表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/10

近代幕府

近代幕府


 近代幕府とは、山本五十六国家元帥を頂点とする戦後日本のファシズム体制のことである。

 海外ではヒトラー・ドイツのような一党独裁体制と理解されることが多いが、日本独自の部分もあり、NSDAPのクローンとは言えない。

 近代幕府は、戒厳司令部とそれを追認する大政翼賛会、そして山本五十六国家元帥という超法規的存在によって構成される。

 海外の政治学研究では、これに昭和帝を含めることが支配的な解釈だが、国内研究では昭和帝の役割は限定的と解釈してきた。

 そうでないと困ることがいろいろとあるからだ。

 しかし、21世紀に入って国内でも近代幕府に対する昭和帝の積極的な関与を認める研究者が増えており、近代幕府の権力機関として昭和帝を含める解釈が主流となりつつある。

 明治憲法を基盤とした日本政府が、戦前、戦中の軍国主義を経て、近代幕府へと移行したのは、もっぱら戦後内戦が原因と言える。

 1942年12月8日に結ばれたホノルル停戦条約によって、日本と連合国は5年間の相互不可侵、そして戦争状態終結まで日本軍による西大平洋の保障占領が認められた。

 日本は不可侵条約とアジアの資源地帯占領によって国家存続に必要な安全保障を確保し、戦争目的を全て達成したと言えた。

 しかし、戦後の国家指導方針を巡って路線対立があり、国内の緊張は高まっていた。

 ホノルル停戦条約が山本五十六連合艦隊司令長官のスタンドプレーで結ばれたことは、日本陸軍強硬派や国粋主義者、右翼勢力に強い反発を生んでいた。

 親独派でもあった陸軍強硬派は、ホノルル停戦条約は認めつつも、対米戦終了後は対ソ開戦を主張し、日独によるソ連分割論を展開した。

 それに対して海軍と山本長官は戦争回避を主張し、経済再建のために動員解除や軍縮を進めようとしていたことから、両者の対立は不可避だった。

 陸軍内閣である東条内閣は対ソ開戦論が優勢だったが、山本長官の圧力で嶋田繁太郎海軍大臣が辞表を提出し、海軍が後任者を推薦しなかったことから東条内閣は瓦解した。

 陸海軍対立によって内閣が成立しないという前代未聞の事態が発生し、暴発した陸軍強硬派は近衛師団を動員してクーデタを起こした。

 所謂、第2次2・26事件(1943年2月26日)である。

 第1次2・26事件と同様に、この日も東京には雪が降っていた。

 決起軍を動かしたのは尉官クラスの青年将校達だったが、その背後に日本陸軍中枢がいるのは明らかだった。

 陸軍の狙いは東条内閣の復活と伏見宮博恭王の海軍大臣就任、そして山本五十六の排除だった。

 決起軍は山本長官を君側の奸として第1殺害目標としており、暗殺部隊を送っていた。

 外地軍(朝鮮軍、関東軍、シナ派遣軍)もクーデタを支持し、陸軍主導で早期混乱収束を求める声明を発表した。

 外地軍のうち、クーデタを支持しなかったのは南方軍だけだった。

 南方軍を指揮していた寺内寿一元帥は、皇道派将校ということで東条英機と微妙な関係であったことや、大陸と異なり、船(海軍)がいなければ何もできない環境だったことから海軍についた。

 なお、近衛師団の決起は情報漏れによって初動から大きく躓き、肝心の山本長官の暗殺に失敗したばかりか、宮城制圧にも失敗していた。

 クーデタ寸前に宮城を脱出していた昭和帝は戒厳令を布告、戒厳司令部長官に山本海軍大将を指名して、全権を委任することとした。

 これが近代幕府の始まりとする研究が多い。

 2度も陸軍に背かれた昭和帝の怒りは凄まじく、決起軍に投降を呼びかけるラジオ放送において逆賊討伐の言葉さえ飛び出した。

 昭和帝から逆賊認定された東条英機は、神経衰弱に陥り、数日後に衰弱死した。

 いきなり中心人物を喪失したクーデタは、もはや失敗したも同然だった。

 しかし、青年将校グループは外地軍の救援が来るまで籠城を決めており、投降勧告に応じなかった。

 第1次2・26事件後の過酷な処分を知っている彼らは、もはや後には引けなかった。

 反乱勢力の武力討伐を決意した戒厳軍(横須賀海軍陸戦隊)は、昭和帝の直接指揮を受けて、帝国議会議事堂に突入して激戦となった。

 総理官邸もこの戦闘で大破炎上しており、再建されることなく破棄された。

 陸軍省や参謀本部も戦場となり、海軍航空隊の急降下爆撃機が出動して立てこもった反乱軍を爆撃した。

 東京湾に入った戦艦武蔵が就役してから最初に砲撃したのは国会議事堂になった。

 クーデタは3月11日までにほぼ鎮圧された。

 第2次2・26事件で日本陸軍は大打撃を受けて、反乱の責任を負う形で著しく権力を縮小することになる。

 問題はクーデタを支持した外地軍の存在だった。

 特に関東軍は徹底抗戦を表明しており、太陽の帝国は二つに割れることになった。

 戒厳司令部は東京での市街戦で民間人に多数の犠牲者が出たことから、外地軍の武力制圧には慎重となり、皇族を派遣して説得・交渉による解決を目指すことになった。

 なお、最初に武装解除に応じたのは朝鮮軍で、1943年9月16日に投降した。

 朝鮮軍の投降はイタリア降伏の余波だった。

 日本が二つに割れて争っている間にヨーロッパでは戦局の大転換が進み、ドイツ軍は東部戦線で大敗し、北アフリカからも叩き出されていた。

 日本軍には惨敗した米軍は、戦艦や空母のような補充が難しい大型艦を除けば陸空の戦力拡張が著しく、北アフリカから枢軸軍を駆逐する中心的な役割を果たした。

 ドイツの後退が相次ぐとドイツの支援を期待していた外地軍の意気も挫けていった。

 また、外地軍(特にシナ派遣軍)の足元は、内輪もめによって崩れつつあり、日本に降伏した蒋介石の復権や中国共産党の勢力拡大が進んだ。

 戦後内戦の最大の余波は満州国の独立で、最後まで抵抗した関東軍は満州国軍のクーデタにより壊滅し、戦後内戦は漸く終わった。

 第2次2・26事件発生(1943年2月)から、関東軍崩壊(1945年2月)までの期間が戦後内戦期となる。

 この間に戒厳司令部は旧政府官僚組織を指揮下におさめ、実質的に新政府を組織していた。

 1945年1月には山本海軍大将はクーデタ鎮圧の功績により、昭和帝から国家元帥に任ぜられ、引き続き国家の全権を委任されることになった。

 山本国家元帥の最初の仕事は、無期限の国家緊急事態宣言の布告だった。

 国家元帥(将軍)が、朝廷(政府)の外にあって、朝廷(政府)のために活動するために設けた役所は幕府と称することが正しく、1945年以後の日本政体を近代幕府と称するのが一般的である。

 海外の研究者は近代幕府をヒトラー・ドイツやムッソリーニ・ファシズムのクローンであり、山本五十六国家元帥をイエローゲーリングと定義している。

 確かに多党制を否定した翼賛体制は、典型的なファシズムである。

 翼賛議員は無期限の国家非常事態宣言により改選されなくなり、議会は事実上、無力化された。

 中央官庁も緊急勅令により戒厳司令部の下部組織となった。

 ただし、全ての官庁が幕府に引き継がれたわけではなく、大蔵省などは解体されて国税庁と主計局、金融監督局などに分割されて消滅した。

 そのため、21世紀現在でも日本には他国にある財務省に相当する組織がない。

 これは余談だが、山本国家元帥はなぜか陸軍省よりも大蔵省の解体に執心していたと記録が残っており、大蔵省の看板を自ら火にくべて焼き払ったという証言もある。

 何がそこまで憎悪を呼んだのかは不明である。

 陸軍省も海軍省と共に消滅して国防省となり、陸軍参謀本部は海軍軍令部に吸収されて統合軍令部となった。

 皮肉なことに、日本はファシズム体制になったことで明治憲法下で分離していた軍政と軍令の一致を見ることになった。

 また、情報省や宣伝省といった旧政府になかった新しい官庁も誕生している。

 戒厳司令部は国家予算の編成や勅令による立法、最高裁判所の人事を掌握し、三権分立は空文化した。

 勅令による国家元帥への全権委任によって、実質的に明治憲法は停止しており、国家元帥の意思が日本国の最高法規となった。

 しかし、山本国家元帥は政治的な実務は内閣に委任する政治手法を好み、自分自身が内閣を率いることは最後までなかった。

 山本国家元帥が国家を直接指導したのは、1943年2月から1945年2月までの期間で、以後は全権委任者として調停役を担った。

 そのため、近代幕府体制は一種の元老政治と解釈されることがある。

 元老政治とは、明治維新を成し遂げた維新の志士たちが明治政府の長老として超法規的な権威を駆使して国家のかじ取りを図った政治体制である。

 しかし、しばしば現実政治の細かい部分にまで介入した山本五十六の政治姿勢は明治の元老から外れている部分も多い。

 また、明治の元老は国家自衛隊のような私兵集団を用いることもなかった。

 国家自衛隊とは、戦後内戦で度々、暗殺の危機に遭遇した山本五十六国家元帥の身辺警護部隊から始まった武装組織である。

 当初は警察予備隊という名称で、管轄は内務省にあった。

 あくまで警察という建前だったが、人員の大半が横須賀海軍陸戦隊から引き抜かれた軍人によって構成されており、準軍事組織となっていた。

 戦後内戦中に警察予備隊は組織拡大し、保安隊と名称を変え、1954年に国家自衛隊として、国家元帥直属組織となった。

 近似該当の組織には、ナチス・ドイツの親衛隊やソ連のKGBなどがある。

 その他の独裁国家によくある革命防衛隊や共和国防衛隊のような組織も近い存在と言える。

 組織拡大中に、内務省の特別高等警察や軍の憲兵隊を吸収しており、国民に対する思想統制・弾圧および軍を統制(監視)する組織となった。

 ちなみに国家自衛隊は軍でありながら、軍ではないという建前(軍からの反発を和らげるために)をとっており、旧特別高等警察など民政部門を担当するのが普通科で、旧憲兵隊などの軍事部門が特科という独特の言い回しを採用している。

 階級制度も独特で、当初は警察士や警察正といった警察由来の呼称を用いており、国家自衛隊になってからも1尉(大尉)や1佐(大佐)などを用いている。

 国家自衛隊のモデルとなった武装親衛隊も似たようなことをしており、主旨が同じ組織は似てくると言えるかもしれない。

 武装親衛隊と同様に国家自衛隊は志願制を採用した。

 3軍に比べて高給だったことや、開設初期にナチス亡命軍人(特に武装親衛隊関係者)の指導を受けたことから、エリート意識が高くなり、志願者が殺到した。

 ただし、志願にあたっては国籍条項を設けなかったので、外国人の参加者も多かった。

 多くはナチス・ドイツ関係者で、亡命ドイツ人や武装親衛隊に参加していて本国に居場所がないフランス人やロシア人が初期の国家自衛隊に参加していた。

 本国で出世の望みがない朝鮮人や中国人も参加が多く、中にはホロコーストを逃れてアジアまで逃げてきたユダヤ人もいた。

 元ナチス武装親衛隊員と同じ職場にいるユダヤ人などブラックジョークとしか言いようがないが、ユダヤ人も金持ちばかりではなく、イスラエルへの渡航費を稼ぐために国家自衛隊に参加するものがいた。

 国家自衛隊の外国人の参加割合は4割程度で、異国情緒あふれる組織と言えたが、非常にエリート意識が高く政治的な兵士として優先的に最新兵器が配備されることもあって、黄色いSSとして米ソの軍事関係者から一目置かれる存在だった。

 話が逸れたが、明治憲法を戒厳令下の緊急勅令を駆使して実質的に無力化した近代幕府は、アジア初の近代憲法を制定し、法の支配を打ち出した明治の理想から最も遠い場所にあり、山本国家元帥を昭和の元老と解釈するのは無理がある。

 法の支配を軽視することはファシズム体制の基本的な特徴であるからだ。

 また、山本五十六は最期まで軍服を脱がなかった。

 国家の政治指導者が軍人だったことは、あくまで政治家として戦争を指導したヒトラーやムッソリーニとの大きな違いで、日本式ファシズムの特徴である。

 軍人による政治指導体制を武家政権の一種と解釈したことで、近代幕府という新しいのか古いの分からないポリティカル・タームが生まれたと言える。

 さすがに誰も、


「良い国つくろう近代幕府」


 などとは言わなかったが、日本史の暗記術として


「行くよ(194)ご一新(5)、近代幕府」


 と覚えると高校受験などで苦労しなくて済む。

 話を1945年に戻すと、昭和帝を含めて国内世論が軍人によるファシズム体制を支持したのは、日本の対外環境が極めて緊張していたからと言える。

 1945年から50年代半ばまでは日本の対外関係が最も緊張した時代だった。

 日本は最後の枢軸国として国際的に完全に孤立しており、米ソ2超大国の狭間にあって薄氷を踏む舵取りを余儀なくされた。

 1945年4月に第2次世界大戦が連合国の勝利で終わるとホノルル停戦条約の規定により、日本は1942年12月以前に占領した西太平洋の占領地から引き上げを開始した。

 これは連合国、特に米国にとって意外なことだった。

 日本はホノルル停戦条約に無視して占領を継続すると考えていたためである。

 実際に日本国内にも条約を無視して保障占領の継続を求める勢力がないわけではなかった。

 しかし、そうした勢力はクーデタ側に属しており既に壊滅していた。

 条約違反を口実に対日戦を始める想定(オリンピック計画)だった米国にとって、日本軍の撤退は大きな誤算だったと言えるだろう。

 イギリスも同様の計画があり、マレー半島や香港、シンガポールを武力奪還するためにインド洋に艦隊を派遣していたが、肩透かしを食らうことになった。

 もっともアジアに舞い戻ったイギリス軍やオランダ軍には、日本軍が遺棄していった武器弾薬で武装したビルマ、インドネシアやマレーシアの独立勢力との泥沼の戦いが待っており、対日復讐戦争の準備はある意味で無駄にはならなかった。

 日本は手放すことが決まっている南方占領地で、現地人への軍事教練や独立準備政府づくりを進めており、保障占領期間終了後を見越した仕込みには余念がなかった。

 また、アメリカ軍も日本軍が撤収したハワイ諸島に再上陸して、日本人が律儀に条約を守っただけではないことを思い知ることになった。

 なぜならばハワイ・オアフ島の軍事基地機能は完全に破壊されつくしていたからである。

 日本は占領期間中に真珠湾の修理設備や軍事基地関連設備を全て内地へ移送した。

 移送作業は徹底しており、岸壁のクレーン1本から艦隊用の燃料貯蔵設備、発電所といった大型設備から兵舎や道路標識といった小さなものまで全て持ち去っていった。

 また、湾内は大型艦が停泊できないように土砂で埋め立てられており、半年は軍港として使用不能となっていった。

 浚渫作業を妨害するために、土砂の中には信管や火薬を抜いた機雷や航空機用爆弾が埋設されている手の込みようだった。

 さらにペスト菌や炭疽菌といった物騒なラベルの張られたガラス容器や医療廃棄物なども埋められており、ホノルルでは検疫のためにパニックが起きたほどだった。

 ハワイが対日戦争の拠点として使用できないことは、大きな意義があった。

 アメリカ海軍は戦時建艦によって連合艦隊の3倍以上に膨れ上がっていたが、適切な補給基地なしで西太平洋への侵攻など絵空事でしかなかった。

 また、艦隊以外にも膨大な陸空の戦力があり、1945年のアメリカは国家予算の90%が軍事費という異常事態となっていた。

 いくら世界一の経済力を誇るアメリカ合衆国といえども、そのような財政運営の継続は不可能であり、大戦末期には戦時国債の起債が困難になりつつあった。

 アメリカ軍の対日復讐戦争計画は、第2次世界大戦直後の圧倒的な兵力で3か月以内に日本海軍を打倒することを骨子としており、半年もハワイが使い物にならないことは想定していなかった。

 それならばと、実用化したばかりの原子爆弾と燃料タンクを増設したB-29がアラスカに集められ、日本本土を核攻撃する準備が進められた。

 しかし、前述の通り既に国家財政が急速な軍縮なしでは破綻寸前であったことや、欧州から帰国した兵士を対日戦のために留め置くことが国内世論的に難しくなっていた。

 ヒトラーが死んで戦争が終わったのに、地球を一周してアジアでもう一度戦争をしろと命じられて、はいそうですかとはいかなかった。

 ニューヨークやワシントンDCで、派手な戦勝パレードを開催した後では尚更だった。

 また、日本がナチス・ドイツの崩壊直前にドイツから核物質を入手したという真偽不明な情報もあった。

 ドイツ本土へ殆ど踏み込めていなかったアメリカは、ナチス・ドイツの原爆開発について殆ど何もデータを入手できていなかったので慎重な対応を取らざるえなかった。

 イギリスやオランダは第2次世界大戦で国力が消耗しており、植民地でのゲリラ戦に巻き込まれており、対日復讐戦争どころではなかった。

 問題は、直に国境を接するソ連の出方だった。

 日ソ間は1941年4月に結ばれた日ソ中立条約があり、相互不可侵を約していた。

 しかし、ソ連が不可侵条約を守るなど誰も信じておらず、対独戦終結後はすぐに中立条約は破棄されると考えていた。

 満州国軍がクーデタを起こして関東軍を排除したのも、ソ連参戦が近いという観測があり、ドイツの次は自分たちだという危機感があったためである。

 満州国臨時大統領の座についた石原莞爾と山本国家元帥は即座に日満安全保障条約を締結し、日本軍は満ソ国境にえりすぐりの精兵と新型兵器を送り、国境の守りを固めた。

 こうした日本の動きはスターリンにも伝わっており、アメリカを1年で打ち破った精鋭日本軍というイメージが独裁者の行動を縛ることになった。

 また、スターリンはソ連が満州に侵攻することで、日米が接近することを警戒していた。

 第2次世界大戦終結時のソ連軍の総兵力は1,000万人を超えており、大陸から日本軍を叩き出すことは造作もないと考えられていた。

 東部戦線からシベリアへの兵力移送も特に問題なかった。

 問題が生じるのは、不満があるからであり、人類の理想郷建設に向けてまい進するソビエト人民に不満などは存在しないからだ。

 しかし、米軍を打ち破った日本軍が守りに徹した場合、戦闘が長期化し、日米が接近して米軍が満州に上陸するようなことになりかねなかった。

 戦後の主導権争いを見越していたスターリンは、アジアの地域大国日本と超大国アメリカが手を組んだ場合の危険性を察知していた。

 実際には、それは杞憂だった。

 アメリカの対日世論は最悪を通り越していた。

 1944年6月には反日デマからシアトルで華僑が虐殺される事件さえ起きていたほどだった。

 デマを報じたのはシアトルの地元ラジオ局の右翼アジテーターで、西海岸で起きていた大規模な山火事は日本軍の潜水艦による砲撃の仕業だと大誤報(意図的に)を飛ばした。

 デマを真に受けた真面目な市民が自衛のために立ち上がり、日本人(実際には華僑や朝鮮系アメリカ人)を私刑に処した。

 なぜ、反日デマで朝鮮系アメリカ人や華僑が虐殺されたのかといえば、目につくところにいたアジア人が彼らだけしかいなかったからだ。

 日系人は戦争開始直後にアリゾナの砂漠地帯に作られた収容所に送られており、シアトルには一人もいなかった。

 米国政府による日系人強制収容は、国家による完全な人権侵害ではあるが、シアトルの華僑虐殺事件の結果を踏まえると、実は英断だったのではないかと考えることもできるため、今なおその是非について論争が続いている。

 シアトル華僑虐殺事件は、戦時中という異常な状況下でおきた集団ヒステリーの際たるものとして、アメリカにとって忘れたい汚点の一つになった。

 よって、日本がどれほど追い詰められたところでアメリカが手を差し伸べる可能性は皆無に等しかったのだが、独裁者はそうは考えてなかった。

 何しろ、独裁者にとって世論というものは、どうとでも操作できるパラメーターの一つに過ぎないからだ。

 そんなものに引きずられる国家指導者がいるとは、スターリンにはどうしても理解できなかった。

 しかし、ソ連軍の戦力は膨大であるため、すぐに動員を解除しなければ国家財政の破綻が約束されており、残り時間は僅かなものだった。

 1945年のソ連は占領したドイツや東欧から根こそぎ資産を奪うことで、破綻寸前の国家財政をなんとか回しているという状況だった。

 スターリンは日本が膨大な資金を投入して育てた満州からの略奪を狙っていたが、そのために必要なコストがリターンに見合うものかは測りかねていた。

 そして、迷っている間にも動員解除を進めなければ国家財政の破綻が近づくというジレンマがあり、独裁者の迷いが第2次ノモンハン事件の引き金を引くことになる。

 1945年8月6日から9月16日までの期間、日ソ正規軍が激突した第2次ノモンハン事件はスターリンにとって威力偵察の一種だった。

 日本軍の実力が真実に強大なものなのか図るために、スターリンは過去に武力衝突があった地点に意図して戦争を作り出したのである。

 当初は散発的な銃撃戦だった第2次ノモンハン事件は、すぐに日ソ双方が正規軍を投入したことから大規模戦闘となった。

 戦闘は当初、ソ連側が優勢だった。

 ソ連軍はドイツ軍を粉砕した膨大な砲兵火力に加えてモスクワの守護神Tー34やISー2重戦車を奔流のように投入して日本軍守備隊を蹂躙した。

 山本国家元帥はスターリンの意図を正確に読み取り、慎重論を一蹴して最新兵器を惜しみなく投入した反撃を指示した。

 自らの力を示す以外に日本が生き延びる道はなかったのである。

 日本軍の反撃は空から始まり、海軍航空隊の零戦76型がソ連軍戦闘機部隊を蹴散らして制空権を確保した。


挿絵(By みてみん)


 零戦76型はエンジンを空冷1000馬力級の栄から、2000馬力級の誉に換装した零戦の最終生産型だった。

 停戦による軍事費の削減や戦後内戦の混乱で、零戦の後継機の開発が止まってしまった日本海軍航空隊では、既存の機材を改良して使うしかない状況だった。

 しかし、試作に終わった試製雷電の技術などをフィードバックした零戦は、第二次世界大戦の延長戦になった第二次ノモンハン事件でもまだ輝きを失っていなかった。

 パイロットも真珠湾攻撃に参加した超ベテランが未だに現役で第1線で活躍しており、ドイツ空軍との戦いで腕をあげたソ連空軍であっても、練度では日本側に軍配が上がった。

 何しろ、日本軍のパイロットには真珠湾攻撃に参加した猛者中の猛者がまだまだ大勢いたからだ。

 さらに敵戦闘機を振り切る高速戦闘爆撃機として、彗星54型がガンポッドを抱えて戦場を往復してソ連戦車を大量破壊した。

 誉エンジンに換装した零戦よりも高速を発揮した彗星の心臓は、ナチス・ドイツが大戦末期に量産化したユモ213だった。

 ユモ213は大戦末期に実用化されたドイツ製2000馬力級液冷エンジンで、Fw190D型などに用いられた高性能エンジンである。

 日本軍がドイツ製の高性能エンジンをドイツ敗戦後に運用できたのは、日西連絡船トウキョウ・エクスプレスの活躍によるものだった。

 日西連絡船とは日本海軍が、ドイツからの技術獲得を目的としてシンガポールからフランコ体制スペインの間で運航した連絡船のことである。

 連絡船と言っても、実態はそれなり規模の船団で、多い時には30隻以上の船団が、希望岬を回ってスペインに赴いた。

 日本海軍は保障占領した南方資源地帯の天然ゴムや錫、タングステン、原油といった戦略資源をスペインに運んだ。

 もちろん、ドイツ人が大好きなコーヒーも大量に輸出された。

 スペインで荷揚げされた戦略物資は、陸路でドイツへ輸送され、その見返りに日本はドイツから技術提供を受けていた。

 ヒトラーは大戦からの足抜けを図る山本国家元帥を裏切者と罵倒していたが、戦争経済のために資源獲得には熱心で、日本との裏取引に応じた。

 英米海軍は日西連絡船の運航に神経を尖らせたが、不可侵条約があるため、手を出すことができなかった。

 それでもトウキョウ・エクスプレスは度々、所属不明の潜水艦の雷撃を受けたり、アメリカ海軍の高速戦艦に追尾されたりと決して安全な航海とはいえなかった。

 ひどいときには、B-17の大編隊から誤爆されることもあった。

 護衛任務中に撃沈された駆逐艦や軽巡洋艦は航路途絶までに19隻にものぼった。

 戦後の日本海軍がやたら対潜作戦に力を入れるようになったのは、トウキョウ・エクスプレスの護衛作戦で痛い目にあったことが原因とする意見が多い。

 1944年9月に連合国軍がノルマンディーに上陸するとスペインは連絡船の入港を拒否することになったが、洋上で日本船とスペイン船同士のせどりは続いており、ヒトラー暗殺に失敗した国防軍将校や敗戦を見越したナチス高官、さらにソ連軍の捕虜になっては命がない武装親衛隊などがトウキョウ・エクスプレスで日本へ逃亡している。

 逃亡者達は身の安全を確保するために、ドイツの最新技術や不正蓄財した資産を手土産にしていることが多く、日本は彼らを匿う見返りに様々なヒトラーの遺産を獲得していった。

 その中にはユンカース社の先進的なエンジン技術も含まれており、彗星の心臓になったユモ213や燕電11型(5式局地戦闘機)に使用された革新的なユモ004ターボジェットエンジンもあった。

 燕電はメッサーシュミットMe262を中島飛行機でライセンス生産したもので、日本初の実用ジェット戦闘機だった。

 第2次ノモンハン事件時点はまだ試作段階だったが、力の誇示を目的に急遽、実戦投入された。

 Me262は大型爆撃機に対抗する迎撃戦闘機であり、ソ連空軍の地上攻撃機を撃退するには必ずしも効果的とはいえなかったが、ジェット戦闘機がアジアに現れたことはスターリンにとって予想外なことだった。

 ソ連はドイツ本土を占領してMe262のサンプルを多数入手しており、その革新的な性能を認識していた。

 その性能ゆえに日本が実用化するのは当分先という先入観が生じていた。

 そのため、早々と日本がドイツの最新技術をキャッチアップしてきたことは、スターリンを慎重にさせた。

 投入された機体は10数機程度で、増加試作機を飛ばして見せたレベルでしかないのだが、力の誇示という点では十分な成果と言えた。

 また、地上戦においてもスターリンの甘い認識を覆す報告があがっていた。


「日本軍はティーゲルを量産化している」


 という前線からの報告をスターリンは信じようとしなかったが、鹵獲された車両がモスクワに届くと信じるしかなくなった。

 日本陸軍が日西連絡船でティーガー重戦車を輸入したのは1944年1月のことで、サンプルとしてオリジナルの1台が購入され、その後にライセンス生産契約が結ばれた。

 ティーガーのライセンス生産は様々な技術的な困難や戦後内戦による陸軍中枢の壊滅といった悲劇に直面したが、南方資源のバーター貿易でドイツ製の工作機械や生産設備が輸入できることになり、亡命してきた技師たちの協力もあって1944年12月末にはなんとか量産にこぎつけることに成功した。

 最大の困難はトランスミッションの生産で、これらはドイツから生産設備を輸入した専用工場でしか生産することができなかった。

 それでも1945年8月末までには軍直轄の独立重戦車大隊が2個編成され、さらに6個まで編成作業が続いているところだった。


挿絵(By みてみん)


 60tもある和製ティーガーは日本国内では運用不可能で、北海道の一部と満州に集中配備されることとなっており、第二次ノモンハン事件でその威力を発揮することになった。

 日本陸軍はパンター戦車のライセンス生産計画も進めており、どちらかといえば本命はパンター戦車の量産化だったのだが、第2次ノモンハン事件には間に合わなかった。

 鹵獲された日本製のティーガーはソ連軍によって詳しく調査が行われ、性能面はドイツ製と遜色なく、むしろ火力の面ではオリジナルよりも強化されていることが判明した。

 また、撃破されたティーガーの車体からはドイツ人と思われる遺体が回収され、かなりの数のナチス軍人が日本に亡命していることが判明した。

 日西連絡船で日本の亡命した武装親衛隊員の中には、日本陸軍の指導教官として再就職する者が多く、日本製ティーガーの運用も半分はドイツ人の手によって行われていた。

 国際問題になるため、最前線に元武装親衛隊員を投入することはためらわれたが、本人の熱烈な志願があった場合はその限りではなく、復讐のために出戦した元ドイツ戦車兵はそれなりにいた。

 スターリンを憂鬱にさせたのは、ドイツ敗戦後に行方不明になっているドイツ空軍の戦車撃破王が満州にいるという未確認情報だった。

 大口径砲を搭載した高速爆撃機によって次々に戦車が撃破されているという報告は、ソ連人民最大の敵の復活を想起させるには十分すぎた。

 37mmガンポッドを抱えた彗星は戦車の弱点である上面部の薄い装甲を狙うことで、強力なISー2重戦車をいとも簡単に撃破した。


挿絵(By みてみん)


 ティーガーですら持て余すIS-3重戦車でさえ、37mm砲で装甲が薄い上面やエンジングリル狙われたら一たまりもなかった。

 ちなみに件の戦車撃破王はアメリカ軍の捕虜収容所にいて、第2次ノモンハン事件にはかかわっていないのだが、満州で戦車撃破王を見たという証言は数多い。

 被害妄想がひどくなっていたスターリンは、ひそかにアメリカが日本と通じて、捕虜収容所から優秀なドイツ軍将校を満州に送り込んでいると信じていた。

 そのような事実はなかったのだが、敗戦後に日本へ逃亡するドイツ軍将校や武装親衛隊員は膨大な数だった。

 特にイタリア国境までソ連軍が迫ったことからカトリック勢力バチカンは、ドイツ人将校の逃亡幇助を強力に推進していた。

 捕虜収容所にいた空の魔王を解放して、日本に送り込むようなことはできなかったが、バチカンの活動はスターリンの被害妄想を刺激するには十分だった。

 東部戦線で散々ソ連戦車部隊を苦しめたパンツァーファウストやパンツァーシュレックも日本兵は豊富にそろえており、狂信的な肉弾攻撃で次々にソ連戦車を炎上させた。

 異常なまでに士気が高い日本歩兵は、士気の低さに悩まされるソ連軍指揮官にとって羨望の的だった。包囲されても絶対に降伏せず、最後の一人になっても戦い続ける姿は、多くのソ連軍人に古の大ハーンの軍勢を思い出させた。

 最終的にソ連軍は反撃を受けて戦闘開始前の国境線まで撤退することになり、戦線の無人地帯をはさんで両軍はにらみ合いを開始した。

 ソ連軍は次々に増援を送り込んで、最終的に日本軍の10倍以上の兵力を揃えて見せて陸軍大国の威信を示したが、結局、再び満州に攻め込むことはなかった。

 ソ連が日本の抗議を受け入れ、不幸な行き違いがあったとして戦闘停止に応じたのは1945年9月11日だった。

 スターリンに最終攻撃をためらわせたのは、ドイツ軍の秘密兵器で武装した軍神山本五十六に率いられた無敵の日本軍という虚像だった。

 特に写真偵察機が撮影に成功した満ソ国境へ移動中のV2ミサイルの移動発射機は、スターリンに満州征服を諦めさせた。

 大戦末期に実用化されたV2ミサイルは、レシプロ爆撃機と異なり成層圏から超音速で落下する迎撃不可能兵器であり、1945年時点ではスーパーウェポンの一種だった。

 仮にスターリンが最終攻撃を選択して満州を蹂躙したとしても、日本軍は戦線の後方から迎撃不可能なV2ミサイルで前線のソ連軍を攻撃することが可能で、赤軍の被害は膨大なものとなることが予想された。

 さらに日本に亡命したドイツの優秀な核物理学者のグループが日本軍の原爆開発に協力しているという未確認情報もあった。

 現実には、日本軍は日西連絡船で入手したⅤ2ミサイルをまともに動かすことができず、実戦配備にはほど遠い状況だった。

 V2ミサイルのターボポンプシステムは当時のハイテクノロジーであり、本国ドイツでさえ持て余し気味の代物だった。

 よって、当時の日本の技術でどうにかできる代物ではなかった。

 ソ連の写真偵察機が撮影したのは本物のV2ミサイルであったが、情報作戦のために用意された欺瞞であり、戦闘能力は皆無だった。

 要するに日本軍のV2ミサイルは完全なハッタリだった。

 それでもアメリカを打ち破った無敵日本軍というフィルターを通して見ると、スターリンには今にも原子爆弾を搭載したV2ミサイルが発射されようとしているように見えるのだった。

 こうした情報作戦は山本国家元帥の得意とするところであり、特に好んだポーカーではブラフによる心理戦が重要だった。

 1945年当時の日本のカードは米ソに比べれば、いいところツーペア程度しかなかったのだが、対戦相手からはフルハウスが隠されているかのように見えていた。

 また、スターリンは日本がヒトラーの遺産ナチス・ニュークリアを隠し持っていると信じていた。

 実際に日本が1946年に核実験を行って世界で2番目の核保有国となると”ヒトラーの遺産”はスターリンの中では絶対的な真実となった。

 一説によるとスターリンはヒトラーが満州で生存していると考えていて、スパイにヒトラーの探索と暗殺を命令していたことが後の情報公開で明らかとなった。

 ちなみにアメリカ合衆国も似たような理屈で日本がナチス残党を匿うことでナチス原爆を手に入れたと信じていた。

 ティーガー重戦車やジェット戦闘機、さらにV2ミサイルの現物さえ持っているのだから、ナチス原爆という陰謀論には大きな説得力があった。

 ちなみにナチス原爆については、日本海軍の情報機関による偽装工作であったことが後の情報公開で明らかとなっている。

 しかし、ナチス原爆やヒトラー生存説はかなりの長期間にわたって信じられつづけ、ゴシップ紙の恰好のネタとなり、国際的な詐欺事件にも舞台にもなった。

 ヒトラーの遺産については大半は捏造されたものだが、民放の骨董品鑑定番組が奉天市で出張鑑定大会を開いたところ、ナチスが略奪した絵画が出品され国際問題となった事例もある。

 21世紀現在でも、しばしばハリウッドでは満州に逃亡したヒトラーやナチス残党が秘密研究所を構えて世界征服を狙っているという筋書でB級映画が作られることがある。

 日本でも近年になってハリウッドB級映画の亜種として、マンシュー・カンフー・ナチスなるコメディ映画が作られた。

 筋書としては満州に潜水艦で逃亡したヒトラーが東条英機から空手の奥義を伝授され、不老不死の体を手にいれ、世界征服の手始めに中国征服を狙うというものである。

 最終的にカンフーの奥義に目覚めた主人公にヒトラーは敗れ、逃走中に銃撃戦となり路上駐車された日本車が爆発して、ヒトラーは爆死することになる。

 もはや空手でもカンフーでも何でもないのだが、ナンセンス映画に理由や理屈を求めていけないと筆者は考えるところである。

 筆者としては、カンフーアクションには全く期待していなかったのだが、意外にも真面目にカンフー映画をしておりストーリーはともかくカンフー俳優の演技には好感がもてた。続編でロボになって復活するヒトラーの逆襲に期待している。

 それはさておき、1945年という第2次世界大戦直後の世界ではヒトラーの遺産という虚像には一定以上の説得力があり、軍神山本五十六と無敵日本軍というファクターも加わることで米ソの対日戦争は阻止されたと言える。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 山本五十六にあやかって子供の名前に漢数字つけるの流行ってそうw。
[一言] 近代幕府ってHOI4かな。
[一言] 例の映画の感想で草。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ