6.ヴォルフガング=フォン=グラムバルク
世界の害悪とも称される『星蝕者』
その伸ばした一対の翼は無残にも切り裂かれてガラスが割れる様に砕け、そして世界に溶けて消えました。
エルキュールとアリシアの目の前には背が高く、濃紺の軍服に身を包んだ屈強な騎士が居ました。
エルキュール=グラムバルクの実父、ヴォルフガング=フォン=グラムバルクです。
両腰には幅広の軍刀を帯びてます。尤も、片方は既に引き抜かれてますが。
彼の口元に湛えた豊かな口髭は時には顔の険しさを和らげてくれますが、現在その表情は一切の優しさが消え失せ、とても険しいものでした。
娘であるエルキュールの親友のアリシアでさえ、本の少し近付いただけで斬り殺されるのでは無いかと錯覚し、思わず自害する事でこの場に居る現実から逃げてしまいたい程にこの場はヴォルフガングの殺気に包まれていました。
しかし『星蝕者』は感情を理解する事が無いのでただ作業を行うだけなのですが
「アリシアくん。」
突然、鬼気迫る声を掛けられアリシアは、恐怖で呼吸が早くなり、心臓がドクドクと異常な速度で脈打つのを感じます。視界がグラリと揺れて暗くなり、眩暈を起こしました。過換気症候群です。
しかしアリシアは最早呼吸すらしていない親友を守るために意識を手放すまいと必死に抵抗を続けました。
そんな彼女にヴォルフガングは仄かに蒼く輝く刀身を『敵』に向けながら、こう続けました。
「娘を頼む。」
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…一瞬でした。
アリシアが顔を上げたと同時に星蝕者とヴォルフガングの殺陣が始まりました。
星蝕者が右腕を振るえば三度の剣戟で受け止めて返し、翼から羽根の弾丸を放てば斬り伏せ落とし、ヴォルフガングが隙を突いて切り付けても突きを、時には逆斬りの斬撃を織り交ぜても翼を刃に変え打ち返し、左手の鉤爪で弾き、鉤爪で切り付けるも更なる斬撃で切り崩し。
一進一退にすらなりません。
互いにその場から全く動かないのです。
本来、星蝕者は人間や魔人がたった一人で渡り合える様な相手では在りません。
歴戦の強者がパーティを組み、四人一組でやっと一体と渡り合える程の、本物の化物なのです。
そんな星蝕者にヴォルフガングはたった一人で渡り合ってます。
ヴォルフガング自身もまた「化物」なのでしょう。
そしてこの攻防をアリシアは一切見えてませんでした。しかし自分に理解の及ばない次元の闘いが行われて居るのは辛うじて理解出来ました。
お互いに両手や攻撃器官が超高速で振るわれてるのも分かりました。
その証拠に攻防の余波が展望台に刻まれてるからです。
自分の闘いが如何に闘いにすらならない児戯であったのか。如何に御粗末にこの化物と相対して居たのか。エルキュールを…親友を護るなどと、自分が如何に烏滸がましい思いでおままごとをしていたのかをハッキリと自覚させられました。
唯一、防御に徹した点は…ヴォルフガングの到着まで耐えられた点だけは自分自身で賛美したい所でした。
しかしアリシアはエルキュールのお父さんの言葉を忘れてはいませんでした。
「娘を頼む。」
エルキュールの親友として任せて貰えた証拠です。
アリシアはエルキュールの冷たくなった身体を担ぎ上げ、背中に背負って並木道へとフラつく足取りで歩み始めました。
「……っ、尻尾!!」
「うむ。」
………伝わったでしょうか?
親友のお父さんにその場を任せ、アリシアは勢いを付けて駆け出します。
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アリシア=バーネットは走りました。
走って走って走って
走って走って走って走って走って走って
途中転びそうになりながらも親友を落とす訳にはいかず
踏ん張り堪え切り
ひたすらに走って走って走って走り続けました。
大切な親友からの贈り物の帽子はいつの間に無くなっていました。
アリシアは怖くて仕方ありませんでした。
勿論、実力が不足し過ぎてる自分があの様な化物と相対してしまった事実に対してもありますが。
今まさに自身の背中で呼吸をしておらず、すっかり冷たくなってしまった親友の事が怖くて怖くて悲しくて…。
それなのに涙が出なくて
あの地獄の戦場から遠去かり、自分の代わりに彼女の父親があの化物を引き受けてくれた安堵感で。
自分の命が助かった事に、安心感を覚えた自分自身の卑しさが、賤しさが、どうにも許せなくって。
親友を蔑ろにしてしまった罪悪感から、アリシアは自分が憎くて仕方ありませんでした。
「エル…エル…!…助けるから…!…絶対に助けるから!」
背中の親友に向かって叫びますが、実質自分に言い聞かせてました。
アリシアは全てが悲しくて、泣きながら道を走り続けました。
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巨大な黒い球体の奔流が迸りました。
────暫くして、周囲に静寂が訪れました。
結論から言って、アリシアは無事にエルキュールの家に辿り着きました。
酷く狼狽し、駆け寄るエルキュールのお母さんには上手く説明が出来ませんでした。
アリシアは最早何も考えられず、後を任せてしまいました。
玄関で暫く呆然として居ると、背後の扉が開く気配がしました。
思わず心臓が高鳴り、恐る恐る後ろを振り返ると、衣服こそズタズタに裂けて焼け爛れてましたが、あのよく見知った口髭の男性が居ました。
瞬間、恐怖心が蘇り、震え上がりました…が
「娘は?」と聞かれたのですが、「あー…」とか「うー…」とか言葉にすらならない声を漏らす事しか出来ませんでした。
「そうか…。」と、一言貰うと頭を撫でてくれました。
アリシアは居心地が悪く感じて視線を落とすと、ギョッとしました。
左 肘 か ら 先 が 失 わ れ て い ま し た 。
あの化物じみた強さを誇る陸軍将校でさえこれです。
本来なら複数人で対応しなければならない相手でした。
改めて自分自身が、親友を巻き込み、自殺を図っただけだという事を痛感しました。
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「今日は泊まって行くかね?それとも送ろうか?」
ヴォルフガング=フォン=グラムバルクからの有難い申し出でしたが、アリシアは今日はもうどちらも選びたくありません。
アリシアは一人で帰宅する事を伝えましたが。
「先程の件も在り、許可は出来ないな。外はまだ危険かも知れない。…今日は泊まって行きなさい。」
当たり前でした。
結局一人であの化物を斬り伏せたのでしょうけど、片腕を失うといった代償を払ったのです。
そんな化物が一体とは限りません。
帰り道の途中で再び不運に見舞われたのなら、アリシアに生き延びる選択肢は無いでしょう。
アリシアはそれなら…と、客室ではなく居間を借りました。
ヴォルフガングは腕の治療を終えるとアリシアに挨拶をし、すぐさま自室で眠る愛娘の元へと向かいました。
部屋の灯りを落とすと、静寂と暗闇が訪れました。
部屋の暗さと時折聞こえる女性の嗚咽。そして罵声。
アリシアは悲しくて涙が零れました。
わたしの愛する親友。
まもれなかった
たすけられなかった
あの憎い悪意の塊に、自分は余りにも無力だった
同じ問答を反芻する度にアリシアの心は強く強く波打つのでした。
「強くなりたい…」
アリシアはこれが決意なのか懺悔なのか、それとも強迫観念なのか
最早把握出来ませんでした。
やがてアリシア自身も疲れからかウトウトと微睡んで来ました。
どの程度時間が経ったのか
家中がしんみりと静寂に包まれた時、二階から誰かが降りて来ました。
意識が不安定なアリシアに正しくその姿は把握出来てませんでしたが、目の前には光輝くエルキュールの姿が映りました。
アリシアは動かない身体もそのままに、ただただ見つめていました。
《アリガトウ、アリシア》
そう聞こえた気がしました。
光輝くエルキュールは笑顔でアリシアのおでこにキスをしました。
アリシアは嬉しそうに微笑むと、そのまま意識を手放しました。
━━━アリシアの目には涙が滲んでいました。━━━━━