一つだった。


挿絵(By みてみん)


 解放戦線のゲリラ戦に対してアメリカ軍には有効な対処法がなく、ケネディ大統領が度々軍事作戦に介入したため戦果が上がらなかった。

 アメリカが東南アジアのイスラエルと認識していた南ベトナムは、政権は腐敗しきっており、権力闘争のためのクーデタが頻発し、まともに機能している状態ではなかった。

 反日感情の強さから日本では否定的なイメージの強いイスラエルだが、国の独立を守るために国民は一致団結していた。

 ナチス・ドイツのホロコーストを経験したユダヤ人は、


「全世界に同情されながら滅びるぐらいなら、全世界を敵に回して生き延びる」


 という覚悟を決めて、国防に臨んでいた。

 しかし、南ベトナム国民にあるのは、自国の政府に対する不信と軽蔑だけだった。

 アメリカの根本的な失敗は、ベトナムという国家への無理解だった。

 世界最大の工業国であるアメリカのエリート達には想像ができないことだったが、ベトナムは前時代的な農業国であり、国家の基本は農村にあった。

 しかし、アメリカが見ているのは都市部の英語を話すことができるエリート富裕層ばかりであり、貧しい農村の生活は視界に入っていなかった。

 アメリカは多額の経済支援を行っていたが、それは都市部に向けたものであり、その恩恵を農村が授かることはなかったのである。

 それどころかゲリラの巣窟として農村をナパーム弾で焼き払っているのだから、自分で自分の敵を作り出しているようなものだった。

 解放戦線は農村に浸透し、1964年までに農村の7割が解放戦線の拠点となって、農村から都市や軍事基地を包囲することに成功した。

 こうした戦い方は日中戦争で日本軍が散々苦しめられた戦法で、そうであるがゆえに日本の軍事顧問団はそのやり口を熟知していた。

 解放戦線が駆使したゲリラ戦術の大半が、日中戦争で日本兵が味わった八路兵のゲリラ戦術のコピーだった。

 悪化するばかりの戦況と役に立たない南ベトナム軍に見切りをつけた米国は、トンキン湾事件(1964年8月)を仕掛けて、本格的な軍事介入に乗り出した。

 この時点で、アメリカは完全に手段と目的と取り違える誤りを犯していた。

 南ベトナムをイスラエル化して、日本の勢力圏に楔を打ち込むという当初の目的は失われ、南ベトナムという国家(手段)を維持することが目的になっていた。

 しかし、アメリカはもはや止まれなかった。

 超大国の威信がそれを許さなかった。

 2度もアジアの片田舎で負けることなど、あってはならないことだった。

 アメリカ政府は、米海軍の駆逐艦が攻撃を受けたことに対する自衛と報復を口実として、北ベトナム空爆に踏み切った。

 1965年3月から始まったローリング・サンダー作戦では、米海軍の空母機動部隊と空軍機によって、北ベトナムの軍事施設が激しい空襲を受けた。

 迎え撃つ北ベトナム空軍の戦闘機は日本製の淡電やソ連製のミグ戦闘機だった。

 淡電は1950年に制式採用された戦後第1世代型戦闘機で、1964年時点では旧式の部類に入る機体だった。

 しかし、アメリカ海軍のF-4ファントムⅡや空軍のF-105を相手に善戦し、よい意味で期待を裏切り、日本軍関係者を喜ばせた。


挿絵(By みてみん)


 大型のF-4ファントムⅡは日本海軍の陸上攻撃機から空母を守るという任務には最適の艦隊防空戦闘機だったが、小型軽量で運動性の高い日ソの戦闘機と格闘戦をするには全く向いていなかった。

 F-105に至っては戦闘機なのに爆弾倉があるという意味不明な機体であり、とても制空戦闘ができる機体ではなかった。

 アメリカ軍自慢の空対空ミサイルも誤作動や故障が続発して、役に立たないばかりか同士討ちを引き起こして使用が禁止される有様だった。

 当時のアメリカ空軍の戦闘機は、アメリカ本土をソ連の戦略爆撃機から守る迎撃機か、核爆弾を搭載して対地攻撃を行う戦闘爆撃機の2種類しかなかった。

 ベトナム戦争以前の戦略環境からすれば、そうした発想は間違いではなかった。

 しかし、ベトナム戦争のような局地戦や地上支援が連続する戦いには全く向いていなかったし、敵戦闘機とのドッグファイトは考慮の外だった。

 どれほど考慮の外だったかといえば、戦闘機同士のACM訓練が米空軍戦闘機部隊の公式カリキュラムから削除されるほど、考慮の外だった。

 日本海軍の空母機動部隊との決戦を目的に編成されていた米海軍の戦闘機部隊は、空軍機よりも少しマシだったが、F-4ファントムⅡは決してベストな機材ではなかった。

 むしろ旧式のF-8クルセイダーの方が空中戦において、オフレコで派遣されていた日本空軍のパイロット達からは手強い相手と思われていた。

 実際、F-8は多数の淡電を撃墜し、ミツビシ・マスターの異名をとっている。

 また、ケネディ政権は日ソを過度に刺激しないように、軍事顧問や技術者がいる軍事基地や発電所、ダムや需要な橋梁、レーダーや通信施設、港湾設備などへの攻撃を禁止したため、北ベトナムは有利に戦うことができた。

 特に航空基地への爆撃を禁止したことは致命的で、ベトナム軍機は危険になれば飛行場周辺に逃げ込むことで米軍機の追撃から逃れることができた。

 地上に駐機されている機体を攻撃することも禁止され、航空戦の最もベーシックな戦術である「飛び立つ前に殺れ」が実施できないため、第1線部隊のフラストレーションは凄まじいものとなった。

 しかし、ケネディ大統領は、北ベトナムに展開した日本軍を攻撃した時、彼らが核兵器で自爆することアトミック・ハラキリを極度に警戒していた。

 ケネディ政権が進めた柔軟反応戦略やエスカレーション理論は、核兵器使用の前にいくつも段階を設け、通常兵器には通常兵器で対応することで、武力衝突が即座に核戦争に発展しないように抑制を図るものだった。

 しかし、通常兵器の攻撃で敗北した場合、核兵器で自爆するアトミック・ハラキリ日本に対しては、エスカレーション理論は通用しなかった。

 誤って日本軍を撃破した場合、日本が核兵器で自爆し、そこから日米核戦争に発展する可能性があるため、米軍は慎重にならざるをえなかった。

 日本の戦略は、勝利か自爆か(victory or nuclear suicide)とまとめられ、瀬戸際戦略の一つとして認識された。

 キューバ危機(1962年)において、フィデル・カストリ議長は日本の戦略に倣って、


「独立を失うぐらいなら、我々は革命的ハラキリを行う」


 とフルシチョフに告げたことは有名である。

 革命的ハラキリとは、弱者の抵抗戦術の一つで、独立を失って植民地に戻るぐらいなら、核兵器を使って自爆することで名誉の死を遂げることである。

 このことはフルシチョフを通じてケネディにも伝えられ、ケネディはキューバ空爆を中止させ、海上封鎖に切り替えたことで世界の破滅は回避されることになった。

 実際には、日本がそのような戦略アトミック・ハラキリを採用していた事実はないのだが、アメリカ軍の将軍や戦略アナリスト達は、大東亜戦争で見せた日本軍の軍事行動から、そうした極端な日本軍像を幻視していた。 

 アメリカ人は決して認めようとはしないが、1年足らずでアメリカ合衆国を敗戦に追い込んだ日本の軍事力を軽蔑し、恐れていたのである。

 アメリカの家庭では聞き分けのない子供を躾けるために、


「悪い子のところには、イーロックが来るよ」


 と脅すことが日常的に行われている。

 イーロックは、ピンク色の肌をした全裸の中年男性のようなモンスターである。

 悪い子は夜中に連れ去られ、人気のない洞窟の中に仕舞われてしまうというフォークロアで、イーロックは騎兵隊に虐殺されたインディアンの悪霊とされている。

 しかし、戦前のアメリカにそのようなフォークロアは存在せず、イーロックが生まれたのは第二次大戦後のことだった。

 イーロックの元ネタが、イソロクであることは明らかである。

 ローマ帝国には、


「戸口にハンニバル」


 という諺があった。

 アメリカが現代のローマ帝国なら、さしずめ日本はカルタゴで、山本国家元帥はハンニバルの役回りだと言える。

 最終的にカルタゴは滅ぼされ、ハンニバルも自害に追い込まれるのだが、先に死んだのはローマ皇帝(ケネディ大統領)の方だった。

 話をベトナム戦争に戻すと、アトミック・ハラキリを警戒して行われた米軍の攻撃自主規制は、あまりにも多くの犠牲が出たため徐々に緩和された。

 しかし、トンキン湾事件(1964年)以後はソ連が重装備供与に踏み切ったため、アメリカ軍の損害は減らなかった。

 当初、ソ連はベトナムへの武器支援の拡大には否定的だった。

 モスクワから見てベトナムはあまりにも遠い場所にあったからだ。

 フルシチョフはキューバ危機(1962年)での失敗に懲りており、孤立した場所にある社会主義陣営への援助拡大には慎重になっていた。

 また、アジアの戦争は基本的に日本の責任であり、北ベトナムへの支援は日本が行うべきだと考えていた。

 最終的にソ連が支援拡大を決断したのは、東西平和共存路線を推し進めたフルシチョフが失脚し、日本が北ベトナムへの大規模な円借款をしたためである。

 ソ連は、武器支援に関しては原則、有償となっており、貧しい農業国でしかない北ベトナムの支払い能力に疑問を持っていた。

 しかし、日本が大規模な円借款を行って当面、戦費が不足しないことが明らかになると外貨獲得のためにベトナムへ大規模支援を実施することになった。

 武器輸出による外貨獲得は、経済が傾き始めていたソ連にとって極めて重要だった。

 しかし、ソ連の本格介入は、輸送経路に問題を抱えていた。

 ソ連とベトナムは陸路での連絡がなく、海路で送るしかなかったからである。

 日本はソ連との関係を重視していたが、大陸で直接国境を接する集は、国境紛争が続いており、関係は最悪だった。

 中華民国はそれよりもマシだったが、ソ連軍の通過を許すことはなかった。

 ソ連海軍はキューバ危機で示されたように未だに弱体であった。

 そこでソ連が頼ったのが日本海軍だった。

 核軍備最優先の方針もあって日本海軍の陣容は薄くなっていたが、それでも世界第2位の海軍であり、ベトナム戦争の激化を受けて海軍予算も拡大傾向にあった。

 戦艦大和と武蔵は、ソ連の輸送船護衛や米海軍を威嚇するためにハイフォン港への親善訪問を行っている。

 輸送船団の戦艦護衛は象徴的な意味しかなかったが、政治的な破壊力は絶大だった。

 現役最後の時を過ごしていた金剛型戦艦4隻は機関が死にかけていたことから、船団護衛に投入されなかったが、ハイフォン港で防空戦艦として使われた。

 ハイフォン港は北ベトナム最大の補給拠点で、港湾封鎖のためにアメリカ空軍・海軍が航空機雷の敷設を試みたが、金剛や比叡が港内に配置されているため、機雷敷設を強行することができなかった。

 また、北ベトナムに派遣された日本海軍の掃海部隊が24時間体制で掃海を行っており、ハイフォン港は戦争終結まで守り切られることになる。

 米海軍もアイオワ級戦艦を現役復帰させて日本海軍の戦艦投入に対抗した。

 そのため、しばしば南シナ海で日米の巨大戦艦がにらみ合うことになった。

 日米の戦艦には核砲弾が配備されており、一歩間違えれば南シナ海で世界初の(そして最後の)核砲弾を使った水上砲撃戦が起きていたかもしれない。

 空母も大改装を施した信濃、尾張、大鳳、翔鶴、瑞鶴が輪番でヤンキー・ステーションに集まった米空母相手に親善飛行という名目で嫌がらせを行って北爆を妨害した。

 信濃は1961年に大改装を終えたばかりで、艦載機は新鋭の陣風になっていた。

 陣風は革新的なエンテ翼付きのデルタ翼機で、日本初のマッハ2級の艦上戦闘機だった。

 ただし、小型軽量化のために射撃管制レーダーしか搭載しておらず、初期型は空対空誘導弾さえなく、武装は機関砲だけだった。

 陣風はしばしば米艦載機とドッグファイトになることがあったが、圧倒的な運動性能で米機を翻弄して、逃げおおせた。

 F-4ファントムⅡは格闘戦に入ると陣風の敵ではなく、頼みのスパロー・ミサイルも故障だらけで役にたたなかった。


挿絵(By みてみん)


 ベトナム戦争の佳境(テト攻勢:1968年)には間に合わなかったが、1971年には6万t級の新造空母『飛龍』と『蒼龍』が艦隊に加わり、日本海軍はベトナム戦争を通じて海軍拡張に転じることになった。

 アメリカ軍は戦略爆撃機(B-52)まで投入して北爆を継続したが、発進基地のグアム島には沖合で網を張っている日本海軍の駆逐艦がいた。

 よって、その動向は逐次通報されており、ベトナム上空では熾烈な対空砲火によって大損害を被った。

 さらにソ連がS-75(SA-2ガイドライン)やMig-21をベトナムに供与すると米軍機の損害はうなぎ登りになった。

 S-75やMig-21は日本でもライセンス生産され、ベトナムに送られた。

 日本がソ連製兵器のライセンス生産に踏み切ったのは、核や弾道弾の生産に予算を割いている関係で、1960年代以後にインフレーションや兵器システムの高度化が進むと兵器の国産開発が次第に困難になってきたことが大きかった。

 加えて日本は金食い虫の海軍も拡張する必要があり、陸戦兵器や航空機の開発にまで手が回らなくなりつつあった。

 ソ連も上手くいかない経済を回すために武器輸出には熱心で、日ソ融和を演出するためにソ連製兵器の導入が1960年代に進むことになった。

 ただし、ソ連がライセンス権を売ったのは基本的に輸出用のモンキーモデルと呼ばれるもので、日本もそれを承知で導入し、後から個々の装備を国産品に換装している。

 また、過度に東側に傾きすぎないように日仏共同の短距離地対空ミサイル開発や高等練習機の日英仏共同開発などアメリカ以外の西側諸国と距離を縮めることでバランスをとった。

 特に独自外交を進めるフランスは日本との兵器ビジネスには熱心だった。

 日英仏共同で開発したジャギュア(フランスではジャグワール、日本ではジャガー)は、日本空軍では超音速練習機として使われたほか、艦上攻撃機「豹山」としても配備された。

 英仏海軍も艦上攻撃機型の配備を予定していたが、フランスは国産機に拘りキャンセルした他、イギリスは正規空母を全廃したため実現しなかった。

 豹山ジャギュアは、手ごろ値段で練習機としても軽攻撃機としても使えるということで、中華民国や集、大韓帝国といったEATO諸国やインドネシア、マレーシア、インドにも採用され、2,000機以上が生産されて大成功を収めた。

 この成功に気を良くしたイギリスとフランスは、スペインやイタリアを巻き込んだ一大国際共同開発プロジェクトを立ち上げて大失敗することになるのだが、それはまた別の話である。

 陸戦兵器においては、T-62戦車が導入された。

 T-62は大量生産されたT-54/55の改良発展型でソ連軍の最新鋭戦車というふれこみだった。

 実際にはT-62は革新的なT-64が実用化するまでにつなぎでしかなく、性能的にはモンキーモデルでしかなかった。

 しかし、革新的な115mm滑腔砲や戦後設計のソ連戦車は、戦前設計のパンター戦車を弄繰り回して喜んでいた日本の技術陣に冷水を浴びせるには十分な性能だった。

 T-62の導入はどちらかといえば政治的な要素が大きかったが、日本陸軍はT-62の優れた攻撃力と機動力を天馬号と激賞した。

 T-62はソ連の真打であるT-64よりも保守的な設計ということもあり、生産技術に劣る中華民国や集、大韓帝国でもライセンス生産可能だった。そのため天馬号はEATO諸国で5,000両以上が生産、配備されることになった。

 レーダーや武装を日本製に換装したMig-21Jは1968年10月からベトナム上空に姿を現し、義勇兵扱いの日本空軍パイロットが搭乗して米軍と戦った。

 運動性が高く、練度の高い日本空軍の義勇兵が乗ったMig-21Jは亡霊殺し(ファントム・キラー)の異名を取り、米軍パイロットを恐れさせた。

 ちなみに日本空軍のパイロットの平均飛行時間は年間200時間で、海軍パイロットにいたっては250時間もあった。

 これは米軍パイロットとほぼ同レベルで、世界最強のミグパイロットといえば日本空軍かフィンランド空軍のどちらかと言われている。

 北ベトナム軍は、ソ連製の地対空ミサイルやジェット戦闘機に加えて、重要拠点の周りを高射砲や対空機関砲で固めて、北爆を迎え撃った。

 解放戦線のゲリラも、低空飛行する米軍機にはAKやボルトアクションライフルで対空射撃を実施した。

 例え小銃弾であっても、地対空ミサイルを避けるために超低空飛行するしかない攻撃機には脅威だった。

 米軍は電波妨害で地対空ミサイルを無力化したが、北ベトナム軍は無誘導でミサイルを発射し、米軍機が回避運動で高度を失ったところを対空砲火で仕留めた。

 日ソの軍事技術者は電波妨害対抗手段(ECCM)を開発し、それにアメリカ軍が対抗するといういたちごっこが続いたが、最終的に米空軍はB-52を北爆から引き上げた。

 米国は、B-52引き上げを緊張緩和の一環と強弁したが、実際には損害の多さに悲鳴を上げていた。

 B-52はグアム島に展開して爆撃を行っていたが、往復の飛行距離があまりにも長すぎたのである。

 そのため、ほんのわずかな損傷であっても、復路での機体の損失に繋がった。

 エンジンの損傷はもちろんこと、油圧系統やダイナモの破損も操縦を不安定にさせ、グアム島への帰還を難しくした。

 アメリカ空軍はベトナム戦争でのB-52損失機を31機としているが、これはベトナム上空で失った数であり、海に不時着した数はカウントしていない。

 ベトナムとアメリカの国力差は1対100の開きがあったが、ハノイ上空は1944年のベルリンを超える危険地帯で、米空軍のF-105などは生産機の大半がベトナム戦争で失われるほどの損失を被った。

 距離の問題は、アメリカ海軍にとっても深刻だった。

 アメリカ海軍もグアム島を拠点とし、6万t級の大型空母さえ入渠可能な浮きドックや工作艦、給養艦や宿泊専用艦艇など膨大な支援艦隊を展開していた。

 アメリカの支援艦隊は、超大国の国力を反映した分厚い陣容を誇り、対日戦争計画の基礎をなすものだった。

 サイパン島からアメリカの支援艦隊を偵察していた日本空軍の偵察機などは、


「海が3割、船が7割」


 という狂気の報告を本国に送信している。

 しかし、グアムからでもトンキン湾は遠すぎた。

 グアムの後ろにはハワイ・真珠湾しかなく、アメリカ本国は日付変更線の向こうにあった。

 西太平洋のアメリカ唯一の同盟国オーストラリアはベトナム戦争中に、アメリカ軍の兵站を支える役割を果たしたが、ベトナムはやはり遠かった。

 東南アジア諸国はアメリカとの軍事協力を一切拒絶しており、艦艇の寄港はもちろんのこと、食料や衣料品といった武器以外の軍需品の取引にも応じなかった。

 もっとも親米よりのフィリピンでさえ、米兵の入国を拒否した。

 距離の問題が最も深刻だったのは米陸軍や海兵隊で、最盛期に54万の兵力を数えたベトナム派遣軍は、その兵站維持だけで平時の数倍の軍事費を要求した。

 これはベトナム派遣軍のみの話であって、南ベトナムに渡す分の軍事支援や海空軍は別途計算しなければならない。

 当時のアメリカ財務省の官僚たちはベトナム戦争の非効率性を


「100ドル札を炉にくべて暖をとるようなもの」


 と表現した。

 戦費縮減を求められたペンタゴンはやたら装備の共通化を推進して、様々なトラブルを引き起こすことになる。

 それもこれも、全ては距離の問題だった。

 もしも日本がアメリカの同盟国だったのなら、日本の兵站協力により、ベトナム戦争に要した軍事予算は5分の1以下に抑えられたという試算もある。

 しかし、その場合はそもそも戦争にならないため、根本的に無意味な話である。

 北ベトナムも戦争遂行に必要な武器は日ソから輸送する必要があったが、ソ連はともかく日本は同じアジアの国だった。武器以外の軍需物資なら、中華民国から仕入れることも可能だったから、北ベトナムが距離の問題で困ることはなかった。

 米軍はゲリラを火力で圧倒し、ジャングルを消し飛ばすほどの勢いで砲爆撃を注ぎ込んだが、ベトナム人の抵抗意思を粉砕することはできなかった。

 もちろん、ゲリラ側の損害も凄まじいものだったが、祖国統一のためにベトナム人はあらゆる犠牲を払って戦い抜く覚悟を固めていた。

 ベトナムは古代から中華世界の外縁に位置し、歴史上何度となく中国の侵略に立ち向かい独立を守ってきた民族だった。

 技術や軍事力の隔絶によってフランスに独立を奪われたものの、ベトナムはもう一度独立を失う気はさらさらなかった。

 対してアメリカ軍は何のために戦っているのか、分からなくなっていた。

 南ベトナムをイスラエル化して日本を引き込んで消耗させるはずが、自分が泥沼に嵌って窒息しかかっていた。

 前線部隊もテト攻勢以後は深刻な士気低下に見舞われた。

 テト攻勢そのものは軍事的にはアメリカ軍完勝と言える内容だったが、政治的には完敗としか言いようがなかった。

 一時的であってもサイゴンのアメリカ大使館が占領されたことはアメリカの威信を大きく傷つけ、恐怖で青ざめた顔の若い米兵の顔がテレビ放送でアメリカ本国のリビングを直撃した。

 ベトナム戦争はテレビが戦場に持ち込まれた最初の戦争となったが、宣伝戦略においては日本軍がアメリカよりも一枚上手だった。

 1964年に国産通信衛星による衛星放送が始まると北ベトナムに日本のテレビ局が多数カメラを持ち込んで、アメリカの非を打ち鳴らした。

 この種の情報作戦は山本国家元帥の得意とするところで、CNNやBCCも日本の仲介で北ベトナムに入り、アメリカのリビングに戦争の悲惨さを送り届けた。

 アメリカ本国の反戦運動は大いに盛り上がり、徴兵拒否や学生運動が激化していった。

 それに対して連邦政府が銃を向けて弾圧を加えたことで、アメリカ社会は深刻な混乱状態に陥った。

 加えて、経済の低迷も著しかった。

 1950年代のアメリカは西欧諸国が戦乱で荒廃していたこともあって、世界市場を席巻して貿易黒字で世界中から富を吸い上げていた。

 50年代は1920年代に匹敵するアメリカ経済の黄金時代だったと言える。

 しかし、60年代以後はそれまでのような一人勝ちはできなくなった。

 日本は総力戦体制で培った生産技術を拡大発展させ、戦闘機や爆撃機をつくるはずだった生産ラインで自動車やトラックを量産化して、アメリカの市場支配を脅かした。

 西欧諸国やソ連と異なり、日本は本土攻撃を受けておらず工業地帯は殆ど無傷だったことが戦後の経済成長を高めた。

 これはアメリカにとって大きな誤算だった。

 日本は戦時中に戦時予算として膨大な紙幣を増刷しており、アメリカのエコノミストは無理な紙幣増刷で戦後日本はハイパーインフレに見舞われると判断していた。

 しかし、日本は戦後も配給制を維持して民需を抑制しつつ、軍需生産を急速に民需生産に転換することで、消費財の供給体制を整えてインフレーションを5%程度に抑えることに成功していた。

 それどころか、戦時中の膨大な紙幣増刷(内需)が民需転換に合わさってGDPが急速に膨張し、内需主導の高度経済成長に突入していった。

 戦後、アジア各国の独立で資源問題が大幅に緩和されたこともプラス材料で、戦前のようにアメリカやイギリスからくず鉄や石油を苦労して買う必要もなくなった。

 金がない新興国にとって資源のバーター貿易を認めてくれる日本はありがたく、外貨を要求してくるアメリカ人よりもよほど付き合いやすかった。

 マッチポンプと言われても仕方がないが、中国大陸もまた戦火で工業地帯が破壊されており、日本製品を際限なく引き受けてくれるお得意様だった。

 躍進を続ける日本経済は、1960年代に入ると地域経済統合を指向することになる。

 山本国家元帥は、今後、東アジアにおける如何なる戦争もあってはならないとし、その為の大同団結策として、東アジア経済共同体構想を打ち出した。

 東アジア経済共同体(EAEC)は50年代に締結された日集韓鉄鋼協定をさらに発展させたもので、日本、集、大韓帝国と中華民国の4か国による統合市場を作る協定だった。

 これには一部国家主権の制限も加わっており、超国家主義的な東アジアの経済統合をつくるものであった。

 1963年にはGNPが世界第2位に浮上し、日本はアメリカに次ぐ経済大国になっており、東アジア経済共同体の発足によって、GNPの数値だけならアメリカに匹敵する経済圏が誕生した。

 1964年の東京オリンピックは、近代幕府の黄金時代と言えた。

 山本五十六国家元帥と昭和天皇が見守る中、東京オリンピック・スタジアムの聖火台が点火され、上空には海軍飛行教導隊が飛んで五輪マークを描いた。

 オリンピック開催にあわせて首都東京は大改造されて現代都市に生まれかわり、世界各国から来たマスコミが、大日本帝国の繁栄ぶりを紹介することになった。

 ちなみに、東京オリンピック開催式の前日は雨で、当日も雨の予報だった。

 そのため海軍飛行教導隊の飛行は見合わせる方向だったのだが、


「明日は晴れるよ」


 という山本国家元帥の鶴の一声があり、飛行にこぎつけた。

 雨は朝方に止み、開会式は100点満点の青空になっていた。

 1964年時点では、国民一人当たりの所得水準は英米仏の半分以下だったが、そうであるがゆえにまだ伸びしろがあると考えられており、実際にオイルショック(1973年)まで日本経済の高度経済成長は続いていくことになる。

 ソ連に宇宙開発競争で負け、ベトナムの泥沼に嵌り、経済では日本の猛追撃を受けるアメリカのプライドはボロボロの状態だった。

 国内世論は戦意を喪失し、1973年3月までにアメリカ軍は南ベトナムから撤退した。

 既に北爆開始から10年近い年月が経っており、北爆に屈せず国民を励まし続けたアンクル・オーも亡くなっていた。

 正規軍撤退後も、南ベトナムにはアメリカの軍事顧問団が駐留しており、軍事援助も継続していたことから、完全に戦いが終わったとはいえなかった。

 北ベトナムが南ベトナムの傀儡政権を打倒し、完全な統一を果たすのは、1975年のことである。

 



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― 新着の感想 ―
[良い点] 第二次世界大戦付近から介入をする変わった戦後の世界線と言うのが好きです そうよくある高い城の男だとかファザーラントとか日本が分裂をする様な世界線じゃないのが素晴らしいです [気になる点]…
[一言] こいつ転生しとらんでいますぐ総理大臣やってくれw
[一言] 軍神山本さんが酷使無双されておりますな。 それに、ブラック企業撲滅とか経済復興とか新幹線の整備とかいろいろと経済的なこともやって核兵器の開発潜水艦に核兵器を搭載して反撃できるようにするなどの…
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