ヤマモトの奇跡
ヤマモトの奇跡
第2次世界大戦終結後の世界を主導したのは、アメリカ合衆国とソビエト社会主義共和国連邦という2つの超大国だった。
米ソはそれぞれ資本主義と自由民主主義・共産主義とプロレタリアート独裁というイデオロギー的相克を抱えており、共通の敵だったナチス・ドイツを倒すと世界を2分する対立構造を作り上げた。
イギリスのウィンストン・チャーチル首相の演説、
「ドイツのライン川からアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある」
という鉄のカーテン演説は冷戦初期の世界を端的に表現したものである。
そして、冷戦初期の世界において間違いなく優位にあったのはソ連だった。
鉄のカーテン演説のとおり、ソ連はライン川よりも東の領土(中部・東部ヨーロッパ)を手中におさめていた。
それに対して西側陣営として数えられるのはブリテン島とフランス、イタリア、ベネルクス三国、スペインのみだった。
ソ連は米英仏が要求したドイツの分割占領を拒否し、単独占領したドイツから根こそぎと言っていいほどあらゆる工業設備や科学技術の所産を奪い去った。
ソ連がドイツの工業基盤を徹底的に破壊したのは、独ソ戦で辛酸を舐めさせられたことに対する復讐であり、ドイツが再びソ連を攻撃することができないようにするため予防措置といえた。
もちろん、破綻寸前の国家財政を助けるという意味もある。
1941年から44年までのドイツ占領下で行われたナチスの特別行動隊による虐殺やレイプ、破壊活動によってベラルーシやウクライナは焦土化しており、ソ連の復讐感情もまるで理解不能というものではない。
「パンにはパン、血には血を」
というソ連の復讐が吹き荒れたドイツからは、国を捨てて逃げる難民が膨大な数にのぼり、ドイツ難民問題は冷戦初期のヨーロッパにおける主要な国際政治問題となった。
ドイツの科学技術は世界一と喧伝されていたこともあり、それをほぼ独占することになったソ連の科学技術はアメリカに比肩するものと考えられた。
特に大戦末期に実用化したV2ミサイルの製造設備や技術者を全て手に入れたことは大きなアドバンテージだった。
ソ連に連行されたドイツのロケット技術者はソ連のロケット開発に従事した後に、才能を絞りつくされ、用済みになると赤く染まったドイツに帰ることが許された。
しかし、ヴェネディクト・フォン・ブラウンのようにその才能を危険視され、強制収容所で一生を終えた悲劇的な人物もいた。
アメリカもドイツのロケット技術を手に入れるために様々な手段を講じていたが、ライン川で終戦を迎えたこともあって、質も量も不足していた。
また、戦後にナチス・ドイツのホロコーストが明らかになるとドイツ由来の技術を用いることがタブー視された。
そのため、ジェットエンジンやロケット開発などの革新的な技術において、アメリカは明らかに遅れをとることになった。
西側陣営の出遅れは、何が悪かったかといえば、日本との戦争にボロ負けした事が悪いとしか言いようがなかった。
ドイツの状況はひどいものだったが、フランスも戦争で荒廃しきっており、国家経済の立て直しが急務で、とてもソ連に対抗できる状態ではなかった。
1950年代、もしもソ連の大群がなだれ込んできたら、1週間でフランス全土は蹂躙されると考えられ、状況は1940年5月の西方戦役よりも悪かった。
フランス軍の中枢ではマジノ線の再整備が本気で検討されたほどである。
再検討されたマジノ線Ⅱはライン河沿いに地下要塞と大量の核地雷と長距離砲+核砲弾を配備するというものだった。
フランス軍は地下要塞に籠ってソ連軍に向けて核砲弾を乱射すればソ連軍を撃退できると考えていたのである。
さすがにこれは時代錯誤な上に、狂気であるため書類検討の域を出なかったが、再建されたフランス軍の一部に構想は引き継がれた。
イギリスはフランスよりマシな状態だったが、国力低下に歯止めをかけられず、アジアやアフリカの植民地を次々と失っていくところだった。
1940年代~50年代の欧州国際情勢は西低東高と言える。
それに対して東アジア世界は東西どちらにも属さない線を歩んでいた。
その中心にいたのはもちろんジャパニーズ・エンパイアである。
大東亜戦争でアジア・太平洋から英米の軍事力を一蹴して、停戦条約を結んだ大日本帝国は、有り体に言えば第2次世界大戦から勝ち逃げに成功した国だった。
あと2年も戦争が続いていたら、日本軍は英米の圧倒的な物量に押しつぶされていたと考えられている。
そうなる前に停戦に持ち込んだのだから、勝ち逃げと言われても仕方がないだろう。
しかし、勝ち逃げでも勝ちは勝ちだった。
日本はホノルル停戦条約で大戦終結まで東アジア・東南アジア地域の保障占領を認められ、日本はその機会を最大限活用した。
終戦までにアジア各地では独立準備政府が作られ、日本軍撤収後には雨後の筍のようにアジア各地で独立国が生まれることになった。
イギリスやオランダといった植民地帝国は、アジア諸国の独立を認めなかった。
しかし、日本軍は撤収時に武器弾薬を故意に遺棄しており、軍事力を整えた新興独立国は再占領を目論んだ英蘭に対して頑強に抵抗した。
大戦で国力を消耗していた英蘭は、しぶしぶ植民地の独立を認めることになる。
香港のようにイギリスに戻った地域もあるが、それは例外と言えるだろう。
アジア独立の波は日本にもおよび、満州国は日本の傀儡国から脱して集として独立し、朝鮮半島でも独立運動が活発化して大韓帝国が復活することになった。
日本はシナ事変で中華民国に勝利したものの、戦後内戦で国が分裂したため、大陸に築いた地歩を失うことになった。
しかし、集や大韓帝国、中華民国の国力では単独で米ソに向き合うことは不可能であり、日本を盟主とする同盟体制を構築に向かった。
所謂、東アジア条約機構(=EATO)である。
アジア版のNATOとも言えるEATOは、日華集韓の4か国で始まった。
条約機構の本部はソウルに設置された。
当初は広島を予定していたのだが、大陸から遠すぎるため中間地点として朝鮮半島のソウルが選ばれた。
日本は同盟の盟主として各国に軍を派遣し、防衛義務を負うことになった。
これは大きな負担だったが、覇権国家として避けては通れない責務と言える。
責務を果たす対価として、EATO結成と同じくして、日集韓鉄鋼協定(1950年)が結ばれた。
日集韓鉄鋼協定は、経済的な一体性を保つために結ばれたもので、重要な戦略資源である鉄鋼や石炭生産を日集韓の代表者が集まる国際機関によって管理するものであった。
鉄鋼協定によって、日集韓では原則として鉄鋼や石炭の関税が0となり、国境を超えた単一市場化が達成された。
要するに大日本帝国の円ブロック経済を維持するための仕組みだった。
集や大韓帝国はそれぞれ独自の通貨(両、ウォン)を定めていたが、円と連動する固定相場制を採用している。
鉄鋼協定には後にセメントや石油や電力生産、核燃料、小麦、米などの品目が追加され、中華民国も加盟(1955年)するなど、東アジア統一市場の源流となった重要な国際協定と言える。
なお、欧州でも英仏間で同じ発想の単一市場の形成が模索されたが、イギリスは伝統的に欧州の統一には反対で、話がまとまらなかった。
フランスはスペインやイタリアとも協議を重ねたが、3か国は基本的に農業国で市場が競合しており、単一市場化のメリットがなかった。
メリットだけで論じるなら工業国のドイツと農業国のフランスこそもっとも利害関係が一致している国と言えた。
しかし、ドイツは東側陣営であり、物理的な距離はともかく政治的には南極よりも遠い国になっていた。
話を極東に戻すと、EATOと鉄鋼協定の締結によって、日本は漸く大陸と安定した関係を確立したと言えた。
特に中華民国との安定した関係構築は、長年の政治課題だった。
20世紀前半の日本の大陸政策は如何に自分たちにとって都合のいい大陸政権を作るかで説明することができる。
孫文への支援や張作霖爆殺事件、満州事変なども、結局のところは自分たちにとって都合のいい大陸政権をつくるという一言で説明できてしまう。
それが破綻した結果として、日本は暴力による解決しかなくなり、戦争に突き進むことになった。
シナ事変は中国への支援遮断のために英米と激突する大東亜戦争に発展した。
日本はその全てに勝利して、自分たちにとって都合のいい大陸政権を作るという当初の政治目標を達成したのは、ある意味奇跡と言えた。
なにしろ、なぜこれが上手く行ったのか、当事者の日本人も説明ができていないからだ。
最大の不思議は英米を同時に敵に回して圧勝してしまったあたりで、その辺りの合理的な説明は殆ど放棄されているのが現状である。
代わりに用いられているのが軍神山本五十六というマジックワードだった。
生きている神は既に昭和帝がいたが、八百万の神々が住まう日本では生ける軍神と生ける神は住み分けが可能だった。
それが理解できないアメリカではミリタリー・アラヒトガミという珍妙なポリティカル・タームが作られた。
軍神山本五十六こそ、独立の熱気あふれるアジアのキーパーソンだった。
日本主導で進むアジア独立の高揚感は、1955年のアジア・アフリカ会議で頂点に達した。
会議場に威風堂々と現れた山本五十六国家元帥の姿は万雷の拍手で迎えられた。
ヨーロッパ世界が戦災で低迷する中、米ソに次ぐ第3の大国である日本が、アジア・アフリカといった第3世界を制することは、米ソにとって由々しき事態だった。
同時期、米ソの軍事関係者は膨大な量の対日戦計画がプランニングされては消えていったことを証言している。
しかし、最終的に米ソのいずれの戦争計画も実行に移されることはなかった。
スターリンは第2次ノモンハン事件で日本軍の軍事力を確認すると日本との直接対決を避けた。
中華動乱でもスターリンはソ連軍の直接参戦を回避し、代理戦争という新しい戦争を展開した。
アメリカ合衆国は、ソ連よりもさらに戦争に近いところまで駒を進めていた。
国内世論は反日一色に染まっており、戦力も十分にあった。
1945年までに米海軍は、エセックス級空母16隻やアイオワ級戦艦4隻、サウスダコタ級戦艦5隻を新規建造して、連合艦隊を遥かに上回る戦力を揃えていた。
小型の商船改装空母に至っては150隻以上もあり、護衛駆逐艦や潜水艦の数は数えるのもバカバカしい有様だった。
戦時中に実戦使用されなかったものの原子爆弾も完成し、1945年には10個以上保有して運搬手段のB-29と共に実戦配備を終えていた。
1945年にアメリカが攻めて来たら、日本は一たまりもなかっただろう。
しかし、日本は対日戦争の拠点となるハワイを占領期間中に焦土化することで時間稼ぎに成功した。
また、世論もヒトラーが死んで終わった戦争を延長する雰囲気ではなかった。
国家予算の9割が軍事費になっており、さすがのアメリカもこれ以上の戦争継続は難しい状態だったことも幸いした。
さらに1946年7月31日には、ビキニ環礁で原爆実験を実施し、世界で2番目の核保有国となった。
日本の核武装を期に、アメリカの対日復讐戦争の機運は急速に萎んでいくことになった。
1946年時点では、日本製原爆は運搬手段もなく、その気になれば先制核攻撃で完封することも可能といえば可能だった。
しかし、日本軍が報復攻撃として潜水艦に原爆を搭載して東海岸や西海岸などで爆発させるという可能性があった。
実際、米軍は詳細にその場合の損害予想を調査しており、真珠湾攻撃で使用された特殊潜航艇などに原爆を搭載して、ひそかにニューヨークのハドソン川に潜入させて爆発した場合の被害見積を作成している。
結果報告としては、10万人がただちに即死し、放射能汚染によってニューヨークが再起不能になるという暗いものだった。
スターリンは、ヒトラーが日本に原爆を譲渡したと思い込み、ヒトラー=ヤマモトの復讐を極度に警戒し、自分専用の巨大核シェルターをつくらせた。
米国の核の独占は、1年程度しか保たなかったのである。
アメリカが進めた核開発は、ナチス・ドイツの核保有に対抗するものであったが、原爆が完成する前にドイツは降伏しており、使う時期を逸していた。
ヒトラーは、核開発の意義を認めていたが、世界大戦中に完成させるのは不可能と判断して、ドイツ独自の核開発を中止させていた。
ヒトラーの読みは正しかったと言えるだろう。
マンハッタン計画は膨大な予算を注ぎ込んだ割には得るものがなく、膨大な国費と時間を無駄にしただけというのが現在の評価である。
アメリカの軍事関係者はソ連や日本の核保有はまだ数年かかると考えており、日本が原爆実験に成功するとパニックに陥った。
そして、マンハッタン計画の情報を日本人が盗んだと思い込んで、大規模なモグラ狩りが行われた。
結果として、モグラは見つかったがその全てがソ連のスパイだったことから、アメリカは二重の意味でパニックに陥った。
逮捕されたスパイは、
「アメリカの核独占は世界平和のためにならない」
と裁判で発言し、ソ連に核技術を流出させたことを認めた。
最高機密であったマンハッタン計画にさえソ連のスパイが浸透していたことはアメリカ社会に大きな衝撃を与え、マッカーシーと非米活動委員会による赤狩りを巻き起こし、赤狩りの波は西側諸国全体へ波及していくことになる。
ソ連にとって、アメリカの日本スパイ狩りは完全なとばっちりで、アメリカの情報管理体制が強化されたことから、ソ連の原爆開発が3年は遅延したと言われている。
ソ連が原爆実験に成功したのは1952年8月30日である。
核実験成功の報告を受けたスターリンは、
「これでやっとぐっすり眠れる」
と安堵したが、僅か半年後にスターリン専用核シェルターの中で、脳卒中で死亡した。
スターリン専用核シェルターは、内部が迷路になっており、発見が遅れたことが致命傷となったと言われる。
ある意味、ヒトラーの復讐は成就したと言えるだろう。
1940年初頭の日本の核開発は理論レベルにとどまっており、1946年7月に原爆実験までこぎつけたのはある種の奇跡と言えた。
日本海軍が極秘に設置した核兵器開発機関はY委員会と呼ばれた。
委員長には山本国家元帥が就任し、最優先事項として原爆開発が進められた。
国家元帥自身がウランの遠心分離機やプルトニウム生産炉を設計したという話もあるが、生ける軍神であっても、さすがにそれは荒唐無稽だろう。
日本の原爆開発は、現在に至るまで最高機密扱いで一切の情報公開に応じていないため、どのような頭脳集団が開発に携わったのかは不明である。
一説によると奇妙な名前のドイツ人天才科学者が原子爆弾を開発したという話があるが真偽のほどは定かではない。
しかし、大戦中にチェコスロバキアのウラン鉱山でかなりの量のウラニウム鉱石が採掘され、日本に向けて輸出されたことが判明している。
原爆実験に使用されたウラン235の出所も不明なところがあり、ナチス・ドイツが極秘に製造して隠匿していた”ヒトラーの遺産”というのが有力である。
この説は現在でも有力視されており、スターリンはヒトラーがソ連を破滅させるために日本に未完成の原爆を譲渡したと死ぬまで信じていた。
歴史の謎はともかくとして、山本国家元帥は日本の経済力では通常兵器で米ソに対抗することは不可能と結論していた。
Y委員会の初回会合では大量破壊兵器開発に対する反論に対して、
「いろいろな意見もあるだろうが、これが一番経済的だ」
と述べるなど、核抑止の獲得こそ日本の経済力で実現可能な米ソへの対抗策であると認識していた。
原爆本体と並び核抑止に必要な投射手段としては、中島飛行機で15式重陸上攻撃機「富嶽」が完成し、アメリカ本土を直接攻撃可能となった。
富嶽は亡命ドイツ人から入手した後退翼とジェットを使用したジェット爆撃機だった。
当初の設計では、5000馬力級のレシプロエンジン機だったのだが、設計変更が繰り返され、制式採用された富嶽は殆ど原型をとどめていなかった。
重陸上攻撃機という陸軍の重爆と海軍の陸上攻撃機を足して2で割ったような聞きなれない名称は、1948年に陸海軍航空隊を統合する形で日本空軍が発足し、富嶽の制式化が空軍において行われたためである。
初代空軍参謀総長に就任したのは、海軍転向組の井上成美空軍大将だった。
ちなみに井上空軍大将は過激自由主義者と知られており、ファシストになった山本国家元帥や近代幕府体制をほぼ全否定していた。
国家元帥として、昭和帝を除けば国家の最高権威者となっていた山本五十六を公然と批判することができたのは井上大将ぐらいなものだった。
似たようなことをして、刑務所にぶち込まれた政治家や軍人は数知れなかった。
しかし、なぜか山本国家元帥は井上大将を最後まで重用し、空軍が日本国内の自由主義者にとっての避難場所になることを容認した。
国家自衛隊の追及を逃れるために共産党員が空軍に入隊することさえあった。
現在でも、日本空軍はある種の自由な、陸海軍に比べてリベラルな雰囲気があるのは、井上大将の存在が大きいと言われている。
その理由は不明だが、井上大将は最後まで山本国家元帥からある種の尊敬を得ていたことは確かである。
話を日本の核開発に戻すと、日本初の原子爆弾は濃縮ウランを使用し、作動形式はガンバレル式、核出力は20キロトンだった。
核分裂反応を起こすウラン235は天然ウランの中には0.3%程度しか含有していない。ウラン濃縮とはガス化したウラン鉱石を遠心分離機というふるいにかけて膨大な労力で燃えるウラン235だけを取り出す作業である。
ただし、原理的には単純であり、大量の遠心分離機と時間さえあれば1940年代の日本の技術でもウラン濃縮そのものは可能だった。
米国はマンハッタン計画で256億ドルも費やして漸く原爆を実用化したが、日本の投資はその10分の1以下だったとされている。
マンハッタン計画の費用が巨額となったのは、戦争に間に合わせるという突貫スケジュールの上に、試せる方法を全部試すといった非常に頭の悪い開発手法を採用したためである。
日本製の原子爆弾は最終的に戦車1台程度の値段で製造可能となった。
日本の核武装で隘路になったのは原爆の開発よりも投射手段の方で、ヒトラー・ドイツから入手したV2ミサイルのコピー生産はまるで進まなかった。
日本の弾道ミサイル開発が軌道に乗るのは50年代以降の話である。
しかし、安価な原爆の量産化は日本の安全保障環境を激変させ、
「的確なポイントに原爆を投下できれば、戦艦や戦車どころか、歩兵すら不要になる」
という極端な原爆信仰を生み出すことになった。
アトミック・ブティズムとは、原子に関連するものを信仰の対象とし、原子力や放射能に神性を見出して崇拝しているカルト宗教ではなく、核兵器偏重の軍事思想のことである。
核兵器権威主義ともいう。
日本は通常兵器では米ソに敵わないため、戦術核兵器による補填に多大な期待をよせた。
戦術核兵器を使えば、砲兵が数日かけて数百万発の砲弾を使って生み出す破壊効果を一瞬で生み出すことができるので、火力不足の日本軍が飛びつかないわけがなかった。
しかも、数百万発の砲弾をつくるために必要な様々な産業基盤の維持に要する費用よりも、遥かにリーズナブルな価格で、同じ破壊力を一瞬で実現できるのである。
日本軍は多彩な戦術核兵器を開発し、集ソ国境に設置する核地雷は当然のこと、核魚雷、核爆雷、核空対空ロケット、核対艦ミサイルや野戦重砲用の戦術核砲弾、戦艦用の核砲弾まで各種核兵器が開発された。
その中には奇想天外なものもあり、ホバークラフト戦車に戦術用の短距離弾道弾を搭載したものまであった。
さすがにホバークラフト戦車は意味不明な上に、プロジェクトを進めていた陸軍大佐が開発の事故で死亡したため開発中止になった。
しかし、当時の日本には、核爆弾に関係する兵器は全て実現しなければ済まない雰囲気があった。
国内世論も、核兵器を国の守りとして過剰に持ち上げる風潮があった。
日本は、1940年代に米ソの間にはさまれる形で孤立していたこともって、国民の多くは、核兵器を大正時代の超ド級戦艦のような帝国の守護者と見なしていた。
長門と陸奥は日本の誇りから、原爆と水爆は日本の誇りに差し替えるのには、さほどの抵抗はなかった。
幕府も国威高揚の手段として、原子爆弾を様々な形でプロパガンダに活用した。
「核の炎で、一億総火の玉だ!」
「(核出力が)大きいことはいいことだ」
「足らぬ、足らぬは、原爆が足らぬ!」
などという放射能汚染された標語入りポスターが、街角に張り出されていたことを年配者は覚えていることが多い。
こうした世相を反映して、ヨウ素入り牛乳を飲むことが流行し、健康被害が続出したため幕府が慌てて回収に動いた事例もある。
国民小学校で小国民として核力体操を習ったり、ミルクホールで水爆ブギウギを歌ったことがある人もまだ多くが存命で、当日の世相を振り返って苦笑する人は多い。
青森県にプルトニウム温泉郷なる施設(実際にはラドン温泉である)ができたりもした。
しかし、核武装に予算を集中させたしわ寄せは確実に発生していた。
1939年に初飛行した零式艦上戦闘機は、1950年まで第1線にとどまる羽目になった。
一応、零戦にも後継機開発の計画もあったのだが、完成する前に大東亜戦争が終わったことや核と投射手段の開発に予算を集中させるために計画中止となっていた。
零戦と同じ年に初飛行した一式陸上攻撃機などは使いつぶしが効く機体だったことから、対潜哨戒機や輸送機として1960年代まで現役で使い倒された。
大東亜戦争で活躍した連合艦隊も、新造艦が作られたのは駆逐艦や潜水艦だけだった。
軽巡洋艦は大正時代の5500t級が1970年代まで使い倒された。
軍縮条約時代に海軍が後生大事に育てた重巡洋艦などは、武装をミサイルに変更して1970年代まで現役にとどまった。
米ソの航空戦力に対抗するために、重巡洋艦には核弾頭付きの奮龍七型が搭載された。
奮龍は日本軍初の対空ミサイルで、米海軍の航空攻撃に対して戦術核を空中爆発させ、敵機を一撃で殲滅することになっていた。
高速水上偵察機を搭載する偵察巡洋艦として建造された大淀型軽巡洋艦は、カタパルトを弾道ミサイルの発射装置に換装し、水上偵察機用の格納庫に弾道ミサイルを満載したロケット巡洋艦という物騒極まりない代物として運用された。
その大淀は、1958年に弾道ミサイルの発射演習中に、ミサイルが甲板上で制御不能になり、艦内のロケット燃料が引火誘爆して大爆発を起こして轟沈している。
演習を偵察していた米海軍の潜水艦は、
「オーヨドがアトミック・ハラキリした」
と報告し、ホワイトハウスを凍り付かせた。
ついに日本海軍が平時から核兵器を利用した自爆訓練を始めたと考えたからである。
ちなみ日本の軍艦に自爆用核兵器が配備されていた事実はないが、核兵器を搭載した艦艇の勤務となった艦長は、手動で艦に搭載した核兵器を起爆できるように操作方法を習熟することが海軍軍人の嗜みであると認識されていた。
戦艦も原爆信仰の影響を受け、大口径砲を生かす手段として、核砲弾発射艦に改装されて金剛型や伊勢型などは60年代まで運用された。
連合艦隊の数倍の戦力を持つようになった米海軍に対抗するには、大正時代の老朽戦艦でさえ核兵器を搭載して、現役に留めおくしかなかったのである。
連合艦隊では、戦術核砲弾のことを新三式弾や超式弾などと呼んで喜んでいたが、至近距離で爆発させた場合、自艦も放射熱線を浴びる諸刃の剣だった。
なお、日本の戦艦部隊維持を喜んだのは米海軍で、サウスダコタ級が戦後の軍縮を生き延びて、70年代まで現役で生き残れたのは対抗戦力である日本戦艦がしぶとく生き延びていたからだった。
ちなみに米海軍も、軍事的な原則にしたがって戦艦主砲用の戦術核兵器を開発して、実戦配備している。
お互いの戦艦が核兵器で砲撃戦を行ったらどうなるのか興味が尽きないところである。
空母は他の艦種よりもマシな状態だったが、現役を維持しているのは信濃と尾張、大鳳、翔鶴、瑞鶴の5隻のみだった。
赤城や加賀、蒼龍、飛龍といった旧式艦はジェット化が難しいため、輸送艦や宿泊艦などとして使用され、引退していくことになった。
海軍が愛した軽空母も編成表から消滅し、元の客船に再改装されたり、給油艦や潜水艦母艦、あるいは特殊輸送艦(強襲揚陸艦)となって、70年代後半まで運用された。
大和型戦艦3番艦と4番艦から改装された信濃と尾張に賭ける日本海軍の意気込みは凄まじいものがあり、帝国海軍最後の大型軍艦として最優先で予算が割り当てられた。
1948年には大改装でジェット機の運用が可能となり、共に1990年代まで現役にとどまることになる。
紀元2600年特別観艦式(1940年)に参加した船の殆どが10年後も20年後も現役で使い倒されることになり、
「寒い時代になったものだ」
と大元帥がぼやくことになった。
それも核兵器とその投射手段に予算を全集中した結果だった。
海軍は実はまだマシな方で、陸軍は70年代半ばまで大東亜戦争時代の装備がそのまま使用された程だった。
新式の陸戦装備を配備されるのは、常に国家自衛隊で、地上戦用の戦術核兵器も国家自衛隊の管理とされた。
国家自衛隊の運用した20センチ自走榴弾砲には核弾頭が配備され、必要な場合は陸軍師団ごとソ連軍戦車隊を吹き飛ばす想定になっていた。
日本の核抑止は米ソに対する強烈な抑止力として機能した。
対日戦争は原爆戦争となりお互いの主要都市が核攻撃で壊滅すると考えられたのである。
通常兵器に限定した戦争計画もないわけではなかったが、相手がアトミック・ハラキリするため、結局核戦争になるのは不可避と認識された。
ソ連も日本の核武装が進むと似たような結論に至った。
意外なことだが、1945年以降もソ連は中立条約を更新しつづけており、日米関係の悪化により、日ソ間の貿易取引は拡大する傾向にあった。
ソ連にも対日戦争計画はあったが、スターリンは日本が核武装すると直接対決を回避するようになった。
仮に満州へ攻め込んでも核で焼かれるか、アメリカが介入してくるだけでソ連の利益にならないという判断だった
一応、米ソが手を組み、最後の枢軸国を打倒して仲良く分割するという手もないわけではなかったが、そうなった場合、日本はアトミック・ハラキリで米ソを道連れにすることは確実だった。
さらに第2次大戦でアメリカの海軍力の半数を沈めたミリタリー・アラヒトガミは未だ健在であり、
「もしも、山本が10人いたら枢軸は世界大戦に勝利していただろう」
とアイゼンハワー大統領も認めていた。
米ソ共にとても対日戦争に踏み切れる状況ではなかった。
1950年代の日本の国家安全保障はアトミック・ブティズムとミリタリー・アラヒトガミという二つの張り子の虎に支えられていたと言えるだろう。
しかし、張子の虎であっても、虎であることには変わりなく、米ソ冷戦の中間地点に微妙な均衡を作り出すことに成功していた。
そして、共産主義でもなく、ヨーロッパの植民地主義とも距離を置く資本主義の非白人国家という日本の立ち位置は、アジア・アフリカ・中東世界において大きな価値があり、第3世界に日本は勢力圏を広げることになったのである。
とはいえ、米ソに真っ向勝負できるかといえば、答えはNOだった。
この点は山本国家元帥も、
「勝って兜の緒を締めよ」
と繰り返し述べているとおりで、米ソに比べて日本の国力は遥かに小さく、陸でソ連には勝ち目はなかったし、海でアメリカ海軍に勝てる見込みはなかった。
ただし、日本の国内世論は、
「軍神がなんとかしてくれる」
と根拠のない楽観論に支配されており、国家元帥の警句は表面的な理解しかされていなかった。
明治日本が、東郷平八郎に寄せていた期待をさらに大きくして、頑迷にした状態だった。
こうした状況は国家元帥が自分自身で招いてしまったことであり、本人は勝ち逃げに成功したことを後悔していた節がある。
しかし、勝ち逃げであっても勝ちは勝ちであり、ドイツのように国土が焼け野原になってソ連に全土が占領されるよりは遥かにマシだった。
そのため、とにかく強気で楽観的な国家世論を抱えた日本は、戦後10年経っても国際社会に復帰できていなかった。
特に戦後に再編された国際連合に未加入というのは、大きな問題だった。
アジア・アフリカ会議も西側にも東側につくことができない日本が独自の勢力圏をつくるためにまとめたものだった。
しかし、戦時中の大東亜共栄圏構想や戦後のアジア・アフリカ会議は国際連合の代替品から程遠い組織だった。
AA会議の参加国は日本以外は全て新興国であり、独立の高揚感が消えると政治体制の未熟から内部対立が激化して、内戦や参加国同士の紛争が頻発した。
また、日本の勢力拡張をよく思わない米ソによる切り崩しもあって、AA会議は1回のみ開催で空中分解することになる。
AA会議の崩壊で強気一辺倒だった日本の国内世論も流石に風向きが変わり始めることになり、1959年に仏ソの仲介で日本は国際連合に加盟することになった。
待遇は常任理事国であり、枢軸国の日本が常任理事国の椅子に座ったことは大きな意義があった。
1952年に独立を回復したドイツ民主共和国は日本よりも早く国際連合に加盟していたが、常任理事国にはなれなかった。
あくまで国際連合は戦勝国の国際組織であり、元枢軸国は国連に加盟できても常任理事国になることはできないと考えられていた。
よって、日本の常任理事国入りは枢軸国と連合国との政治的な和解であると言える。
日本の常任理事国入はフランスのシャルル=ド・ゴーン大統領の強い働きかけによるものだった。
国際連合やNATOから距離を置いて独自路線を進めたいド・ゴーン大統領は、第3世界で独自路線を進む日本との連携強化を望んでいた。
日本としてもイデオロギーが違いすぎるソ連や反日世論で取り付く島もないアメリカよりも癖が強くても話ができるフランスの方がマシであると判断し、ド・ゴーン時代に日仏の連携は著しく進むことになる。
なお、ド・ゴーン大統領の思惑としては日本に恩を売ると同時に自分たちよりも独自色の強い日本を引き入れることで、フランスの独自路線に対する風よけとするものだった。
ド・ゴーン大統領は非常に気難しい人物であったが、山本国家元帥とは奇妙な友人関係のようなものがあり、軍人としてお互いに尊敬しあう関係だった。
マレー沖海戦で英戦艦レパルスとプリンス・オブ・ウェールズを撃沈したときの様子を山本国家元帥から聞かされた時は非常に上機嫌だったと言われている。
東側世界においても、日本の国連加盟を後押しする動きが生じていた。
スターリンの後に権力を掌握したタニーキ・フルシチョフは東西平和共存を模索する中で、日本という第三勢力を国際連合に招くことで対立構造を複雑化させることを狙った。
フルシチョフはソ連書記長で初めて訪米を果たすなど東西の融和を実現した。
1961年には日本にも訪問しており、山本国家元帥との会談を果たしている。
両者ともにアクが強い性格の人物だが、意外なことに関係は良好だった。
フルシチョフは真珠湾攻撃のエピソードを山本国家元帥から聞いて上機嫌で帰国したと言われている。
フルシチョフ時代にソ連と日本は接近し、アメリカを大いに焦らせた。
ヒトラーの復讐を極度に警戒していたスターリンとは異なり、フルシチョフは訪日で発展が続く日本経済を目の当たりにして、アメリカとの勢力均衡に日ソの連携が不可欠という認識をもったと言われている。
また、持論である核優先軍備を日本が先に実現し、通常兵器を縮小することで軍事費を削減して経済を発展させていることにも好感をもった。
フルシチョフを瞠目させた50年代の日本の驚異的な経済発展は、
「ヤマモトの奇跡」
と世界史に刻まれることになった。
1950年代の日本は国際的な孤立にもかかわらず、幕府主導の経済改革によって毎年10%近い高度経済成長が続いていた。
山本国家元帥は減税や、雇用改革、経済分野への大規模な財政投資拡大を強く主張したことで知られている。
アトミック・ブティズムの推進も経済発展のために必要な資金の確保が主眼だったと解釈されるほどである。
幕府が進めた所得倍増計画を指揮した池田速人は山本国家元帥の指名で総理に上り詰めた人物で、山本国家元帥の経済に対する深い理解に感銘を受けたことを日記に書き残している。
大東亜戦争で中止された弾丸列車計画(現:新幹線)を復活させたのも国家元帥だった。
弾丸列車計画は、戦後の軍需から民需への転換を象徴する計画として強力に推進され、大和型戦艦3隻分の予算が投じられた。
軍需から民需への転換に「弾丸」はふさわしくないとして、途中で名称が新幹線に変わったが計画の原案は殆ど修正なく実現した。
計画が再開したのは1943年と大東亜戦争の停戦直後のことである。
大戦がこれから本格化していく時期に軍備ではなく、経済インフラへの投資が実施されたのは、停戦に伴う膨大な軍需の喪失に対して早急に手当が必要だったからである。
何しろ日本中の企業が総力戦体制に組み込まれて、鉄鋼やアルミニウムなど艦船や航空機増産に必要な資材を大量生産していたのだから、そのはけ口を見つけなければ企業が大量倒産することは目に見えていた。
新幹線建設には膨大な量の鉄鋼を投入する必要があり、それらの鉄鋼は元は軍艦や戦時標準船の建造に使用する予定のものだった。
新幹線の車体に使用されたアルミニウムも同様である。
車体の設計には国鉄職員のみならず、軍用機メーカーを退職した航空機設計技師も参加したことは有名だが、これも軍需から民需への転換の一つと言える。
軍需を当て込んで戦前日本では多くの航空機メーカーが勃興したが、戦後に生き残ったのは半官半民の中島飛行機や財閥の三菱航空機、同じく財閥系の川崎航空機、海軍御用達の川西航空機の4社しかない。
4社のうち筆頭格である中島飛行機は、三菱の零戦の転換生産や自社製の一式戦闘機などの大量生産を手掛けており、設備投資が完全に過大だった。
そのため、停戦後に発注取り消しに遭って実質的に破産している。
政府は中島飛行機に公的資金を投入し、軍用機生産ラインを買い取って、豊田自動車に払下げするなど、民需への転換を進めた。
他の軍需メーカーも政府からの補助金よって急速に民需転換を進めた。
後に世界市場を制覇することになる日本のカメラメーカーなども軍需からの転換によって生まれた。
特にニコンは元々海軍に光学照準器を納品していたメーカーであり、幕府の指導をうけて軍事技術をスピンオフして民生用カメラ用レンズを生産するようになった。
民生用カメラで日本が躍進したのは、ライバルが不在だったことが大きかった。
戦前のカメラ市場を制覇していたドイツ製カメラ(ライカやコンタックス)などは、連合国軍の爆撃で工場が吹き飛ぶか、ソ連に生産設備を接収されて壊滅しており、戦後もしばらく復活しなかったのである。
日本にはライカやコンタックスの技術者が亡命しており、その指導のもとでニコンやキャノン、コニカやミノルタがライカコピーのカメラを生産している。
ちなみにライカは、日本でライカJAGとして復活し、世界で最も高価で精密なカメラとレンズを生産するメーカーとして、21世紀現在も健在である。
日本が軍需から民需への転換を急いだのは、インフレーションが経済を破壊することを恐れたためである。
日本は1942年までに膨大な通貨を戦争遂行のために増発しており、経済統制を解除すると膨大な通貨が市場に流入して激しいインフレになる恐れがあった。
何しろ、シナ事変の臨時軍事費だけで、連合艦隊が2~3個セット用意できるだけの軍事費を使っていた。
大東亜戦争は1年で終わったものの、停戦時点で既にインフレーションで国家経済を破滅させるほどの通貨発行が行われていた。
1948年まで戦後内戦を理由に広範囲な配給制が維持され、経済統制が維持されたのはインフレを少しでも緩和するためである。
また、幕府主導で生産力拡大のために産業改革が進められた。
産業改革が急がれたのは、生産力を拡大することで需要と供給を均衡させて、インフレーションを食い止めるためだった。
産業改革は雇用制度の改革を含む広範囲なものだった。
今日の日本では当たり前となっている終身雇用などの強固な雇用規制(あるいは労働者保護制度)は、戦後内戦中に雛形が作られたものだった。
幕府が強固な雇用規制を推進したのは、戦前の雇用習慣が基本的に請負制(職人制)であり、国家総力戦遂行のために必要な生産の拡大や安定に不都合が大きかったからである。
戦前の工場勤務は、基本的に職人が企業からの職能に応じた請負でその都度、雇用されて働くものであり、用がなくなれば解雇されるし、職人はその技能を非公開にしていた。
請負制度は自由主義経済においては、企業にとっては非常に都合がよいものだった。
何しろ必要がないときは自由に解雇できるため人件費の制御が容易で、不況になれば簡単に解雇ができるのである。
職人もそれを理解しているのでノウハウを秘匿し、いくつもの企業を渡り歩くのが当然と考えていた。
しかし、生産力の拡大や生産ノウハウの蓄積には、請負制や職人堅気は不都合が多すぎた。
こうした問題点は以前から認識されていたのだが、戦前の日本経済は良い意味でも悪い意味でも、欧米の自由主義経済をコピーしたもので、産業改革がすすまなかった。
資本家の多くは、株式の配当拡大を最優先にしており、人件費が増えることで企業が収益が悪化することを忌避して、雇用規制の強化に反対していた。
モノ言う株主の力が強すぎることは、劣悪な労働条件の放置や、経営の近眼化という弊害もあった。
インフレーション是正のためには生産力の拡大が急務であり、個人技の職人芸は不必要であるどころか有害であり、必要なのは生産設備の機械化と単純労働者の大量雇用だった。そして、雇われた労働者がストライキを起こしたりしないように、福利厚生の向上や生活を安定させるために簡単には解雇できない強固な雇用規制が必要だった。
それはアメリカですでに実現していたフォード式生産方式の再現だった。
日本の場合は、ドイツで実施されていたタクト生産方式が採用され、ノウハウは専らドイツからの亡命者によって齎された。
山本国家元帥は、ドイツからの技術取得において、V2ミサイルやジェットエンジンといった先端的な兵器テクノロジーよりも、生産技術や品質管理に関するノウハウを重視していたことが資料研究によって明らかにされている。
ただし、この種の改革は経済界(主に不利益をこうむる資本家)から大きな反対が巻き起こされた。
しかし、全権委任者として山本国家元帥は改革を断行し、強権発動も厭わなかった。
反対意見を述べたとある財閥の幹部が、罪状不明のまま逮捕され行方不明になったりしたほどだった。
山本国家元帥は、経済改革のためにはスターリン主義も辞さず、自由主義経済に対して不信感を隠そうとせず、請負制やそれに近い派遣労働を蛇蝎のごとく忌み嫌っていた。
また、株式配当や不動産所得といった不労所得も嫌悪しており、
「働かざるもの食うべからず」
というソ連共産党のスローガンを日本に公式で初めて持ち込んだ人物として知られる。
日本の不動産所得や株式配当所得に対する課税や、高額所得者の所得税率などが一律56%に引き上げられ、ヤマモト・ラインと呼ばれることになる。
なぜそこまで山本国家元帥が自由主義経済や請負制などの雇用慣習や不労所得を憎悪していたのかは不明である。
しかし、一連の産業改革は他国でも国家総力戦遂行のために実施されていたものであり、日本の場合はそれが強制的に、しかも停戦後に実施されたことに特色がある。
経済統制で時間を稼いでいる間に、大急ぎで産業改革が行われ、戦時中に増発された通貨によって急騰した消費意欲に見合うだけの生産力が培われた。
その相乗効果で1950年以後、日本経済は毎年10%以上の経済成長が続く高度成長の時代に入った。
経済成長に必須の資源確保についても、アジアやアフリカで新興独立国が次々に誕生したことで解決された。
アメリカの経済アナリストは戦後日本は膨大な国債の発行とアメリカからの経済制裁によって大不況に陥ると考えていたが、ふたを開けてみれば全く逆のことがおきた。
特に日本が外需主導経済から内需主導経済に瞬く間に転身したことは、アメリカ国内から見た場合、殆ど理解不能だった。
戦前の日本経済が外需主導だったのは、国家存続に必要な資源入手がアメリカやイギリスからの輸入に依存していたためだった。
外貨(米ドルや英ポンド)がなければ、アメリカやイギリス植民地から資源を買うことができず、外貨を得るためには外需(輸出)を獲得するしかなかった。
しかし、戦後日本は資源をアジアの新興独立国や中華民国や集から買うことができるようになり、米ドルや英ポンドを血眼になって得る必要はなくなっていた。
もちろん、国際決済通貨として米ドルやポンドは必要だったが、それは決済のための必要性であり、新興国の通貨に比べれば日本円は圧倒的に強い通貨だった。
フルシチョフ時代には、ソ連とのバーター貿易が拡大し、ソ連や東欧にも資源との交換で日本製品が出回るようになった。
ソ連は重工業(軍需)の偏重経済だったため、民需品の生産が不足しており、日本から消費財輸入が必要だったのである。
経済発展に必要な技術革新も、ドイツから技術流出があり、日本はそれを丹念に拾い上げ自国の技術体系に組み込んでいった。
各国はこれをヒトラーの遺産という言葉で片づけたが、技術の継承や発展は書類・青写真があればそれで済むものではなく、絶え間ない検証と基礎研究への投資があって始めて実現できるものである。
日本の技術は世界から10年遅れていると言われていたが、日本はドイツ系技術の吸収で急速なキャッチアップに成功したと言える。
また、戦時中の国産技術革新も大きかった。
日本海軍が開発し、技術転用されたサ式転炉法(酸素直噴転炉)は、高い生産性と良質な低炭素鋼を得られることから日本の製鉄業を世界トップクラスに押し上げる原動力にもなった。
同様に日本海軍が1946年に世界で初めて実用化した鉱石真空管は、世界の先端を行く日本半導体産業の始まりだった。
この種の技術革新は、海軍技術本部が軍事目的に開発したものを民生転用することで推進された。
海軍技術本部は、1970年代ごろまで日本最大・最先端の技術開発集団であり続けたが、開発した技術の大半は秘密特許とし、開発者の氏名を明らかにしていない。
そのため、サ式転炉法やトランジスタの発明者が山本国家元帥その人という異説が生じることになった。
いくら生きている軍神でも、そこまで万能の天才ぶりを発揮することは不可能であり、今後の情報公開が期待されるところである。
1954年には東海道新幹線が全線開通し、翌年に完成した東名高速道路共にモビリティの拡大によって日本の社会生活や文化は大きな変容を遂げることになった。
日本のモータリゼーションが実現したのも1950年代に入ってからだった。
インフレーションに伴う賃金上昇と戦中の技術革新が一致して、日本でも大衆車が作れて売れる時代になったのである。
そして、アメリカが一方的な敵視政策によって日本市場を無視したことで、国内市場は国産メーカーの金城湯地となった。
日本のビッグ3である、トヨタ、ホンダ、VWJが出そろったのも50年代である。
VWJはソ連による産業破壊や技術者拉致から逃げ延びたフェルディナント・ポルシェ博士が率いる日独合作企業で、純粋な日本の民族企業とは言えない。
山本国家元帥はポルシェ博士とそのスタッフが日本へ持ち込んだ国民車1号(フォルクスワーゲン・タイプ1)を高く評価し、巨額の資金援助をして、タイプ1の量産化を進めた。
ソ連は占領したドイツのフォルクスワーゲンの工場をソ連本土に奪い去ったが、フォルクスワーゲンのコピー生産は実施しなかった。
タイプ1の設計図は英米にも流出したが、無価値として相手にされなかった。
その価値を正しく理解したのは日本だけで、フォルクスワーゲンヤーパンは日本市場で大成し、集で勃興した集産自動車と共にアジア四天王を構成することになった。
ちなみにVWJの総帥のポルシェ博士はカーレース・マニアで知られ、タイプ1(ビートル)の生産で稼いだ金をスポーツ車の開発につぎ込み、1964年に世界のカーレースを席巻した911シリーズを送り出した。
ポルシェ911は日本はもとより世界中に輸出され、カーマニア垂涎の一品となった。
ただし、アメリカは自分の敷いた経済制裁により直接、911を輸入することができないため、フランスやスペインを経由して個人輸入するしかなかった。
ホンダはポルシェに対抗心をむき出しにしてレース事業を展開し、F1に挑戦して世界を席巻することになるのだが、それは1980年代に入ってからのことである。
ワーゲン・タイプ1の生産拡大と並行して日本全国で高速道路計画が続々と建設されていった。
日本の高速道路計画は、亡命ドイツ人から技術指導を受けており、1945年にUボートで日本に逃亡したフランツ・クサーヴァー・ドルシュが関わっていた。
ドルシュはナチ党員でナチス・ドイツのトートー機関を率いたフリッツ・トートーの右腕というべき人物だった。
戦前はアウトバーン建設の中枢にあり、ジークフリート線建設にも才覚を発揮した。
戦時中はユダヤ人の強制労働を指揮監督して劣悪な労働環境で死に追いやったことで、イスラエルのナチ・ハンターから指名手配されている。
これは余談だが、1961年に福井市で和菓子屋を営むリカルド・クレメントがイスラエル当局によって拉致されるという大事件が起きた。
リカルドはドイツ人難民で、彼の営む和菓子屋はドイツの銘菓シュトーレンと日本のもみじ饅頭を融合させたアイヒ饅という銘菓で有名だった。
人当たりもよく、日本語も堪能で腕のいい菓子職人ということで地元の名士だったリカルドに対してイスラエル当局が下したのは、死刑である。
リカルドの正体は日本に逃亡したアドルフ・アイヒマンで、ユダヤ人問題の最終解決を推進した中心人物であり、その裁判は世界中に公開されて大きなセンセーショナルを巻き起こした。
モサドはアイヒマンの正体を見極めるためにリカルドがアイヒマンの妻の誕生日に花束を買っていくことを確認しそれを決め手とした。
山本国家元帥はそんな迂遠な方法を使わなくても分かりそうなものだと、アイヒ饅をほおばって首を傾げたとされる。
戦後日本とイスラエルの関係は非常な険悪なもので、その原因は大量のナチ軍人を匿っていたことに尽きるだろう。
アイヒマン事件後、日本はイスラエルと国交断絶状態となり、国交が回復したのは1980年代以後のことである。




