軍神の誕生
軍神の誕生
1941年12月8日に真珠湾攻撃で始まった大東亜戦争は大日本帝国の圧倒的な勝利で終わった。
宣戦布告と同時に米領ハワイ準州オアフ島の真珠湾を攻撃した小沢機動部隊は、米太平洋艦隊の主力を一撃で壊滅させた。
帝国陸軍は英領マレー半島への奇襲上陸に成功し、上陸橋頭保を艦砲射撃しようとした英東洋艦隊を海軍陸上攻撃機の航空攻撃によって壊滅した。
日本軍の快進撃は続き、半年足らずでアジア各地から欧米列強の軍事力は一掃された。
一連の勝利は、相手の無防備や幸運という要素もあったが、日本軍の圧勝と表現する他なく、西太平洋における日本の覇権を確立することになった。
この勝利の立役者となったのが、山本五十六連合艦隊司令長官であることは現代を生きる我々にとっては常識である。
山本五十六は、1884年4月4日に新潟県長岡市に生まれた。
年少のころから負けず嫌いの俊英として知られ、成長してからは国防の道を志して海軍に進んだ。
海軍兵学校を優秀な成績で卒業すると少尉候補生のまま日本海海戦に参戦した。
海戦では、装甲巡洋艦「日進」の乗組員として勇戦敢闘し、名誉の負傷を負った。
この負傷は左腕切断もやむなしという重傷であった。しかし奇跡的に回復し、その後の軍務の妨げるものではなかった。
その後は順調にキャリアを重ね、海軍航空隊の揺籃期に重要な役割を果たした。
海軍航空本部長として海軍航空行政を指導し、海軍航空技術の発展に尽くした。
駐米大使館付武官の経験もあり、海軍有数の知米派であった。
大国アメリカの経済力を知悉していたことから、アメリカとの危険な対立に進みかねないとして日独伊三国同盟に反対した。
これはその後の展開を考えれば慧眼という他なく、日本全体が英米との対決に向かう中で、軍人として戦争に反対したことは特筆に値することであろう。
山本五十六の危惧は現実のものとなり、1939年8月30日に第26代連合艦隊司令長官に就任すると、その直後に第2次世界大戦(1939年9月1日)が勃発した。
世界大戦勃発は山本五十六にとっても大きな衝撃で、
「今日は何年何月何日だ?ここはどこ?俺は誰?」
などという意味不明な発言が飛び出した。
山本五十六の精神混乱は、腹心として活躍した宇垣纒参謀長の陣中日記(戦藻録)にも記述があり、ほぼ事実であると思われる。
世界大戦勃発は山本五十六にとって大きな転機になった。
山本長官は大戦がもたらす惨禍をほぼ正確に予見しており、困難な時代にGF長官という実戦部隊を率いる大任を引き受けた重圧から、
「まるで別人のようだ」
と周囲から評されるほど人柄が変わったとされる。
大戦勃発以前の山本長官は非常に個性的な、悪く言えば癖が強く、人物の好悪がはっきりとした人物だったが、大戦勃発以後はそうした評価は鳴りを潜めた。
代わりに、我々が知っている今日の人物像が現れることになるのだが、それは別の機会に述べることとする。
ナチス・ドイツは快進撃を続け、フランスを降すと日本は援蒋ルート遮断のために仏印進駐を強行した。
日本の南方進出に対して、アメリカ合衆国は石油禁輸などの経済制裁を強化したことから日米関係は戦争前夜に至った。
山本長官は実戦部隊指揮官の立場から日米開戦に断固として反対した。
近衛文麿(当時の総理)から対米戦争の見通しについて尋ねられると、
「必ず負けます」
とはっきりと述べている。
近衛はこの発言に衝撃を受けて一度は日米和解に舵を切ったが、陸軍強硬派の説得に失敗して政権を投げ出した。
山本長官は日米開戦に反対していたが、実戦部隊指揮官として密かに真珠湾攻撃の準備を進め、東条内閣の誕生でほぼ不可避となった大戦争に向けて準備を整えていた。
そして、運命の開戦を迎えると入念に戦争準備を整えていた日本海軍は各地で圧倒的な大勝利を重ねた。
前述の真珠湾攻撃において、山本長官は自ら詳細な作戦計画を立案した。
奇襲部隊の指揮官人選においては、年功序列を排除して、航空作戦について経験豊富な小沢治三郎中将を指揮官に熱望し、これを実現させている。
ちなみに年功序列人事の場合は、ハワイ奇襲部隊には南雲忠一中将が就任していたと言われている。
南雲中将は開戦時に南遣艦隊の指揮官として、マレー半島への奇襲上陸部隊を護衛して無事作戦を成功させている他、重巡洋艦鳥海に座乗して、マレー沖海戦にも参戦している。
ただし、英東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスは航空攻撃で撃沈されたため、水上砲撃戦の機会はなかった。
南雲中将は水雷戦隊部隊の職歴が長く、水上艦部隊の指揮官としては優秀だったが、航空戦は素人であり、仮に南雲中将が第1航空艦隊司令長官の指揮官になっていたら真珠湾攻撃の成功はおぼつかなかったと考えられている。
話を真珠湾攻撃に戻すと、小沢中将は山本長官の期待に見事に応えてみせた。
米太平洋艦隊の主力戦艦群の撃滅のみならず、反復攻撃で軍港機能を徹底的に破壊するなど戦果拡大に努めたのである。
さらに無謀な反撃を試みたウィリアム・ハルゼー中将率いる空母エンタープライズを撃沈するなど大勝利を収めた。
ただし、こうした積極策には損害がつきものであり、山本長官は航空戦力を消耗した小沢艦隊には本土での休養と再編成を命じ、南方作戦の増援としては戦艦部隊(長門・陸奥・伊勢・日向・扶桑・山城)を送り込んだ。
これには少なくない反対意見があったものの、米太平洋艦隊の主力戦艦群が壊滅した現状では連合艦隊の戦艦部隊は遊兵となっており、戦力の合理的な運用と言える。
なお、連合艦隊司令長官は第1艦隊(戦艦部隊)司令長官と兼務となっており、第1艦隊の南進においては参謀長の宇垣纏中将が第1艦隊司令長官代理となった。
宇垣参謀長は戦艦部隊の指揮官としては最高の人材であり、極めて合理的な人材活用だった。
連合艦隊司令部はこれを機に陸に上がり、横須賀海軍鎮守府内に移動することになった。
これも戦域が日付変更線の彼方まで広がった現状では合理的な処置であり、陸上の長距離通信設備を利用して全軍への効果的な指揮を可能とするものだった。
戦艦長門の通信設備は連合艦隊旗艦ということもあって、世界有数のものだったが船舶である以上は、規模や能力に限界があり、連合艦隊司令部の直面していた戦争に見合ったものではなかったのである。
また、東京の海軍省や軍令部と緊密な連絡をとる上でも、連合艦隊司令部が横須賀にあることは何かと都合が良かった。
第1艦隊(以後、宇垣艦隊)は、南方作戦においては対地砲撃などで陸軍作戦の支援に従事した。既に東南アジア方面の連合国の艦隊戦力は壊滅状態であり、戦艦部隊による水上砲戦は生じなかった。
しかし、インド洋作戦が策定され、1942年3月に宇垣艦隊がインド洋へ進出すると決戦の気運がみなぎった。
インド洋作戦は日本陸軍のビルマ作戦を支援するもので、陸軍が沿岸沿いにビルマへ侵攻する際に、妨害に現れるだろう英艦隊を阻止するものであった。
小沢艦隊の作戦参加も検討されたが、山本長官はイギリスの艦隊航空戦力は小さいと判断し、作戦参加を見送った。
そのため、日本海軍でインド洋作戦に参加したのは、軽空母の龍驤と改装空母の春日丸(大鷹)のみとなった。
シンガポールから後退して戦力補充を受けたイギリス東洋艦隊は、戦艦5隻、空母3隻の有力な艦隊となっており、実は空母の数では日本側が不利だった。
しかし、艦載機の質では日本有利と言えた。
何しろ英海軍の主力艦上攻撃機は複葉機のソードフィッシュで、戦闘機は鈍重なフルマーが主力だった。
日本側は数的劣勢であったが、全金属製の97式艦上攻撃機や零式艦上戦闘機を擁しており、数的不利は十分に補えることができた。
ただし、そう考えていたのは日本海軍だけで、イギリス海軍にはそうした認識はなかった。
ソードフィッシュもフルマーも欧州の戦場では十分に活躍できており、空母航空戦力で日本海軍を圧倒しているとさえ考えていたのである。
諜報活動で米太平洋艦隊を撃滅した恐るべきオザワ・タスクフォースがいないことを確認したイギリス東洋艦隊司令長官のサマヴィル中将はマレー沖の復讐として艦隊決戦による日本海軍撃退を企図した。
突進してくる東洋艦隊に対してこれまで特に見るべき活躍がなかった宇垣艦隊はその名誉に賭けて退くという選択肢はなく、セイロン島沖で正面から激突することになる。
セイロン島沖海戦(1942年4月9日)は、英東洋艦隊の航空攻撃で始まった。
空母インドミタブルとハーミスから発艦したソードフィッシュとフルマーの混成編隊22機が宇垣艦隊への先制攻撃に成功した。
しかし、英攻撃隊は零戦によってほとんど一方的に撃墜され、辛うじて射点についたソードフィッシュも艦隊の対空砲火によって全て撃退されてしまった。
何しろ連合艦隊の主力戦艦(長門、陸奥、伊勢、日向、扶桑、山城)が一塊になっているのである。そんなところに布張りの複葉機が真昼に正面から突っ込んだのだから、どのような奇跡があっても攻撃が成功するはずもなかった。
ただし、航空攻撃が成功しなかったのは英海軍だけではなく、日本海軍も同様だった。軽空母2隻の戦力で、戦艦5隻の英艦隊を攻撃するのは無理があった。
双方の航空攻撃が不発に終わったため、海戦は水上艦同士の砲雷撃戦で決着をつけることになった。
戦艦戦力は英海軍が5隻(リヴェンジ、ロイヤル・サブリン、ラミリーズ、レゾリューション、ウォースパイト)、日本海軍が6隻(前述のとおり)だった。
ちなみに日英双方ともに砲火力は互角と認識していた。
隻数は日本側が1隻多いが、日本側の戦艦のうち伊勢、日向、扶桑、山城は35.6センチ砲搭載艦だった。
それに対して、英側は全てが38センチ(15インチ)砲搭載艦だった。
宇垣中将が座乗する旗艦の長門と僚艦の陸奥は41センチ砲搭載艦であり、英側よりワンランク上の主砲を搭載していたが、他の4隻が35.6センチ砲搭載艦であることを考えれば、総合火力は互角と見るのが公平と言えた。
実際の戦闘も、殆ど互角のまま推移し、双方が大口径砲弾の応酬でじりじりと戦力を失っていくことになった。
そのため、双方ともに勝利の鍵を握るのは水雷攻撃であると認識していた。
宇垣中将の期待に第2水雷戦隊は見事に応えた。
第2水雷戦隊は日本海軍が日米艦隊決戦において夜間水雷襲撃の主力と定義して最新鋭駆逐艦を集めた精鋭部隊だった。
スラバヤ沖海戦では遠距離砲撃、雷撃に終始したことから不満な結果に終わった二水戦だったが、その反省からセイロン島沖では戦法を180度転換して犠牲を顧みない突撃と近接雷撃を敢行した。
二水戦は、駆逐艦の半数を失うという大損害を被ったが、89発の酸素魚雷を一斉発射する統制雷撃戦によって、戦艦ラミリーズを轟沈させ、レゾリューション、ウォースパイトを大破させた。
これによって戦艦同士の戦いは一挙に日本有利となり、戦艦リヴェンジ、ロイヤル・サブリンが、砲撃によって撃沈された。
最終的に英海軍は戦艦5隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦多数を失うという大敗を喫し、インド洋の制海権を喪失することになった。
日本戦艦に喪失艦はなく、戦艦陸奥、扶桑と山城が大破したが応急修理に成功して無事にシンガポールへ後退している。
勝敗を分けたのはそれぞれの海軍ドクトリンの差であると考えられている。
イギリス海軍にとって巡洋艦は植民地を巡回して航路を警備する船であり、戦闘能力よりも巡洋能力や居住性に力点が置かれていた。
英駆逐艦は雷撃を重視していたものの、白昼に真正面から戦艦部隊へ突撃するような使い方は想定しておらず、大西洋での戦いではもっぱら対Uボート作戦に従事していた。
それに対して、日本海軍は巡洋艦を戦艦の代用品と考え、1等巡洋艦にさえ酸素魚雷を搭載するなど攻撃に特化した艦を整備していた。
駆逐艦も水雷攻撃に特化した大型水雷艇のような船ばかりだった。
そのため、真正面からの艦隊決戦において火力に劣る英巡洋艦は日巡洋艦に撃ち負けることになり、巡洋艦の火力支援を受けた第2水雷戦隊の戦艦雷撃を許すことになってしまった。
これは平時に植民地と本国を結ぶ長大シーレーンを警備することを重視するイギリス海軍と一度きりの艦隊決戦に勝利するため攻撃に特化した日本海軍のドクトリンを反映した結果と言える。
結論として、短期的に見れば日本海軍の艦隊整備は成功を収めたといえるだろう。
セイロン島沖海戦の勝利によって、日本海軍は世界1位のアメリカ海軍と第2位のイギリス海軍の両方を撃破したことになり、世界最強海軍の称号を得ることになった。
開戦奇襲であった真珠湾攻撃やマレー沖海戦は、悪くいえば不意打ちであり、卑怯の誹りを免れないものであった。
しかし、セイロン島沖海戦は正々堂々たる艦隊決戦であり、日本海軍の強さは本物であることが証明された。
ちなみに真珠湾攻撃については、アメリカのルーズベルト大統領は卑怯な不意打ちであると主張しているが、攻撃そのものは宣戦布告から3時間後に行われている。
山本長官は真珠湾攻撃が不意打ちの誹りを受けないように細心の注意を払っており、ワシントンの日本大使館に特務将校を派遣して不測の事態に備えさせた。
その危惧は現実のものとなり、開戦直前に日本大使館ではタイピストが体調不良で欠勤して、宣戦布告文書の作成が遅延した。
大使館に派遣されていた蔵座敷海軍少佐が、タイピストの資格をもっていなければ、宣戦布告文書の手交が間に合わなかった可能性があった。
タイプライターに向かって、
「タイプ・タイプ・タイプ・タイプ・タイプ・タイプ・タイプ・タイプ・タイプ・タァァァイプゥゥ!」
と1秒間に10回もタイプ発言(調子がいいときは1秒間に11回)を叫びながら蔵屋敷少佐は宣戦布告文書を書き上げたため、宣戦布告は予定どおりの時間に行われた。
よって、真珠湾攻撃は卑劣な不意打ちではないというのが我が国の立場である。
それでもアメリカの国内世論は激高に近い反応を示したが、戦中や戦後も一貫して我が国は卑怯な不意打ちを行った事実はないと説明している。
話を1942年のインド洋に戻すとセイロン島沖の圧倒的な大勝利で日本軍の士気は大きく上がった。
勢いに乗った日本陸軍は、海軍への対抗心からビルマ戦線に大幅な増援を送り込み、戦果拡大を図った。
逆にイギリス軍の士気はガタ落ちであり、1942年6月までに日本軍はビルマ全域を占領、一部はインド侵攻を果たした。
ビルマ作戦の大成功によって中国奥地で抵抗を続けていた中華民国の蒋介石は全ての援助ルートを遮断されることになり、政権崩壊が迫った。
また、インドでは日本軍と協力してイギリスの植民地支配からの解放を目指す過激独立派が勢力を拡大し、全土が騒乱状態へと突入していくことになった。
日本軍の攻勢はさらに続き、1942年5月には珊瑚海海戦が勃発した。
珊瑚海海戦はニューギニアの要衝ポートモレスビー占領を狙う日本海軍とそれを阻止しようとした米海軍が激突した戦いである。
結果から述べるとこの海戦に参戦した米空母レキシントン、ヨークタウンは殆ど一方的に撃沈され、日本軍はポートモレスビーの占領に成功した。
日本軍の勝因は、情報作戦の勝利にあった。
山本長官は開戦以来の連合国軍の対応から、自軍の作戦暗号が解読されている可能性があると考えていた。
しかし、当時の日本海軍が使用していた作戦暗号(D暗号)について、専門家は絶対解読不能と主張していた。
そこで山本長官は実証実験として、ポートモレスビー攻略において作戦に参加する第5航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)にさえ秘密にして、完全な情報封鎖を行った上で、第2航空戦隊(蒼龍、飛龍)を別働隊として作戦参加させた。
米太平洋艦隊は暗号解読によって日本軍の侵攻を察知したものの戦力は空母2隻と見積もっており、密かに接近する第2航空戦隊にはまるで無警戒だった。
後に連合艦隊を率いることとなる第2航空戦隊司令の山口多聞少将は、一方的な先制攻撃に成功して、空母レキシントンを撃沈し、ヨークタウンを火だるまにした。
何も知らされていなかった第5航空戦隊の原少将は、炎上するヨークタウンを発見して潜水艦の雷撃だと誤認したほどだった。
珊瑚海海戦の勝利によって、一時的に太平洋上の米海軍の稼働空母は0になった。
米海軍は大西洋から空母ホーネットとワスプを回航し、さらに空母サラトガの修理を切り上げて機動部隊を再建したが、相次ぐ敗戦から士気の低下は深刻なものだった。
また、第2航空戦隊の戦果は完全に秘匿され、レキシントンとヨークタウンの撃沈は第5航空戦隊によるものと報道されたため、日本海軍が暗号解読に気づいていることを察知することができなかった。
米海軍がそれに気づいたのは、1942年6月のミッドウェー海戦だった。
暗号解読によって日本軍の侵攻を7月と考えていた米海軍は、予想よりも1ヶ月も速い日本軍の侵攻に対して後手に回った。
慌ててハワイから出撃した米太平洋艦隊は万全の態勢で待ち構えていた小沢艦隊との戦いに一方的に敗北し、空母3隻を失う大敗を喫した。
日本軍がミッドウェー島を占領したのは1942年6月9日のことである。
この作戦には戦艦大和が初めて参加し、ミッドウェー島へ艦砲射撃を実施した。
航空攻撃で一方的に米艦隊を蹴散らしたミッドウェー海戦において、水上砲戦は起きることはなく、大艦巨砲主義の終焉が改めて示されることになった。
ミッドウェー島の飛行場は急速に復旧され、陸上攻撃機が進出してハワイ空爆が始まったのが1942年6月末のことだった。
この時点で、艦隊泊地として真珠湾は破棄され、ハワイ失陥は避けられなくなった。
大東亜戦争における最終攻勢となったハワイ上陸作戦が実施されたのは、1942年8月1日のことである。
米陸軍のハワイ守備隊が降伏したのが1942年8月15日だった。
開戦からハワイ陥落まで日本海軍の大型艦喪失は0であり、一方的なワンサイドゲームによって日付変更線からインド洋までの広大な海洋は大日本帝国の支配するところになった。
ルーズベルト大統領の支持率が戦時下であるにも関わらず18%まで低下し、戦争指導全般に関する不手際に対して弾劾裁判が迫った。
この機を逃すことなく山本長官は和平工作に動いた。
1942年8月17日、ハワイ作戦の成功と勝利を報告するために宮城に参内した山本長官は、大元帥に対して連合国との即時停戦を奏上した。
これは事前の打ち合わせにはないものであり、完全にスタンドプレーだった。
この奏上において、山本長官は既に日本は攻勢限界にあること、長期戦になれば日本は必敗であることを明言し、即時停戦以外に日本が生き延びる道はないと述べた。
そして、大元帥から停戦交渉の言質を引き出すと即座にマスコミへ公表し、国内政治日程として停戦を既成事実化した。
実戦部隊指揮官の裁量を完全に逸脱した一連の独走は、連合艦隊司令長官によるクーデタと言えるのものだった。
しかし、開戦からハワイ占領までの勝利を齎したのが山本五十六の手腕であることは、政府の誇張されつくしたプロパガンダで周知の事実となっており、
「軍神山本五十六がそう言うのだから、もう戦争は終わり」
というのが大方の反応で、一挙に国内世論は和平に向かうことになった。
総理大臣の東条英機陸軍大将は激怒したが、マスコミによって周知の事実となった停戦を否定するなど、もはや不可能だった。
ルーズベルト大統領は日本の一方的な停戦宣言は黙殺すると発表したが、中華民国の蒋介石が停戦に応じると撤回を余儀なくされた。
援蒋ルート遮断で政権が危うくなった蒋介石は、満州国承認を条件に日本との停戦に同意したのである。
蒋介石を説得したのは、石原莞爾陸軍中将だった。
石原中将は以前から山本長官と密に連絡を取り合い泥沼化した中国戦線を処理するための方策を練っていた。
石原中将は単独で成都に乗り込むと蒋介石を説得して満州国承認を引き出し、それ以外の条件は白紙で停戦を取りまとめた。
蒋介石の説得も政府や日本陸軍には事前の相談がない山本長官のスタンドプレーだった。
しかし、蒋介石と石原中将、”軍神”山本五十六が並び立ち、握手をかわす写真やニュース映画が大量にばらまかれると政府や陸軍も、
「知りませんでした」
とは言える空気ではなくなってしまった。
盧溝橋事件から始まった日中の戦争は5年目にしてようやく終わりを告げた。
アメリカは膨大な国費を蒋介石支援に投じており、蒋介石の裏切りはアメリカ極東政策の完全な破綻を意味していた。
その責任を負えるのはルーズベルト大統領しかなかった。
弾劾が迫ったルーズベルト大統領は辞表を提出し、失意のままホワイトハウスを去った。
大統領に昇格したヘンリー・A・ウォレスは世論の圧力に屈して、日本との停戦に同意するしかなかった。
日米停戦交渉が纏まったのは、1942年12月8日のことで、奇しくも開戦から1年で大東亜戦争は日本の大勝利に終わった。
そのため、大東亜戦争をアメリカ側では、1年戦争(1year war)と呼称している。
ホノルル停戦条約では、日本と連合国の間に5年間の相互不可侵が約束された。
さらに石油などの戦略資源の確保のため、大戦終結まで日本は蘭印やフィリピン、マレー半島といった資源地帯の保障占領が認められた。
大日本帝国は戦争目的である自存自衛を完全に達成したと言える。
その代償に日本は、日独伊単独不講和協定を破棄した。
これは独伊に対する明確な裏切りで三国同盟違反だったが、ドイツやイタリアは特に抗議しなかった。
アドルフ・ヒトラー総統は、1943年春に日本が対ソ戦宣戦布告すると耳打ちされており、日本の戦線離脱は一時的なものと知らされていた。
ドイツにとって重大事はソ連打倒であり、日本がシベリアに攻め込むと分かっていれば日米停戦は大きな問題ではなかった。
しかし、日本の対ソ参戦は幻に終わることになる。
日米停戦に反対する過激勢力によって、日本は内戦に突入していったためである。
また、仮に日本が対ソ参戦を果たしても独ソ戦の結末は変わらなかったと思われている。1943年1月には、スターリングラードでドイツ軍第6軍がソ連軍に降伏するなど、既にドイツはソ連に圧されはじめていた。
アメリカも膨大な工業力で瞬く前に戦力を立て直すと1944年以降は物量作戦を展開して、海空からドイツ軍を駆逐していった。
英米海軍は対日戦で大型艦が激減していたが、弱体な独伊海軍を相手にするなら残された戦力でも十分だった。
1944年9月9日には連合国軍はフランスのノルマンディー半島に上陸し、西部戦線が開かれることになる。
対日戦の敗北がなければ、アメリカ軍は6月にはノルマンディーに上陸できていたと言われている。
6月に上陸できていれば、準備不足のドイツ軍はたやすくフランスから駆逐されていただろう。
しかし、9月時点では沿岸防衛陣地の構築が進み、防衛戦力の充当も(不足していたが)一定数が実現しており、海岸に向かった英米軍は大打撃を受けることになった。
上陸部隊の半数が壊滅するなど、ノルマンディー半島は英米将兵の血で染まることになった。
その後もドイツ軍の頑強な抵抗や降雪によって連合国軍の侵攻は遅々として進まず、フランスやベネルクス三国が解放されたのは1945年4月のことだった。
同月30日にはベルリンでヒトラーが自殺して、ナチス・ドイツは崩壊し、第2次世界大戦は終わった。
米ソ軍の兵士は独仏国境のライン川で握手し、戦争終結を祝った。
ヒトラーは米ソ軍が接触した場合、アメリカ軍内部の反共主義者によってそのまま相撃つことになり、大戦は大転換すると考えていた。
1944年のアメリカ大統領選挙で共和党のトマス・デューイが勝利を収めるとヒトラーは対ソ外交が転換すると考えて祝電さえ送っている。
デューイは暗黒のラブレターとも言える祝電を報道陣の前で破り捨て、ナチス・ドイツを徹底的に破壊すると宣言した。
よって、米ソ相撃つなど全く起きるはずもなかった。
前線の兵士にとっても、一日も早く戦争が終わって故郷に帰ることが大事であり、友軍であるソ連を攻撃するなど全く考えられないことだった。
イタリア半島を除けば、ライン川よりも東は全てソ連軍が占領するところとなり、ヨーロッパの半分以上が赤く染まることになったのだが、殆どの人々はヒトラーが死んで戦争が終わったことを喜んだ。
大西洋憲章に基づく国際連盟の再編(後に、国際連合)など、米ソ同盟による戦後世界秩序の再構築が論じられ、世界平和の実現が近づいたことも大いに歓迎された。
米ソの指導的な立場にある人々の懸案事項は、戦争から勝ち逃げした最後の枢軸国をどのように処理するかであった。