現代三国志
現代三国志
中華動乱は1940年代後半における東アジア最大の戦争である。
一般的には中華世界への共産主義勢力の拡大とそれに対抗した日本とソ連の代理戦争という形で語られることが多い。
しかし、戦争の実相は極めて複雑で、難解である。
中華動乱を複雑なものとしているのは、20世紀前半の中国に統一政権というものがなかったことが大きい。
清朝時代に中国は欧米列強の半植民地状態となり、日清戦争での敗北で国威を低下させると植民地化が加速した。
旧態依然とした清朝に絶望した民衆は、現状打破を求め、アジア発の共和主義革命である辛亥革命(1911年)を起こして清朝を打倒した。
革命の立役者となった孫文は中華民国を建国するが、清朝時代に勃興した各地の軍閥が制御不能になりつつあり、統一政権からはほど遠かった。
さらに中華民国内部の勢力争いもあり、袁世凱が中華皇帝を名乗って孫文を追放するなど、政権の混乱が続いた。
袁世凱が失脚すると統制を失った各地の軍閥は勝手気ままにふるまうようになり、いよいよ中華世界は麻のごとく乱れた。
状況が変わるのは、孫文の後継者を自任する蔣介石が台頭してからだった。
蒋介石は国内の共産主義者を弾圧することで、欧米列強の経済利権を共産主義者のテロから守った。
反共を旗印に蒋は各国の支持をとりつけ、その支援のもとで各地の軍閥を討伐していった。
統一に向かう中華世界の曲がり角になったのは、1931年の満州事変だった。
日露戦争で得た権益の更新時期に来ていた大日本帝国に対して、中華世界の復興を掲げる蒋は権益の延長を認めない意向だった。
そこで日本陸軍上層部は利権確保のために地方軍閥との関係強化に動いたが、中国東北部に根を張る張作霖も日本の権益継続には否定的だった。
満鉄死守のため日本陸軍は張作霖を爆殺し、ついには武力で中国東北部を切り取り、満州国として分離独立(1931年)させることになった。
国内世論は日露戦争で膨大な犠牲を払って得た南満州鉄道の権益を帝国そのものであると考えており、軍部の暴走を諸手を挙げて歓迎した。
1920年代の日本は第一次世界大戦後の戦後不況、震災恐慌、金融恐慌、世界大恐慌と不景気に次ぐ不景気で国民のフラストレーションがたまっていたことも軍部の暴走を支持する要因となった。
一部の政治家は軍部の暴走を食い止めようとしたのだが、経済政策の失敗で政治家はすっかり信用を失っており、軍部の手綱を引くことはできなかった。
特に民政党を牽引してきた濱口雄幸などは、
「我々は、国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのんで」
金解禁などの緊縮政策をとり、経済不況をさらに悪化させるという愚行を犯していた。
山本国家元帥は後に、
「政治とは、国民と一緒に苦しむことではなく、国民をどれだけ楽をさせるか考えることだ」
と述べている。
さらに、
「国民に楽をさせると怠けて働かなくなる」
という批判に対しては、
「水を一滴も飲まずに歩いて移動した兵隊と水を飲みながらトラックで移動した兵隊を戦わせたら、どちらが勝つと思うか?馬鹿でも分かることだろう?」
と一蹴して、金解禁などの緊縮政策を厳しく批判している。
話を1930年代初頭に戻すと、軍部は国民の支持を背景に政治家を無力化し、日本は軍国主義国家へと変貌していくことになる。
満州事変に際して、中華民国は日本の非を国際連盟に訴えた。
中華民国の訴えを受けて、リットン調査団が編成され、国際連盟は満州国独立を否定した。
日本の行動は、中国の現状維持を定めた9か国条約(1922年)違反だった。
ただし、リットン調査団報告書は満鉄の存続について日本の正当な権利であり、中華民国は日本と交渉する必要があると述べており、一方的に中華民国の主張を認めたわけではない。
欧米列強は満鉄の否定が、自分たちの経済利権に波及するドミノ現象となることを警戒しており、蒋介石にも釘を刺したのだった。
しかし、日本は満州国の独立否定を不服として、国際連盟を脱退した。
以後、日本は国際的に孤立して、ついにはナチス・ドイツとの危険な同盟に至る。
蒋は国際連盟の無力ぶりに落胆し、自力救済の必要性を認識したが、ただちに日本との全面対決に至る事は危険だと判断し、軍閥の平定と中国共産党との戦いを優先した。
しかし、西安事件(1936年)を期に蒋は中国共産党と和解することになった。
父、張作霖を日本に暗殺された張学良は、日本に復讐するために国民党と共産党の和解と抗日統一戦線が必要だと考えており、蒋を拉致監禁して説得に努めた。
それまで共産党を頑なに敵視していた蒋は説得を受け入れ、国共合作が成立することになる。
同床異夢ではあったが中華世界を統一した蒋は、北京郊外の盧溝橋での銃撃事件をきっかけに日本との全面戦争に突入していった。
日本の戦争目的はあくまで蒋介石に満州国独立を認めさせることだった。
しかし、軍事的には殆ど完勝という状態に持ち込んでも、蒋は中国奥地に撤退を繰り返して戦争を継続した。
一応、和平の動きもないわけではなかったのだが、あまりにも軍事的に完勝してしまったため、日本は戦争の着地点を見失っていた。
戦争に勝っているのだから、より多くを要求するのが当然という理屈だった。
しかし、中国でも世論が政治を動かす時代になっており、蔣は政権を維持するために日本の過大な要求を拒否するしかなくなっていた。
結局、日中戦争(日本側呼称はシナ事変)は、1937年から1942年にわたって5年も続くことになった。
日本は占領地を拡大したが補給が追いつかず、戦争は持久戦に移行した。
当初は中立的だった欧米列強(特にアメリカ合衆国)は、徐々に蒋介石支援に傾き、武器支援を拡大していった。
アメリカから支援(援蒋ルート)を遮断するために実施した仏印進駐をきっかけに、日本はアメリカから石油禁輸など経済制裁を受け、窮地に追い詰められた。
特に軍用のハイオクガソリンや艦艇燃料の重油の在庫は1年程度しかないため、日本軍は戦闘不能になる前に石油資源確保を図って南進を決意した。
1941年12月8日に日本が真珠湾攻撃を敢行し、大東亜戦争が始まると蒋介石は、
「諸君、我々は勝利した」
と部下に述べるなど、アメリカの参戦で対日戦争の勝利を確信した。
もっとも、日本は燃料の在庫が保つ1年以内に欧米の軍事力を太平洋から一掃し、インド東部、ハワイを占領した。
援蒋ルートは完全遮断され、蒋の求心力は急速に衰えた。
それでもなおソ連領へ逃亡しての徹底抗戦を視野に入れていた蒋を説得したのは、満州事変の実行犯である石原莞爾陸軍中将だった。
成都に単身乗り込んだ石原中将は蒋と直談判し、満州国承認以外は全て白紙という条件で日華停戦を実現した。
これは政府どころか日本陸軍中央の承認さえないものであった。
しかし、山本五十六連合艦隊長官と石原中将、蒋介石の3人が成都で握手を交わすという衝撃的な写真はマスコミの手で拡散され、日華停戦は既成事実化した。
その後、日本は東条内閣倒閣から近衛師団のクーデタから内戦に突入し、中華民国との停戦交渉は有耶無耶になっていった。
クーデタを支持して本国から離反したシナ派遣軍や関東軍、朝鮮軍だったが、海軍からの離反者がでなかったことから、海を渡るすべがなく、広大な中国大陸で孤立する羽目になった。
また、戦争が終わって帰国できると思っていた矢先に、上層部の主導権争いに巻き込まれ、島流し同然の状態になったことから著しく兵士の士気が低下し、各地で抗命や職務放棄が相次いだ。
シナ派遣軍や関東軍は引き締めを図ったが、給料の支払いにさえ窮する状態で打てる手は多くなかった。
特に給料の未払いは深刻な問題で、金の切れ目が縁の切れ目という言葉を関東軍は痛感することになった。
外地の日本軍が完全崩壊しなかったのは、そこが敵地で、軍組織から離れては生きてはいけないという切実な事情があったからである。
しかし、シナ派遣軍は能動的な活動が不可能になり、現状維持が精一杯となった。
これは中国共産党にとって大きなチャンスだった。
日本との停戦に反発した中国共産党は国共合作から離脱と抗日戦争の継続をしていた。
1943年時点の八路軍はゲリラに毛が生えた程度の戦力しかなかったので、できることはテロどまりだった。
しかし、大陸の日本軍が自滅したことで、勢力を拡大する時間的な猶予を得たのである。
また、停戦に合意した国民党が売国奴として民衆の支持を失う中で、共産党は抵抗者として支持を広げることに成功した。
世界大戦が連合国優勢に傾く中で、ソ連からの武器援助も少しずつ拡大し、日本の手が届かない中国内陸部で解放区をつくる余裕さえ出てきた。
解放区では小作料が免除され、地主から接収した土地が平等に分配された。
毛沢東は、
「農民から針一本盗んではならない」
として配下に厳格な規律を課し、農村主体の革命を構想した。
基本的に中国は遅れた農業国であり、国家の基礎は農村にあった。
これが沿岸部になると大都市の商工業者の豊富な資金力がものをいうようになる。
しかし、毛は国民の大部分が100年前と変わらない農村で生活していることを重視し、農民の支持こそ革命の道と考えていた。
これはロシア10月革命といった都市生活者や労働者主体の革命とは異なるアジア型の革命理論であり、スターリンからは異端扱いされた。
しかし、第2次ノモンハン事件で日本との直接対決は危険と考えるようになったスターリンは毛を中国革命の代理人に選んだのである。
1946年7月31日に日本はビキニ環礁で原爆実験を成功させ、世界で2番目の核保有国になるとスターリンの代理戦争論はソ連の正式な国策となり、大戦終結で余った武器弾薬が中国共産党に売却され、膨大な兵力が中国大陸に現れることになる。
スターリンにとって、日本の核攻撃を誘発しかねない直接対決は論外だった。
スターリンは、ヒトラーが日本に原爆を譲渡したと固く信じ込んでおり、ファシスト・ヤマモトがヒトラーの遺志を継いでモスクワを核攻撃する妄想に取りつかれていた。
中国人特有の誇大宣伝もあろうが、1947年時点での共産党軍の総兵力は400万に達していたとされる。
ちなみに実数を計算するときは、10分の1ぐらいにするとおよそ正しい数値を割り出すことができる。
対する中華民国(南京国民政府)の兵力は40万程度でしかなかった。
戦後内戦中のシナ派遣軍は内戦に乗じて中華民国が裏切ることを極度に警戒して、中華民国の軍備再建を制限していた。
戦後内戦が終わり、シナ派遣軍が解体されると軍備制限も解除されたが、時すでに遅しという他なかった。
また、中華民国は根本的に世論の支持が欠けている上に、中心人物の汪兆銘が1944年に他界し、政権が混乱していた。
汪兆銘に代わって中華民国を纏められるカリスマは蒋介石しかいなかった。
ちなみに蒋は日華停戦後は、部下を汪兆銘政権に合流させると謹慎と称して上海の自宅に引きこもって著述活動に専念していた。
蔣は汪兆銘の余命が幾ばくも無いことを掴んでおり、その後の展開も予想した上で、自分をできるだけ高く売るタイミングを図っていた。
国共内戦が激化し、各地で中華民国軍が総崩れになった1946年11月に蒋は中華民国政府に復帰すると政府組織のパニックを沈静化させた。
中華民国総統に復帰した蒋は、
「恩讐を超えて今一度、日華の平和共存を実現する」
として日本に援軍派遣と兵器援助を求めた。
要するに、お前らがなんとかしろということだった。
そして、さもなくばアメリカに支援を要請すると言い添えることも忘れていなかった。
蒋は日本が軍事支援を寄越さなければ、即座にアメリカにすり寄る構えだった。
幕府はすぐに反共中華支援軍を編成し、兵器援助を開始したが、中華民国軍は士気が低く、脱走者が相次ぎ、戦局は好転しなかった。
中華世界赤化3秒前のように思えるが、それほど状況は単純ではなかった。
確かに毛沢東は戦後内戦の受益者だったが、日本の分裂から利益を得た大陸勢力は他にもいたからである。
つまるところ、満州国である。
満州国は一般的に日本の特殊権益(満鉄)を守るためにつくられた傀儡国と思われているが、それだけでは満州国建国の片側しか見ていないと言える。
清朝崩壊後、その復興を目指す勢力は少なくなかった。
崩壊前に支配的な民族であった満州族や科挙官僚たちは復権の機会を窺っており、その拠り所になったのは愛新覚羅溥儀だった。
溥儀も復権を狙っており、満州事変で日本と手を組むことになった。
ただし、1943年まで満州国の現実は日本の傀儡国家でしかなく、溥儀が思い描いた清朝復興からはかけ離れたものだった。
満州国の政治を動かしていたのは関東軍だった。
状況が変わるのは戦後内戦からである。
日本と切り離された満州では、一気に国家の自立が進むことになった。
戦後内戦を千載一遇の好機として、満州の政治的な独立を画策したのが溥儀の弟の溥傑と日本の石原中将だった。
満州事変のころから、石原は満州国を権益確保のための傀儡とみる陸軍中央に対して、満蒙独立論を展開し、アメリカをモデルとした新国家建設を志向していた。
しかし、満蒙独立論は日本の国内世論から支持されなかった。
満州の日本人に日本国籍を捨てて満州人となるよう叫んだ石原中将は、当時の常識としては変人以外の何者でもなかった。
満州の日本人は、日本人という特権階級に安住していたのである。
関東軍の武力を背景に、漢人から土地を奪った満蒙開拓団は、多くの中国人にとって怨嗟の対象となった。
土地を奪われた人々は都市部に流入して下層民として暮らしを余儀なくされるか、さもなくは武器をとって馬賊になるか、あとは中国共産党に参加するしかなかった。
大日本帝国は、殆ど自分で自分の首を〆ているようなものだった。
その前提を突き崩したのが戦後内戦だった。
強制的に本国と切りはなされた満州では、国家とその帰属について考えざるをえなくなった。
日本に帰りたくても、日本海軍の海上封鎖で帰国は不可能になった。
石原中将は戦後内戦の混乱に乗じて満蒙独立論を拡散した。
石原中将は反山本派で固まっていた関東軍上層部の仇敵だったが、下士官や中級将校の一部から熱狂的に支持されていた。
また、石原中将は本国との和解交渉のパイプでもあった。
満州独立論は本国との対立が長期化すると急速に支持者を増やした。
また、日本経済との断絶が長期化すると満州経済は嫌でも自給自足(自立)を進めるしかなくなり、なし崩し的に満蒙独立論が展開されていった。
租税確保のために戸籍制度が整備され、経済運営のために必要な各種統計調査が進み、さらに自給自足のために資源調査団が組織された。
石原中将をトップとする資源調査団は、1944年9月に黒竜江省で大規模な油田発見に成功している。
この油田は、大きな喜びとして大喜油田と名づけれた。
原油が重油質であるため利用に制限が多いが、船舶燃料や火力発電所として使うなら十分であり、満州経済の起爆剤として期待された。
石原資源調査団は石油の他にもウラン鉱脈の発見など大きな成果をあげており、これが1931年に実現していたら日本は戦争をしなくて済んだと言われるほどだった。
不可能だと思われた満州の油田探査を成功したことで、石原派の支持者は急増し、国論となるほど満州独立論は拡大した。
そして、1945年2月12日に満州で正月革命が勃発した。
2月12日でなぜ正月かといえば、中国ではもっぱら太陰暦の旧正月を祝うことが一般的だからである。
別名、第2次満州事変、あるいは満州2月革命は、石原中将とその支持者による関東軍首脳部爆殺と関東軍司令部の奇襲占領によって始まり、主だった幹部を失った関東軍は瓦解した。
石原中将は満州国の臨時大統領に就任し、ついに満州の王となった。
勢いにのった満州国軍は電撃的に北京を占領した。
天安門広場で石原臨時大統領は集まった群衆に向かって「集」の建国を宣言した。
国号を集としたのは、中国の五行思想に基づく。
五行思想には気の循環という考え方があり、木・火・土・金・水の順番に世界には気の流れがあると説明している。
水徳の王朝であった清(「氵」は水徳を示す」)を継ぐ国家は、水によって育まれる木徳であるべきとされ、構成に「木」を含む集が国号に選ばれた。
また、「集」には、建国以来の理念である民族協和という理想も込められている。
集は、同時発表の新憲法において立憲君主制を掲げ、民族協和と平等、さらに民主主義による王道楽土の建設を掲げて、幅広い人種や民族に集結を呼びかけた。
ちなみに正月革命から北京占領まで僅か10日という電撃戦だった。
これは事前に周到な準備がなくては不可能な芸当である。
そして、そのようなことをやってのける軍事戦略家は、石原以外にはありえなかった。
集の建国に日本国内は騒然となったが、あっさりと山本国家元帥は集の独立を認めると安全保障条約を結んだ。
安保条約の締結は集建国から5日後のことで、独立承認から条約締結までは事前に徹底的にリハーサルが重ねた記念式典のようなスムーズさで進んだ。
このため、集建国の本当の黒幕は山本国家元帥であるという陰謀論が生まれた。
しかし、そう考えてしまうと戦後内戦そのものが山本ー石原のラインで画策された茶番だったのではないかと考えることができてしまい、陰謀論は際限なく拡大してしまう。
なにしろ、戦後内戦の最大の受益者は、ファシズム体制を確立した山本国家元帥その人であり、それに次ぐ受益者は集と石原だからである。
ただし、戦後内戦の是非を考えれば、総合的には是というのが多くの歴史・政治学研究者の共通した見解である。
仮に戦後内戦がなければ、日本はソ連へ侵攻していたと考えられており、その場合は日独によってソ連は分割されたと思われる。
戦後世界は、米ソ冷戦ではなく米独冷戦となり、日本はアメリカとの再戦争に突き進んでいた可能性が高い。
ソ連に日独連合が敗れた場合は、日本を含めてアジア全体が赤化した可能性すらある。
しかし、戦後内戦によって日本は自主的に第2次世界大戦から退場した。
戦後内戦は初期の議事堂攻防戦を除けば、大規模な軍事衝突はなく、犠牲者の3611人は国家規模を考えれば決して多いとは言えない。
戦後内戦の大半の期間は海を挟んだにらみ合いと交渉の時間であり、殆どの国民は他国が経験するような内戦らしい内戦を経験することはなかった。
まやかし内戦などという言葉さえあるほどである。
そして、第2次世界大戦が終わる直前に終息に向かった。
日本は集と安全保障条約を結び、第2次ノモンハン事件でソ連軍を撃退することに成功した。
もう少し内戦の終息が遅ければ、ソ連は満州になだれ込んでいただろう。
内戦末期の関東軍は、頼みの綱だったヒトラー・ドイツの敗北が決定的になるとソ連と手を結ぶ用意をしていた。
スターリン相手にそのような弱みを見せていたら、容赦なく満州は踏みつぶされていただろう。
幸いなことに、スターリンに話が伝わる前に関東軍首脳が排除されたことで事なきを得たが、きわどいタイミングであったことは間違いなく、一手間違えていたら中国全土の赤化は不可避だった。
つまり、戦後内戦は非常に都合がいい時期に発生し、都合のいいタイミングで終わったと言える。
なにやら全てが陰謀に思えてくるが、精神の健康を保つためにも陰謀論から離れて史実の流れを追うことにしたい。
集の建国の余波で朝鮮半島でも民族主義が高揚し、自治権拡大を経て大韓帝国(1950年)が復活することになる。
朝鮮半島は、日韓併合(1910年)以来、日本が多額の国費を費やしてインフラ整備を行ってきた地域であり、その独立は日本にとって大きな損失だった。
集建国と朝鮮独立で日本の領土は日清戦争時点まで縮小することになったため、帝国主義の観点からすれば戦後内戦は大失敗だったと言える。
ただし、日本の朝鮮経営は日本からの持ち出しの方が多く、赤字経営であり、割に合わないものであったとする意見もある。
集や朝鮮を分離したことで戦後日本は国内への投資に集中できるようになり、内需拡大による経済発展が可能になったという主張もあり、大韓帝国独立の是非については現在も意見が割れている。
話を集の建国に戻すと満州国軍改め集軍は中華統一を掲げて北支に勢力を拡大し、人民解放軍を攻撃した。
集の勢力拡大は、日本による中国再侵略として国際的な非難が殺到した。
ただし、声が大きいのはソ連などの東側諸国で、西側(特にアメリカ)のトーンは低かった。
ファシストとコミュニストが勝手に潰しあいをしてくれるのだから、アメリカとしては高みの見物をしている気分だった。
集は1946年9月には黄河に達し、河南省の洛陽を占領した。
洛陽は周王朝の時代から中華世界の古都であり、三国時代においては魏の都だった。
中華世界の政治的中心は北京に移って久しいが、集政府は長年の戦災で荒廃していた洛陽の復興に尽力した。
集は占領地で土地改革を実施し、地主から土地を買い上げて、戦争難民に分配した。
共産党が武力で地主から土地を接収したのに比べれば幾らか穏当な政策だったが、拒否権がないことを考えると集の土地改革も共産党のそれと似たようなものであった。
なお、集はこの土地改革を新屯田制度として盛んに宣伝した。
集が魏王朝を準えて動いているのは明らかだった。
一般的に三国志演義では魏の曹操は悪役として描かれることが多い。
しかし、集では儒教精神こそ欧米に科学技術や産業力で劣ることになった原因として、儒教に否定的だった曹操を高く評価するプロパガンダを展開した。
愛新覚羅溥儀が曹操に該当するかは微妙だった(どちらかといえば献帝だろう)が、石原臨時大統領は悪ノリで途中から曹操を意識した発言を繰り返している。
「求賢令」といった、日本人以外にも高級官僚や軍人、政治家への道を開いた集の人材登用政策は、魏の曹操に倣ったものである。
石原の後に集の実権を握った岸紳助などは、司馬懿扱いされることが多いが、本人にとっては不本意なものだった。特に陰謀を使って権力を簒奪したわけではないからである。
建国後の経済発展は優秀な経済官僚だった岸の手腕によるところが大きく、弟の佐藤栄咲と共に集の発展に尽くした人物なのだが、とにかく世評が悪かった。
共産党の毛沢東は毛沢東で、
「集は魏、国民党は呉、我々は蜀」
として、自らを劉備玄徳になぞらえて悦にひたっているところを部下に目撃されている。
ちなみに中国の三国志では一般的に劉備玄徳が主人公として描かれることが多く、自分を劉備玄徳になぞらえるのは相当に自意識過剰な行為である。
中華民国でも、蒋介石が孫権の事績について調べ、陵墓を修復するなどしている。
蔣介石が孫権というのは少々疑問ありだが、日本軍の防共中華支援軍を率いる宮崎繁三郎陸軍大将が今周瑜と称されたのはその戦績からして妥当なところと言える。
防共中華支援軍は装甲化された6個師団(国家自衛隊2個師団および陸軍4個師団)を基幹とし、航空兵力を含む大部隊だった。
国家自衛隊2個師団(大日本師団及び髑髏師団)は、最新兵器を支給されたエリート部隊となっており、政治的な兵士として非常に士気が高かった。
宮崎大将は、中国人民解放軍には膨大な兵力があっても、殆どが歩兵でまともな対戦車火器を持っていないことに注目した。
さらに航空兵力や砲兵火力も貧弱で、脅威となるのは歩兵の浸透攻撃、人海戦術と夜襲と分析していた。
人民解放軍にも戦車や砲兵がないわけではないのだが、戦車を操縦できる乗員や砲将校は簡単に養成できるものではなかった。
宮崎大将の的確な分析は、三峡会戦(1947年9月)でいかんなく発揮された。
人民解放軍は、夜間に隘路を利用して戦線に浸透すると日本軍の陣地を包囲したが、高地に陣取った日本軍は降伏せず、包囲されたまま戦闘を継続した。
士気の低い中華民国軍は一度包囲されると簡単に降伏したが、日本軍は有利な地形を利用して野戦築城を行っており、士気が崩れなかった。
平地においても、日本軍はアドバンテージである装甲兵力を生かした円陣防御を徹底し、包囲されても指揮統制が崩れなかった。
こうした拠点防御戦術は日中戦争の経験もあったが、東部戦線でソ連軍の人海戦術に対抗したドイツ軍の経験も反映されたものでもあった。
しばしば、ドイツ軍はソ連軍の膨大な兵力に飲み込まれたが、死守命令で耐えて、機動反撃に成功した。
それもソ連軍の砲兵火力が極大化した大戦後半には通用しなくなっていたが、日本軍が相手にしているのはソ連軍ではなく人民解放軍だった。
そして、制空権は日本軍の手にあったことから、空中補給が可能で、包囲されても補給が切れるということがなかった。
空中補給や傷病者の後送に威力を発揮したのが回転翼機だった。
大戦末期にドイツ空軍のFa223は極少数機生産され、その図面が日本にもたらされた。
ドイツ系技術に通じていた川崎航空機が萱場製作所と共にFa223の再生産に挑戦して、1947年にはキ223として、日本初のヘリコプターが制式採用された。
キ223は、Fa223よりもエンジンを高出力のハ45(誉)に換装し、積載量を増していた。しかし、操縦が極端に難しく、戦闘で失われた機材よりも事故で失った数が遥かに多いという難物だった。
特に問題だったのは、並列配置された巨大な二つのローターの同調をとることで、回転が不一致になった場合、激しい振動が発生して操縦不能になることがしばしばあった。
宮崎大将も前線視察のためにキ223に搭乗したが、飛行中にエンジンが停止して緊急着陸して九死に一生を得ている。
川崎航空機は、キ223の形式は不安定であるとし、以後は簡素な構造のシングルローターヘリに注力することになる。
しかし、日本のヘリコプター生産を一手に引き受けることになる川崎の技術的な基礎を築いた点において、キ223の果たした役割は極めて大きい。
航空支援も豊富で、第二次ノモンハン事件で活躍した彗星が、急降下爆撃や機関砲攻撃で地上部隊を支援した。
人民解放軍は日本軍の空輸や航空支援を止めるために戦闘機を出動させた。
機材の大半はYak-9やLa-7といったソ連からの供与機体だった。
いずれも東部戦線の激戦を戦い抜いた名機だったが、如何せんパイロットの質が低い上に数が足りなかった。
日本軍が投入した機体はレシプロ機の零戦76型(零戦の最終生産型)や初期型ジェット戦闘機の燕電(Me262のライセンス生産モデル)だったが、数と練度が遥かに勝っていた。
燕電は、エンジンの信頼性が向上し、運用法も確立されてきたことからレシプロ戦闘機相手に有利に戦えるようになっていた。
圧倒的な速度性能を生かして、一撃離脱に徹するかぎりレシプロ機は全くジェット機には歯がたたず、3年ほど遅れてドイツ空軍が理想とした戦い方ができるようになった。
生まれたての人民解放軍空軍にできることは、嫌がらせ程度しかなかった。
三峡会戦に投入された人民解放軍は55万以上で、突破に成功すれば南京直撃ということから中華動乱における決戦と位置づけられている。
日本軍は人民解放軍の人海戦術と波状攻撃、夜襲に対して陣地や装甲車両を活用した拠点防御で対応し、砲火力と航空戦力による反撃を行った。
また、指向性対人地雷などの新兵器も投入されたため、日本軍の陣地前には解放軍の兵士による屍山血河が築かれた。
指向性対人地雷は、米ソでもコピー生産されたほど画期的なもので、アメリカ製ではクレイモアの愛称がつけられている。
東部戦線でドイツ軍が多用した跳躍地雷(Sマイン)をベースに開発されたとされるが、山本五十六国家元帥が概念図を自ら書き起こして開発させたという俗説もある。
また、人民解放軍に帯同したソ連の観戦武官は、戦場からMG42に酷似した日本製の新式機関銃やStg44のコピー品とおぼしき新式小銃を回収している。
中華動乱に投入された六式汎用機関銃や、七式小銃はいずれもMG42とStg44を日本軍が国産化したものだった。
国産化するにあたっては、使用弾薬を国産新式の6.5×49mm弾(5式普通実包)に変更している。新式弾薬は明治時代の38年式実包を近代化したもので、特にStg44の国産化において必要な中間弾薬として開発されたものだった。
既存の九九式普通実包に比べると射程や破壊力は劣るが、フルオート射撃時の制御が容易であることや軽量化による携帯弾数の増加が実現した。
ソ連でも同じ思想の7.62×39mm弾とそれを使用するAK-47を同時期に配備している。
アメリカ軍もStg44を多数鹵獲していたが、その真価には無頓着でサブマシンガンの亜種程度にしか考えていなかった。
中華動乱での七式小銃の活躍にも耳をふさいでフルサイズライフル弾を使用するM14を採用し、後に戦場で報いを受けることになるのだが、それはまた別の話である。
この種の新式兵器は国家自衛隊に優先配備されており、通常の陸軍師団の装備は大東亜戦争のころとさほど変わらなかったので、人民解放軍の犠牲を省みない攻勢で多くの犠牲者を出している。
このような差別的な対応になったのは、山本国家元帥が反乱を起こした陸軍を信用していないからだった。
海軍陸戦隊を母体に亡命者や外国人など行き場のない者を集めた国家自衛隊が政治的に信用され、国家自衛隊が陸軍を監視する体制は1970年代まで続くことになる。
話を1947年に戻すと、人民解放軍は夜襲を含む犠牲を省みない人海戦術を繰り出したが、消耗に対して補充が追いつかなくなり攻勢開始から3日で息切れしはじめた。
慎重に反撃の頃合いを窺っていた日本軍は、総攻撃に転じると戦局は一気に逆転した。
宮崎大将は独軍の亡命将校から東部戦線の機動反撃術をよく学んでおり、それを中華大陸で鮮やかに再現してみせた。
反撃の先鋒を務めたのは、ようやく国産化に成功したⅤ号戦車パンターだった。
パンターの国産化がティーガーに比べて遅れたのは、日本独自に改良を施したためである。
日本独自改良の主眼は軽量化であり、独製パンターが45tに対して、日本製のパンターは35tまで軽量化された。
独立重戦車大隊に集中配備されるティーガーと異なり、パンターは中戦車として全軍に配備する計画だったことから、45tのオリジナル・パンターは当時の日本の道路事情からすると重量過大だった。
軽量化のため、日本製パンターは装甲を削減しており、砲塔正面装甲は70mmしかなかった。
ただし、軽量化によってパンターの持病だった走行装置の故障が激減するという副次効果があり、機動性に関してもオリジナルパンターよりも向上していた。
もともと、パンターは試作段階(VK3002)の時点では30t級戦車であり、設計中の装甲強化のために重量が増え続けたがエンジンや走行装置の変更が追いついていなかった。
そのため、100km程度走るとトランスミッションが破損するほど機械的な信頼性が低くなっていた。
しかし、当初の設計案に近い重量に戻ったことで本来の機動性が発揮できるようになった。
日本軍の反撃に対して、人民解放軍もなけなしの戦車部隊を投入したが、虎の子のT-34は散漫に運用され、豹の餌食となった。
士気が崩壊した人民解放軍は日本軍の反撃によって潰走状態となった。
人民解放軍は正規の教育を受けた将校や下士官が不足しており、一度パニックが発生すると立て直しが効かなかった。
日本軍は敗走する人民解放軍をひたすら後ろから撃ちまくるという1937年の上海戦~南京戦を思い出せる戦いとなった。
大敗した人民解放軍の悲報は続き、集軍が共産党の本拠地である延安に侵攻した。
延安は山岳地帯であるため、集軍の攻勢の進捗は芳しいものではなかったが、三峡会戦で大敗した直後ということもあって、士気低下した人民解放軍は延安を守り切ることができなかった。
延安陥落後、共産党は成都を本拠地することになったが、一時期の勢いは失われた。
しかし、中華民国も集も共産党を完全に打倒するだけの戦力を持ち合わせていないため、1年に渡ってパリで和平交渉が続くことになる。
パリで和平交渉が始まったことに各国の要人は安堵した。
日本軍が行き詰まった戦局を打開するために、原子爆弾を使用する懸念が高まっていたからである。
日本軍は同時期、核実験を繰り返していつでも原子爆弾を実戦使用できると外部からは見えていた。
実際には日本軍の原子爆弾は、投射手段が未完成状態で、実用にはほど遠かった。
戦後内戦の影響で大型兵器の開発は滞っており、原子爆弾を空から投下する重爆撃機は完成していなかった。
関係者から期待されていた大洋間爆撃機『富嶽』はペーパープランの域を出ていなかった。
V2ミサイルのコピーが形になるのは1950年代に入ってからだった。
また、戦争当事者の中華民国や集は、原子爆弾のような大量破壊兵器を自国領土内で使用することに絶対反対の立場だった。
既に国際的に孤立状態にある日本は、中華民国や集との連携なくしては資源問題で経済が行き詰まることは確実であったため、原子爆弾の使用は政治的に論外だった。
それでもなお、日本の原爆使用が強く懸念されたのは、米ソが展開したプロパガンダの影響が強かった。
アメリカは、ヒトラー=ヤマモトという構図で反日プロパガンダを流布した。
日本の余りにも早い核武装は、ヒトラーの遺産という虚像を生み出していた。
ヒトラーから原爆を譲り受けたファシスト・ヤマモトによる侵略戦争は、当時としてはかなりの説得力をもっていたのである。
アメリカ軍部も戦後の軍縮回避のために、ファシスト・ヤマモトを活用した。
当時のプロパガンダは、かなり荒唐無稽なものも多く、米海軍は日本海軍の軍艦には自爆用の原子爆弾が搭載されており、武運拙く艦艇の喪失が確実になった場合、日本軍人は潔く自爆装置を作動させ、アトミック・ハラキリを行うというプロパガンダを流布していた。
アトミック・ハラキリは、そのインパクトの強さから日本のサブ・カルチャーにも影響を与えた。日本のアニメーション作品の巨大ロボには自爆装置が設置され、爆発させるとキノコ雲が上がる演出が見られるのは、米海軍のプロパガンダ作品がその源流とされている。
それはさておき、1950年4月11日に集・中華人民共和国(共産党)・中華民国は停戦に合意し、現代の中国の形ができあがる。
北京を首都に定め黄河より北を領有する集、南京を首都として江南の領土を保持した中華民国、そして成都を首都として内陸部を領有する中華人民共和国、三国鼎立の始まりだった。