2話
街道から少し外れた森の中。
光の届かぬ洞穴より吹き抜けた風が運ぶ生臭い匂いが鼻腔を刺激する。
坂を下るように深く伸びる洞穴に日の光は遮られ、手にした松明の明かりに合わせて岩の影が不気味に揺れる。
そこに立ち入るのは貧相な装備に身を包んだ四人の少年少女。
斥候の少年が少し先を進み、少年剣士とイルフリーデが前衛を務め、最後尾に魔術師の少女が続く。
魔術師の少女が提案し、決まった隊列だ。
分かれ道がない限り、前方にだけ注意を向けていれば良い。
前衛に何かあれば援護する、と。
「今のところは何も起きませんね……」
イルフリーデが発した不安の色を宿した声。
「今もところも何も、相手はゴブリンなんだぜ?」
少年剣士が発した明るい声はゴブリンなど何の問題にもならないと、言外にほのめかしている。
事実、ゴブリンは最弱の魔物だ。それはイルフリーデとて知っている。
しかし、どうにも拭えぬ不安がイルフリーデを苛む。
「心配しなくても俺がちゃんと警戒してるから大丈夫だよ」
少し前を行く斥候の少年も会話に加わる。
「そうそう。それに何かあっても私の魔術で助けてあげるからね」
洞窟内に一党の声だけが響く。
緊張感などなく、賑やかな雰囲気のまま彼らは洞窟を進んでいく。
イルフリーデもなんとか不安を飲み込み、自身を落ち着かせる。
──相手は最弱のゴブリン。こっちは四人もいるんだし、油断しなければ大丈夫……。
出会って数時間。本当の意味で信を置く事が出来るかと言われれば決して頷ずくことは出来ない。
だが、こうして一度冒険に出た以上は互いに命を預けるしかない。
自分一人の不安感で一党の和を乱す事は出来ない。
「……ちょっと待った」
聞こえた声は斥候の少年のものだった。
先程とは違い緊張した声に弛緩した空気が凍り付く。
「どうした?」
松明をイルフリーデに預け、足音をできるだけ立てぬよう斥候に近づいた少年剣士が問いかける。
その問いかけに、斥候の少年は立てた指を口に当てて応える。
静かに指さした方向からはひたひたという足音。
──ゴブリン!!
暗くはっきりとしない視界の先に潜む相手。
その正体に行き着くまでにそう時間はかからなかった。
少年剣士は斥候の少年へ後ろの二人と合流するように言い、自身は腰の剣を抜く。
高鳴る鼓動に釣られて、乱れる呼吸。
少年剣士はゴブリンが背を向けた瞬間を狙い、飛び出した。
「ッ!!」
振りかぶった剣を勢いよく振り下ろし、子供ほどの体躯を斬り付ける。
「GYUIAAAA!?」
甲高く濁った悲鳴を響かせ、ゴブリンはのたうち回る。
少年剣士がゴブリンにとどめを刺そうと倒れた身体へと跨がる。
暴れるゴブリンに剣を突き刺す度に返り血が飛び散る。
やがてゴブリンは動かなくなり、少年剣士はふらふらと立ち上がる。
「はぁはぁ……」
呼吸は酷く乱れ、剣は握った両手は震えるほどに握り込まれている。
刃が肉を裂き、骨を断つ感触。生暖かい血を浴びる度に伝わる命を奪う手応え。
初めて魔物を屠ったいう事実に少年剣士の心は滾る。
「だ、大丈夫ですか!?」
「あ、ああ。怪我はないよ」
少年剣士は顔に飛び散った血を拭いながら、イルフリーデ達へと振り返った。
剣から滴る血がゴブリンの沈んだ血溜まりへと落ち、松明の明かりに照らされたゴブリンの顔は苦痛に歪んでいた。
「とりあえず一匹、だな」
「ちぇ、初戦果はお前かぁ」
「やったわね」
一党の誰もが歓喜の声を上げる。
たった一匹。されど一匹。他の誰でもない自分たちの一党が仕留めた。
その喜びに誰もが浸っていた。
そう、周囲を警戒することなく無防備に。
この洞窟にはゴブリン達が巣くっていることを忘れて。
「GOBGGU!」
「GUROROBGU!」
「な!?」
少年少女の歓喜の声を打ち消し、響き渡るゴブリン達の叫び声。
子供ほどの体躯の醜い魔物達が一斉に群がってくる。
突如現れたゴブリン達に驚きを隠せないイルフリーデ達。
しかし、これは何も彼女らの運が悪いが故に起きた偶発的接敵ではない。
起こるべくして起こった必然的接敵なのだ。
彼女たちが犯した経験不足による致命的失敗。
最初に倒したゴブリンが上げた断末魔。
洞窟内に響き渡ったそれが他のゴブリン達を呼び寄せたというだけのこと。
しかし、イルフリーデ達がそのことに気付くことはない。
「『炎よ、矢となりて我が敵を射抜け!』」
魔術師の少女が唱えた詠唱。
それは世界に作用し、杖に嵌め込まれた魔法石より『火矢』を放つ。
それは狙いを違うことなく、先頭を走るゴブリンの顔を射抜く。
肉が焼け焦げる嫌な臭い。
「一匹仕留めた!」
手にした確かな勝利は魔術師の少女を高揚させ、再度術を行使させる。
「『炎よ、矢となりて我が敵を射抜け!』」
続く第二撃もゴブリンに命中する。
しかし、魔術師に少女が出来るのはそこまで。
彼女が一日に使用できる魔術の限界は二回。
彼女の魔術は既に撃ち尽くされた。
「オラアァァァァ!」
「行くぞォォ!」
次いで飛び出しのは少年剣士と斥候の少年。
それは決して術を使い切った魔術師の少女を守るためではない。
無論、仲間を守るために飛び出したのは事実だが彼らの胸にあるのは、物語に聞いた英雄のようにどんな危機でも突破できるのだという驕り。
彼らは英雄ではない。
実力も経験も足りないただの新人冒険者だ。
昨日今日であったばかりで、連携を取ることなど出来ない。
血気盛んな少年二人は自分こそはとしゃにむに刃を振り回す。
狭い洞窟内、連携すら取れない状況での乱戦。
少年二人が次第に追い詰められていくのは当然の流れだ。
最初は斥候の少年が数に押されて引き倒された。
「魔術で援護してくれ!」
「む、無理よ! もう使い切っちゃったのよ!」 イルフリーデの後方で杖を胸に抱えるだけの魔術師の少女は涙ながらに叫ぶ。
繰り返すが彼らは英雄ではないのだ。
物語の英雄達ならば幾度も魔術を行使できるのだろう。
しかし、彼女は英雄ではない。ただの新人冒険者だ。
魔術師の少女に才があるからこそ日に二度も《、、、》使えたのだ。
ゆえに斥候の少年の命運はそこで尽きた。
「た、助け……」
救いを懇願する言葉は最後まで紡がれることなく消える。
雑多な武器切り刻まれ、物言わぬ躯と化した。
魔術師の少女は目の前の悲惨な死に嘔吐し、イルフリーデは傷を増やしながら少女を必死に守る。
少年剣士は仲間の死に激高し、さらに激しく剣を振るう。
──よくも仲間をっ!
怒りに任せ振るう刃は、血脂に濡れ、次第に仕留めきれぬゴブリンが増えていく。
「ッ、くッ!?」
足に走った激痛。目を向ければ、太ももに突き立てられた短剣。
殺しきれなかったゴブリンが醜悪な笑顔を浮かべていた。
ここぞとばかりにゴブリン達は少年剣士へと跳びかかる。
「や、やめ……」
次いで命運尽きたのは少年剣士だった。
憧れた英雄になることなく、最弱の魔物によって殺される。
それが少年剣士の最後だった。
残ったのはイルフリーデと魔術を使い切った魔術師の少女。
助かる見込みは既にない。
襲い来るゴブリン達は少女達に下卑た笑みを向け、腰布は固く隆起し押し上げられている。
雄しか生まれない生態的に破綻しているゴブリンという魔物。
彼らにとって他種族の雌とは腹を満たす食料であり、同族を増やす子宮なのだ。
そのことを理解しているからこそ、イルフリーデは必死に抗い続ける。
しかし、恐怖に呑まれかけている少女一人の抵抗が状況を好転させることはない。
「い、いやッ! 来ないで!」
悲痛な悲鳴をあげたのは女魔術師。
イルフリーデが止めきれなかったゴブリン達は魔術を使い切った無力な魔術師へと襲いかかる。
柔い細腕を掴み上げ、岩肌の地面へ組み伏せる。 抵抗する女魔術師の手から杖を奪い、それをへし折る。
「こ、このっ!」
自らに訪れるであろう悲惨な未来に、女魔術師は必死に足掻き続ける。
しかし、その抵抗こそが彼女の命取りとなった。
武器を奪い、組み伏せた獲物が暴れる。そのことに苛立ったゴブリンは女魔術師の腹に短剣を突き刺した。
「あぐゥッ──」
錆びつき、刃の毀れた短剣を力任せに振り下ろし、掻き回す。
肉を貫かれ、臓腑を掻き回される痛み。
その悲痛な悲鳴に悦を覚えたのか、ゴブリンは何度も短剣を振り下ろす。
肉を裂く音、飛び散る血、女魔術師の悲鳴。
イルフリーデには目の前で繰り広げられる凄惨な光景を止める術はない。
やがて、女魔術師の反応がなくなり、興味をなくしたゴブリンがイルフリーデへと振り返る。
イルフリーデが抵抗できたのはそこまでだった。
仲間達がたどった悲惨な最期。
吐き気を催す悪辣な魔物を前に十五になったばかりの少女の心は折れた。
眼から涙が流れ、歯が鳴らす音は止まる気配すらない。
子鹿のように震える脚は今にも座り込んでしまいそうで、またの間からは生暖かく濡れている。
「ぁ、あああああああァァァァ」
イルフリーデが最後に選んだのは逃げること。
手にした剣を捨て、涙を流し、悲鳴を上げながら逃げる。
──誰かッ! 誰か助けて!
浮かぶのは届かぬであろう救いの願い。
足音と共に迫るのはゴブリン達が無様に逃げる獲物を笑う下卑た声。
確かにゴブリンは弱かった。最弱の魔物であることは間違いない。
駆け出しの少年剣士、斥候の少年、女魔術師、そしてイルフリーデが仕留めたように。
体格も、知力も、膂力も、子供のそれと変わらぬ程度であった。
しかし、子供が殺意を持ち武器を手にし、悪知恵を働かせ、徒党を組んで襲って来たらどうなるか。
ゴブリンを最弱の魔物としか見ていなかったイルフリーデ達はそんなことを考えることはなかった。 彼女たちは未熟で、経験がなく、金と運がなかった。
ただそれだけ。何のことはない、よくある話だったというだけのこと。
「あッ──!」
半狂乱で走る脚はもつれ、イルフリーデは地面に打ち付けられる。
イルフリーデが立ち上がる暇もなく、ゴブリン達は獲物に追いつく。
獲物の無様な姿に悦を深め、獣欲を膨らませる。
「ご、めんな、さい……ごめんなさい……」
迫り来るゴブリンによって訪れるであろう自身の未来。
おぞましい未来にイルフリーデは身を震わせ、口からは誰に向けてのものかすらわからぬ謝罪の言葉が漏れる。
しかし、彼女の命運は尽きてはいなかった。
「ぇ……?」
それに気付いたのは偶然だった。
眼前に広がる闇、その一部分が微かに揺れた。
闇に溶け込んだ何かが動いたように。
そんなイルフリーデの様子にゴブリンが訝しそうに振り返る。
振り返ったゴブリンの眼は何者も映すことはなく、代わりに感じたのは喉の違和感。
息が上手く出来ない。喉から垂れる何かが身体を濡らしている。
やがてそのゴブリンは力なく倒れ伏した。
ゴブリンが理解できなかった違和感の正体をイルフリーデの眼は捉えていた。
闇の中から飛来した短剣がゴブリンの喉を貫いたのだ。
その場の誰もが目の前で起こったことを理解できずにいた。
ゴブリン達は獲物を追い詰めた。
イルフリーデはゴブリンに追い詰められた。
では、振り返ったゴブリンの喉を貫いた短剣は一体……。
答えは出ぬまま、イルフリーデの目の前で異常は続く。
ごとりと何かが転がる音が闇に響く。
目を向けた先には首から上をなくしたゴブリンと転がった頭。
そこでようやくゴブリン達は何かに襲われていることを理解した。
自分たちの他には無様な獲物しかいないはずなのに、同胞達が死んでいく。
だが、ゴブリン達に抵抗したり、逃げる時間は与えられることはなかった。
闇が揺れる度に振るわれる何か。それがゴブリン達の首を飛ばしていく。
全てのゴブリンを屠り終えた揺れる闇。
「────」
一言も発することなく、イルフリーデの目の前にたつその姿からは、男であることしかわからなかった。
その男の姿は一言で言えば異様というしかなかった。
頭巾付きの黒外套で顔と身体を隠し、手には血潮に濡れた紫水晶の湾刀。
確かに目の前にいるはずなのに少しでも意識を逸らせば見失ってしまうかのように薄い気配は幽鬼の類いを連想させる。
全身から血の気が引き、震えの収まらぬ身体からから発せられる音だけが洞窟に響く。
──目の前の人物は一体……。
亡霊の類いだと言われれば納得してしまいそうな相手を前に少女はただ身体を震わせるしか出来ない。
自身を助けてくれた相手を得体の知れない何かだと少女が認識してしまう程にその人物の姿と纏う雰囲気は異様だった。
「ッ……、あなたは、一体……」
恐怖に呑まれながらも少女は問いかけた。
自身を助けてくれたこの人物は何者なのか、と。